現在6
「どうしよ……」
学校から帰ってきたトウヤは、焦ったような表情でそう言った。
「東弥さんの言った通り、昨日華奈の部屋に行った時に華奈がアイスを食べようとしたんです。それ無理やり止めたんですけど……」
その表情だと、華奈は風邪をひいたのだろう。
「僕は怪我しなかったのに……」
「いや、今回のは、そもそもアイスだけじゃなかったんだ」
風邪をひいた一番の理由はアイスだろうけど、他にもあるはずだ。
風邪なんか、原因は完全には確定できない。あの頃の華奈は、ストレスで体の調子がそもそも良くなかった。
火事の時、トウヤが怪我をしなかったのは、怪我をした原因が、
①火事が家庭科室で起こること
②トウヤが家庭科室の近くにいたことと
③逃げる時に焦ったこと
その三つのみだったからだ。
だから、火事そのものは防げなくても、トウヤが家庭科室に近づかなければ怪我をすることはなかった。けど、華奈の風邪の場合――そもそも人間の体調の変化など、特定できない原因が無数にある。
僕もトウヤも、こういったことに対する知識はほとんど変わりない。あれから僕は、何も得ることなく生きてきた。
だから、僕が言ったことをすぐにトウヤも理解したらしかった。心配そうにはしているが、表情には強い意志が感じられる。
「ってことは。事故で死ぬなら、原因は曖昧じゃないから、風邪とかよりは防ぎやすいのか」
その言い方に心が揺れる。このままでいいのだろうか。どうするのが正解なのだろうか。
「じゃあ、華奈が巻き込まれる事故を防ぎたいなら、そもそも事故が起こる原因をなくせばいいのか……」
「そう、なるね」
「じゃあ、行きましょう」
「……え、どこに?」
「事故が起こった場所に、ですよ」
トウヤは当たり前のようにそう言う。
僕は「……わかった」と頷く。
「こっち」
意志の詰まった目をしているトウヤを見て、行ったところで何もできないと思う、と言うことはできなかった。
ーーーーー
過去6
気づけば十二月になり、街にはクリスマスの雰囲気が漂っていた。
所々から聴こえてくるクリスマスソングをBGMに、僕は華奈と一緒に帰宅する。
そういえば、最近華奈はずっとマスクをしている。顔の大部分が隠れる華奈のマスク姿は、病人のようだった。マスクの白さと対照に、目元が黒ずんでいて、余計にしんどそうに見える。
夏以降、どんどん華奈の儚さが増している気がして、僕は気が気でなかった。だから、普通に「なんでマスクしてるの?」と聞けばいいのに、そんなことさえもできない。
隣を見ると、華奈がマスクをしたまま空を仰いでいた。空には厚い雲がかかっている。
僕は夏休み前にした会話を思い出しながら、華奈に訊く。
「冬のかおり?」
が、彼女は首を振った。
「マスクしてたら、匂いかげないよ」
そう言いつつも、彼女はマスクを外さない。僕ははっきりとした違和感を感じる。最近の華奈との会話は、以前ほどに高揚感がない。すごく感覚的で説明は難しいけど、華奈の言葉が持つ魅力が掠れているような気がしていた。
「華奈、大丈夫?」
だから、僕は彼女と別れる直前、その気持ちを漠然とした言葉に乗せる。すると彼女は、含みのある表情で首を傾げた。
「ん?」
なんとなく、僕の気持ちは理解していたと思う。だからこそ、彼女はその質問に答えなかった。
彼女は曖昧に笑い「じゃあね」とだけ言って帰って行った。
夕食後自室に上がり、勉強机に座る。模試が近づいていたので、予備校がない日でも少しは家で勉強することにしていたが、今日はなぜかやる気が出なかった。
ノートを出してしばらく睨んでいたが、すぐに閉じる。
無理にやろうとしても効率が悪い。そんな理由をつけて僕はノートを鞄に戻した。
ふと、勉強机の引き出しを開け、中にしまっていた小説を取り出す。
無残に破れ、折れ曲がった文庫本。
華奈の部屋から持って帰ってきた華奈の処女作。
華奈はどんな気持ちでこれを破ったのだろう。
小説を開きながら、スマホでその小説の題名を検索する。出版社のサイトや、ネットョップにつながるサイトが並ぶ中、僕は大手のネットショップのリンクをタップする。
サイトが開くと、左手に持っている小説と全く同じ表紙が検索画面に表示された。商品紹介の上についている星マークをタップすると、レビューや口コミが開く。
中には星5をつけている人もいるが、最近のコメントを見ると、ほとんど心ない誹謗や中傷が並んでいた。
過度に人を傷つけるその言葉を見ていると、僕の書いた本でもないのに心が苦しくなる。
関連商品から華奈の最近の文庫本を表示させると、今度は処女作と比べ、圧倒的にレビュー数が減っていた。同時に星数の平均が低いことに気づく。開くと、こちらは先ほどよりわかりやすく、非難の言葉ばかりが並んでいた。
思わず重いため息が出る。華奈はこの重圧に絶えず向き合い続けなければならないのか。
見るに耐えないコメントに、サイトを閉じようとした時だ。持っていたスマホがけたたましい着信音を鳴らす。急な出来事に、僕は持っていたスマホと小説を落としそうになる。すんでのところでキャッチした後、画面を見てさらに驚く。
スマホの画面には、華奈の名前が記されていた。
電話番号は交換していたが、華奈が電話をかけてくるのは初めてだったし、華奈と別れたのはつい数時間前だ。
その時、なぜか胸騒ぎがした。
ゆっくりと指を画面に近づける。通話ボタンを押しスマホを耳に当てると――
まず耳に入ってきたのは、雨の音だった。激しい雨が降り注ぐ音。僕は反射的に部屋の窓に吊るしたカーテンから外を覗く。気づかなかったが、外には勢いよく雨が降っていた。
「もしもし」
反応はない。試したことがないからわからないが、スマホに直接シャワーを当てたような騒がしい音がずっと聞こえていた。
「もしもし?」
煩わしい音しか聞こえない。
「もしもし!」
少し声量を上げて言うと、激しい雨音の中から、微かにすすり泣く声が届く。
「華奈!」
『……東弥』
その小さな声に小説を持つ手が震える。
「どうした?」
華奈は何も言わない。鼻をすするような音が聞こえた気がしたが、凄まじい雨音のせいでよくわからなかった。
「聞こえてる? 華奈! 今どこにいる?」
『……マンション』
マンションの中にいるのなら、その音はなんだ。そう思ったが、確かめるより早く僕は部屋を飛び出した。
「ちょっと出てくる!」
母に聞こえる声でそう言って、僕は急いで玄関へ向かい扉を開ける。
「うわ」
一瞬出ただけなのに、服に無数の染みができる。
そうだ、傘。慌てて玄関に戻り、僕はビニール傘を手に持った。
急いで彼女がいるマンションへと向かう。途中、何度かスマホに呼びかけるが、傘に打ち付ける雨の音も相まって余計に反応が聞こえなかった。
「そこで待ってて!」
スマホに向かって大声でそれだけ叫び、僕は夢中で走る。
もう少しでたどり着くというところで、道端に人影を見つけ、僕は立ち止まった。目を疑う。そこには、ずぶ濡れの状態で華奈が佇んでいた。
「華奈!」
慌てて大声で呼ぶと、彼女はゆっくりと僕の方を振り向いた。重い扉が開くときのようなぎこちなさだった。
僕は彼女の元へと駆け寄る。彼女は傘も持たず、雨に打ちつけられている。
家を出てから、雨足は強まり続けていた。いったいいつから?
「何してんだ!」
「東弥……」
彼女は覇気のない顔をこちらに向ける。
「大丈夫か?」
僕は彼女の肩を掴み、訊く。服の下に紐が透けているのが目に入ったが、そんなこと気にしている余裕もなかった。
「……うん」
彼女の消え入りそうな声に、僕は彼女の手をとって歩き出す。
「とりあえず部屋に戻ろう」
彼女の手には力が入っておらず、ただ僕に引っ張られるままついてきた。
「タオルあるよな?」
部屋に入り華奈に聞くと、彼女は力なく頷いた。
「じゃあとりあえずシャワー浴びて」
「でも」
彼女は心許ない表情をこちらに向ける。
「大丈夫、僕はここで待ってるから」
「……わかった」
脱衣所の扉が閉まり、すぐに開く。
「これで足拭いて」
彼女が脱衣所から顔を出し、タオルを渡してくれた。僕のズボンも下の方が水浸しだった。
「ああ、ありがとう」
パタン、と風呂場の扉が閉まる音と、しばらくしてシャワーの音が聞こえてくる。それを確認した僕は、大きくため息を漏らした。
何があったんだ。
追い込まれていることは知っていた、けどそこまでとは。
以前彼女の処女作が落ちていた場所に目を向けようとして、それが必要ないことに気づく。部屋中には――献本だろうか、彼女の書いた小説がいくつも破り捨てられていた。
台所に、ポットとコンソメスープの素が置いてあったので僕は勝手に湯を沸かす。
頭の中ではぐるぐると思考が巡っていたが、結局何も答えは出なかった。
風呂場から出てきた彼女に、お湯で溶かしただけのコンソメスープを渡す。
「ありがとう。東弥はシャワー大丈夫?」
「うん、だいぶ乾いたから」
そんなことより、何があったのかを知りたかった。
「そっか、ありがとう」
部屋に入り、彼女が地面に座った。
その座り方に力が入ってなくて、僕はさらに心配になる。
「大丈夫?」
「…………」
流れる沈黙に、息が詰まりそうになる。耐えられず、僕は問う。
「……何があったの?」
「打ち切りになった」
夏休み明けにも聞いたことを彼女は言う。
「また、打ち切りになったの」
「そっ……か」
彼女の嘆きに、僕はいつもうまく返せない。
「雨の匂いは、気持ちが落ち着くから好きだったの」
「うん」
話のつながりはわからなかったが、僕は話を遮らないように相槌を打つ。
「好き――だったはずなのに、何も感じないの。鬱陶しくも、清々しくもない。雨を見て雨の音を聞いて、ああ、雨だな、って。そんな馬鹿みたいな感情しか湧いてこないの」
それで外にいたのか。何かを感じたくて。
コップを持つ彼女の手が、小さく震える。
彼女は更に言葉を続けた。
季節の空気感を感じられない。
氷の音の心地よさを感じられない。
アイスティーの透明さを感じられない。
「私、おかしくなっちゃったのかな」
その哀しげな表情は見ているだけで痛々しい。
「こんなふうになったことなんかないのに……」
彼女の頬に、涙が筋となって流れる。
その彼女の子猫のような儚さに、僕は華奈を抱き寄せた。
「ねえ、私、どうしちゃったんだろう。何をしても、なんとも思えない。映画を見ても、何も心が動かないの」
感情を抑えたくないと言っていた彼女が、映画に心を動かされないと言う。
「好きな映画も見た。それなのに、わからないの。いつものところで、笑えない。泣けない。今までどうして感動して涙が溢れてきてたのか、わからなくなってしまったの」
――小説を通して気持ちを伝えたい
祖父が亡くなったという話をしてくれた時、華奈はそう言っていた。そんな彼女が、絞り出すように出した叫びが、僕の耳に届いた。
「小説なんか――」
小説、なんか。
それ以上言葉を続けなかったのは、華奈の意地だろう。
けど、その悲痛な様子を見ていると、彼女の心は痛いほどわかった。
背負ってきたものに牙を剥かれ、絶望している彼女。
そんな彼女に、頑張って、とか大丈夫、とかそんな無責任なことは言えない。華奈はずっと頑張っている。苦しくて眠れなくなっても、それでも立ち向かおうとしてきたのだ。
ずっと彼女のことを見てきたのだ。そのくらいわかってる。
だから、ただ僕は震える彼女の背中をさすり続けた。
週明け。
彼女は、最後に残っていた本の作業を終わらせたらしい。その作業の後には仕事を貰えていなかったらしいが、あれだけ苦しみながらも、華奈はちゃんとやり終えたのだ。
「お疲れ様」
僕は心から労いの言葉を伝える。
「ありがとう」
「なんか甘いもの食べたい」
「いいね」
顔色は優れなかったが、注文したケーキを食べていると、彼女はわずかに笑顔になった。
「……ねえ、年末の模試って、申込みまだ間に合う?」
帰り道に突然、華奈がそんなことを訊いてきた。
「模試って、学校で募集されてたやつだよね?」
「うん」
年末に、大きな模試がある。僕が最近家で勉強をしているのもそのためだ。
開催は近くの予備校でだが、案内は高校から来ていて、大学受験をする人はほとんど受験することになっていた。
「確か……まだ大丈夫だと思うけど」
どうして彼女がそんなことを尋ねてくるのかわからなかった。
「私も受けようかな、と思って」
「……え? なんで?」
心の中で思ったことがそのまま口に出てしまう。
彼女は今まで模試を受けたことがない。学校の成績は悪くはないが、それでも義務的に受けなければならないテスト以外、小説のための時間を圧迫するから、という理由で受験していなかった。
だから、ここに来て彼女が急に模試を受けるというのは不可解なことで。
まさか、気分転換とでもいうのだろうか。
「……いや、ちょっと。模試くらい受けといても損はないかなと思って」
目を逸らしながら言った彼女の返答が、ひどく薄っぺらく聞こえる。
「日曜日だけど……」
丸一日取られてしまうと、小説を書く時間が削られてしまうのではないか、そういう意図を込めて聞くと、彼女は首をすくめた。
「ちょっと、小説から離れてみようかと思って」
その言葉は少し投げやりなようで。
けど、僕の胸の中で泣きながら震えていた彼女のことを思い出すと、彼女の言葉に何も言えなかった。
だから、彼女が小説から離れることで、少しでも気分が楽になるのなら、それはそれでいいのでは、そう思いこんだ。
彼女と別れる前、僕たちの視線の先を黒い猫が通る。華奈はそれに気づき、深くため息をつくだけだった。