過去
東弥さんが消えた後、しばらくそこから動けなかった。
華奈を救う。
絶対に事故を防ぐ。
約束したんだ。安心してって言ったんだ。
大丈夫。東弥さんが、全て伝えてくれた。事故の場所も、時間も、全て把握している。その時間、事故が起こるはずの道を通らないようにして、華奈を絶対に守る。
僕は、スマホを操作し、華奈の電話番号を表示させた。
隣を歩く華奈は、今日もマスクをして、眠たそうな目をしている。
昨日会って、彼女に事故が起こることを伝えた。その瞬間、彼女が何故か安心の表情を見せたような気がした。東弥さんの言葉を信じていたわけじゃないけど、華奈の感情を目の当たりにしたら、ショックだった。
けど、落ち込んでいる暇なんかなかった。
だから、僕は、この数週の間に起こったことを華奈に説明した。
華奈はその話を一通り聞いて「わかった」と言った。
「え?」
「何? え、って」
「信じられるの」
どうにかして説得しなくちゃいけないと思っていた。まずここが勝負だと思っていた。確かに、安心の表情は、彼女が僕の話を信用しないと出てこないものだ。
「信じるよ」
こんな突拍子もない話をすぐに受け入れられるのは、華奈が小説家だからだろうか。
「なんで」
「なんで……って。東弥の目が本気だから」
「そっ……か」
そういうものなのだろうか。
「別に事故に巻き込まれてもいい、なんて思ってないよな」
華奈に探りを入れる。
「……何それ、思ってないよ」
絶対に事故に遭わせてはいけないのだ。
「そんなに私辛そう?」
そう訊く彼女の目の中に、わずかに濁りが生じる。東弥さんに会わなければ気がつかなかったその濁り。僕は彼女と目を合わせ、しっかりと頷く。
しばらくの見つめ合いの後、華奈はふっと、肩を緩めた。
「嘘はつけないね」
つまり、さっきの思ってない、は嘘だったということだ。
華奈は本当に追い込まれているのだ。
僕は答えを持ってる。けど、普通は正解なんて、心の中のことなんてわからない。だから僕は彼女に伝える。
「華奈のことを待っている人間はいるよ。華奈が自分のことをおかしくなったと思っていても、華奈の言葉や感性を好きな人間はいるよ」
「いないよ。いないから、打ち切りになんてなるし、最悪の評価しかつかない」
「いる」
「どこに? どこに私の感性を、いいと感じてくれる人がいるの――」
その辛そうな叫びを包み込むように僕は言う。
「ここにいる」
そう、彼女が他人から評価されなくとも。
「僕がいる」
そう、最初からずっと。
「小説を待ってる。小説じゃないとしても、何があっても華奈のこと、僕は待ち続けるよ。ずっと、華奈の小説、言葉とか考え方、全部好きなんだ」
その言葉に、彼女は目を大きくする。
「……わかった」
ため息と、諦めの表情がそこにあった。
「ありがとうね」
僕は華奈の表情を見て、誓う。
絶対に華奈を事故から救ってみせる。
「勉強ってやっぱり疲れるね」
帰り道、僕たちは本屋の前を無言で通る。
模試を休むという手も考えたが、華奈が僕に模試を休ませる気はないらしく、さらに言えば華奈を家に一人にさせるのは気が引けた。それで結局、帰りは一緒に帰るということで話がまとまっていた。
あくびをしながら歩いている彼女の背中に夕陽が差し込み、髪が鮮やかに照らされる。それを見ていた。見惚れていた。
もちろん、東弥さんに教えてもらった事故が起こる道路には近づいていない。少し遠回りだが、少し離れた道を使って帰宅していた。
僕は腕時計で時間を確認する。あと一分。僕は前を歩く華奈の手を掴む。
華奈は少し驚いた様子だったが、すぐに微笑んで訊く。
「もうすぐ?」
「うん」
時計の針がゆっくりと回る。繋いだ手に力が入る。
あと十五秒。
あたりを見渡すが、何も異変はない。
十秒。握った手に汗が滲む。
五、四、三、二、一……。
聞いていた時間になる。
華奈の姿を見る。
「大丈夫?」
「大丈夫」
ちゃんと、生きている。
「よかった」
僕は大きくため息をつき、繋いでいた手を離す。
助かった。救えたのだ。
もう一度大きくため息をつく。
「ほんと、よかったぁぁぁ」
じわじわと体の奥から喜びがにじみ出て来る。
目を上げた時だ。視界の中に、安心した表情でこちらを見ている華奈とトラックがあった。
危ない、そう思った時には遅かった。彼女の数メートル先に、それが迫ってきていた。
体が硬直し、足が動かなくなる。声を上げることもできなかった。耳に凄まじいブレーキ音が届く。
僕は固まった地面にへばりついた足を無理やり引き剥がし、彼女の体へと手を伸ばす。華奈の手を掴んだ感覚と同時に強い力を受け、離してしまう。
拍子に勢いよく地面に転がり、脚に鋭い痛みが走る。痛みを堪え顔を上げると。
僕の数メートル先に華奈が転がっていた。
周りから聞こえてくる悲鳴。
くそ、くそ。なんでだよ。
わかっていたのに。なんで救えなかった。
僕は大した怪我はしなかった。傷は残るといっても、ただの足の擦り傷。華奈とは比べられない。
予想外だった。確かに僕たちは、聞いていた事故現場を避けたはずだ。けど。事故が起こるはずだった場所で事故が起こらなかったことで、車が止まらず――。
東弥さんと過去を変える条件を考えていた時のことが頭に浮かぶ。
場所が固定されていたわけじゃなかった。ただ、信号無視をするようなトラックが、今日、この辺りにいるだけだった。
心構えはしていたはずなのに、結局何もできなかった。足が固まる感覚がずっと残っていた。
本当に、何もできなかった。覚悟していたはずなのに、実際その場にいると全く動けなかった。手を伸ばしても、助けることは叶わなかった。
予想外なんて関係ない。僕は、東弥さんにあれだけ怒りをぶつけておいて、華奈のことを救うことができなかった。
東弥さんに言った言葉。全て、何も知らないから言えた戯言だった。経験してないから言える馬鹿げた怒りだった。
実際目の前で事故が起これば、僕は何もできないのだ。
手術が終わり、華奈と話した。
病室で彼女の目を見た時、本当に何も変えられなかったんだと悟った。
東弥さんが言っていたのは、この表情だ。
華奈の目は死んでいた。
全てを諦めたような、光が消えた瞳。
――もう来ないでほしいの。
その拒絶を受けて。
僕がこの場所にいることが、華奈の負担になるかもしれない、そう思うことは極めて自然で。
だから僕は、彼女から離れるべき。
なんて、もう思わない。絶対に諦めちゃいけない。事故を防げなかった、だからこそ。次は絶対に華奈のことを救わなければならない。
娘が拒絶した相手が病室に何度も訪れたら、娘の気持ちを考えろ、と詰られるかもしれない。
何度も何度も、華奈に拒絶されるかもしれない。
本を読んで、華奈に感想を聞かせてやる。ここに、華奈の味方がいると、絶対に分からせる。
いつまでかかっても、絶対に。
華奈が僕のことを拒絶するのを諦めてくれるまで、何度でも。
何度でも、華奈に伝える。
「華奈の新刊、読んだよ。めちゃくちゃ面白かった」