現在3

 奇妙な時間の終わり、という僕の予想は大きく外れた。

 意識が覚醒した時、僕はまだベンチの下に座ったままでいた。

 目に入ってくる光の眩しさに思わず目を細める。気付かないうちに日が昇っていたらしい。

 明らかに異常な状況なのに、あまり驚いていない自分に気づく。どれもが華奈を見つけた時の驚きに比べると劣ってしまう。

 体が薄くなる直前に見た高校生の自分の姿を思い出す。過去の自分を見るのはなんとも異様な感覚だった。

 あれから何時間経ったのだろうか。

 この体は、夜の間は意識がなくなってしまうとかだろうか。

 再度手に力を入れて立ち上がると、目の前のベンチに座っている人たちがいた。気づき、つい大きな声をあげてしまう。

「うわっ――あ、すみません」

 座っているのは老夫婦だった。

 驚かせたと思い、反射で謝る。が、僕の声は彼らには届かなかったらしい。

 聞こえなかったのだろうか、そう思い、ピンとくる。まさか。

 僕は回り込み、彼らの正面に立って挨拶をした。

「おはようございます」

 僕の予感は的中する。彼らはその声に反応しなかった。

 彼らの視線は僕の方を向いているが、明らかに焦点が合っていない。目線を辿ると、僕の後ろにある揺れる木々を眺めていることがわかった。

 華奈とトウヤにしか話す機会がなかったから気付かなかったが、僕のことを認識できない人が華奈以外にもいるらしい。

 どういうことだ、トウヤには見えて、華奈と目の前の老夫婦には見えない。僕の体はどうなっている。

 合計四人じゃ何もわからない。どっちが例外なのか。それとも、ランダムか。

 それを確かめるために、僕は駅前のショッピングモールに行くことにした。

 公園を出て、駅に向かって真っ直ぐ歩く。人で溢れる施設に入り、抱いた疑問は一瞬にして解決した。

 すべての人が、僕のことを認識できないようだった。
 急に僕が目の前に現れても彼らは驚く素振りも見せず、そのまま僕の体をすり抜けて歩いていく。

 羞恥を抑え込みショピングモールの真ん中で大声を出したりもしたが、僕の恥じらいは誰にも気付かれなかった。

 ものに触れられないこともそうだ。目に付いた商品に手を伸ばすが、そのどれにも触れることができなかった。原理は分からないが、僕の体はすべてのものを通り抜けてしまうらしい。

 それでも何か触れるものがないかと探している時、またここが過去であるという事実を突きつけられる。随分長い間近寄らなかった本屋の前を通ると、店先のワゴンにカレンダーが並べられていた。ワゴンに吊り下げられたそのカレンダーは、今が二〇一五年――つまり僕が高校二年生だった年であることを示していた。隣に、『本日、十二月七日発売!』と書かれてある超人気の漫画が置いてあり、それは数年前に堂々完結したはずの漫画だった。

 トウヤに会う前、頭の中に浮かびそうになった事を思い出す。

 駅で見つけた映画の広告は、僕が高校の時に公開していた映画のものだった。それが何年も残ったままになっているなんておかしい。

 僕はようやく、この場所が過去だということを実感として理解した。





 建物を出ると、太陽が沈みかけていることに驚く。ショッピングモールに入ってから一時間も経っていないはずだ。意識が戻った時、既に昼過ぎだったということか。

 ここが過去だと理解するだけで、見逃していたたくさんのことに気づく。

 ショッピングモールの入り口付近に設けられた宝くじ売り場で、初老の女性が客の対応をしている。あの宝くじ売り場は、僕が高三の時に無くなっている。また、公園に向かう道中、僕が大学に入学する直前によくわからない車屋に変わったはずのコンビニも、以前のままそこで営業していた。

 自分の体を見下ろす。数年経っても体に馴染まない濃紺のスーツ。周りの世界の中で、僕の時間だけが進み、つまらない大人になってしまっている。

 さっき確認した日付は、十二月七日だった。

 毎年、十二月になると憂鬱だった。この月は死を意識させる。華奈の死んだ月。

 二〇一五年の十二月二十日。華奈はあと数週間で事故に遭う。

 昨日見た華奈の表情を思い出し、胸の奥が疼く。

 華奈は自分が死ぬということなんか、夢にも……。

 僕はどうして過去にいるのだろう。

 なあ、華奈。僕はどうしてこんなところに戻ってきてしまったんだろう。しかも、物には触れられないし、トウヤ以外誰にも認知されない無力な状態で。

 僕はずっと無力だ。あの頃からずっと。何もできないままだ。

 また、救えなかったよ。足が固まるんだ。

 僕が今ここにいることには、何か意味があるんだろうか。

 教えてくれよ。

 あれから数年、意味もなく生きてきてわかった。やっぱり、君は特別だったよ。大切なものに本気になることができるのは、限られた人間だけだ。

 そんなことをうじうじ考えているからだめなのだろうか。

 僕はまた、昔と変わらず楽な道を選んでしまった。

 それ以降特に何も行動しないことを選んだ。

 意識がなくなることと覚醒することを数度繰り返す。

 そして、何度繰り返しても、元の世界に戻れないことを悟った。

 何もしなかったらこの時間から逃れられない。そう自覚するまで、僕は行動を起こせなかった。





 三度目の覚醒の後、やっと僕はトウヤに話しかけることを決めた。

 日付を確認したかったので、僕は寿命一年のコンビニに行った。

 自動ドアをすり抜けて中に入ると、クリスマスソングが流れていた。レジ前まで歩いて行き、販売されてある新聞を見る。

 夕刊に日付が書いてあり、確認すると、十二月十日と記されてあった。

 三日分、日付が進んでいる。意識がなくなった回数も三回だ。予想通り、夜に意識がなくなって、意識が戻るのは次の日の昼過ぎなのだろう。

 僕はそのことに少しだけ安心する。トウヤに話す内容は、今でないと意味がないことだ。

 コンビニを出て公園へと向かう。

 ベンチには座れないので、公園に生えている木の下に座った。

 僕の足を枯れ葉が通り抜けていくのを見て、思う。そういえば、僕の体は地面だけは通り抜けないらしい。

 地面までも通り抜けたらどうしようもないが、今まで読んだ小説で主人公が透明人間になる時もそうだったなと思い出し納得する。同時に、思考の奥に小説がまだ根付いていることに気づき、少しだけ胸の奥が痛む。

 しばらく待っていると、トウヤが現れた。手に小説を持っている。公園で読書をするつもりなのだろう。

 公園に入ってきたトウヤは、僕の姿をみて明らかに警戒の姿勢をとった。

 昔の僕は、誰もいないからという理由でこの公園を選んでいた。普段いない場所に急に現れた不審者。予想はしていた。

「あの」

 僕のかけた声に、トウヤは確かに反応する。

 よかった、聞こえている。

「えっと」

 トウヤと対面して初めて、どういう風に切り出せば良いか考えていないことに気づく。

「なんですか」

 人を寄せ付けないようなその声。高校生の時の僕はこんな感じだったのだろうか。

「それ……なんの本?」

 とっさに本を話題に出したのは、かつて華奈とした会話を思い出していたからだろうか。

「小説ですけど……」

 ただ、現状トウヤから見た僕は、華奈とは違い、ただの見知らぬ大人だ。そこまで容姿が変わっているわけではないが、そんなこと関係ない。そんなにうまく話が進むわけがないのだ。

 一応答えはしたが、トウヤの表情が明らかに引きつっているのがわかった。

「失礼します」

 話を無理やり切ったトウヤは、踵をかえし公園を出ていく。

「ちょっと待って――」

 トウヤを追いかけようとした途端、また体が浮いたような感覚になる。

 遠くで、自宅の扉が閉まる音が響いた気がした。

 そういえば、四日前もトウヤと会話してすぐに意識が薄れていった。僕が学校から帰ってくる時間は大抵決まっている。ちょうどその時間が僕の意識の境界なのだろう。





 次の日、僕は公園ではなく、通学路の途中でトウヤを待っていた。少しでも時間を稼ぎたかった。ただ、人が多いところでは多分口も聞いてもらえない。

 トウヤを見つけ、僕はすぐに切り出した。

「僕は未来の君、吾妻東弥だ」

 その言葉を聞いて、トウヤの目の奥が揺れる。彼の返答を待たず、僕は続けた。

 生年月日や電話番号など、僕の個人情報をトウヤに伝えている間、彼は警戒の姿勢を緩めなかった。

「クラスメイトの岬華奈――」

 華奈の名前を出した途端、トウヤに動揺が走ったのを感じる。

 ここだ。僕は昨日言いそびれたことを伝える。

「急に言われて信じられないのはわかってる、だから、これだけ伝えに来た。明日、家庭科室で火事が起こる。その時に近くにいた僕は、逃げる最中に足に怪我をするんだ」

 怪我自体はそれほど大きなものではなかったが、今でもその時の傷痕が残っている。ちょうど華奈が事故に巻き込まれる一週間ほど前の土曜日だった。

「だから、家庭科室には絶対近寄らないで。お願い」

 頭を下げる。大人が深々と頭を下げる状況を、高校生の時の僕はほとんど見たことがないはずだ。だから、少しでもこの訳のわからない会話が意識に残ればいい。