未来
目の前で、驚いた表情の女性が落ちていくのが見えた。電車の警笛が耳に入り、戻ってきたんだと、理解する。
周りから聞こえる焦った声。心臓がねじれる。
視界を大きなライトが包み込む。
僕は、固まる足に力を込め、気づけば線路へと飛び出していた。
「本当に、すみませんでした」
スーツ姿の女性が、病院の待合室で僕に向かって思い切り頭を下げる。
僕たちは線路の窪みに逃げ込み、ぎりぎりのところで電車に轢かれずにすんだ。
その後、救急車で病院に運ばれ、検査を受けた。
僕も女性も、おそらく線路に落ちたことによる打ち身くらいだろうが、大事があってはいけないからか、しっかり検査された。
「大した怪我がなくてよかったです」
「すみません、今日、好きな作家の新刊が出て舞い上がっちゃって。歩きながら読んじゃいけないっていつも言われているのに」
彼女は手に小説を持っている。
そうだ、彼女が持っているものが本であることに気分を害し、目を外そうとした時に事故が起きた。
彼女がもう一度深く頭を下げる。
その時、彼女が手に持っている小説のカバーがめくれる。落ちた拍子に取れていたのだろうか。
「本当に、ご迷惑をおかけしました。なんとお礼をすればいいか……下手すればあなたも轢かれて――」
「え」
「……え? どうかされました?」
目を疑う。彼女の手の中にある文庫本は、あれ以来、一度も刊行されることのなかった著者の本だった。
だって、著者は、死んでいるから。
「見せてください!」
彼女の手からほとんど奪うようにしてその本を取り、表紙を睨む。
そこに書いてあるのは、よく知っている名前。
華奈のペンネームが、そこには記されていた。
過去を変えても、未来は変わらない。
過去でトウヤに信じてもらうため、火事の時の怪我を防いだ。その時に、僕の足の怪我は無くなっていなかった。
スーツの裾を勢いよく上げる。
毎日確認なんてしていないから、しっかりと把握しているわけじゃない。
けど、その怪我はやはり、少しひどくなっているように思えた。
別の傷?
その時、ポケットの中でスマホが振動する。
そこに表示された名前を見て、僕は絶句する。
『もしもし』
随分と長い間聞いていなかった声が、身体中に染み込む。
『大丈夫? 怪我ない? 線路に落ちたって、東弥のお母さんから連絡あって』
声が出ない。喉が開かない。うまく息ができなかった。
『ねえ、大丈夫なんだよね? 今どこにいる? 病院きたんだけど……あ』
その瞬間、エントランスに女性が現れて、こちらを向いた。
スマホを持った華奈が、岬華奈がいた。
高校の時とは違う。あの時よりも大人びた彼女が、死んだはずの彼女がそこに立って。
僕はここが病院だということを忘れ、走り出す。
抱きつく。
「え、ちょ……どうしたの」
「華奈!」
「何、恥ずかしい……みんな見てるよ」
華奈に触れられる。生きている。僕の声を聞いて、僕の行動に反応してくれる。
身体中から、嬉しさが、喜びが溢れる。涙が止まらない。
ずっと願っていたこと。
ずっと心を騙して忘れようとしていた気持ち。
ずっと後悔していたこと。
ずっと諦めきれなかった思い。
大切で仕方がない人が、そこにいることはこんなにも幸せで。
どれだけ辛くとも、隣にいるということは、果てしなく幸せなことで。
そんな人を僕は、ずっと、支えたい。
一生、支え続けたい。
顔を上げると、大切な人が。
どうしようもないくらい愛しい華奈が、少し困ったように笑っていた。
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あとがき
私の身の上話で申し訳ないですが、私はある男の子に助けられて、今小説家として生きることができています。
その人がいなければ、私はとうの昔に死んでいました。
私は、昔、事故に遭ったことがあります。その時の私は小説に幸せを見出せなくなっていて、心が廃れていました。だから、事故に巻き込まれ、それでも死ななかった時、全てを自分で終わらせる気だった。自殺するつもりでした。
私のために、奇跡を起こしてくれた大人の彼。そして、私を支え続けてくれた彼。彼のおかげで、私はこの世界を生きることができています。
小説を書くことができなかった。私だけ事故に巻き込まれて、世界を恨んだ。こんなことならこの世から消えさせてくれ、と何度も思いました。
けど、その度に彼に思い出させてもらった。小説は、私を苦しめるだけものもじゃない。
一度その大切な宝物を自ら手放した私に、再度宝物を持たせてくれたのがその人です。
その感謝の気持ちを、必ず描こうと思っていました。
いつもありがとう。生きていてよかった。
二〇二一年 美那咲香