「んん……?」
真夜中のことである。
登月と柚安を見送った菊花は、明日の予習をしてから宿舎の寝台で眠りについたはずだった。
「あれ?」
ふと目覚めると、香を焚き染められた柔らかな寝台ではなく、懐かしい藁の匂いが鼻についた。
(もしかして、今までのことは全て夢だったのかしら?)
登月に宮女候補として推薦してもらったことも、珍しい都の風景も、後宮も女大学も、全て。
それにしては随分長い夢だったなと思いつつ、菊花は伸びをしようと腕を上げた──つもりだったのだが。
「な、なんで?」
手も足も、動かない。菊花は、少し動くだけでギチギチと音がするくらい、頑丈な紐で念入りに拘束されていた。
芋虫のような動きしかできない状態で、菊花は粗末な寝台に転がされているらしい。
どうにか抜け出せないかと、悪足掻きするみたいに頑張ってみたけれど、幾重にも巻かれた紐は、緩むどころかますます菊花の体に食い込んだ。
「いてて……一体、誰がこんなことを?」
見回してみても、知らない室内がそこにあるだけだ。
なんとか冷静になろうと頭を振って考えてみても、思い当たることなんて一つしかない。そう、珠瑛である。
「これも、嫌がらせの一環かしら」
だとすれば、もうじき彼女の取り巻きが現れるかもしれない。
紅葉、氷霧、桜桃の三人は、珠瑛のためなら菊花を拘束するくらいのことは平気でしそうだ。
(きっと、高笑いしながら私を馬鹿にするのでしょうね)
その情景がありありと浮かぶようだと、菊花は苦笑いを浮かべた──その時である。
部屋の隅の、暗闇がより濃い所から音がする。
目を凝らしたその先に、人影のようなものが見えた。
凹凸が少ないすっきりとした輪郭は、女のものではない。
(じゃあ、一体、誰なの?)
珠瑛でも、取り巻き三人娘でもない。
印象的なでっぷりとした腹がないから、落陽でもない。
もっとよく見ようと体を捩る菊花に、影は笑った。
「嫌がらせじゃありませんよ」
影が動く。
月明かりに照らされて、影の足先が見えた。
上等そうな革靴だ。
「ふふ。私です」
聞いた覚えのあるような、ないような声。
菊花は見定めるように、息を潜めて影をにらみつけた。
ゆっくりと月明かりの下に出てきたのは、一人の男だった。
黒い髪に、黒い目。巳の国ではありふれた色。
ニタニタと笑う顔には、見覚えがある。
もっとも、菊花が見た時は、恐怖で歪んでいたのだけれど。
「覚えていらっしゃいますよね? 私のこと」
忘れるわけがない。名前は知らないが、菊花はその男を見知っている。
「あなたは……」
「俺の名は、紫詠明。菊花様、先日はどうもありがとうございました」
気障ったらしくあいさつをしてきた男は、菊花が以前、香樹から助けた男だった。
皇帝陛下のあたため係のうわさの発端となった、あの件の男である。
「あの時の」
「覚えておいででしたか? 嬉しいですねぇ」
忘れようにも忘れられない。
最悪な出会いだったと思う。
少なくとも菊花は、再会を喜ぶ気持ちは一切なかった。
(貴族様の考えることは、私には難しいわ)
だが、今はそれについて聞いている場合ではない。
菊花には、聞きたいことが山ほどあるのだから。
「ところで、その……ここはどこなのでしょうか? どうして、私は縛られているのですか?」
菊花の問いかけに、男はニタァリと笑んだ。
なぜだかそれが菊花には唇が裂けたように見えて、思わずヒュッと息を飲む。
「菊花様。あなたのおかげで、俺は無事に生き存えております」
男は、菊花の問いを無視した。
悦に入ったような恍惚とした表情を浮かべ、菊花のそばへ一歩近づく。
「でもねぇ……それだけじゃあ、足りないのですよ。俺は、こんな地位におさまるべき男じゃない。もっともっと上へ行って、豪奢遊蕩な暮らしをするべき男なのです。そう思いませんか? 菊花様」
「さぁ、どうでしょう? 私は、あなたのことをよく知らないので」
菊花は、縛られてままならない体を捻って、ジリジリと後退した。
簡素な寝台の上なんて、逃げ場などないに等しい。菊花の背中はあっという間に壁にくっついてしまった。
「おや、つれないことを言いますね。あなたは、皇帝陛下から俺を助けてくれたではないですか」
「誰だって、目の前で死なれるのは寝覚めが悪いでしょう?」
「そうですね。でも、あの場では誰も俺を助けようとはしてくれなかった。あなただけが、俺を助けてくれました」
(あぁ、そうね。感謝しているなら、今すぐこの縄を切って部屋に帰してもらいたいわ)
男は寝台のそばでひざまずくと、芋虫のように転がされている菊花を見つめた。
その目は黒色をしているはずなのに、菊花の目には、汚泥のような色をしているように感じられる。
「だから、ね?」
(なにが、だからね? よ)
ちっとも意味が分からない。
男は菊花が質問しても何一つ答えてくれないし、好き勝手に捲し立ててくるだけ。
(これだから、貴族様は……)
これまで珠瑛たちにされてきた数々の嫌がらせも思い出し、菊花はだんだん腹が立ってきた。
(黙っていれば、なんなの? 好き勝手してくれちゃって。誘拐、監禁、その上、意味不明な演説……いくら私が庶民だといっても、やって良いことと悪いことがあるわ!)
憤慨する菊花に、男は貴族らしいお綺麗な顔を奇妙に歪めながら、ささやいた。
「菊花様。どうか、あなたから皇帝陛下へお願いしてくれませんか? 紫詠明の地位をもっと上げるように、と」
その瞬間、菊花の頭の中でブチリと音がした──のだと思う。
「うるさぁぁぁい!」
男の言葉を遮るように、菊花は怒鳴った。
至近距離から大声を聞かされて、男は耳を押さえて飛び退く。
「っ! 庶民風情が。こっちが優しくしてやっているからって調子に乗るなよ!」
月明かりに照らされた男の目は、血走っていた。
その手には、ギラギラと光る小刀が握られている。
(あ、やっちゃった)
菊花は瞬時に青ざめたが、もう遅い。
瞳孔が開いた目が菊花を捉え、刀の餌食にしようと迫ってくる。
(白!)
脳裏に浮かぶのは、意地悪そうにクツクツと笑う香樹の顔。
それから、菊花のおなかの肉をつまんでは、眠そうにとろけた顔をしているところ。
白蛇の彼との方が長いのに、思い出すのはなぜだか人間になった白ーー香樹の方だった。
「菊花様は賢明でいらっしゃるから、お分かりでしょう? もし、ここで否と言えばどうなるかなんて、ねぇ?」
男の手に握られたものが、月光を浴びて不穏な光を反射する。
男の持つ小刀は短いが、それでも菊花の命を終わらせるには十分な道具だ。
(死ぬ、の? ここ、で?)
ギラギラと光る刀から、目が離せない。
いつ刺されてしまうのだろう。刺されたら、やっぱり痛いのだろうか。
(痛いとしたら、どれくらい? どのくらいの時間、痛みは続くの?)
こうなったら即死しかないと、菊花は覚悟を決めた。
(白……いえ、香樹。私はここで終わりみたい。もうあたためてあげられないわ、ごめんなさい)
菊花の中に、口添えするという選択肢は最初からなかった。
部下に恵まれていないらしい香樹の、弱みを作るわけにはいかない。そうでなくとも、今このような事態になっているのは、菊花が余計な口出しをしたせいである。
(死ぬのは怖い。お父さんにもお母さんにも申し訳ないと思う。けど……!)
香樹の足を引っ張るくらいなら、潔く散ってしまった方が良い。
怯えた視線を凶器へ注ぐ菊花に、男は苛立たしげに舌打ちした。
脅しでは屈しないと思ったのか、今度は猫撫で声で菊花にささやいてくる。
「菊花様。ちょっと言ってくれるだけで良いのですよ。それだけで、良いのです」
「……」
少し脅せば屈すると思っていたのだろう。
菊花が甘やかされて育った貴族令嬢だったならば、そうなっていたかもしれない。
いつまで経っても承諾しない菊花に、男の怒りはますます募る。
(あぁ。なんて男なのかしら、この人は。自分の力でのし上がれないからって、こんなことをするなんて)
「難しいことなんて、何もないでしょう?」
難しいことばかりだ。もう死ぬっていう時に、思い出すのが父でも母でもなく、ましてや白蛇の白でもない。
たとえ中身が白だったとしても、思い出すのは最近会ったばかりの美しい男だなんて、一体どういうことなのか。
(綺麗なものに、憧れでもあったのかしら?)
だんまりを決め込む菊花に、とうとう男が痺れを切らす。
男の声が、空気を揺らした──その時である。
真夜中のことである。
登月と柚安を見送った菊花は、明日の予習をしてから宿舎の寝台で眠りについたはずだった。
「あれ?」
ふと目覚めると、香を焚き染められた柔らかな寝台ではなく、懐かしい藁の匂いが鼻についた。
(もしかして、今までのことは全て夢だったのかしら?)
登月に宮女候補として推薦してもらったことも、珍しい都の風景も、後宮も女大学も、全て。
それにしては随分長い夢だったなと思いつつ、菊花は伸びをしようと腕を上げた──つもりだったのだが。
「な、なんで?」
手も足も、動かない。菊花は、少し動くだけでギチギチと音がするくらい、頑丈な紐で念入りに拘束されていた。
芋虫のような動きしかできない状態で、菊花は粗末な寝台に転がされているらしい。
どうにか抜け出せないかと、悪足掻きするみたいに頑張ってみたけれど、幾重にも巻かれた紐は、緩むどころかますます菊花の体に食い込んだ。
「いてて……一体、誰がこんなことを?」
見回してみても、知らない室内がそこにあるだけだ。
なんとか冷静になろうと頭を振って考えてみても、思い当たることなんて一つしかない。そう、珠瑛である。
「これも、嫌がらせの一環かしら」
だとすれば、もうじき彼女の取り巻きが現れるかもしれない。
紅葉、氷霧、桜桃の三人は、珠瑛のためなら菊花を拘束するくらいのことは平気でしそうだ。
(きっと、高笑いしながら私を馬鹿にするのでしょうね)
その情景がありありと浮かぶようだと、菊花は苦笑いを浮かべた──その時である。
部屋の隅の、暗闇がより濃い所から音がする。
目を凝らしたその先に、人影のようなものが見えた。
凹凸が少ないすっきりとした輪郭は、女のものではない。
(じゃあ、一体、誰なの?)
珠瑛でも、取り巻き三人娘でもない。
印象的なでっぷりとした腹がないから、落陽でもない。
もっとよく見ようと体を捩る菊花に、影は笑った。
「嫌がらせじゃありませんよ」
影が動く。
月明かりに照らされて、影の足先が見えた。
上等そうな革靴だ。
「ふふ。私です」
聞いた覚えのあるような、ないような声。
菊花は見定めるように、息を潜めて影をにらみつけた。
ゆっくりと月明かりの下に出てきたのは、一人の男だった。
黒い髪に、黒い目。巳の国ではありふれた色。
ニタニタと笑う顔には、見覚えがある。
もっとも、菊花が見た時は、恐怖で歪んでいたのだけれど。
「覚えていらっしゃいますよね? 私のこと」
忘れるわけがない。名前は知らないが、菊花はその男を見知っている。
「あなたは……」
「俺の名は、紫詠明。菊花様、先日はどうもありがとうございました」
気障ったらしくあいさつをしてきた男は、菊花が以前、香樹から助けた男だった。
皇帝陛下のあたため係のうわさの発端となった、あの件の男である。
「あの時の」
「覚えておいででしたか? 嬉しいですねぇ」
忘れようにも忘れられない。
最悪な出会いだったと思う。
少なくとも菊花は、再会を喜ぶ気持ちは一切なかった。
(貴族様の考えることは、私には難しいわ)
だが、今はそれについて聞いている場合ではない。
菊花には、聞きたいことが山ほどあるのだから。
「ところで、その……ここはどこなのでしょうか? どうして、私は縛られているのですか?」
菊花の問いかけに、男はニタァリと笑んだ。
なぜだかそれが菊花には唇が裂けたように見えて、思わずヒュッと息を飲む。
「菊花様。あなたのおかげで、俺は無事に生き存えております」
男は、菊花の問いを無視した。
悦に入ったような恍惚とした表情を浮かべ、菊花のそばへ一歩近づく。
「でもねぇ……それだけじゃあ、足りないのですよ。俺は、こんな地位におさまるべき男じゃない。もっともっと上へ行って、豪奢遊蕩な暮らしをするべき男なのです。そう思いませんか? 菊花様」
「さぁ、どうでしょう? 私は、あなたのことをよく知らないので」
菊花は、縛られてままならない体を捻って、ジリジリと後退した。
簡素な寝台の上なんて、逃げ場などないに等しい。菊花の背中はあっという間に壁にくっついてしまった。
「おや、つれないことを言いますね。あなたは、皇帝陛下から俺を助けてくれたではないですか」
「誰だって、目の前で死なれるのは寝覚めが悪いでしょう?」
「そうですね。でも、あの場では誰も俺を助けようとはしてくれなかった。あなただけが、俺を助けてくれました」
(あぁ、そうね。感謝しているなら、今すぐこの縄を切って部屋に帰してもらいたいわ)
男は寝台のそばでひざまずくと、芋虫のように転がされている菊花を見つめた。
その目は黒色をしているはずなのに、菊花の目には、汚泥のような色をしているように感じられる。
「だから、ね?」
(なにが、だからね? よ)
ちっとも意味が分からない。
男は菊花が質問しても何一つ答えてくれないし、好き勝手に捲し立ててくるだけ。
(これだから、貴族様は……)
これまで珠瑛たちにされてきた数々の嫌がらせも思い出し、菊花はだんだん腹が立ってきた。
(黙っていれば、なんなの? 好き勝手してくれちゃって。誘拐、監禁、その上、意味不明な演説……いくら私が庶民だといっても、やって良いことと悪いことがあるわ!)
憤慨する菊花に、男は貴族らしいお綺麗な顔を奇妙に歪めながら、ささやいた。
「菊花様。どうか、あなたから皇帝陛下へお願いしてくれませんか? 紫詠明の地位をもっと上げるように、と」
その瞬間、菊花の頭の中でブチリと音がした──のだと思う。
「うるさぁぁぁい!」
男の言葉を遮るように、菊花は怒鳴った。
至近距離から大声を聞かされて、男は耳を押さえて飛び退く。
「っ! 庶民風情が。こっちが優しくしてやっているからって調子に乗るなよ!」
月明かりに照らされた男の目は、血走っていた。
その手には、ギラギラと光る小刀が握られている。
(あ、やっちゃった)
菊花は瞬時に青ざめたが、もう遅い。
瞳孔が開いた目が菊花を捉え、刀の餌食にしようと迫ってくる。
(白!)
脳裏に浮かぶのは、意地悪そうにクツクツと笑う香樹の顔。
それから、菊花のおなかの肉をつまんでは、眠そうにとろけた顔をしているところ。
白蛇の彼との方が長いのに、思い出すのはなぜだか人間になった白ーー香樹の方だった。
「菊花様は賢明でいらっしゃるから、お分かりでしょう? もし、ここで否と言えばどうなるかなんて、ねぇ?」
男の手に握られたものが、月光を浴びて不穏な光を反射する。
男の持つ小刀は短いが、それでも菊花の命を終わらせるには十分な道具だ。
(死ぬ、の? ここ、で?)
ギラギラと光る刀から、目が離せない。
いつ刺されてしまうのだろう。刺されたら、やっぱり痛いのだろうか。
(痛いとしたら、どれくらい? どのくらいの時間、痛みは続くの?)
こうなったら即死しかないと、菊花は覚悟を決めた。
(白……いえ、香樹。私はここで終わりみたい。もうあたためてあげられないわ、ごめんなさい)
菊花の中に、口添えするという選択肢は最初からなかった。
部下に恵まれていないらしい香樹の、弱みを作るわけにはいかない。そうでなくとも、今このような事態になっているのは、菊花が余計な口出しをしたせいである。
(死ぬのは怖い。お父さんにもお母さんにも申し訳ないと思う。けど……!)
香樹の足を引っ張るくらいなら、潔く散ってしまった方が良い。
怯えた視線を凶器へ注ぐ菊花に、男は苛立たしげに舌打ちした。
脅しでは屈しないと思ったのか、今度は猫撫で声で菊花にささやいてくる。
「菊花様。ちょっと言ってくれるだけで良いのですよ。それだけで、良いのです」
「……」
少し脅せば屈すると思っていたのだろう。
菊花が甘やかされて育った貴族令嬢だったならば、そうなっていたかもしれない。
いつまで経っても承諾しない菊花に、男の怒りはますます募る。
(あぁ。なんて男なのかしら、この人は。自分の力でのし上がれないからって、こんなことをするなんて)
「難しいことなんて、何もないでしょう?」
難しいことばかりだ。もう死ぬっていう時に、思い出すのが父でも母でもなく、ましてや白蛇の白でもない。
たとえ中身が白だったとしても、思い出すのは最近会ったばかりの美しい男だなんて、一体どういうことなのか。
(綺麗なものに、憧れでもあったのかしら?)
だんまりを決め込む菊花に、とうとう男が痺れを切らす。
男の声が、空気を揺らした──その時である。