死んだ彼女に数年ぶりに会った時、うまく声が出せなかった。
彼女の名前を呼ぼうと出した声が上ずる。
彼女は、そんな僕のことに気づかず、去っていった。
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現在0
朝、目覚ましのアラーム音が耳に届くと、不快な気分になる。
けたたましい音を鳴らしているスマホの画面を叩き、もぞもぞと布団から抜け出す。ぼやけた視界のまま部屋を出て、洗面所で顔を洗う。
毎日やっていることを、思考を挟まずロボットみたいに坦々とこなす。
毎朝嫌になりながら出勤の準備をして。何を目標に生きているのかなんてずっとわからないままだ。
本当なら仕事を休みたいし、希望も目的もないまま働いていることに嫌悪感を抱いてもいる。
それでも僕は仕事を休んだりはしない。仕事なんかやめてしまえ、と割り切ることなんかできない。まして、意義や目的を見つけたいとさえ、思っていない。
社会人として最低限の準備をなんとか済ませ、暗い部屋に戻る。
部屋を見た人は僕のことをミニマリストと呼ぶかもしれない。机と、ベッドと、オイルヒーターのみ。趣味がないということを証明するような何もない部屋。
そんなつまらない部屋に、ため息が漏れる。
僕の人生は、つまらない。
けど、それでいい。幸せな人生を送るべきなのは、僕じゃない。
そもそも、だ。有意義な時間を生きている人なんてそうそういない。
みんな少しずつ妥協しながら生きている。
少しずつ何かを諦めてる。
そうであって欲しい。
家を出て駅のホームに着くと、僕と同じように、人生に意味も見出せずに生きているのであろうスーツ姿の大人達が光の灯らない目でスマホを眺めている。
そんな人たちの姿を見て安心している自分に気づき、嫌気がさした。
彼らから目を背けると、視界の端、少し離れた位置に女性が歩いているのが見えた。
その女性は混んだホームの人混みを避けるためだろう、電車待ちの列の先頭と線路の間――黄色い線の外側を歩いていた。
何かに夢中になっているらしく、視線は手元に注がれている。その女性が持っているものが小説であることに気付き、僕はさらに少し嫌な気分になる。
思わず目を逸らそうとした時だった。
女性が背負っているリュックが列の先頭の男性にぶつかったのだろうか。彼女は不意にバランスを崩しよろめいた。そしてそのまま。
線路に落ちていった。彼女の驚いた表情が一瞬にして線路へと消える。
通過電車が近づいてくる。
背中に冷たい汗が噴き出す。嫌な記憶が呼び覚まされ、心臓がねじれる。
耳に届く甲高い警笛。周りから聞こえる焦った声。
視界を強い光が包み込み、思わず目を瞑る。
僕の足は、いつかのように固まったままだった。
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現在1
目を開けると、まったく違う景色が周りを取り囲んでいた。
「え」
思わず漏れた声が雑沓の中に溶け込んでいく。
何が起こった? さっきまで駅のホームにいたはずだ。それがどうして。
嫌な汗のせいで背中にシャツが張り付いていた。鼓動が速い。
僕は、さっき起こった出来事を思い出す。出社する途中、目の前で女性が線路に落ちていった。あの女性は……と考えようとして、気分が悪くなり思考を止める。
そう、人身事故もだけど、今重要なのはそこじゃない。
どうして僕は今、そのホームに立っていないのだろうか。ここはどこなんだろうか。
周りに視線を移すと、すぐにその答えが見つかる。そこは、見覚えのある場所だった。
実家の最寄駅、そのロータリーに僕は立っていた。
僕の周りを、制服に身を包んだ高校生やおしゃれな服を着たマダム達が行き交う。彼女たちは僕のことなんかどうでもいいみたいに各々歩いていた。
「……なんで?」
人が流れていく状況を呆然と眺めながら、小さな呟きを漏らす。
僕がそこから動くことができたのは、それから数分経ってからのことだった。
徐々に心音が落ち着いてくる。
しばらく歩きまわり、とりあえず現状をわからないままに受け入れることができた。
やはりこの場所は実家の最寄駅で間違いないらしい。
駅に貼られた映画のポスターも、構内にあるコンビニや近くのドーナツ屋、改札の配置なども全て以前の記憶通りだった。流石に全く同じ空間が他に存在するとは思えない。
それに、さっきから近くを歩いている学生の制服。あれは僕が通っていた高校の制服だった。
あてもなく歩いているつもりだったが、何度も歩いた道だからだろうか。僕の足は自然に実家へと向かっていた。
見えている景色はあの頃と同じなのに、全てのものが暗い印象として僕の目に映る。やはり、僕の人生はあの頃に終わってしまったのだ。
しばらく歩いていくと、こじんまりとした公園が見えてきた。遊具が数個設置されているだけの小さな公園だ。高校生の頃、僕はよくこの公園で読書をしていた。
公園を横目に家までたどり着く。と、窓の奥に人影が確認できた。母だろう。
玄関の前に行き、インターホンに手を伸ばそうとした手が固まる。
しばらく考えて、僕はその手を引っ込めた。
連絡もせず家に入るのは気が引けたし、それに、未だに状況を理解できていないのだ。
僕は今来た道を駅へと向かって引き返すことにした。
フィットネスジムやコンビニが並ぶ道路沿いを歩いていく。何も変わっていなかった。
昔よく行った喫茶店がある路地を通り過ぎた瞬間、心臓が跳ね上がる。
目の前に、制服姿の少女がいた。
その艶やかな髪。
光を溜めた紅茶色の瞳。
マスクから覗く目元の隈。
岬華奈(みさきかな)が、死んだはずの彼女がそこにいた。
「かな……」
随分と長い間呼んでいなかったその名前が僕の口からこぼれ落ちた。