死んだ彼女に数年ぶりに会った時、うまく声が出せなかった。
彼女の名前を呼ぼうと出した声が上ずる。
彼女は、そんな僕のことに気づかず、去っていった。
ーーーーー
現在0
朝、目覚ましのアラーム音が耳に届くと、不快な気分になる。
けたたましい音を鳴らしているスマホの画面を叩き、もぞもぞと布団から抜け出す。ぼやけた視界のまま部屋を出て、洗面所で顔を洗う。
毎日やっていることを、思考を挟まずロボットみたいに坦々とこなす。
毎朝嫌になりながら出勤の準備をして。何を目標に生きているのかなんてずっとわからないままだ。
本当なら仕事を休みたいし、希望も目的もないまま働いていることに嫌悪感を抱いてもいる。
それでも僕は仕事を休んだりはしない。仕事なんかやめてしまえ、と割り切ることなんかできない。まして、意義や目的を見つけたいとさえ、思っていない。
社会人として最低限の準備をなんとか済ませ、暗い部屋に戻る。
部屋を見た人は僕のことをミニマリストと呼ぶかもしれない。机と、ベッドと、オイルヒーターのみ。趣味がないということを証明するような何もない部屋。
そんなつまらない部屋に、ため息が漏れる。
僕の人生は、つまらない。
けど、それでいい。幸せな人生を送るべきなのは、僕じゃない。
そもそも、だ。有意義な時間を生きている人なんてそうそういない。
みんな少しずつ妥協しながら生きている。
少しずつ何かを諦めてる。
そうであって欲しい。
家を出て駅のホームに着くと、僕と同じように、人生に意味も見出せずに生きているのであろうスーツ姿の大人達が光の灯らない目でスマホを眺めている。
そんな人たちの姿を見て安心している自分に気づき、嫌気がさした。
彼らから目を背けると、視界の端、少し離れた位置に女性が歩いているのが見えた。
その女性は混んだホームの人混みを避けるためだろう、電車待ちの列の先頭と線路の間――黄色い線の外側を歩いていた。
何かに夢中になっているらしく、視線は手元に注がれている。その女性が持っているものが小説であることに気付き、僕はさらに少し嫌な気分になる。
思わず目を逸らそうとした時だった。
女性が背負っているリュックが列の先頭の男性にぶつかったのだろうか。彼女は不意にバランスを崩しよろめいた。そしてそのまま。
線路に落ちていった。彼女の驚いた表情が一瞬にして線路へと消える。
通過電車が近づいてくる。
背中に冷たい汗が噴き出す。嫌な記憶が呼び覚まされ、心臓がねじれる。
耳に届く甲高い警笛。周りから聞こえる焦った声。
視界を強い光が包み込み、思わず目を瞑る。
僕の足は、いつかのように固まったままだった。
ーーーーー
現在1
目を開けると、まったく違う景色が周りを取り囲んでいた。
「え」
思わず漏れた声が雑沓の中に溶け込んでいく。
何が起こった? さっきまで駅のホームにいたはずだ。それがどうして。
嫌な汗のせいで背中にシャツが張り付いていた。鼓動が速い。
僕は、さっき起こった出来事を思い出す。出社する途中、目の前で女性が線路に落ちていった。あの女性は……と考えようとして、気分が悪くなり思考を止める。
そう、人身事故もだけど、今重要なのはそこじゃない。
どうして僕は今、そのホームに立っていないのだろうか。ここはどこなんだろうか。
周りに視線を移すと、すぐにその答えが見つかる。そこは、見覚えのある場所だった。
実家の最寄駅、そのロータリーに僕は立っていた。
僕の周りを、制服に身を包んだ高校生やおしゃれな服を着たマダム達が行き交う。彼女たちは僕のことなんかどうでもいいみたいに各々歩いていた。
「……なんで?」
人が流れていく状況を呆然と眺めながら、小さな呟きを漏らす。
僕がそこから動くことができたのは、それから数分経ってからのことだった。
徐々に心音が落ち着いてくる。
しばらく歩きまわり、とりあえず現状をわからないままに受け入れることができた。
やはりこの場所は実家の最寄駅で間違いないらしい。
駅に貼られた映画のポスターも、構内にあるコンビニや近くのドーナツ屋、改札の配置なども全て以前の記憶通りだった。流石に全く同じ空間が他に存在するとは思えない。
それに、さっきから近くを歩いている学生の制服。あれは僕が通っていた高校の制服だった。
あてもなく歩いているつもりだったが、何度も歩いた道だからだろうか。僕の足は自然に実家へと向かっていた。
見えている景色はあの頃と同じなのに、全てのものが暗い印象として僕の目に映る。やはり、僕の人生はあの頃に終わってしまったのだ。
しばらく歩いていくと、こじんまりとした公園が見えてきた。遊具が数個設置されているだけの小さな公園だ。高校生の頃、僕はよくこの公園で読書をしていた。
公園を横目に家までたどり着く。と、窓の奥に人影が確認できた。母だろう。
玄関の前に行き、インターホンに手を伸ばそうとした手が固まる。
しばらく考えて、僕はその手を引っ込めた。
連絡もせず家に入るのは気が引けたし、それに、未だに状況を理解できていないのだ。
僕は今来た道を駅へと向かって引き返すことにした。
フィットネスジムやコンビニが並ぶ道路沿いを歩いていく。何も変わっていなかった。
昔よく行った喫茶店がある路地を通り過ぎた瞬間、心臓が跳ね上がる。
目の前に、制服姿の少女がいた。
その艶やかな髪。
光を溜めた紅茶色の瞳。
マスクから覗く目元の隈。
岬華奈(みさきかな)が、死んだはずの彼女がそこにいた。
「かな……」
随分と長い間呼んでいなかったその名前が僕の口からこぼれ落ちた。
回想1
隣を歩く華奈は、今日も眠そうな目をしていた。疲れが溜まっているのだろう。それに、今日は模試の日だ。長時間の模試を初めて受ける華奈が疲労するのも無理はない。
駅からの帰り道、歩いている彼女の背中に夕陽が差し込み、彼女の髪が鮮やかに照らされる。
それを見ていた。見惚れていたのかもしれない。物事が起こる時に、予兆なんてない。
「東弥(とうや)はさ――」
振り返った彼女の声に相槌を打とうとした瞬間のことだった。
危ない、そう思った時には遅かった。彼女の数メートル先に、大きなトラックが迫ってきていた。
体が硬直し、足が動かなくなる。声を上げることもできなかった。
手を伸ばすが、その手が彼女に届くことはない。
大きなクラクションの音と、彼女の表情だけが記憶に残っている。
彼女はその日、僕の目の前で、信号無視をしたトラックに撥ねられた。
ーーーーー
現在2
何度も目をこすって凝視するが、目の前にいるのは華奈で間違いなかった。間違うはずがない。けど……信じられない。
だって、岬華奈はあの時死んだから。
「……かな」
もう一度、彼女の名前を呼ぶ。声がうまく出せなかった。喉の奥が詰まり、声が掠れる。華奈は、僕のことに気がつかない様子で空を眺めていた。
「華奈」
震える足で彼女に近づき、もう一度呼ぶ。反応なし。
「聞こえてないのか? なあ、華奈」
声を張り上げ、彼女の肩をつかもうとした瞬間。
目を疑う。伸ばした手のひらは、彼女の肩に触れることなく――彼女の体を突き抜けた。
「……は?」
僕は慌てて引き戻した自分の掌と華奈の姿を交互に見つめる。
一度深呼吸をし、もう一度、彼女の体に手を伸ばす。
当たらない。華奈の姿は見えているのに掴めない。雲に手を突っ込んだみたいに、彼女の体の中を通り抜ける。
何度やっても僕の手が華奈に触れることはかなわず、僕は震える手をゆっくりと引っ込めた。
「何……これ」
一度収まった冷や汗が、再度噴き出す。
立ち尽くす僕の前で、華奈が首を下ろす。こっちを振り向いて、話しかけてくれることを期待した。
が、彼女は目の前にいる僕に見向きもせず、そのまま。
幽霊のように僕の体をすり抜け立ち去った。
どうなっているのだろう。この体はどうしてしまったんだろう。
心音が身体中に響いている。ずっと動悸が収まらない。
目の前で人身事故が起こった。
気づけば地元の駅にいた。
華奈が生きていた。
華奈に触れられなかった。
分からない。自分に起こっている現象を理解できない。
とぼとぼと歩き、近くの公園に足を踏み入れる。日が落ちて、辺りは照明に照らされていた。
緑に囲まれた空間に、少しだけ心が弛緩する。
この静かな公園は、あの頃小説を読むための場所だった。
端にベンチが設置されている。そうだ、ここでいつも本を読んでいた。ここに座れば緊張から一気に解放されるだろうか、そう思いベンチに腰を下ろす、ことはできなかった。
「えっ」
足の力を緩め、重心を後ろに持っていった僕の体はそのまま地面に落ちていった。
驚きが全身を走り、声が出なかった。
急に椅子を引かれた時のような形で尻餅をつく。けど、椅子がなくなったわけじゃない。薄暗い中、僕の目の前にベンチの裏側が見えていた。
声にならない声を出し、僕は少し汚れた背もたれの裏を見つめる。
さっき華奈が体を通り抜けた時の感覚を思い出す。
華奈は、その場に僕がいることに全く気づかず、僕の体をすり抜けて行った。そこで違和感に気づく。華奈は制服を着ていた。あの時のまま。
いつものように少しだけ着崩した制服姿。
自分の姿を確認する。今朝着たスーツにビジネスバッグ。社会人の格好だ。
ここへ来るまでの間、考えていた。
華奈が幽霊かもしれないという可能性。けど。
僕を見下ろすように存在するベンチを見て思う。華奈が幽霊なのだとしたら、この状況はどう説明する。そうか。
僕の方か。おかしいのは僕なのか。
もし華奈がまだ、死んでいないのだとしたら。
もしこの場所が過去で、僕が何らかの影響でこの場所にいるのだとしたら。
頭の奥に微かな光が走る。何かを思い出しそうで、頭を抱える。なんだ。
僕がそれを思い出すより前に、その考えが正しいことを示す証拠を見せつけられる。
「……大丈夫ですか」
上から降り注ぐ声に、本日数度目になる体の硬直をおぼえた。
聞き覚えのある声。少し違和感はある。けど、人生で一番多く聞いているその声。
見上げると、僕が――高校の制服に身を包んだ吾妻東弥(あずまとうや)が、不可解な状況を見つめる目で僕のことを見下ろしていた。
「あ……はい……大丈夫です」
かろうじてそう返すと、トウヤは少し首を傾げ、奇妙な表情をしたままその場を後にした。
僕は彼の後ろ姿を目に収めながら、深いため息をついた。
「ほんと、なんなんだよ」
小さく漏れた嘆きは、闇に溶けていく。
トウヤがいなくなり、公園には僕一人。静寂が広がっていた。
起き上がろうと腕に力を入れた瞬間、体に異変を感じた。
急に体が軽くなった気がするのだ。体の粒子が細かくなって空気に溶けていくような感覚に包まれた。
徐々に意識が薄れていく。まどろみのような浮遊感を感じながら、僕は思う。
もしかして、この奇妙な時間が終わるのだろうか。
ーーーーー
過去2
僕が最初に岬華奈(みさきかな)を知った時、彼女は本屋近くのベンチに座って泣いていた。確か高校二年の春のことだった。彼女の細い足の上で眠っていた猫の背に、桜の花びらがついていたのを覚えている。
正確に言うと、一年の時も同じクラスだったから彼女のことを知ってはいたのだが、周りの人間にたいして興味を持っていなかった当時のぼくにとって、ただのクラスメイトとしてではない存在として彼女を知ったのはその瞬間だった。
それほど衝撃的な瞬間だった。
目を奪われた。涙に濡れた彼女の丸い瞳は、激情に溢れていた。何かを噛み殺しそうなその目。昔飼っていた犬の餌を横取りした時に見せた――悔しさと怒りが混ざったような感情が彼女の目から読み取れた。
心が縮こまるような恐怖を感じ、話しかけることはできなかった。
同時に、なんて綺麗な泣き顔だろうと思っている自分がいた。
しばらくの間その場に立ち止まり、不躾にも彼女の様子を眺めてしまっていた。
彼女が目元を拭い立ち上がるのを見て、僕は慌ててその場を後にした。
その日、自宅に帰って眠りにつくまで、彼女のその顔が頭にこびりついて離れなかった。
容姿が良いだけの変わり者という認識でしかなかった彼女のことを目で追うようになったのはその日からだ。
その頃の僕は部活動をすることもなく、放課後は友達と教室で時間を潰したり、帰り道にある本屋で好きな小説を買い、家の近くの公園で読書をするという生活を繰り返していた。
学校で課される勉強は人並みにこなし、クラスの友達とだべったり帰りに買い食いをして、帰宅後は自分の趣味の時間に活用する。そんな習慣化された日常は、面白みがないのと同時にある程度は心地良かった。
何かに夢中になることはなかった。それは、人に対してもそうだった。
僕は小中高と普通に生活をしてきて「尊敬する誰か」に出会ったことがなかった。
大人は自分ができない大抵のことは簡単にこなすし、クラスでも勉強やスポーツなど全てのことにおいて自分より優秀な人はたくさんいた。テレビで見る同世代の人間に、自分と比べ物にならない人は数えきれないくらいいた。
もちろん彼らのことをすごいと思うことはあったが、それでも敬ってはいなかった。
それどころか、クラスの優等生やテレビで何かに打ち込んでいる人を嫌悪し、馬鹿にしている節まであった。そんなふうに何かに夢中になったところで、全員が全員何かを為せる訳じゃないし、テレビは選ばれた人だけを取り上げるから、そんな人達がみんな成功しているのは当たり前だ。だから、自分はそんなふうに生きられないと思うと同時に、どうしてわざわざそんなにしんどい生き方をするのだろうと彼らを見下していた。
それはたぶん、自分の生き方が楽だと知っていたからだ。与えられたハードルをそれなりに超えていき、あとは何も考えないで生きる。そういう生き方をしている人が大半だし、その中に紛れ込んで過ごすのは簡単だった。
ただ、意識しなければいいだけなのに、嫌うということは、心の奥底では確かに自分の生活に物足りなさを感じていて、しんどい生き方をしている人たちを羨ましいと感じていたのだろう。
いつだって嫌悪と羨望は隣にある。
だからかもしれない。岬さんの泣き顔を見てから僕は、学校で無意識に彼女の姿を目で追っていた。普段なら寝ている授業でも、周りにばれないように彼女の方へと意識を向けていた。
背筋よく座っている岬さんは真っ直ぐに垂れた髪を耳にかけていて、その奥には鮮やかな茶色い瞳がのぞいていた。
美形、彼女を見た誰もがそういうだろう。実際、男子の中で彼女の容姿を好きだと言っている奴は何人もいた。
けど、教室内での彼女のイメージは、変わり者だった。
彼女は、他のクラスメイトとは少し違うポジションにいた。
僕の通っている学校では、グループの上下関係は顕著でなく、お互いがわざわざ関わらないという程度の関係性だったが一応縄張りがあった。そんな小さな社会で、彼女はどのグループにも属していなかった。
そのことは女子とあまり関わりのない僕から見ても明らかで、彼女はどのグループにも入っておらず、けど一方でどのグループの人ともある程度会話をするし、時に談笑することもあった。だが放課後、どこかのグループの子たちと一緒に遊んでいる様子もないし、授業が終われば物足りなそうな表情で即座に学校から帰っていた。
根っからの一匹狼とは少し違う。あえて周りの人と必要以上に関わらないようにしているみたいだった。
だが、見ているだけでそれ以外に新たな情報を得ることもできず、彼女が授業中ちゃんと先生の話に耳を傾ける人だとわかっただけだった。
そんな彼女と話をしたのは、それから二週間後のことだった。
その日の放課後、僕は本屋に向かっていた。
駅を通り過ぎ、ロータリーから続く陸橋を学校と反対方向に歩いていくと、そこに小さなショッピングモールがある。その施設の一階に本屋が入っていて、僕はよくこの場所を訪れていた。それほど大きな書店とは言えないが、家と学校の間にあったので都合がよかった。
自動ドアを抜けて奥へと進んでいくと、壁際に文庫本の棚がある。今日は僕の好きな小説家の新刊が発売される日だった。
目当ての小説を手にとり、その後特に目的もなく棚を眺めていく。色とりどりの表紙と、店員さんお手製のポップの位置が先週と変わっていることに気づく。
僕は本屋の空気感が好きだ。そこにいると、少しだけ日常を忘れられる。
ずっと本棚を眺めていたから、後ろから近づいてくる人物に気がつかなかった。
「吾妻くん」
自分の名前が背後から聞こえ、振り向くと――。
「岬さん……」
岬華奈が大きな瞳をこちらに向けて立っていた。
十分後。教室で見せるものより数段人懐こい表情で、岬さんは僕の顔を覗いていた。
本屋で彼女に会った後、彼女に誘われて喫茶店でお茶することになったのだ。二人で一緒にいるところを見られると面倒だと彼女も思ったのだろう。彼女の方から駅から少し離れた店を提案してきた。
間接照明の暖かい光に包まれた店内に入ると、静かなマスターが僕たちを迎えてくれた。彼女は顔見知りらしく、マスターと楽しそうに何か話していた。
静かな店内の窓際の席から店内を見渡すが、彼女の目論見通り同じ制服を着た人間はいない。
人懐こい表情で彼女が尋ねてくる。
「吾妻くん、本好きなんだ?」
嘘をつく必要もないので、僕は彼女の質問に頷く。
「岬さんも本好きなの?」
社交辞令というわけではないが僕も訊き返すと、彼女はしばらく考えたのち、噛み締めるように言った。
「……うん、本は大切なもの」
そのニュアンスに少し違和感を感じたが、そこには触れなかった。
彼女は注文していたアイスティーをストローで飲み「美味しい」と呟く。紅茶に濡れた彼女の艶やかな唇に、思わず目が吸い寄せられる。
「けど私、吾妻くんが学校で本読んでるの見たことない気がする」
「学校では読まないからね」
「なんで?」
少し返答に迷ったが、言っても大丈夫だろうと思った。少なくともここしばらく彼女の行動を見てきて、何かしら近しいものを感じていた。
「仲良い友達に本好きな人がいないから」
僕たち男子高校生が話すことなんて、テレビや人気女優の話ばかりだ。周りが興味を持っていないことを持ち出すメリットなんて何ひとつない。
「わざわざ学校で読む必要ないかなと思って」
「……そっか」
予想通り彼女は、僕の言葉に必要以上の反応を見せず、納得したように頷いた。
「そうだよね、そういうもんだよね」
「うん、そういうもん」
「そっか。でもまさか本屋でクラスメイトに会うとは思わなかった」
「僕も」
結構頻繁に本屋に通っているが、クラスメイトに会ったことはない――一度彼女の泣き姿を見たことがあるが、それは心の中に押し留めた。
「吾妻くんの友達もだけど、クラスで本好きな人ほとんどいないよね、多分」
クラスの面々を思い出して、僕は頷いた。
「まあ、家では読んでるかもしれないけどね」
僕の言葉に、岬さんは「確かに」と笑う。
この数分で、彼女のイメージが急速に変化していた。
教室でのイメージと今の様子がまるでかみ合わない。そもそも、彼女が僕のことをお茶に誘ってきたこと自体、予想外なのだ。
僕もマスターが持ってきてくれたクリームソーダを飲む。炭酸が喉を通り、爽やかな香りが鼻の奥に抜けていった。
「うま」
思わず出た僕の呟き。彼女がそれに反応し、顔を綻ばせる。
「でしょ! 私ね。喫茶ポワレ……あ、この店の名前ね。ここのアイスティー」
彼女は机の上のアイスティーをストローでかき混ぜる。静かな氷の音が響く。
「すごく好きなんだー」
「市販のとは違う?」
「全っ然、違うの」
全然、のところに力を込めて彼女が言う。
「んー、なんかね、透き通ってるの」
彼女はグラスを少し持ち上げ、それを覗くような仕草を見せる。窓から光が差し込んで、彼女とグラスに光を注ぐ。
赤褐色に輝く液体を甘い目で見つめる彼女。
窓から注がれる鮮やかな光を溜めるその瞳。血色のいい唇に、シャツから覗く真っ白な首筋。胸の膨らみ――と目線が動いてしまっていることに気づき、僕は慌てて顔を上げた。
彼女は不思議そうに微笑み、今度はグラスを揺らして氷を鳴らした。
「氷がいいからなのかな。不純物がない感じがする」
確かに、クリームソーダも、口触りが市販のものより良い気がした。気のせいかもしれないけど。
「滑らかなのに、パキッとしてる感じ。……何でなんだろうね」
「マスターに聞いたらわかるんじゃない」
仲良さそうだったよね、という気持ちを込めてそう言うと、
「それはだめだよ」
岬さんは力強く首を振る。
「どうして?」
「こういうのは、わからないところで考えているのが楽しいものでしょ」
岬さんのその感性が正しいのかは分からないけど、その考えは少し素敵だと思ったし、そうやって即答できるような思いが自分の中にあるというのは、単純に美しいと思った。
「……そうかもしれない」
僕が彼女の言葉を噛み砕いてからそう言うと、彼女は驚きと喜びが混じったような表情をして、なぜか前のめりになった。僕はちょっと後ずさる。
「ね、吾妻くん。もうちょっと訊いてもいい?」
「……いいけど」
「吾妻くんは普段どんな本を読むの?」
「青春小説、かな」
「例えば?」
「例えば……」
好きな小説なんていくらでもある。そう聞かれ、現物を持っていることを思い出す。
「あ、今読んでるのはこれ」
僕は横の席に置いてある鞄の中に手を突っ込み、中から文庫本を取り出した。さっき買ったものじゃなく、元々読んでいた文庫本。この本は美那咲香(みなさきか)という作家の本で、僕はこの作家の本が好きだった。今回の新刊も、引き込まれる物語だった。
書店のカバーを外し表紙を見せた途端、彼女の目が驚きに見開かれる。
「……それ、先月出た本だよね」
「え、知ってるの?」
著者の名前は知られているかもしれないけど、つい先日発売された本なので、まさか彼女が知っているとは思わなかった。
「知ってる。……それ、面白かった?」
その声にはなぜか緊張が混じっているように感じられた。彼女の感情の意味はわからなかったが、僕はその質問に答える。
「めちゃくちゃ面白い」
読んでいる最中の胸の高鳴りが再燃して、声に熱が籠る。その声を聞いた彼女の表情から緊張が退き、安堵の表情に変わる。
「そっかー、よかった」
「よかった?」
「嬉しい」
「嬉しい?」
岬さんの意図が分からず、鸚鵡返しのようになってしまう。
彼女は肩をすくめ「ふふ」と小さな笑いを漏らす。その笑いに、僕は思わず言ってしまう。
「岬さん、なんか教室での印象と違うよね」
「そうかもね。驚いた?」
「正直」
「まあ、私にもいろんな顔があるからね」
「そういうもんか」
「うん。吾妻くんと同じ」
「否めないね」
僕の言葉に彼女は笑みをこぼす。
みんな、表には見せない顔や考えを持っている。彼女もそう考える人であることを理解し、少し安心する。
「……じゃあ、驚かしついでにもう一つ。いいですか」
彼女は少しの逡巡と共にそう切り出す。いいも何も、なんのことか分からないので僕は首を縦にふる。すると、彼女は落ち着いた声で告げてきた。
「それ、私の本なの」
「……え?」
「これ」
言いながら、彼女は僕の手の中の小説を指差す。
「えっと……冗談?」
「いや、それが冗談じゃなくて……」
彼女が少し困った顔をする。
「ちょっと待って、え? いや……え? まじ?」
大切……って言い方はそういうこと?
「うん、マジなんです。ほら、美那咲香。みな、さきか」
み、な、さ、き、か。みさきかな。……うそ。
「……岬さんの?」
「うん」
「えっと……つまり……岬さんがその小説を書いたってこと?」
「そういうこと。だから面白いって言ってくれて嬉しい。ありがとう」
静かな店内で、僕は一人絶句した。
「じゃあ日直二人はノート回収して職員室に持ってきてくれ」
次の日の放課後、僕は担任である水澄(みすみ)の指示で職員室に向かっていた。
何の巡り合わせか、次の日の日直は僕と岬さんの組み合わせだった。
岬さんの隣を歩いていると、彼女が首をこちらに曲げる。
「昨日の話だけど、学校では言わないでね」
昨日、あの後すぐ岬さんのスマホに担当編集者から電話がかかってきて、解散となったのだ。
横を見ると、僕より少し身長の低い彼女の瞳が目に入る。
「いや、言わないけど……」
クラスメイトである僕が今までそのことを知らなかったということは、よっぽど仲の良い人にしか言っていないのだろう。
「ありがとう」
「いや、それはいいんだけど。逆にどうして僕に言うの……?」
正直な気持ちを口に出すと、彼女は手に持ったノートを揺らしながら「なんでだろうね」と首を傾げた。
僕が小説を好きなのを知ったから、という単純な理由であれば、ここで口を濁す必要もない。それとも、こういうのはわからないところで考えているからいいのだろうか。
職員室に着いて水澄にノートを渡すと「さんきゅう。吾妻も岬も、調子はどうだ」という言葉をもらった。
僕も岬さんも「ぼちぼちです」という曖昧な答えを返す。
「そうか、気をつけて帰れよ」と言ってくれる水澄に挨拶をして、僕たちは職員室を出た。
二人とも荷物を持ってきていたので、そのまま帰路につく。
駅を通り過ぎ、陸橋を渡る。歩いている時に聞くと、岬さんの家と僕の家は結構近いということが分かった。
「あ、猫!」
彼女がいきなり駆け出す。彼女が向かう方向を見ると、本屋の前に小さな猫がいた。以前彼女の膝に乗っていた猫だろうか。
彼女は猫に近づくと歩幅を狭め、屈みながら近づいていく。慣れている様子だった。彼女の細い手が猫を撫でると、猫は気持ち良さそうにあくびをしている。
「この子、たまにこの場所にいるんだー」
僕も腰を下ろしゆっくりと近づいていく。幸せそうに猫を愛でる彼女に尋ねる。
「猫好きなの?」
「うん。癒される。帰るときいつも覗くの」
「だからか」
「だから?」
「うん、岬さんの小説にも猫よく出てくるよね」
「えっ」
彼女はしゃがんだまま僕の方を勢いよく振り返る。
「えっ、え……読んでくれてるんだ」
「……まあ。好きだし」
彼女の本が、とも、小説が、ともとれる言い方をする。
「……びっくりした、ありがとう」
彼女の照れた様子に、僕もなんとなく気まずくなり話を変える。
「岬さんは休日とか放課後は何してるの?」
「うーん……基本は本書いたり……あ、最近は書店回りしてるかなあ」
聞いたことがある。作家が全国の書店をめぐってサイン本などを書いたりする、書店回り。
「小説家みたい」
「小説家だからねえ」
「じゃあ、放課後は?」
「放課後は本書いているかなあ」
そうだろうと思っていた。
「いつも? 結構すぐ帰ってるけど」
「そうだね」
そう呟く岬さんの表情からは何か強い意志が感じられた。
その表情を見て、僕は彼女が泣いていた日のことを思い出す。
あの強い感情のこもった目。目に焼き付いた彼女の瞳。
僕はその日初めて、尊敬する人を見つけたんだと思う。
現在3
奇妙な時間の終わり、という僕の予想は大きく外れた。
意識が覚醒した時、僕はまだベンチの下に座ったままでいた。
目に入ってくる光の眩しさに思わず目を細める。気付かないうちに日が昇っていたらしい。
明らかに異常な状況なのに、あまり驚いていない自分に気づく。どれもが華奈を見つけた時の驚きに比べると劣ってしまう。
体が薄くなる直前に見た高校生の自分の姿を思い出す。過去の自分を見るのはなんとも異様な感覚だった。
あれから何時間経ったのだろうか。
この体は、夜の間は意識がなくなってしまうとかだろうか。
再度手に力を入れて立ち上がると、目の前のベンチに座っている人たちがいた。気づき、つい大きな声をあげてしまう。
「うわっ――あ、すみません」
座っているのは老夫婦だった。
驚かせたと思い、反射で謝る。が、僕の声は彼らには届かなかったらしい。
聞こえなかったのだろうか、そう思い、ピンとくる。まさか。
僕は回り込み、彼らの正面に立って挨拶をした。
「おはようございます」
僕の予感は的中する。彼らはその声に反応しなかった。
彼らの視線は僕の方を向いているが、明らかに焦点が合っていない。目線を辿ると、僕の後ろにある揺れる木々を眺めていることがわかった。
華奈とトウヤにしか話す機会がなかったから気付かなかったが、僕のことを認識できない人が華奈以外にもいるらしい。
どういうことだ、トウヤには見えて、華奈と目の前の老夫婦には見えない。僕の体はどうなっている。
合計四人じゃ何もわからない。どっちが例外なのか。それとも、ランダムか。
それを確かめるために、僕は駅前のショッピングモールに行くことにした。
公園を出て、駅に向かって真っ直ぐ歩く。人で溢れる施設に入り、抱いた疑問は一瞬にして解決した。
すべての人が、僕のことを認識できないようだった。
急に僕が目の前に現れても彼らは驚く素振りも見せず、そのまま僕の体をすり抜けて歩いていく。
羞恥を抑え込みショピングモールの真ん中で大声を出したりもしたが、僕の恥じらいは誰にも気付かれなかった。
ものに触れられないこともそうだ。目に付いた商品に手を伸ばすが、そのどれにも触れることができなかった。原理は分からないが、僕の体はすべてのものを通り抜けてしまうらしい。
それでも何か触れるものがないかと探している時、またここが過去であるという事実を突きつけられる。随分長い間近寄らなかった本屋の前を通ると、店先のワゴンにカレンダーが並べられていた。ワゴンに吊り下げられたそのカレンダーは、今が二〇一五年――つまり僕が高校二年生だった年であることを示していた。隣に、『本日、十二月七日発売!』と書かれてある超人気の漫画が置いてあり、それは数年前に堂々完結したはずの漫画だった。
トウヤに会う前、頭の中に浮かびそうになった事を思い出す。
駅で見つけた映画の広告は、僕が高校の時に公開していた映画のものだった。それが何年も残ったままになっているなんておかしい。
僕はようやく、この場所が過去だということを実感として理解した。
建物を出ると、太陽が沈みかけていることに驚く。ショッピングモールに入ってから一時間も経っていないはずだ。意識が戻った時、既に昼過ぎだったということか。
ここが過去だと理解するだけで、見逃していたたくさんのことに気づく。
ショッピングモールの入り口付近に設けられた宝くじ売り場で、初老の女性が客の対応をしている。あの宝くじ売り場は、僕が高三の時に無くなっている。また、公園に向かう道中、僕が大学に入学する直前によくわからない車屋に変わったはずのコンビニも、以前のままそこで営業していた。
自分の体を見下ろす。数年経っても体に馴染まない濃紺のスーツ。周りの世界の中で、僕の時間だけが進み、つまらない大人になってしまっている。
さっき確認した日付は、十二月七日だった。
毎年、十二月になると憂鬱だった。この月は死を意識させる。華奈の死んだ月。
二〇一五年の十二月二十日。華奈はあと数週間で事故に遭う。
昨日見た華奈の表情を思い出し、胸の奥が疼く。
華奈は自分が死ぬということなんか、夢にも……。
僕はどうして過去にいるのだろう。
なあ、華奈。僕はどうしてこんなところに戻ってきてしまったんだろう。しかも、物には触れられないし、トウヤ以外誰にも認知されない無力な状態で。
僕はずっと無力だ。あの頃からずっと。何もできないままだ。
また、救えなかったよ。足が固まるんだ。
僕が今ここにいることには、何か意味があるんだろうか。
教えてくれよ。
あれから数年、意味もなく生きてきてわかった。やっぱり、君は特別だったよ。大切なものに本気になることができるのは、限られた人間だけだ。
そんなことをうじうじ考えているからだめなのだろうか。
僕はまた、昔と変わらず楽な道を選んでしまった。
それ以降特に何も行動しないことを選んだ。
意識がなくなることと覚醒することを数度繰り返す。
そして、何度繰り返しても、元の世界に戻れないことを悟った。
何もしなかったらこの時間から逃れられない。そう自覚するまで、僕は行動を起こせなかった。
三度目の覚醒の後、やっと僕はトウヤに話しかけることを決めた。
日付を確認したかったので、僕は寿命一年のコンビニに行った。
自動ドアをすり抜けて中に入ると、クリスマスソングが流れていた。レジ前まで歩いて行き、販売されてある新聞を見る。
夕刊に日付が書いてあり、確認すると、十二月十日と記されてあった。
三日分、日付が進んでいる。意識がなくなった回数も三回だ。予想通り、夜に意識がなくなって、意識が戻るのは次の日の昼過ぎなのだろう。
僕はそのことに少しだけ安心する。トウヤに話す内容は、今でないと意味がないことだ。
コンビニを出て公園へと向かう。
ベンチには座れないので、公園に生えている木の下に座った。
僕の足を枯れ葉が通り抜けていくのを見て、思う。そういえば、僕の体は地面だけは通り抜けないらしい。
地面までも通り抜けたらどうしようもないが、今まで読んだ小説で主人公が透明人間になる時もそうだったなと思い出し納得する。同時に、思考の奥に小説がまだ根付いていることに気づき、少しだけ胸の奥が痛む。
しばらく待っていると、トウヤが現れた。手に小説を持っている。公園で読書をするつもりなのだろう。
公園に入ってきたトウヤは、僕の姿をみて明らかに警戒の姿勢をとった。
昔の僕は、誰もいないからという理由でこの公園を選んでいた。普段いない場所に急に現れた不審者。予想はしていた。
「あの」
僕のかけた声に、トウヤは確かに反応する。
よかった、聞こえている。
「えっと」
トウヤと対面して初めて、どういう風に切り出せば良いか考えていないことに気づく。
「なんですか」
人を寄せ付けないようなその声。高校生の時の僕はこんな感じだったのだろうか。
「それ……なんの本?」
とっさに本を話題に出したのは、かつて華奈とした会話を思い出していたからだろうか。
「小説ですけど……」
ただ、現状トウヤから見た僕は、華奈とは違い、ただの見知らぬ大人だ。そこまで容姿が変わっているわけではないが、そんなこと関係ない。そんなにうまく話が進むわけがないのだ。
一応答えはしたが、トウヤの表情が明らかに引きつっているのがわかった。
「失礼します」
話を無理やり切ったトウヤは、踵をかえし公園を出ていく。
「ちょっと待って――」
トウヤを追いかけようとした途端、また体が浮いたような感覚になる。
遠くで、自宅の扉が閉まる音が響いた気がした。
そういえば、四日前もトウヤと会話してすぐに意識が薄れていった。僕が学校から帰ってくる時間は大抵決まっている。ちょうどその時間が僕の意識の境界なのだろう。
次の日、僕は公園ではなく、通学路の途中でトウヤを待っていた。少しでも時間を稼ぎたかった。ただ、人が多いところでは多分口も聞いてもらえない。
トウヤを見つけ、僕はすぐに切り出した。
「僕は未来の君、吾妻東弥だ」
その言葉を聞いて、トウヤの目の奥が揺れる。彼の返答を待たず、僕は続けた。
生年月日や電話番号など、僕の個人情報をトウヤに伝えている間、彼は警戒の姿勢を緩めなかった。
「クラスメイトの岬華奈――」
華奈の名前を出した途端、トウヤに動揺が走ったのを感じる。
ここだ。僕は昨日言いそびれたことを伝える。
「急に言われて信じられないのはわかってる、だから、これだけ伝えに来た。明日、家庭科室で火事が起こる。その時に近くにいた僕は、逃げる最中に足に怪我をするんだ」
怪我自体はそれほど大きなものではなかったが、今でもその時の傷痕が残っている。ちょうど華奈が事故に巻き込まれる一週間ほど前の土曜日だった。
「だから、家庭科室には絶対近寄らないで。お願い」
頭を下げる。大人が深々と頭を下げる状況を、高校生の時の僕はほとんど見たことがないはずだ。だから、少しでもこの訳のわからない会話が意識に残ればいい。
過去3
岬さんと話していると、学校で友達とくだらない話をしている時に比べ、いつも時間が一瞬で過ぎていった。
友達との会話に不満を持っているわけじゃない。僕自身、学校での生活に完全に満足していたとはとても言えないが、友達とだらだらと過ごす時間も嫌いじゃなかった。
けどそれ以上に、岬さんとの会話はいつだって印象的だったというだけだ。
彼女と話すのは放課後だけだったが、毎回、彼女との会話が終わって一人になると、彼女の声や仕草、そして彼女の選んだ言葉が脳内で何度も繰り返され、心が苦しくなった。
こんな感覚になるのは初めてだった。その感覚は、好きな小説を読んでいる時のような心の動き方に似ていて、息が苦しくなりながらも、体の奥でどこかポカポカ暖かくなるような、そんな気持ちだった。話しているだけでなぜか心地よかった。
ある日の放課後、僕は華奈と一緒に帰宅していた。
早いもので、彼女と初めて話してから既に数ヶ月が経過していた。この頃には、僕たちは互いのことを下の名前で呼び合うようになっていた。
天気予報では熱帯夜のことが取り上げられるほど気温が高く、町中にセミの鳴き声が響き渡っていた。
街路樹の根元で暑さを凌いでいる野良猫を見つけ、華奈はゆっくりと近づいていく。
この景色も何度見たことか、華奈は野良猫を見つけたら必ず触りに行っていた。どこか、猫を探しながら歩いているようにも見えた。
「猫ってさ」
灰色の猫の背中を撫でながら、しゃがんだ彼女がふと呟いた。僕は彼女の髪が反射する陽の光を見ていた。
「何回も生き返るんだってさ」
「ああ、なんか聞いたことある」
確か、九回。魂がどうとか、という話だったと思う。それを題材とした小説を読んだことがある。
「この子、何回目の猫なんだろう……って、なにその顔」
「いや」
頬が緩んでいた。だって、大真面目な顔でそんなことを言うから。
「猫はなんで生き返るんだろう」
華奈は細長い指で猫の頭をすっとなぞる。猫は、気持ちよさそうに目を細めていた。
華奈の表情がやけに真剣で、僕は頬を意識的に引き締める。
「どうしてだろうね」
「この子たちには、何度も生き返ってまでしたいことがあるのかな」
僕は何も言わず、彼女の言葉の続きを待っていた。
「どうなの? 君はどうして生き返るの? 何か後悔とかあるの?」
答えを聞けるわけでもないだろうに、彼女は首を曲げ、猫と目線を合わせるようにして訊いていた。彼女の首の動きに合わせて、艶やかな髪がはらりと流れる。
「東弥は死んでもまた生き返りたい?」
彼女が顔を戻し、僕の方を見上げる。
生き返りたいか……か。答えにくい質問。
華奈が口をつぐんだまま待っているので、僕は猫の緑色の瞳を眺めながら少し考える。
単純に人生が何倍にもなるのなら、勉強も何もせずにもっと遊んでいられるだろう。何にも縛られることなく自由に楽しく過ごせるのかもしれない。けど。
「――別にいいかな」
「どうして」
楽しいことがないとは言わないし、思っていない。辛いと思いながら生きているわけじゃないし、苦労のない日常を送らせてもらっている。でも、だからといって、何倍も生きたいと思うには毎日は退屈すぎる。夢中になれることを持たないまま、持てないまま生きていくには、人生は長すぎる。
それを彼女に伝えると、彼女は僕の顔をまじまじと見つめていた。僕は思わず顔を逸らす。
「……なに」
「いやぁ、東弥はやっぱり優しいなーと思って」
「優しい?」
冷めている、の間違いじゃないだろうか。毎日を退屈だと思いながら生きているなんてつまらない考え方だし、こんなことを話しても面倒な人だと思われる。普段なら絶対言わないことだし、華奈にだから話した内容だ。全くもって褒められる考え方じゃない。
「華奈って感性変わってるよね」
「そう?」
「うん、今の話のどこに優しいと思われる要素があったのかわからない」
「えー、優しいよ。だって、そんなふうに思っているのに、東弥は学校でそんな雰囲気全然出してないじゃない。みんなに気を遣って隠してるってことでしょ。小説を学校では読まないようにしてるのも、それでしょ」
「いや……」
そんなふうに真っ直ぐ褒められるとは思ってもいなかった。
気まずさに耐えられず、僕は訊き返す。
「じゃあ、華奈は? 生き返りたい?」
華奈は静かに首を振る。
「私は、生き返りたいと思わないようにしたい」
「どうして?」
「だって、生き返りたいと思うのは、一回目が物足りなかったってことでしょ。私は物足りない生活なんて送りたくない。何かにちゃんと打ち込みたい。それに、そんなに長く生きちゃったら、多分疲れちゃう」
綺麗な答えだと思った。僕には出せないその回答。理想だとは思いつつも、口に出す勇気が出ない答え。
その通りだとはわかっているのだけど、物足りなくない生活を続けるのには、相当な労力が必要だ。
だから多分、そんな風に言い切れる人は、密度の濃い時間を過ごしている。
そうじゃなきゃ、小説家になんてなれないのだろう。
事実華奈は、言葉のとおり小説に打ち込んでいた。
本気、という曖昧な言葉で表してもいいのかわからないが、彼女はいつだって小説のことを考えていた。子供の頃、親に買ってもらったゲームのことを一日中考えていた時のような、そんな風に、彼女の生活の中には小説が当たり前のように溶け込んでいた。
華奈はいつも鞄にパソコンを入れて持ち歩いていて、何か思いつけばすぐに書くことができるようにしていた。
ある休日の昼、家の周りを散歩していた時だ。例の喫茶店ポワレで、氷も溶けて露も蒸発しきっているグラスを脇に置いたまま、パソコンに向かっている華奈を見つけた。小さな子供が必死に遊ぶような表情でキーボードを叩く彼女を見て、改めて彼女が小説家であることを理解した。
それを見た数日後、華奈と一緒に帰っている途中に「私ちょっと書いていくから」と彼女が言って近くのベンチに座るタイミングがあった。
思わず「僕、ここにいてもいい?」と訊いていた。
「なにも面白くないよ」と言いつつも笑って許可してくれた彼女の横に座る。
華奈はパソコンを取り出した瞬間スイッチが入ったのか、集中の糸が張り詰めて、そこから小一時間顔を上げなかった。
それ以来、僕と一緒にいる時に書きたくなったら、僕に気にせず作業するように言っていた。
彼女はそんな時、いつも「先帰ってていいよ」と言う。
「どうせ公園で読む本をここで読んでるだけだから」
毎回のように僕がそう言い、彼女の「わかった、ありがとう」を受け取るという一連の流れが出来上がっていた。
だから、いつもなら軽い感謝の言葉で終わるのに、ある日、スイッチが切れて顔をあげた彼女が申し訳なさそうにしていた時には驚いた。
「ごめんね。一緒にいても、こんなんじゃ面白くないよね」
伏し目がちにつぶやいた華奈の声。その声が耳に届いた途端、心の奥がざわりと揺れ動き、思わず言い返した。
「なんでそんなこと言うんだよ」
彼女も軽く謝りたかっただけなのだろう。僕が退屈を隠すことを優しいと言う――そんな感性を持つ彼女の優しさから出てきた言葉なのだろう。
頭の中ではわかっていた。いつものように「僕も小説読んでるし、気にしないで」くらいの言葉を返せばいいだけだ。
頭ではそう理解しているのに、なぜか彼女の謝罪の言葉を受け入れられない自分がいた。小説家でもない僕は、自分の感情を正確に表すことなんてできない。けど、わかりやすく、その時の僕は彼女の言葉に苛立っていた。
僕の勝手で一緒にいたのに彼女が謝ってきたことに対する申し訳なさと、気を遣われていることに対する残念な気持ち。
一緒にいて心地いいと思っていたのは、もしかして僕だけだったのだろうか。
初めて彼女を見たときに感じた胸の高まり。教室で見せるのとは違う彼女の表情。会話している時の心地よさ。彼女が選んだ言葉、意志のこもった彼女の瞳。
今更、自分の感情に気づかされる。
「いや、ごめん。そうじゃなくて」
僕のきつい言葉に、彼女の目は驚きに見開かれていた。僕は慌てて謝る。
「僕が好きで一緒にいるだけだから。それに、好きな小説が作られる瞬間に立ち会えるっていう、僕にとっては贅沢な時間だから」
うまくオブラートに包めているだろうか。
華奈の表情には、さっきとは違う驚きがのる。その驚きはゆっくりと変化していき、小説のヒロインのように柔らかく微笑んだ。
この頃から僕は、少しずつ変化していった。
努力し続けている華奈のことを間近で見ていると、羨ましい、と敵わないが混ざったような感情になり、同時に、なぜか心の奥からやる気が湧いてくる気がした。厚かましいかもしれないが、隣に並べるようになりたいと思っていたのかもしれない。
とにかく何かをしなければならない気になった。
朝起きる時間がほんのちょっとずつ早くなり、親に頼んで予備校に通い始めた。
勉強をしようと思ったのは、一番身近にあった頑張りやすいことがそれだからで、深い意味はない。ただ、勉強を頑張っていると、少しだけ真っ直ぐ華奈のことを見られる気がしていた。
夏休みまで秒読みとなったある日のこと。
放課後、僕たちは学校から少し離れた場所にある広場にいた。華奈は手にシャボン玉の容器を持っている。さっき百均に寄って華奈が購入したものだ。化学の授業中ふと思いたったらしい。
ジャングルジムに座った彼女が、容器の中に浸けたストロー型のプラスチックを咥える。
華奈の口が膨らんだ直後、ふわりと、無数の球体が彼女の周りに飛ばされた。
「おお」
久しく見ていなかった光景。七色の輝きの綺麗さに、思わず声が漏れる。
ふよふよと風に流された球体は、僕のもとへとたどり着く。人差し指でその玉に触れると、ぱっと弾け飛び、微細なしぶきが顔にかかる。
「うわ」
華奈は小学生のように無邪気に笑っていた。
「小さい頃、なんで空中で潰れないのか疑問だった」
僕が呟くと、彼女が首をこちらに向ける。逆光で、表情がわかりにくかった。
「ビニール袋とかって地面に置いたら上の部分へこむから、同じようにシャボン玉もへこみそうなのに、って思って」
「おお」
さっき僕が出したのとは違う種類の声が、彼女から発せられる。
「すごい、私そんなこと思ったことなかった」
そんな気がする。前も言っていた。
「わからないところで考えるのがいいから?」
「考えてもなかったけどね」と笑う彼女。そしてこう続ける。
「けど、シャボン玉を見ていたら心躍るのは確かだよ」
華奈が空を見上げ、鼻から空気を吸う。
「夏のかおり」
「する?」
僕も彼女の真似をして息を吸うが、よくわからなかった。
「するよ。もうすぐ夏休みだもん」
上を向いた彼女の鼻筋や顎のラインが、シルエットとなって僕の目に焼きつく。
そうか、夏休み。
夏休みに入ると、なかなか会うことができない。
それに、高校二年生の夏というのは勝負の夏のようで、予想以上に予備校の夏期講習が詰まっていた。
放課後、学校がある時のように簡単には会えないということに、今更ながら気づく。
「週末は書店回り?」
「いや、書店回りは最近してないの」
「じゃあ」
考える前に口に出した。妙な間が開くことを避けたかった。
「よかったらさ、一緒に映画行かない?」
彼女が小説を出している出版社から出ている文庫が映画化され、つい数日前に公開されたのだ。元々観に行くつもりだった。
いつもより少しだけ高い声で彼女を誘うと、彼女は明らかに困惑した表情を浮かべた。その顔を見て、胸の奥に穴が空く。
彼女の表情がどういう感情から出たものなのかはわからない。ただ、彼女が映画に誘われたことに無条件に喜んでいないことを知り、僕は傷ついた。傷ついた理由は容易に理解できた。オブラートに包んだはずの感情は、一度気づいてしまってからは僕の心の中を支配していた。
「いや、忙しいとかだったら全然……」
「――大丈夫だよね」
僕の言葉を遮るように、彼女が意味のわからない呟きを漏らす。
「うん、一緒に映画、観に行こう」
「全然無理しなくていいよ」
「ううん、行きたいの。最近ちょっと煮詰まってるし」
彼女は、何かを決心したような顔でもう一度「行こう」と笑っていた。
華奈が困ったような顔をした理由は、当日になったらすぐに理解できた。同時に、僕の傷心は思い違いだったということに気づく。
映画中から映画が終わってしばらくの間、彼女の涙が止まらなかった。
映画は確かに感動的な物語で、終わった後目元を押さえている人もいたが、彼女はそんな比ではなかった。
終始、涙を流し続けていた。
隣に座っている、それも自分の心を掴んでいる女の子が目を濡らしていることも一つの原因だったけれど、そんなことよりも、感情を爆発させている人が隣に座っている事で、なかなか映画に集中できなかった。
何度も読んだ小説なので僕は内容を把握できたが、そうでなければ隣にいる彼女のことを邪魔に思ってしまう人も少なくないはずだ。
事実、僕は、近くに人がいなかった事に安心していた。
そんなことを思って、ある事に思い当たる。
「クラスの子たちと遊ばないのって」
「うん、こういうことがあるから」
「誘った時に一瞬迷ったのも」
隣を歩く華奈は恥ずかしそうに頭をかく。
「そう、流石に迷惑がられるかもしれないと思って。……ちょっと怖くて」
彼女は「昔、同じようなことがあったの――」と切り出した。
「私ね、中学生の時に、クラスで仲良くなった女の子がいたの。その子はすごく優しい子で、ドラマとかアニメが大好きで、いつも私に好きなものの話をしてくれていたの。休日に初めて遊ぼうってなって、その子が映画に観に行こうって言ってくれて」
華奈は頭の中でその時のことを思い出しているのだろう。空中を見つめ訥々と話していた。
「一緒に映画観てたんだけど、今日みたいになっちゃって。帰り道、その子に怖いって言われちゃった。それで、その子は次の週から別のクラスメイトの輪の中に入っていて、気づいたら私は一人だった」
彼女はそんな内容を淡々と語る。その平坦さが、彼女の奥に根付いた傷を隠すために思えて、むしろ痛々しかった。
「けど、その子が別に悪い子ってわけじゃないの。ただ、その子からしたら、私は合わなかっただけで。私の悪口を言っていることもなかったし」
放課後教室を出て行く時の、華奈の物足りなさそうな表情を思い出す。あの表情の裏には、そんな事情が込められていたのだ。
「けど、でもね」
一拍おいて。
「東弥だったら大丈夫かなと思って」
あの時呟いた「大丈夫だよね」という言葉はそういう意味か。
それを知った途端、腹の奥がじんわりと暖まった気がした。彼女が――そんな過去を経験している彼女が、僕のことを認めてくれたのだ。
「それに、映画館でデートするのって、やっぱり憧れるじゃない?」
嬉しそうな顔でそんなことを言い出す彼女。僕は、敵わないと思いつつも、今度は彼女のことを包み込むように言う。
「そっか、うん。そうだね。安心して。大丈夫だよ」
「ここ一回来てみたかったの」
僕たちは、映画館の近くにある和菓子屋さんを訪れていた。
涙はさすがに収まっていたが、店の入り口に設置された木彫りの看板を嬉しそうに眺めている彼女の目は充血していた。
わらび餅が店の看板商品らしく、彼女は午後には売り切れるというそのわらび餅を食べたかったらしい。店内には注文した商品を食べることのできるスペースがあり、僕たちもそこで食べる事にした。
イートインスペースは全体的に和を感じられる庭のような空間で、端にはししおどしが設置されていた。冷房の効いた清閑な店内には数秒おきに、ことん、という音が心地よく響く。
「んんっ」
とろとろのわらび餅を口に入れた彼女の目が輝いて、それだけで美味しいのだろうと想像できた。
「生き返るー」
彼女に続いて僕も食べると、するっと冷えた餅が喉の奥へと消えて行く。
「これも夏っぽいね」
思ったことを口にだすと、華奈もそう思ったのか、こくこくと頷いた。
なんとなく、彼女は同じことを思っている気がしていた。
「私、わらび餅は一番この時期が美味しいと思うの」
「わかるよ」
「透明な見た目とか、喉に入れた時とか、涼しい感じがするよね」
「和菓子は季節感考えて作られてるよね」
僕の言葉に、彼女が興味深そうに身を乗り出す。
「結構和菓子好きなんだ、僕」
小さい頃、祖父母の家に行くといつも様々な和菓子が揃っていた。並んだ和菓子は見ているだけでわくわくして、帰省の楽しみの一つになっていた。祖母に「好きなの選んでいいよ」と言われ、選ぶのが難しかったのを覚えている。
シャボン玉の時はわからなかったけど、これは思う。
「わらび餅は、夏のかおりがするよ」
「そうだよね」
僕たちはかみしめるように夏を味わった。
食べ終わった彼女は楽しそうに呟く。
「贅沢」
「ん?」
「夏のかおりと糖分が同時に運ばれてきた」
「糖分?」
僕が言うと、彼女は「頭使ったからね。けど、疲れ吹き飛んだ」と破顔する。
僕は映画を見て、疲れたと思ったことはない。
彼女はけど、本当に疲れていたのだろう。店に入る前より確実に元気になっていた。
「全然、責めてるとかそんなんじゃないんだけど」と前置いてから、僕は聞いた。素朴な疑問だった。
「映画見てる時に、気持ちを抑えよう、とか思ったことは?」
そういう気持ちは、環境で左右されるものだと思う。僕だって、家だったり、誰もいない公園でなら涙が出ることなんか気にしないけど、映画館のように人の目がある場所であれば、涙は我慢する。
物語による違いはそれほど大きな問題じゃなく、場所で自然と切り替わってるのだと思う。
「気持ちを抑えるのはもったいない気がするの」
華奈は小さく呟いた。
「涙が出てくるとか、物語の中の誰かに苛立ったり哀れに思ったり、そういう風に思えるのは、私にとっては大切なことで」
僕は黙って続きを促す。
「自分の気持ちの一番大事な部分、そこから出てきたはずのものを、なんのためであったとしても、抑え込むのはだめだと思うから。それをしたら、ちょっとずつ自分の心が死んでいくみたいになる」
華奈は自分の内を見つめ直すようにしながらそう答える。
「だから私は、気持ちは抑えようとは思えない――」
彼女の言葉が切れてしばらく経って、僕は唾を飲み込む。
そこで初めて、わらび餅で潤ったはずの喉が乾いていた事に気づく。
彼女と話して、まだ数ヶ月しか経っていない。けど、彼女と話していると何度も目の当たりにする彼女の考え方。彼女が考え方を提示してくれて、それを聞く度に僕は、その考え方を美しいと思っていた。毎回、心臓が締まるような思いになっていた。
彼女にずっと訊いていなかったことがある。
華奈を初めて認識したあの日の彼女の瞳、華奈と話し、彼女のことを尊敬したこと。
おそらくそれら全てが帰結する質問。
単純だけど、普通の人には答えることのできないその質問。
「華奈はどうしてそんなに本気になれるの?」
猫が生き返る話をしている時にも彼女は言っていた。
――私は物足りない生活なんて送りたくない
――何かにちゃんと打ち込みたい。
そんなこと、みんな心の底では考えているし、そう考えることが理想だと、みんな思っている。
それでも、その言葉のように、何かに夢中になり続けることも、始めたことを妥協せずにやり遂げることも、普通はできない。できるのは一握りの人間だけだ。
けど、自分には何もないと思い続けることが嫌で、みんなうまくごまかして生きている。割り切って、少し楽をしながら生きている。僕だってそうだ。
僕が人のことを尊敬できなかったのは、それが原因だ。
けど、僕は初めて、尊敬できる人に出会えた。
彼女は紛れもなく、その一握りの中にいた。
気づいてしまった華奈への想いもある。
けどその時は純粋に、華奈のことを、深く知りたいと思った。
「どうしてそんな風に、夢中になって、真剣に生きられるの?」
彼女は僕のその質問に、眉を顰めた。そしてしばらく虚空を見つめていた。
「私の身の上話ばかりになってしまってるけど」
彼女は、「重くならないでね――」と言い添えてから語り出す。
「私、おじいちゃんが亡くなってるの」
僕は空気が固まる前に、あえて「うん」と声を出した。
「おじいちゃんのことが好きで、毎週末おじいちゃんの家に遊びに行ってた。いつも週末が楽しみだった。私が小説を書き始めたのも、おじいちゃんがきっかけ。おじいちゃんの書斎にはたくさんの本が並んでいて、いつも読み聞かせてくれたの。いつも私の相手をしてくれて、元気なおじいちゃんは、けど、一瞬で亡くなった。私が、いつも通りおじいちゃんに手を振って、その次に見たのはおじいちゃんの眠った姿だった」
私が小説家になったことさえ知らないまま、天国に行ってしまったの、と彼女は言った。
「遅かった。おじいちゃんのおかげでプロにまでなれたよって、私小説家になれたんだよって、おじいちゃんに伝えるつもりだった。私の中で、決めていたの。私が小説家になって、おじいちゃんに私の本を見せに行く。それが私にできるおじいちゃんへの恩返しだと疑わなかった。小説を通して気持ちを伝えたい、そう思っていたの」
けど、無理だった。そう呟く彼女の悲しそうな表情。
「間に合わなかった。小説家になれたことだけじゃなく、おじいちゃんのおかげでこんなに小説を好きになれたよって、ありがとうって、伝えることさえできなかったの」
彼女の目がまた赤らむ。
「後悔した時にはもう遅いの。多分、何やっても、どれだけ努力し続けても、圧倒的に遅すぎる。遅いって事に気付けるのはいつだって後から。何と比べて、とかじゃない。もう、いつだって早いことなんか何もないって身にしみたから。物足りない生活を送っていたら、取り返しがつかないと思っているだけ」
いつも追われてるの、と彼女はわざとらしく笑った。
「それにずっと、私には小説しかないの。確かに、一つは大切にできるものを持っているかもしれない。一つもないと感じている人からしたら、恵まれていると思われるかもしれない。けど私にとっては、これしかないの。だから、怖いよ。逃げ道がないの」
彼女は困った様に「それにね」と付け加える。
「そういうふうに思っているし、こうやってたいそうなこと言ってるけど、今の状態が正解かわからない。だって、小説のために犠牲にしているものも沢山あって。一回失敗もしてるし、学校で友達を作るのとか、私は諦めてるの。普通の青春を、諦めたの」
作ろうとしない、じゃない。諦める、その言葉が出るということは、可能ならば作りたいという感情があるということだ。
「正解なんて、わからない。今正解だと思っていたとしても、いつかどこかで後悔するかもしれない。小説を書かずに勉強していた方が、友達を作って学校生活を楽しんでいた方が、後から考えたら圧倒的にいいかもしれない。誰にもそんなことわからないんだよ。だから、死ぬまで失敗じゃなかったら、それは正解なんだと思うし、そうだったらいいなって思ってるだけ……なんだ」
迷っているようにゆっくりと、でも、そう言い切る彼女の目はあまりにも真っ直ぐで、僕には眩しいほどで。
けど絶対、その眩しさから目を背けたくないと思った。
「だから。本当に感謝してる。そんな私に、もう一度こんな楽しいことを体験させてくれて、一緒にいる私のことを認めてくれて、大丈夫って言ってくれて、ありがとうね、東弥」
来年はどんなふうに過ごしているのだろうか、そんなことを思いながら、華奈の目の中に映った自分を見ていた。
――ありがとうね。
僕に向かってそう笑った華奈が、高校三年生なることさえなく亡くなるとは、その時の僕は夢にも思っていなかった。
現在4
血相を変えた様子のトウヤが僕の目の前に現れたのは、太陽が半分見えなくなった頃だった。
トウヤは膝に手をつき、肩で息をしている。よっぽど急いで来たのだろう。
「ほん、っとに……はぁっ、火事っ、起こったんですけど」
「怪我は?」
「しなかった、です」
ひゅうひゅうと息を切らす彼を見ながら思う。そうか、怪我を防ぐことはできたのか。
心の奥に細い針で刺されたような痛みを感じたが、僕はそれを無理やり押し込んで呟く。
「よかった」
目の前の彼は辛そうに咳き込んでいる。僕はトウヤの呼吸が落ち着くまで彼を待つことにした。
「――大丈夫?」
「……はい。だいぶ、ましになりました」
「じゃあ、とりあえず。ちゃんと火事のこと覚えててくれて、意識してくれてありがとう」
「いや、教えてくれたのはそっち――えっと」
「東弥、でいいんじゃない」
「教えてくれたの東弥さんですし……うわ、違和感」
なかなか自分の名前を呼ぶ機会なんてない。口にだす方もそうだが、自分自身に名前を呼ばれるのもなかなか変な感じだ。
「信じてくれた?」
「いや、まあ……正直、まだ信じられてないですけど、とりあえずは、はい」
「それはよかった」
「ぶっちゃけ、最初に見た時になんとなく面影――自分で言うのも変だけど。東弥さんをここで見たとき、全く関係のない人には思えなかったけど、そんな夢みたいなことありえないと思ってたし……」
「不審者に見えた?」
あのとき彼は不可解なものを見る目をしていた。
「そりゃ……そうですよ。ベンチの下にいたんで。何してたんですか」
「座れなかったんだ」
「座れない?」
「座ろうとしたんだけど、ベンチをすり抜けた」
「すり抜けた……」
トウヤは、僕の言ったことの意味がわからないようだった。
「この体は、物に触れられない」
「えっと……」
「ここにきてからいろいろ試してみたけど、僕の体は全てのものに干渉できないらしい」
トウヤは僕の言葉を聞いて小さく「え?」と呟いた。
「もしかして、幽霊…とか? 僕……未来で死ぬの?」
「いやいや」
僕は首を振る。一度ここに来た時に考えたことだ。
「死んでないから、幽霊ってことはないはず。ただ、よくわからないうちに過去に来てこんなことになってるんだ」
「はあ……小説みたい」
なんの憂いもなく小説という単語を口に出したトウヤに、僕は奥歯を噛み締める。華奈が死んでから僕はずっと小説を避けて生きてきた。
「……確かに。だから、まあ、とりあえず何にも触れないし、誰とも話せない」
「誰とも?」
彼は目を細める。
「いや、えっーと、トウヤ……いや、君以外の人には僕の姿は見えないし、声も聞こえないみたい」
「こんなにしっかり見えてるのに?」
トウヤは信じられない、といった様子だった。
「見て」
そう言って僕は歩いていく。遊具に近づき手を伸ばす。
伸びていった手が遊具の中をすり抜けた。
「ほら、触ろうとしたらこうなる」
トウヤは、あっけに取られたような表情をしていた。
彼もおずおずと手を伸ばし――当たり前だが、遊具に触れる。
「……まじか」
貫通したままの僕の手を大きく開いた目で見つめるトウヤ。
「……なんで」
僕は肩を竦める。
「なんでだろうね」
「え、じゃあ、今も他の人には見えてないってことですか?」
「うん、そのはず。確かめたからそれは間違いないと思う」
「じゃあ、一人で喋ってるように見えるってこと……」
「そうなるね」
トウヤは急いで周りを見回す。
「大丈夫、誰もいないよ」
「よかった……でも、まじか」
高校の制服に身を包んだトウヤは、僕の姿を穴が開くほど見る。何度も瞬きをしては、ため息をつく。
しばらく観察した後、トウヤは口を開いた。
「えっと……で、東弥……さんは、幽霊とかじゃないなら、なんでこんなとこにいるんですか?」
僕はトウヤに事の経緯を説明する。事故があったことは言わなかった。
ただ、仕事場に向かう途中、目の前が暗くなって、気付いたら駅にいた。そう説明した。
「だから幽霊とかじゃないけど、なぜ今ここにいるのかは正直わからない」
そう、わからない。そう言いながら胸の奥がざわつく理由もわからない。
だから、おそらく事実である事のみを述べた。
「あと多分、もうちょっとしたら僕は消える」
「消える?」
「どうなっているのか僕自身もわかってないけど、毎日この時間になったら意識が消えるんだ。だから、もうすぐ君とも話せなくなる。それで多分、明日の昼過ぎになったらまた意識が戻って話せるようになると思う」
理解はしていないだろうけど、トウヤはゆっくり頷いた。
「訊いてもいいですか」
「うん」
「僕は……未来では何をしてるんですか?」
「えっと……」
僕は言葉に詰まる。つまらない未来が待っていることを聞かされるほど辛いことはない。
「それは多分、知らない方がいいと思う。その時になったらわかるから」
「……そっか、わかりました。じゃあ……華奈は? 元気ですよね? これくらいなら」
来ると思った。十二月の華奈の様子を見ていたら、心配になるのは当たり前だ。
これもごまかしてしまうと、本当に僕が過去に来た意味がなくなりそうで、僕は彼に言う。真面目な表情を作り、彼の目を見た。
「……華奈は、死んだんだ」
トウヤは言葉をなくす。
冗談だと思われないために、彼から目を離さないようにする。
「事故に遭った」
「……」
トウヤの目の奥が揺れる。
「……嘘だろ」
「嘘じゃない」
「いつ……華奈はいつ事故に遭うんですか」
「十二月二十日。模試の日」
「模試って……華奈が受けるって言い出した」
「そう、その日、華奈は事故に巻き込まれたんだ」
話しながら、僕は脚の傷のことを考えていた。
トウヤが来る前に脚を確認していたが、その傷は消えていなかった。むしろひどくなっている気さえした。この傷がそのままなのに、トウヤが怪我を防ぐことをできたということは。
胸の痛みを隠しながら、話を聞くトウヤの目を見る。意志がこもった真っ直ぐな目が、かつての華奈の目に重なった。
ーーーーー
過去4
夏休み明け。始業式の後、華奈と喫茶店ポワレに行く約束をしていた。
休み中、テストや夏期講習が予想以上にきつく、なかなか会っていなかったので久しぶりだった。
学校に着いて、一ヶ月ぶりに会うクラスメイトと挨拶しながら自分の席に行く。
華奈の席に意識を向けながら友達と話していると、華奈が来る前に水澄がやってくる。
結局華奈は学校に登校して来なかった。
不安を拭えないまま喫茶店に向かうと、華奈はいつかの窓際の席で机に突っ伏して眠っていた。
彼女の横に置かれたアイスティーのグラスは濡れていたが、中身は全く減っていなかった。眠り始めてそれほど時間が経っていないのだろう。僕は彼女を起こさない様にマスターを呼び、クリームソーダを頼んだ。
「ああ――東弥」
僕がクリームソーダを飲み干したタイミングで、彼女はやっと顔をあげた。
「ごめん、寝てた」
彼女の目の下の隈を見て、思わず訊く。
「大丈夫? なんか顔色悪いけど」
「疲れたー」
そう言って、大きく伸びをする彼女。
「締め切り?」
「……うん」
彼女の返答の前に開いた間が気になった。
「家で寝ててもよかったのに」
何気に呟いた僕の言葉にピクリと反応した彼女は、こっちを向いて目を細める。少し、怒っているようにも見えた。
「じゃ、来てよ」
アイスティーを一気に飲み干し無造作に立ち上がった彼女を見て、僕は訊く。
「来てって、どこに」
「うち」
うち、ウチ……家?
彼女は僕の混乱を知ってか知らずか「行くよ」とだけ言って店を後にする。慌てて僕は彼女を追いかけた。
彼女に連れられて歩いて行くと、マンションへと案内された。
さっきから心拍数が上がっているのは、照りつける日差しのせいではないと思う。
「えっと、華奈?」
「何?」
彼女は眠そうな顔をこちらに向ける。
「いや……大丈夫なの?」
「なにが」
「お家の人とか」
「人いないから」
「え?」
「実家じゃなくって、小説用のワンルームだから」
元々親が持っていたマンションの一室を、彼女が小説を執筆するための部屋として使わせてもらっているらしい。仕事をする時はいつもここに来る、という初耳の情報を教えられる。
「入って」
鍵を開け、中へと通される。さっきから感じている緊張は、好きな小説の著者の仕事場に入るから、それとも、華奈という女の子の部屋だからだろうか。
けど、部屋に入った瞬間、全てが圧倒に変わった。
彼女の部屋、もとい小説部屋の中には、夥しい枚数の紙が積み上がっていた。その光景に僕は声を失う。明らかに異常だった。
ゴミ屋敷、というにはあまりにも白すぎて。部屋中が原稿の海だった。おそらく全て彼女が作り出した物語だ。
華奈のことを、なにもわかっていなかったと理解する。
彼女の本気の度合いを測り違えていた。もっと、はるか高いレベルで彼女は闘っていたのだ。
「ごめん、散らかってるけど」
彼女はゆったりとした足取りで、奥に埋もれた冷蔵庫を開ける。
「何か飲む?」
彼女の声が少し掠れている気がした。
「うん、ありがとう」
部屋を見渡していたら、麦茶を注いだグラスを持った彼女が言う。
「なんか言いたそうだね」
彼女が鋭い目で僕のことを見ていた。
「すごいな、と思って」
部屋中に散乱した用紙。
小説に打ち込んでいる彼女の背中に、計り知れないほどの大きな重りが載っていたという事に気づかされる。本気の影に隠れた闇を見た気がして、言葉がうまく出て来なかった。
教えてくれた、彼女の決意。何かをするのは、こんなにも大変なことなのか。
あんな覚悟を持って行動している華奈がなにも背負っていないわけがなかったのだ。
「すごくないよ」
その言葉は謙遜ではなく、華奈が自分のことを本当に低く見積もっているように僕の耳には届いた。
僕が首を振ると、彼女はポツリと呟いた。
「今日……学校休んだの」
なんでそんなわかり切っていることを? と思った。彼女もさっき、締め切りだったと言っていたはずだ。
沈黙の中に彼女が醸し出す微妙な空気感を感じ取り、僕は眉間にしわを寄せた。
「知ってる……けど?」
「……さっきの、嘘なの」
「さっきのって」
「今日、別に締め切りなんかじゃなかったの」
彼女の声が、少し震えているように思った。
「本当は寝てたの」
「書いてた、じゃなく?」
「そう。最近あんまり眠れない」
知らなかった。いつからだろうか。
「不眠症。全然眠れなかった」
「病院とかは?」
訊いてもいいのだろうかと思いながら、尋ねる。
「行ったよ。行って、薬ももらった。で、薬を飲んだら体が重くなって、昨日から今日の昼までずっと寝てた」
「それは、よかった……って顔じゃないね」
「うん、眠れないと、なにも考えられなくなるし、でも薬飲んだら、次の日頭が重くてなにも考えられなくなる」
「……いつから?」
「二週間くらい前から」
「急に?」
思わずそう返すと、彼女は「理由はわかってるんだけど」と肩を竦めた。
「去年出した小説の二作目、準備していたのに、打ち切りになったの」
その声には、感情がこもっていないように聞こえた。
「夏休みの途中にそれ知って、その日から眠りにくくなったの」
彼女は大きなため息をつく。
「逃げ道なんかないのにね。私が歩いてきた道は、最初から袋小路だったのかな」
この時の僕はまだ、そこまで小説を中心に生きている彼女のことを、その言葉さえも美しいと思っていたかもしれない。
「私、何か間違ったかな」
現在5
「――だから、その模試の帰り、華奈は猛スピードで突っ込んできたトラックに轢かれたんだ」
僕の話を黙って聞いていたトウヤは、状況を噛み砕けない様子だった。
昨日、話している途中に僕の体が薄れていったので、また今日公園にきたトウヤに説明し直していた。意識が消えていくと、やはりトウヤからも見えなくなるようだった。
彼は、何かを言おうと口を広げるが、声は出てこない。なにを言えばいいのかわからないのだろう。
「足が動かなかった」
足が、地面にくっついて、自分の意思で動かせなくなる。
駅のホームで女性が落ちて行くのを見ている時も、全く同じだった。
「一瞬だった。なにもできなかった」
「……」
暫しの間、沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのはトウヤだった。
「……僕に」
「ん?」
「僕に、何かできませんか」
トウヤは決意に染まった双眸をこちらに向ける。
「そのために戻ってきたんですよ」
「そのため?」
「華奈を救うために、東弥さんは過去に戻ってきたってことでしょ」
当たり前のように言うトウヤを見て、僕は胸の奥に鋭い痛みを覚える。
「そう……なのかな」
「僕だけに話しかけられるっていうのは、何か意味があると思うんです」
――意味か。
トウヤにだけ僕のことが見えている意味。僕が今過去にいる意味。事故を見たことがきっかけで過去に飛んだことの意味。
「後悔してからじゃ遅い。まだ、助けられます。だったら、できることは全てやりましょうよ」
その言葉は意識的か無意識か。トウヤは、あの夏の、華奈と同じ発言をした。
「事故当日ももちろん……だけど、まだ当日までは時間がある」
トウヤは独り言のようにぶつぶつ呟いている。
「これから事故当日までで、華奈の何かを変えることってできないですか?」
「えっと」
過去を変えたのは、脚の傷だけ。だから他の、ちゃんと過去を変えられるという根拠になるもの、ということだろうか。
「――あ、ある」
事故当日まで一週間ちょっとしかない。そのあたりの記憶を遡り、閃く。
「確か、華奈模試の前に風邪ひいたはず」
「それ!」
トウヤが飛びかからんとばかりに声を上げる。
「それ! いつですか? 正確に!」
「いつだったかな……確か、事故の一週間くらい前だったはず……いや、二週間前かな」
「風邪引いたのって、当日知りますか?」
「うん、その日学校休むから」
「じゃあ、まだ大丈夫です。まだ華奈は風邪ひいてないので、もうすぐって事になりますね」
「う、うん」
トウヤの勢いに圧倒される。
「それ……なんとかして防げないですか」
「なんとかって言われても……風邪だし……あ」
「なんですか」
「――アイス」
「アイス?」
「風邪引いたの、多分直接の原因アイスだ」
思い出した。華奈はあの頃、ずっとアイスを食べていて、風邪を引く前日、アイスを三つも開けていた。心配して注意したから覚えている。
もし、アイスを食べるのを止めさせて、華奈が風邪をひかなくなるのなら。それは過去を変えられる根拠になるかもしれない。
ーーーーー
過去5
秋口にかけ、華奈は月に何度か学校を休むようになっていた。
休んだ理由を聞くといつも、本を書いていたと言っていたが、華奈の目元には以前にはなかった隈が目立っていた。
十月末の日曜日。僕は予備校に行く前に広場に寄った。
広場の真ん中で立っている華奈と目が合った瞬間、華奈が大きく体を回転させて何かを投げてきた。僕は真っ直ぐ飛んできたそれをキャッチする。安っぽいフリスビーだった。
受け取ったそれを持ち直し、彼女に向かって投げ返す。
彼女は、ぎこちない動きでそれを掴む。
しばらく、無言で投げ合う。フリスビーが僕たちの間を数回往復した後、華奈がつまらなそうな表情で「やめよう」と言った。
懐かしい遊びをするにしては一瞬すぎる気もしたが、僕は投げ返すのをやめて彼女の元へと歩いていった。
「これ、どこで買ったの?」
「来る途中、百均で」
「そっか」
以前シャボン玉を買った百均だろう。ただ、前のシャボン玉とは違って、今回のフリスビーは、何かを紛らわせるために使っているように見えた。事実、あの時のような無邪気な笑顔はそこになかった。
返そうとしたフリスビーを、華奈は受け取らない。
「あげるよ」
彼女のその声は投げやりに聞こえた。
「いいよ」
「私もいい」
「……じゃあ、また今度気が向いたらやろう」
彼女はゆっくりと頷く。
その後、彼女の「なんか飲み物飲まない?」という言葉で、僕たちは例のように喫茶ポワレに行くことにした。
「よいしょ」
席に案内されてすぐ、僕は背負っていたリュックを下ろす。季節が進むにつれ、勉強道具が増えて、どんどん鞄が重くなっている。羽織っていた薄手のコートも脱ぎ、軽く畳んでリュックの上に載せた。
「時間大丈夫?」
僕が荷物を完全に置いたからだろう、彼女が訊いてくる。
「今日は自習だから多少遅くなっても大丈夫」
「そっか、よかった」
飲み物が運ばれてくる。華奈が頼んだ物が、アイスティーではなく、アイスコーヒーであることに気がついた。
それは、彼女の感情の変化の現れのようにも見えて、思わず尋ねる。
「アイスティーじゃないんだ」
すると彼女は、肩を竦め、頼りなく笑う。
「……ここ、アイスコーヒーも美味しいらしいから」
「そうなんだ」
そう言った割に、少し飲みにくそうにストローに口をつける華奈。
「コーヒー苦手なの?」
「うん、実は」
じゃあなんで頼んだんだ、という心の中の疑問は、表に出さずとも彼女が答えてくれた。
「ちょっと気分変えたくて」
「……そう」
彼女が小説で煮詰まっているのであろうことは知っている。それゆえに、僕はどう返せばいいかわらかなかった。
しばらく会話をしていたら、区切りのいいところで彼女が「書いていい?」と聞いてきたので、僕は食い気味に首を縦にふる。
邪魔する気はそもそもないし、それに。
華奈の小説のスイッチが入る瞬間を、最近見ていなかった。だから、せっかく書けそうなら、僕のことなんか気にせず書いて欲しい。
僕はリュックから単語帳を取り出す。
本当に気分がいい方向に変わって、彼女の調子が戻ればいい。そう思っていたが、期待はすぐに裏切られた。
華奈の手はなかなか動かなかった。
華奈は、コーヒーをちびちび飲んではため息を漏らし、パソコン画面を睨んでいる。
数分経っただろうか、華奈が突然声をあげた。
「だめだー書けない」
彼女の声で顔を上げると、華奈はもう一度言う。
「だめだー」
そう言って、華奈は渋い顔でコーヒーを一気飲みした。
「気分転換失敗。東弥、まだここいる?」
「ううん、華奈が出るなら僕も予備校行くよ」
「じゃあ出よう」
「予備校行く前に本屋寄るんだけど、一緒に行く?」
「行かない」
今度は華奈の食い気味な返事。
「わかった」
予備校に行く前に寄った本屋には、華奈の本が一冊も置かれていなかった。
十一月上旬の放課後、僕は職員室の扉の前にいた。水澄に呼ばれていたのだ。用件は伝えられていなかったが、なんとなく予想がついていた。学校では華奈とほとんど話していなかったが、水澄は勘がいい。
「失礼します」
扉に手をかけ、スライドさせる。
「おお、吾妻。わざわざすまんな」
呼ぶと、水澄は申し訳なさそうな表情で近づいてくる。
「いえ」
「最近、勉強の調子はどうだ」
十月にあった三者面談で、水澄には予備校に通い始めたことを伝えていた。
「まあ、勉強始める前よりは随分と」
「そうか、それはよかった。なんかあったらいつでも相談してこいよ」
「ありがとうございます」
「……で、来てもらったのには別の理由があってだな。教室では話しにくいから」
僕は、話を促すため、わざとわからないという顔をする。
「岬のことなんだが……」
やっぱりそうか。
「最近、岬の調子はどうだ?」
「なんで僕に訊くんですか?」
「岬のこと、吾妻は知ってるんだろ?」
「…………」
僕は黙る。水澄のその質問が何についての質問かわからなかったからだ。
最近の華奈の体調のことか、それとも……小説のことか。華奈に学校では言わないで、と言われているのでうかつに答えられない。
僕が口を開かないのを見て、水澄はふっと笑った。
「なるほどな。岬が吾妻にだけ教えた理由、なんとなくわかった気がしたよ。すまんな、別に隠さなくて大丈夫、俺らは岬が小説家って知ってるから」
知っていたのか、そう思い、すぐ納得する。そうか、確かに学校側にも完全に隠すというのは無理がある。
「……はい、知ってます」
「前の三者面談の時に、吾妻にだけは伝えてるって聞いたんだよ」
その言い方で、本当に僕にしか伝えていないと知る。そのことに、じわりと喜びが広がった。悟られないよう、興味がないふうに返す。
「なるほど」
水澄はわざとらしく、咳払いをして座り直す。
「それでだ。岬と……いや、なんだ。岬と放課後に会ったり、とか、連絡とかしたりしてるか?」
先生は訊き方を迷っているようだった。
「ああ、すまん。別に、吾妻たち二人の関係についてどうか訊きたいとかそういう話じゃないんだ」
「わかってます」
水澄は生徒が嫌がる距離感をちゃんと理解している教師だ。その距離感をわかっていない教師のことが嫌いな僕は、その点に関して水澄のことを信用していた。
それに、僕が知らないことを水澄が知ってるのなら、それを知りたかった。
「連絡も会うのも、ちょくちょくって感じです」
「岬、最近たまに休むだろ」
「はい」
「大丈夫かな、と思ってな」
「先生電話したりとかしてないんですか?」
「いや、電話はするんだけど、なかなか詳しいことはわからなくってな。無理に訊いて負担になるのもよくないし」
「そうですか」
「担任としてどうなんだって言われるかもしれないけどな……。大人が口を出すのは簡単だけど、教師と生徒っていう関係はそんなに都合の良いものじゃないから」
水澄はやっぱりよくわかっている。
「ちょっと気をつけて見てやってくれるか」
「わかりました」
「頼んだぞ」
水澄はやはり生徒のことをよく見ていたらしい。
華奈は、以前にもまして追い込まれているように見えた。
「屋上に来て」
水澄と話した約一週間後。華奈にそう言われ、僕はマンションの最上階から続く非常階段を上っていた。金属でできた階段は、歩くたびに音が反響して不気味だった。
屋上へと続く重厚な扉のノブを回すと、ギイィと不快な音が鳴り、ゆっくりと開いていく。
顔を出すと冷たい風が頬に吹き付けてきて、僕は思わず体を震わせた。
夜風は体を芯から冷やしていく。もうそこまで冬がやってきていた。
華奈は制服の上にコートを着たまま、屋上の床に寝転んでいた。
「汚れるよ」
僕の言葉を聞いても、彼女は起き上がることをしなかった。
「体調悪くない?」
「……ん? 大丈夫。眠れてるよ。一応」
「私の見えている世界は、思ったより狭いのかもしれない」
彼女は天へと細い手を伸ばす。画家がモチーフを観察する時のように、親指と人差し指で小さな額を作る。
華奈の言葉が小説について指しているということは容易に理解できた。
「そんなことないよ」
「そうだよ」
「ほら、こうやって見上げると星が見えるでしょ」
僕は華奈の隣に座り、空を見上げる。冷え切った夜空には、無数の光が散っていた。
「こんなに広くて、たくさんの星があるけど、私が知っているのは、星一つ分。地球だけ」
そう語る彼女の声がやけにか細かった。
「……それでも、想像できるのはすごいよ」
僕は、自分の周りのことで精一杯だ。華奈の小説のように、自由じゃない。
「なかなか手が届かないもんだよね」
華奈の返答は少しずれている気がして、僕は目を落とし華奈の表情を覗いた。星の輝きのせいかもしれないが、華奈の目がゆらゆら光っている気がした。
不安になり、僕は思わず聞く。
「寒くない?」
「ふふふ、大丈夫だよ。やけに心配してくれるね」
今日の彼女は、どうしてかわからないが、儚い感じがした。いつもより、華奈が薄く感じられた。
「あ。じゃあ、何かあったかいもの持ってきて欲しい」
「……買ってこいって?」
「ううん」
そう言いながら、華奈は首を大きく降る。彼女の頭から放射状に流れた髪が彼女の首の動きに合わせてほんの少し動く。
「上がってくる前に台所で用意してたの。コンソメスープ」
「冷めちゃってるんじゃない?」
「魔法瓶に入れてるから大丈夫」
それならどうして持ってこなかったのだろう、と思ったが「わかった」と言って僕は立ち上がる。
「なんか羽織るもの持ってこようか?」
「それは大丈夫。はい、鍵」
彼女は寝転んだまま僕に向かって鍵を放り投げる。きれいに飛んできたその鍵は、僕の手に収まり、つけてある猫のキーホルダーが音を鳴らした。
「ありがとね、東弥」
「うん」
扉を開け、早足で階段を降りていく。今日の華奈は触ったら壊れそうなほどか弱く見えて、早く暖かいものを飲ませたかった。
最上階からエレベーターに乗り、一回まで降りる。華奈の部屋までの数メートルがいつもより長く感じられた。
鍵穴に鍵を差し込み、回す。カチャリ、と音が聞こえ、僕は扉を開けた。
電気をつけたままだったらしい。部屋の中は明るかった。
ワンルームで、キッチンは入ってすぐの廊下に備え付けられている。シンクの横に、少し大きな水筒のようなものがあった。おそらくこれだろう。それを手に取って、代わりに持ってきた鞄を床に置く。
廊下の電気を消してから、少し立ち止まる。部屋の電気も消しておこうと思い、奥へと進む。スイッチに手をかけ消灯する直前、何気なく見た部屋の片隅に、目が釘付けになる。
暗闇の中で、しばらく動けなかった。
僕はゆっくりとスイッチを押し、電気をつけ直す。
「……どうして」
明るくなった部屋の隅、破られた彼女の処女作が転がっていた。無残な姿となったその文庫本を僕は拾い上げる。
背表紙のところが裂けていて、二つに分かれそうになっていた。彼女がやったのだろうか。
僕はしばらくそれを見つめ、静かに鞄の中にそれを突っ込んだ。
現在6
「どうしよ……」
学校から帰ってきたトウヤは、焦ったような表情でそう言った。
「東弥さんの言った通り、昨日華奈の部屋に行った時に華奈がアイスを食べようとしたんです。それ無理やり止めたんですけど……」
その表情だと、華奈は風邪をひいたのだろう。
「僕は怪我しなかったのに……」
「いや、今回のは、そもそもアイスだけじゃなかったんだ」
風邪をひいた一番の理由はアイスだろうけど、他にもあるはずだ。
風邪なんか、原因は完全には確定できない。あの頃の華奈は、ストレスで体の調子がそもそも良くなかった。
火事の時、トウヤが怪我をしなかったのは、怪我をした原因が、
①火事が家庭科室で起こること
②トウヤが家庭科室の近くにいたことと
③逃げる時に焦ったこと
その三つのみだったからだ。
だから、火事そのものは防げなくても、トウヤが家庭科室に近づかなければ怪我をすることはなかった。けど、華奈の風邪の場合――そもそも人間の体調の変化など、特定できない原因が無数にある。
僕もトウヤも、こういったことに対する知識はほとんど変わりない。あれから僕は、何も得ることなく生きてきた。
だから、僕が言ったことをすぐにトウヤも理解したらしかった。心配そうにはしているが、表情には強い意志が感じられる。
「ってことは。事故で死ぬなら、原因は曖昧じゃないから、風邪とかよりは防ぎやすいのか」
その言い方に心が揺れる。このままでいいのだろうか。どうするのが正解なのだろうか。
「じゃあ、華奈が巻き込まれる事故を防ぎたいなら、そもそも事故が起こる原因をなくせばいいのか……」
「そう、なるね」
「じゃあ、行きましょう」
「……え、どこに?」
「事故が起こった場所に、ですよ」
トウヤは当たり前のようにそう言う。
僕は「……わかった」と頷く。
「こっち」
意志の詰まった目をしているトウヤを見て、行ったところで何もできないと思う、と言うことはできなかった。
ーーーーー
過去6
気づけば十二月になり、街にはクリスマスの雰囲気が漂っていた。
所々から聴こえてくるクリスマスソングをBGMに、僕は華奈と一緒に帰宅する。
そういえば、最近華奈はずっとマスクをしている。顔の大部分が隠れる華奈のマスク姿は、病人のようだった。マスクの白さと対照に、目元が黒ずんでいて、余計にしんどそうに見える。
夏以降、どんどん華奈の儚さが増している気がして、僕は気が気でなかった。だから、普通に「なんでマスクしてるの?」と聞けばいいのに、そんなことさえもできない。
隣を見ると、華奈がマスクをしたまま空を仰いでいた。空には厚い雲がかかっている。
僕は夏休み前にした会話を思い出しながら、華奈に訊く。
「冬のかおり?」
が、彼女は首を振った。
「マスクしてたら、匂いかげないよ」
そう言いつつも、彼女はマスクを外さない。僕ははっきりとした違和感を感じる。最近の華奈との会話は、以前ほどに高揚感がない。すごく感覚的で説明は難しいけど、華奈の言葉が持つ魅力が掠れているような気がしていた。
「華奈、大丈夫?」
だから、僕は彼女と別れる直前、その気持ちを漠然とした言葉に乗せる。すると彼女は、含みのある表情で首を傾げた。
「ん?」
なんとなく、僕の気持ちは理解していたと思う。だからこそ、彼女はその質問に答えなかった。
彼女は曖昧に笑い「じゃあね」とだけ言って帰って行った。
夕食後自室に上がり、勉強机に座る。模試が近づいていたので、予備校がない日でも少しは家で勉強することにしていたが、今日はなぜかやる気が出なかった。
ノートを出してしばらく睨んでいたが、すぐに閉じる。
無理にやろうとしても効率が悪い。そんな理由をつけて僕はノートを鞄に戻した。
ふと、勉強机の引き出しを開け、中にしまっていた小説を取り出す。
無残に破れ、折れ曲がった文庫本。
華奈の部屋から持って帰ってきた華奈の処女作。
華奈はどんな気持ちでこれを破ったのだろう。
小説を開きながら、スマホでその小説の題名を検索する。出版社のサイトや、ネットョップにつながるサイトが並ぶ中、僕は大手のネットショップのリンクをタップする。
サイトが開くと、左手に持っている小説と全く同じ表紙が検索画面に表示された。商品紹介の上についている星マークをタップすると、レビューや口コミが開く。
中には星5をつけている人もいるが、最近のコメントを見ると、ほとんど心ない誹謗や中傷が並んでいた。
過度に人を傷つけるその言葉を見ていると、僕の書いた本でもないのに心が苦しくなる。
関連商品から華奈の最近の文庫本を表示させると、今度は処女作と比べ、圧倒的にレビュー数が減っていた。同時に星数の平均が低いことに気づく。開くと、こちらは先ほどよりわかりやすく、非難の言葉ばかりが並んでいた。
思わず重いため息が出る。華奈はこの重圧に絶えず向き合い続けなければならないのか。
見るに耐えないコメントに、サイトを閉じようとした時だ。持っていたスマホがけたたましい着信音を鳴らす。急な出来事に、僕は持っていたスマホと小説を落としそうになる。すんでのところでキャッチした後、画面を見てさらに驚く。
スマホの画面には、華奈の名前が記されていた。
電話番号は交換していたが、華奈が電話をかけてくるのは初めてだったし、華奈と別れたのはつい数時間前だ。
その時、なぜか胸騒ぎがした。
ゆっくりと指を画面に近づける。通話ボタンを押しスマホを耳に当てると――
まず耳に入ってきたのは、雨の音だった。激しい雨が降り注ぐ音。僕は反射的に部屋の窓に吊るしたカーテンから外を覗く。気づかなかったが、外には勢いよく雨が降っていた。
「もしもし」
反応はない。試したことがないからわからないが、スマホに直接シャワーを当てたような騒がしい音がずっと聞こえていた。
「もしもし?」
煩わしい音しか聞こえない。
「もしもし!」
少し声量を上げて言うと、激しい雨音の中から、微かにすすり泣く声が届く。
「華奈!」
『……東弥』
その小さな声に小説を持つ手が震える。
「どうした?」
華奈は何も言わない。鼻をすするような音が聞こえた気がしたが、凄まじい雨音のせいでよくわからなかった。
「聞こえてる? 華奈! 今どこにいる?」
『……マンション』
マンションの中にいるのなら、その音はなんだ。そう思ったが、確かめるより早く僕は部屋を飛び出した。
「ちょっと出てくる!」
母に聞こえる声でそう言って、僕は急いで玄関へ向かい扉を開ける。
「うわ」
一瞬出ただけなのに、服に無数の染みができる。
そうだ、傘。慌てて玄関に戻り、僕はビニール傘を手に持った。
急いで彼女がいるマンションへと向かう。途中、何度かスマホに呼びかけるが、傘に打ち付ける雨の音も相まって余計に反応が聞こえなかった。
「そこで待ってて!」
スマホに向かって大声でそれだけ叫び、僕は夢中で走る。
もう少しでたどり着くというところで、道端に人影を見つけ、僕は立ち止まった。目を疑う。そこには、ずぶ濡れの状態で華奈が佇んでいた。
「華奈!」
慌てて大声で呼ぶと、彼女はゆっくりと僕の方を振り向いた。重い扉が開くときのようなぎこちなさだった。
僕は彼女の元へと駆け寄る。彼女は傘も持たず、雨に打ちつけられている。
家を出てから、雨足は強まり続けていた。いったいいつから?
「何してんだ!」
「東弥……」
彼女は覇気のない顔をこちらに向ける。
「大丈夫か?」
僕は彼女の肩を掴み、訊く。服の下に紐が透けているのが目に入ったが、そんなこと気にしている余裕もなかった。
「……うん」
彼女の消え入りそうな声に、僕は彼女の手をとって歩き出す。
「とりあえず部屋に戻ろう」
彼女の手には力が入っておらず、ただ僕に引っ張られるままついてきた。
「タオルあるよな?」
部屋に入り華奈に聞くと、彼女は力なく頷いた。
「じゃあとりあえずシャワー浴びて」
「でも」
彼女は心許ない表情をこちらに向ける。
「大丈夫、僕はここで待ってるから」
「……わかった」
脱衣所の扉が閉まり、すぐに開く。
「これで足拭いて」
彼女が脱衣所から顔を出し、タオルを渡してくれた。僕のズボンも下の方が水浸しだった。
「ああ、ありがとう」
パタン、と風呂場の扉が閉まる音と、しばらくしてシャワーの音が聞こえてくる。それを確認した僕は、大きくため息を漏らした。
何があったんだ。
追い込まれていることは知っていた、けどそこまでとは。
以前彼女の処女作が落ちていた場所に目を向けようとして、それが必要ないことに気づく。部屋中には――献本だろうか、彼女の書いた小説がいくつも破り捨てられていた。
台所に、ポットとコンソメスープの素が置いてあったので僕は勝手に湯を沸かす。
頭の中ではぐるぐると思考が巡っていたが、結局何も答えは出なかった。
風呂場から出てきた彼女に、お湯で溶かしただけのコンソメスープを渡す。
「ありがとう。東弥はシャワー大丈夫?」
「うん、だいぶ乾いたから」
そんなことより、何があったのかを知りたかった。
「そっか、ありがとう」
部屋に入り、彼女が地面に座った。
その座り方に力が入ってなくて、僕はさらに心配になる。
「大丈夫?」
「…………」
流れる沈黙に、息が詰まりそうになる。耐えられず、僕は問う。
「……何があったの?」
「打ち切りになった」
夏休み明けにも聞いたことを彼女は言う。
「また、打ち切りになったの」
「そっ……か」
彼女の嘆きに、僕はいつもうまく返せない。
「雨の匂いは、気持ちが落ち着くから好きだったの」
「うん」
話のつながりはわからなかったが、僕は話を遮らないように相槌を打つ。
「好き――だったはずなのに、何も感じないの。鬱陶しくも、清々しくもない。雨を見て雨の音を聞いて、ああ、雨だな、って。そんな馬鹿みたいな感情しか湧いてこないの」
それで外にいたのか。何かを感じたくて。
コップを持つ彼女の手が、小さく震える。
彼女は更に言葉を続けた。
季節の空気感を感じられない。
氷の音の心地よさを感じられない。
アイスティーの透明さを感じられない。
「私、おかしくなっちゃったのかな」
その哀しげな表情は見ているだけで痛々しい。
「こんなふうになったことなんかないのに……」
彼女の頬に、涙が筋となって流れる。
その彼女の子猫のような儚さに、僕は華奈を抱き寄せた。
「ねえ、私、どうしちゃったんだろう。何をしても、なんとも思えない。映画を見ても、何も心が動かないの」
感情を抑えたくないと言っていた彼女が、映画に心を動かされないと言う。
「好きな映画も見た。それなのに、わからないの。いつものところで、笑えない。泣けない。今までどうして感動して涙が溢れてきてたのか、わからなくなってしまったの」
――小説を通して気持ちを伝えたい
祖父が亡くなったという話をしてくれた時、華奈はそう言っていた。そんな彼女が、絞り出すように出した叫びが、僕の耳に届いた。
「小説なんか――」
小説、なんか。
それ以上言葉を続けなかったのは、華奈の意地だろう。
けど、その悲痛な様子を見ていると、彼女の心は痛いほどわかった。
背負ってきたものに牙を剥かれ、絶望している彼女。
そんな彼女に、頑張って、とか大丈夫、とかそんな無責任なことは言えない。華奈はずっと頑張っている。苦しくて眠れなくなっても、それでも立ち向かおうとしてきたのだ。
ずっと彼女のことを見てきたのだ。そのくらいわかってる。
だから、ただ僕は震える彼女の背中をさすり続けた。
週明け。
彼女は、最後に残っていた本の作業を終わらせたらしい。その作業の後には仕事を貰えていなかったらしいが、あれだけ苦しみながらも、華奈はちゃんとやり終えたのだ。
「お疲れ様」
僕は心から労いの言葉を伝える。
「ありがとう」
「なんか甘いもの食べたい」
「いいね」
顔色は優れなかったが、注文したケーキを食べていると、彼女はわずかに笑顔になった。
「……ねえ、年末の模試って、申込みまだ間に合う?」
帰り道に突然、華奈がそんなことを訊いてきた。
「模試って、学校で募集されてたやつだよね?」
「うん」
年末に、大きな模試がある。僕が最近家で勉強をしているのもそのためだ。
開催は近くの予備校でだが、案内は高校から来ていて、大学受験をする人はほとんど受験することになっていた。
「確か……まだ大丈夫だと思うけど」
どうして彼女がそんなことを尋ねてくるのかわからなかった。
「私も受けようかな、と思って」
「……え? なんで?」
心の中で思ったことがそのまま口に出てしまう。
彼女は今まで模試を受けたことがない。学校の成績は悪くはないが、それでも義務的に受けなければならないテスト以外、小説のための時間を圧迫するから、という理由で受験していなかった。
だから、ここに来て彼女が急に模試を受けるというのは不可解なことで。
まさか、気分転換とでもいうのだろうか。
「……いや、ちょっと。模試くらい受けといても損はないかなと思って」
目を逸らしながら言った彼女の返答が、ひどく薄っぺらく聞こえる。
「日曜日だけど……」
丸一日取られてしまうと、小説を書く時間が削られてしまうのではないか、そういう意図を込めて聞くと、彼女は首をすくめた。
「ちょっと、小説から離れてみようかと思って」
その言葉は少し投げやりなようで。
けど、僕の胸の中で泣きながら震えていた彼女のことを思い出すと、彼女の言葉に何も言えなかった。
だから、彼女が小説から離れることで、少しでも気分が楽になるのなら、それはそれでいいのでは、そう思いこんだ。
彼女と別れる前、僕たちの視線の先を黒い猫が通る。華奈はそれに気づき、深くため息をつくだけだった。
現在7
トウヤを連れて、事故があった場所に来ていた。
そこは大きな交差点で、片側四車線の道路が交わる場所だった。
「事故した人のこととか」
わからない。
「車のナンバーとか」
知らない。
それがわかれば、事故が起きる前に車や人をどうにか止めることができると考えたのだろう。けど、答えられなかった。
僕はずっと事故のことを避けてきた。華奈の死を避けて生きてきたのだ。思い出さないように生きてきた。そんな僕が、事故の詳細は把握しているはずがなかった。
それらの質問に、全て首を振って答えると、トウヤは驚きと呆れの混じった声で言う。
「何も知らないんですか」
そう、何も知らない。数年間、華奈のことを避けて、小説を避けて、心の中に存在するもやもやとした感情を避けて生きてきた。
「ごめん」
言い訳もできないので謝ると、
「車の運転手が信号無視をしたせいで、華奈は轢かれたんですよね」
と訊かれる。
僕は頷く。あの時確かに横断歩道は青信号だった。
結局のところ、華奈を救うのなら、事故当日に、その現場に行かない、それしか道はないのだろう。それはトウヤもわかっているのだろうけど。
秋口から年末にかけて華奈の様子がおかしかったこともトウヤの焦りを後押ししているのだろうか。
切迫した表情で、さらに尋ねてくる。
「時間と場所ははっきりと覚えているんですよね?」
「それは覚えてる」
「じゃあ……救急車先に呼んでおくか」
「さすがにそれは……」
思わず呟いた僕の言葉に、トウヤは引っ掛かったらしい。
「え? なんで?」
僕は「あ」と声を漏らす。確かに、今の返答はおかしい。事故で死ぬのなら、一刻も早く病院に連れて行けば死ぬ確率が低くなる。そう考えることは普通で、だから、トウヤの方が正しい。
僕の言葉と態度に違和感を覚えたのだろう、トウヤが僕の顔をじとっと睨む。
「えっと」
「華奈は即死だったんですか?」
「……いや」
「何か隠してるんですか?」
その言葉は疑問形だったけど、ほとんど確信に近い響きがあった。
「もう時間がないんです! 何かあるんだったら教えてください!」
言うべきかわからなかった。これを言ってしまうと、トウヤは華奈を苦しませるかもしれないから。
死ぬより辛い思いを華奈にさせてしまうかもしれないから。
けど、ここで嘘をつくのは卑怯なんだろうか。
僕は息を吐き、トウヤに言う。
「華奈は……事故死したわけじゃないんだ」
ーーーーー
過去8
隣を歩く華奈は、今日もマスクをして、眠たそうな目をしていた。よほど疲れが溜まっているのだろう。
「勉強ってやっぱり疲れるね」
彼女はマスクの下で大きなあくびをする。
模試の会場は大きな予備校を使うので、僕がいつも通っている校舎ではなかった。
帰り道、僕たちは本屋の前を無言で通る。
華奈の決まっている中での最後の新刊の発売日は昨日だったが、華奈はあえてそのことを忘れようとしているみたいだった。僕はその小説を予約して購入していたが、もちろんそのことには触れなかった。
彼女は、一度小説から離れようとしているらしかった。
今日はパソコンも家に置いてきたようだった。
彼女の背中に夕陽が差し込み、髪が鮮やかに照らされる。それを見ていた。見惚れていたのかもしれない。
物事が起こる時に、予兆なんてない。
「東弥(とうや)はさ」
その時の彼女は何を言おうとしたのだろうか。
彼女の声に相槌を打とうとした瞬間のことだった。
危ない、そう思った時には遅かった。彼女の数メートル先に、大きなトラックが迫ってきていた。
体が硬直し、足が動かなくなる。声を上げることもできなかった。
手を伸ばすが、その手が彼女に届くことはなかった。
誰かが救急車を呼んだのだろう。遠くからサイレンの音が近づいているのが聞こえていた。僕の目の前で、華奈は血を流し、意識を失っていた。華奈に触れると、その手には鮮やかな赤い液体がどろっとへばりついた。
心臓が体から抜けたような感覚に襲われる。
どうして華奈は倒れているんだろう。何が起こったんだろう。うまく呼吸ができない。華奈はなんで起き上がらない?
「華奈」
口から漏れた声が震えていた。
わななく手で彼女のことを揺らす。彼女の肩が僕の手形に赤く染まる。
搬送された華奈には緊急手術が施されることになった。
おぼつかない足取りで彼女が運ばれていくのについて行き、彼女が扉の向こうに消えた後、僕は手術室の前でうずくまっていた。
目を瞑ると事故の様子と華奈の表情がフラッシュバックして、吐き気をもよおす。
トイレに行き便器に向かってしゃがみ込む。何度もえづいたが、昼食以降物を食べていない僕の胃からは何も出てこなかった。いきんだせいで、喉の奥がひりひりしていた。
また手術室の前に戻る。椅子はあったが、座る気になれなかった。
壁際で膝を抱えた。目を閉じると気分が悪くなるので、じっと床を見つめる。どこかでストレッチャーが転がる音と、人の足音が耳に届いていた。
どのくらい経っただろうか。
声をかけられ顔を上げると、僕の前に女性がいた。
はっきりした目元と整った鼻筋が華奈に似ていて、その女性が華奈の母親であることをすぐに理解する。
「もしかして……吾妻、くん?」
華奈の母親は不安げな表情でそう尋ねてくる。
「……はい」
「華奈の母親です」
「ああ……」
声がうまく出せない。
「……華奈は」
「中に……」
そう呟いて僕は手術室を指差す。華奈が運ばれていってからずっと、扉の上のライトは点灯したままだ。
「……そう」
落ち着かない様子で扉を見つめる華奈の母親に、僕は何も言うことができない。
「……吾妻くんは、大丈夫? 怪我しなかった?」
はい、と口に出すことも申し訳なくて、ぎこちなく頷いた。
「……すみま――」
謝ろうとした時、ぱちん、という音が響き、空間が少し暗くなる。僕たちが見上げると、手術中の電気が消えていた。
音が聞こえてきて、扉が開く。
華奈の母親が、駆け寄る。
僕はその後ろ姿を、その場に呆然と立ったまま見ていた。
手術のおかげで、命に別状はなかった。ただ、足を大怪我しているせいで、手術が長引いたらしかった。
華奈が病室へと運ばれた頃には、夜になっていた。
あの後華奈の父親も病院に来て、医師が病室で手術や現状を説明しているようだった。
僕は病室に入っていいのかわからず、ずっと部屋の前で立ち尽くしていた。
しばらくして病室の扉が開く。医師と看護師が中から出てきて、僕のことをちらりと見て去っていった。
閉まる瞬間、華奈がベッドに横たわった状態で目を瞑っているのが見えた。目に入った瞬間、胸がぐしゃりと潰されたみたいになる。
僕はそこから動くことができなかった。扉の向こうには、華奈と、華奈の両親がいる。僕はただの部外者だ。華奈の、ただの、クラスメイトだ。
病室から、わずかに女性の泣き声が聞こえる。耳に届いたその声で、僕の心はさらに潰。
そこからさらに数分経っただろうか。
扉がゆっくりと開かれた。扉を中から開いた男性と目が合う。華奈の父親だ。
「……あの」
僕は、揺れる声を出す。
「吾妻くん、だよね」
彼の低い声が病院の廊下に響く。
「……はい」
彼は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
首を振り、ゆっくりと呟く。
「華奈は、全身麻酔がまだ効いていて……とりあえず日が変わるまでは目を覚まさないらしい」
「そう……ですか」
「今日は――」
彼は言葉に迷っていた。
「また……明日、でもいいかな」
華奈の顔を見るのが、ということだろう。後、彼と話をするのも、だ。
「……はい、すみません」
「悪いね」
「……いえ、失礼します」
病院を出る。外に出ると、激しい雨が降っていた。
そこで初めてポケットのスマホが振動していることに気付いた。
後から確認すると、何十件もの着信が入っていた。すべて母からだ。
事故のことは学校に連絡が入っていて、僕の家にも電話がきたらしい、病院まで母親が迎えにきてくれていた。
母は駐車場で待っていたらしく、僕が病院を出たと言うと、すぐに入り口付近に車を寄せてくれた。
車から出てきた母は、無言で僕の頭に手を乗せ、それから淡々と僕を車にのせた。
天井にばらばらと打ち付ける雨の音がうるさかった。
家に着くと、普段料理をしない父がスープを作ってくれていて、何も聞かず暖かいスープを飲ませてくれた。味は全くわからなかった。
次の日、僕は学校を休んだ。病院に行く、と母親に言うと、何も言わずに頷いてくれた。財布だけ持って家を出て行こうとすると、腕を母親に掴まれる。
「送るから」
「いいよ」
「いいから。早く車乗って」
車の窓の中で、景色が流れていく。体が重たかった。臓器が全て石になったんじゃないかと思った。
病院に着くと、母は僕の後ろをついてきた。
病室までの道で考える。
華奈は、目を覚ましているだろうか。
もし覚ましていたら、何を考えているだろうか。
足は痛むだろうか。病室に運ばれる途中、医師が言っていた。足を複雑骨折しているらしい。
華奈は、どんな表情をしているだろうか。辛そうな、それとも、初めて彼女の涙を見たときのように悔しそうな表情をするだろうか。
最近疲れた顔しか見てないが、まだ心の中では、あの激情に溢れた眼差し――そのイメージが根付いていた。
強い華奈は「怪我したのは足だから、手は動かせるの」と言って、パソコンに向かうのだろうか。
それとも……。
病室に近づくにつれ、足が重く、動かしにくくなる。拒んでいるのだろうか。華奈と顔を合わせるのが怖いのだろうか。
病室の扉は開いていて、室内の様子が窺えた。明るい室内が目に入ったのとほぼ同時、中から女性が現れた。華奈の母親だ。
「吾妻くん……」
僕が固まっていると、隣にいた母が、華奈の母親に深々と頭を下げる。
僕は一人ぽつんと、病院の休憩室で座っていた。休憩室は病院にしては騒がしく、患者たちが談笑していたり、見舞いにきたのであろう小さな子が父親のような人と一緒にジュースを飲んでいた。
結局、病室にはまだ入っていなかった。
華奈の母親によると、華奈は朝に一度目を覚ましたが、また眠ったらしい。
母が華奈の母親と話をしている間、僕はその中に入らず一人待っていた。
暫しの間待っていると、母と華奈の母親が戻ってきた。母が「じゃあ、車で待ってるから」と僕に告げて歩いていく。
必然と、僕と華奈の母親だけがその場に残った。
「吾妻くん、座って」
華奈の母親は静かな声でそう言って、休憩室の椅子に座る。促されるまま彼女の前に座り直し、顔を合わせる。
さっきまで聞こえていた周りの人の声や雑音が小さくなった気がした。
昨日眠れなかったのだろうか、目の前に座っている女性の目元は明らかに黒ずんでいて、それが最近の華奈の姿に重なった。親子だからというのもあるかもしれない。
ただ、僕はその表情を見て、少しだけ心が落ち着いた。
言えていなかったことを、ちゃんと言わなければならない。
謝らなければならない。
一度座った椅子から立ち上がり、深々と、頭を下げた。
「ごめんなさい」
頭を下げたまま、言う。
「僕は見ていただけでした。一緒に歩いていた華奈がトラックに撥ねられそうになっているのに。目の前にいたのに……」
「顔を上げて、吾妻くん」
上げられない。取り返しがつかない。
「顔を上げなさい」
少し厳しい口調になった華奈の母親の声に、思わず首を上げ、彼女のことを見る。すると、彼女は柔らかい表情で僕のことを見つめていた。
「吾妻くん」
「…………」
「華奈からよく話が上がるから、どんな子なのかな、と思ってたの」
ただのクラスメイトです。お母さん。
「あれだけ頑なに小説家であることを隠そうとしてた華奈が、唯一小説家だってことを教えた子がいるって聞いて」
ただ、少し話していただけです。たまたまタイミングが合って華奈が教えてくれただけで。
「ああ、その子は華奈のことをちゃんと見てくれているんだなって思ったの」
華奈の母親は「中学校の時のこともあるし」と思い出すように言う。
「華奈のことを思ってくれる、優しい子なんだなって」
僕は首を振る。
違う。僕はそんなに大層な人間じゃない。ただ華奈のかいた小説を知っていただけで、華奈と違って何にも夢中になれないただのクラスメイトなんです。
華奈のことは、そりゃ尊敬していたし、友達だったと思うし、それ以上も――。
けど、僕は華奈のことを何も見れていない。目の前にいたのに、救うことができなかった。カナの手を掴むことが出来なかった。
「だからこれからも」
華奈の母親は、僕に頭を下げてきた。
「華奈と仲良くしてあげてね」
耳を疑う。
おかしい。だって。
娘が事故に巻き込まれたのだ。
そして、その時娘と一緒にいた娘の同級生が、五体満足でその場にいる。娘だけひどい事故に巻き込まれて、隣にいた人は、無傷。
羨む感情とか、やるせない気持ちが絶対にあるはずだ。本音を言うならば、僕の顔なんか見たくないはずだし、同じ事故に遭うならば、その場にいたのに怪我をしなかった人間なんていない方がまだマシなはずだ。
その時、華奈の母親の拳が硬く握られていることに気づいた。
華奈の母親も、気持ちを抑えている。
想いは隠して、僕に気を遣っている。
みんなそう。
当たり前だ。
「華奈を見てきてあげて」という華奈の母親の言葉に、僕は華奈の病室へと向かった。
病室の扉を開けると、ベッドの上に、華奈が座っていた。
彼女を見た途端、胸に穴が開く。
「やあ」
僕が現れたことに特に驚いた様子もない華奈は、こちらを向いて手をあげた。
恐る恐る足を進め、彼女に近づく。
母と廊下を歩いていた時、希望のように思っていた。
「怪我をしたのは足だから、手は動かせるの」そう言って彼女がパソコンに向かう姿。
とんだ思い違いだった。
「私の新作、読んだ?」
開口一番にそう訊いてくる華奈の目は、死んでいた。
感情が欠落している、死んだ魚のような目。
何が、強い華奈は、だ。
やっぱり何もわかってない。華奈のことを一つも見ていない。
「いや……」
購入はした。でも、読んでない。読む気になんてなれなかった。
「そっか」
灯火が消える音がした。
「東弥は、怪我してない?」
頷く。
その音の意味を考える前に、彼女は僕のことを拒んだ。
「お見舞いありがとうね」
そのトーンで全てを悟る。華奈のことを見ていなかったと言いつつも、分かってしまう。明らかな拒絶。
「けど、ごめんね。もう来ないでほしいの」
華奈は火の消えたその目で、僕の目を見ていた。
母に連れられて家に帰る。
「……話せた?」
信号待ちの途中、母は横目で僕を見ながら、そう小さく声を出した。
話せた、だろうか。
「話せたよ」
「そう」
家に着くまでの会話はこれだけだった。
昼食を食べ、テレビを眺め、夕食の時間になって、風呂に入る。寝る準備をして、自室に入る。
母親から「電話かかってきてるわよ」と呼ばれ、行くと、水澄からだった。
『病院……行ったか?』
「はい」
『どうだった?』
「岬と会いました」
『そっか』
「先生は?」
『さっき行ってきたよ』
「そうですか」
その後も心配される言葉をかけられたが、僕の声を聞いてだろう。『落ち着いたら学校来いよ』とだけ言って、水澄は短く電話を終わらしてくれた。母に電話を変わって、自室に戻る。
そうか、先生も病院に行ったのか。
華奈はどんな目をしていたのだろう。
華奈の表情を思い出した途端、目眩を覚え、僕は床に崩れる。
――もう来ないでほしいの
耳の中で何度も聞こえる声。
華奈の母親とは対称な言葉。
――華奈と仲良くしてあげてね
だけど、華奈の母親の意見で。
華奈の母親も、心から、完全に僕のことを華奈の良い友達と思えていないはずだ。どうしてうちの子だけが、そんなふうに思う気持ちが絶対にあったはずだ。それを抑え込んで、隠して僕に優しい言葉をかけてくれただけだ。
だから、華奈の意見は別だったというだけだ。
いや。違う。
強く握りしめられた拳。
華奈も、華奈の母親も、同じだ。同じことを思っている。
ただ、華奈は本心を。華奈の母親は本心を隠した嘘で。
いや、別に嘘でもいい。
「華奈のことをちゃんと思ってくれる子」と言っていた。
ああ、そうか。
華奈のことをちゃんと思うなら、こうやって全く怪我もなくのうのうと生きている僕は、華奈に顔を見せるべきではないんじゃないか。
彼女は僕のことを拒絶した。
華奈は絶対に人のことを考えて行動する。それくらいは、今まで一緒にいたからわかる。僕にしか小説家であることを伝えなかった彼女だからわかる。
友達を作りたいと、心のどこかで思いながらそれを我慢していた彼女だから。
だから、そんな風に人のことを考えながら動く彼女が「もう来ないで」と言ったのは。
それは、どれだけ考えても、それでも僕が近くにいることが自身の負担にしかならないと判断したからではないのだろうか。
唯一の希望である小説に追い込まれて、辛くて。そんな状況で事故に巻き込まれて。そんなふうに散々な状況に陥って。いや、陥ったからこそ、僕に来ないでと言った。
そうだ。
彼女が小説から距離を置いたみたいに。
僕も、彼女から離れるべきだ。
また、退院して、華奈が元気になったら。
大怪我をして、小説も手放して。けど、華奈はいつか退院して、小説もまた書き始める。あんなに強い目で泣いていた華奈なら、絶対。
そしたら、華奈がまた小説を書き始めるみたいに、僕も彼女に顔を見せればいい。
それまで僕にできることなんか、何もない。
華奈を思うなら。ちゃんと思うなら。
それで、いいはずだ。
脳裏に、彼女の死んだような目がチラついた。が、その映像を押さえ込み、僕は布団に入った。
眠ることはできなかったが、朝日が部屋に差し込んできた頃、怪我もしていない僕に学校を休む権利なんかあるのだろうと思い始め、布団から出て学校に行く準備を始めた。
少し早く家を出て、学校までの道を歩いていく。寒かったが、手袋もマフラーもしなかった。
冷えた指先の痛みが、その時の僕には必要だった。
「大丈夫か?」
学校に着くとすぐ、水澄が声をかけてきた。
僕は、彼の目を見ずに答える。
「……僕は怪我してないので」
「いや、体じゃなくて……心が」
水澄の気遣いも、鬱陶しかった。
大丈夫じゃないのは、僕ではない。今も病院にいる華奈だ。僕は事故にも遭ってない。僕はただそこに立っていただけだ。
「しんどかったら無理しなくてもいいぞ」
「いえ」
僕が今感じている重みなんか、華奈と比べたら大したことない。
結局僕は、何もしてないのだから。
そもそも、華奈と違って僕は何にも夢中になってない。無理なんかしたことない。
華奈に触発されたフリをして勉強していただけ。
目の前で華奈が事故に遭ったのに、見ていただけ。
華奈が病室で死んだ目を向けて、ただ帰っただけ。
「無理なんかしてません」
心配そうな水澄に顔を合わせ、にこりと微笑む。
「大丈夫です」
それだけ行って、教室へと足を進めた。
席につくと、隣の席のクラスメイトが僕の方へと椅子を向けた。
「お、風邪か?」
昨日僕が休んだ理由だろう。
「……そうそう」
僕は声が裏返らないように気を付ける。
「知ってるか? ……岬、事故に遭ったらしい」
ひゅっと、喉の奥が縮む。
「……そう、なんだ」
「なんだ、冷たいな」
「いや……大きな事故?」
僕は初めて聞いたみたいな表情で尋ねる。
「らしい、入院だって」
「……まじか」
うまく驚いた表情を作れたと思う。
「災難だよなぁ」
クラスメイトは、眉を下げてそう言った。
なんだよ、それ。なんでそんな顔してるんだ。
災難なんて、そんなもんじゃない。ずっと抱えてたんだ。華奈はいつだって重圧を背負っていた。
普段話したこともないお前が、何を悲しそうな顔してんだよ。
何も知らないくせに……何も。
いや、何も知らないのは僕の方だ。何も知らないくせに知ったふりをしていたのは僕の方だ。
華奈をこれ以上傷つけるのが怖い。
華奈にもう、迷惑をかけるわけにはいかない。
顔を見せることは、華奈にとっての負担になる。
華奈の両親だって、僕が病院に現れることで華奈が辛い思いをするなら、来て欲しくなんてないはずだ。
僕は、淡々と日常を過ごしていた。
学校で授業を受けて、予備校に行き、本を読まずに家に帰る。
静かに、生きる。
朝のために目覚ましをかける。
通知を確認する。
ほら、華奈から連絡は入っていない。これでいい。
数日後、家で予備校の課題をやっていたら、母が勢いよく僕の名前を呼んだ。
先生からの電話、そう言う母の尋常じゃない声に慌てて電話をとると、
『吾妻……』
水澄の声が掠れていた。
「先生?」
『岬が……』
「華奈が、どうしたんですか」
普段落ち着いている水澄の声が揺れているせいで、僕も華奈のことを苗字で呼ぶように切り替える余裕がなくなる。
『岬が』
続く水澄の言葉に、心臓が貫かれた気がした。
『自殺した……』
「……は?」
『…………』
「は……? えっ、じ……じ……さつ?」
じさつ。
自殺。
頭の中で漢字に変換された瞬間から、一気に全身が冷えていく。
「え……華奈が? 自殺?」
『そうだ……病院で、屋上から飛び降りたんだ』
「どういう……」
地面がなくなったように感じ、僕はその場に崩れ落ちる。目の前が真っ暗になる。
エンバーミングされた華奈の不自然に安らかな表情がそこにあった。
その表情とは対照的な――最後に見た華奈の死んだような目を思い出し、口元を抑える。口の中に酸味が広がった。
その表情は、小説に対する不安や、大切なもののせいで追い込まれることの恐怖、自分だけが事故に巻き込まれたことへの不満、不幸な出来事への苛立ち、そういったものが現れたもののはずだ。
追い込まれていた。
ずっと、長い間背負ってきた。
――そんなに長く生きちゃったら、多分疲れちゃう
彼女に生き返りたいか聞いた時、確かそう言っていた。
彼女は自分で、これ以上生きるのは疲れるとわかったから、それで生きることを終わらせたんじゃないか。彼女は、これ以上生きても不幸しかないと悟ったんじゃないだろうか。
あれだけ強い華奈がそこまで追い込まれたんだ。あの華奈が自殺を選んだんだ。それなら。
華奈の自殺は正しいものだと思った。
自殺というものは、今まで夢中になって小説に向き合ってきた彼女が、逃げ道として選ぶことを許された権利なんじゃないかと。
そう思った。
そうだ。
自殺が、彼女の救いなんだ。