リンファスの仕事は花を運ぶだけに留まらなかった。
宿舎の共有スペースの掃除、食事の際の皿の出し入れは言うに及ばず、馬の世話や、時には他の少女たちが街の店に注文した衣類や雑貨などを店まで取りに行くこともした。
兎に角自分は花を寄進することが出来ないのだからと、見つけた仕事は何でもやった。注文した物は店の人が届けてくれるから良いと遠慮する少女もいたが、兎に角何でも役に立ちたかったからやらせてもらった。
ケイトには困った顔をされたが、仕事をしている時間は充足感に満ちていた。
ウエルトの村では働くことで生きてきた。だからそれしかやり方が分からないのだ。
仕事をもらえてありがたい、とリンファスは心底思っていた。
ところが、ウエルトの村と同じようにいかないこともあった。食事だ。
相変わらず宿舎では花だけが出される。最初こそ少し甘いかと感じた花の味をどんどん感じなくなった。
村で野菜スープを摂っていた時に感じたような、食べたものが体に染み渡る感じはなく、ただ薄っぺらな花弁を食んで飲み込んでいるだけ、と感じるようになっていった。
リンファスは食事のたびに落ち込むようになった。
(……私が出来損ないの花乙女だからだわ……。だってみんな、美味しそうに花を食べているもの……。
花が咲かなくて出来ることが限られるばかりか、食事まで花乙女になり切れないなんて、本当に私は出来損ないだわ……。
こんなことではアスナイヌトさまに見捨てられてもおかしくないわ……)
レリーフのアスナイヌトを思い出す。
慈愛の眼差しは花なしのリンファスを包み込んでくれるようなやさしいものだった。それなのにあの眼差しに応えることすらできない。
リンファスは時に自分の、花乙女としてのこれからを憂いて、眠れない暗闇の中、膝を抱えて過ごした。
「リンファス、あんた少し休んだ方が良いんじゃないかい?」
アスナイヌトに花を届けに行って帰って来たところでリンファスはケイトに声を掛けられた。リンファスは荷馬車を玄関に止めたまま、ケイトに笑みを向けた。
「いえ。ウエルトではもっと早朝から働いていました。それに力仕事も少ないですし、私まだ出来ます」
リンファスがそう言うとケイトは何も言えないようだった。
ケイトもリンファスが自分に花が咲かないことを気にしていることを知っていてくれる。だから無理に仕事を取り上げようとはしなかった。
「だったら食事にしないか。あんたまだ昼を食べてないだろう。一緒に花茶を淹れよう。花のエキスが出ていて美味しいよ」
ケイトはそう言って厨房に向かった。リンファスは馬を馬屋に繋ぎ直してから館に入った。
玄関から食堂に入ると、ケイトが白い皿と共にティーカップを席に着いたリンファスの前に置いた。皿には花がひとつ載せられ、ティーカップからはあたたかい湯気と共にふわりと甘い花の香りがした。
「ミルクを入れてみるかい?」
「ミルクがあるんですか?」
花乙女の館だから花以外は水しかない、と最初に聞いた。ケイトはもう直ぐ茶話会があるからね、と言った。
「茶話会にはイヴラも参加するから、イヴラが食べる食べ物を用意しなきゃいけない。
この国の人はお茶にミルクを良く入れるからね、用意していたんだ。砂糖もあるから、もし良かったら試してみたら良い」
ミルクというのなら、リンファスがウエルトの村で飲んでいた野菜スープに使っていた山羊の乳と似ているかもしれない。
是非、とお願いすると、ケイトはミルクピッチャーにミルクを入れて出してくれた。
そして砂糖というものを、リンファスはおそるおそる使ってみた。
砂糖は地主のオファンズの所に麦を収めに行った時に見たことがある。オファンズたちがテーブルを囲んだその真ん中に、シュガーポットというものに入った、『角砂糖』という白いものを見たことがあったのだ。
勿論リンファスの家では買ったことすらない、上等なものだ。
花の花弁を一枚千切って口に入れると、カップを包むようにして手に持ち、花茶をひと口飲んだ。するりと喉を落ちていったあたたかい液体が、お腹に到達するのを感じた。
……不思議なもので、ミルクの甘みがお腹に染みる。花乙女は花しか食べないと聞いていたのにミルクを受け付けるということは、やはり自分が出来損ないだからかと少し項垂れた。
ケイトはリンファスの隣の席に腰掛けて、リンファスの肩をポンポンと撫でた。
「リンファス、何もそんなに頑張らなくても良いんだよ。あんたが花乙女であることは、髪と目の色から明らかなことだし、花だっていずれ咲く。
あんたはまだこの街に来て日が浅い。此処に住む乙女たちにだって、最初は花が少なかった子も居る。でも今じゃいっぱいの花を着けている。
人の心を動かすには時間が必要なのさ。焦ったって仕方ない。
あんたはあんたに出来ることを十分にやってるよ。だからあんまり思い悩むんじゃない」
ケイトのあたたかい言葉に救われる思いがした。でも現実としてリンファスはアスナイヌトに届けるための花だって咲いていないから、此処に居られるための努力はすべきだと思う。
リンファスはケイトににこりと笑って返した。
「私、本当に働くことが性に合ってるんです。ずっとそうやって暮らしてきたから、突然何もしなくても良いって言われても困ってしまうし……。だから仕事は続けさせてください」
リンファスの考えが変わらないことを、ケイトはため息交じりに笑った。
「……あんたは何度言って聞かせても変わらないね。あたしはそういう乙女が居るって言うことを、そろそろ受け止めなきゃいけないのかもしれない」
ケイトが苦笑いをして言うのを申し訳ないような気持ちで聞く。でもこれしか此処に居られる方法が見つからないのだ。
リンファスは花茶を飲み干してしまうと、ケイトに礼を言って席を立った。
「ケイトさん、食事とお茶をありがとうございました。……それから、仕事を取り上げないでくださって、ありがとうございます」
「ああ、そうだね。あんたの気の済むようにしたらいいよ。ただし、無理はしないこと。花乙女は心身共に健やかである方が、花は咲くんだ」
ケイトに、はい、と返事をしてカップを厨房で洗うと食堂を出た。
続けて掃除を……、と思ったところで、視線を感じた。振り向くと丁度図書室の扉が閉まった。何か用事だっただろうか。
用事なら請け負って、役に立ちたい。そう思ったが、閉まってしまった扉をノックするのは勇気が要る。
リンファスはそのまま廊下の掃除に着手した。
その日、花乙女の宿舎の隣の敷地のイヴラの宿舎では、今後の予定などをケイトの夫である寮父のハラントが連絡していた。
「先日、新しい花乙女が隣の館に加わったそうだ。次の茶話会は二週間後だから、その乙女が出席するかどうかは分からないが、またよろしく頼むよ」
さわさわと色々な色の髪と目の色をした青年たちがざわめく。
「それって、うわさで聞いた花のない子じゃないのか」
「白い花も咲いていないなんて、親が見捨てるほどに性格が悪いんじゃないのか?」
青年たち――イヴラ――が囁き合っているとき、茶話会に出席する気のないロレシオは宿舎の自室に居た。
先日来針が止まってしまった懐中時計のねじを巻く。しかし動き出す様子はなかった。この前、大陸の端まで迎えに行った花乙女と、館前でぶつかった時に落とした懐中時計だ。その時に壊れたのかもしれない。
(……これは修理に出さないといけないか……)
ふう、とロレシオはため息を吐いた。酒場は夜まで開いているが、商店が開いているのは夕方までだ。全く忌々しい、と思う。こんな成りに生まれなかったら、もっと平凡な日常があったかもしれないのに。
(……僕は生まれ落ちた時からすべてを失ってる。もう誰にも何も望まない……)
ロレシオはそう思うと、壁のフックに掛けてあったフードマントを手に取り、部屋を出た。
リンファスは今日も雑用に精を出していた。
午前中は乙女たちから集めた花をハラントと一緒に世界樹の元へ届ける仕事、帰ってきてからは館の共有スペースの掃除、その後に庭の手入れや荷馬車を運んでくれる馬の世話。
やることはいっぱいあった。
リンファスが廊下の掃除道具を仕舞って次の仕事をしようとしていたところ、階段から降りてきた少女と目が合った。
艶のあるウエーブした髪の毛を背中の真ん中あたりまで伸ばした美少女だ。
勿論その身に花をたくさん着けていて、はつらつとした表情が花乙女としての自信をみなぎらせている。
館に居る少女は最初にハンナがリンファスにあつらえた洋服のように、みんな白い服を着ているが、この少女はその中でもとびっきりに白い洋服に花が映える少女だった。
彼女が、リンファスがハンナに連れられてこの館に来た時に初めてリンファスに向かって声を発した、サラティアナという名の少女だ。
「リンファス、丁度良かった。カーンのお店とヘイネスのお店に行って欲しいの」
「カーンさんとヘイネスさん……、ですか?」
言われた名前の店は初めて聞く。サラティアナは手に持っていた紙をリンファスに手渡す。
「これ、カーンの店の預かり票よ。これが店の名前のスペル。
カーンの店は時計や貴金属の修理の店なの。懐中時計の絵が描かれた看板が出てるわ。
お母さまから頂いたネックレスの細工が壊れてしまって直しに出していたのよ。今度の舞踏会に間に合わせてって頼んだから、今日あたり出来ている筈なの。
ヘイネスの店では今月の舞踏会で着るドレスが出来ているわ。どちらも大事なものなの。
ヘイネスの店はカーンの店のはす向かいにあるわ。分かるかしら」
手渡された紙を受け取って、リンファスは神妙に頷いた。とても大切なものらしいから、きちんと受け取って来ないと。
「必ず受け取ってきます」
「お願いね」
サラティアナは微笑むと大輪の花が咲いたような雰囲気になる。身に着けている花も花弁が多く華やかなものが多い。だから余計にそう言う印象を受けた。
リンファスはケイトに、ハラントと一緒に街へ行ってくると断って荷馬車を準備していると、ハラントが今は手が離せないと言ってきた。
「どうしよう……、サラティアナさんには請け負ってしまったし……」
「そうだな、代わりに誰か……」
ハラントが思案していると、フェンスの角を曲がってこちらに来る人が居た。フードを被っていて、肩から流れる髪の毛が淡い金色だ。
もしかして、と思っていると、ハラントが彼を呼び止めた。
「ロレシオ、丁度いい。お前さん今から、修理に出していた懐中時計を受け取りに行くと言ってなかったか? この子も街に用事があるんだ。一緒に行ってやってくれ」
え、と思う。
何時もハラントが一緒に行ってくれていて、正直漸くハラントに慣れてきたところだったのだ。
ロレシオとは初対面ではないが、インタルに来る時に冷徹な声を掛けられ、その後もそっけなくされていることから、緊張してしまう。
しかしリンファスは既にサラティアナの用事を請け負ってしまっていたし、他に選択肢はなかった。
ロレシオは面倒くさそうにため息を吐きながらも、荷馬車の方へと歩みを変えてくれた。
「す……、すみません、ご迷惑をかけて……。それに、懐中時計の修理って、……もしかして、私がぶつかって落としたからですか……?」
ロレシオが纏う、無言の空気に委縮してリンファスの声が小さくなる。ロレシオは一言も発さずに馬車に乗った。リンファスも続く。
ロレシオがぴしりと馬に鞭をくれ、荷馬車が走り出した。
ガラガラと車輪の回る音が響く以外は無言の状態でリンファスとロレシオは座席に座って居た。
「……、………」
「…………」
清々しく晴れた空に反して沈黙は重く、しかし気の利いたことの言えないリンファスは座席に座ってスカートを握って居るしかなかった。
そしてただ揺られているからだろうか、馬車の振動のはずみで体が浮くような感覚を覚える。
頭がふらつく、とでも言うのだろうか、ファトマルから食事を取り上げられた夜に空腹を感じて起こる、体の芯から力が抜けるような感覚だった。リンファスは己を叱咤した。
(手綱を持っていただいてるとはいえ、仕事中よ……。気を抜くなんて駄目だわ……)
リンファスは手綱を握る代わりにもっとぎゅっとスカートを握った。ガラガラと馬車は街へ入っていく。賑やかな街並みと、大勢の人が行き交っていた。
王都・インタルの中心街は活気に満ち溢れていた。荷馬車を走らせてもらったリンファスは道順を気にする必要がなく、故に周囲の状況が目に入るために、行き交う馬車と人の多さに王都に来た時以来の驚きを感じた。
宿舎は住宅街にある為、人の往来は館の中から確認できるが、馬車はそこまで多くない。だから馬車の交通量に圧倒された。
勿論、通りを歩く人の数も、宿舎の周りよりうんと多い。
リンファスたちはその中を荷馬車でゆっくりと駆け抜けていった。
通りの人たちからは好奇の目が向けられている。人々はウエルトの村人と同じく茶色い髪、茶色い目で、白くて長い髪のリンファスは目立つ。
ハンナもケイトも花乙女は希少で貴重だと言っていたから、見世物小屋の動物を見るような感覚なのかもしれない。それでも、ウエルトの村人のように嫌悪の目がないだけ良かった。
美しい石畳の道を馬が小気味よい蹄の音をさせながら行く。
宿舎が持つ街行き用の荷馬車もリンファスの家の荷馬車よりもうんと上等で、おそらくケイトが使っていた時にもこうやって少女たちの荷を乗せて運んでいたのだろうと思わせる作りだった。
荷台にはクッションになるように敷物が述べられており、荷を傷めないように工夫されている。
大通りをしばらく行くと、カーンの店は思ったほど苦労せずに見つかった。サラティアナが看板の柄を教えてくれていたおかげだった。
リンファスは少し悩んで、カーンの店より先に、ヘイネスの店に行くことにした。
ドレスもおそらく高価なものだと思うが、リンファスは「お母さまから頂いたネックレス」というサラティアナの言葉を思い出していた。
おそらくとても大事なものだ。それを持ちながら店を渡るというのは、もしかしたらよからぬ誰かの目に留まって盗られてしまうかもしれない、と思ったからだった。
そのようにロレシオに断ると、ロレシオはカーンの店で待っている、とだけ告げて、その店に入っていった。リンファスはヘイネスの店のドアを開けた。
「ごめん下さい」
店に入ると仕立て台に向かって作業していた女性が此方を向いた。穏やかな微笑みを浮かべた品のいい女性だった。
スタンドカラーの襟のブラウスの袖を肘まで捲っている。胸元に翡翠色のブローチを付けており、スカートはふくらはぎまでの丈の紺色のもので、装飾はない。
「いらっしゃいませ」
女性は落ち着いた大人らしい声でリンファスを出迎えてくれた。リンファスは用向きを伝える。
「あの、サラティアナさんのドレスを取りに伺いました」
「まあ、ご足労ありがとうございます。出来ておりますので、少々お待ちくださいね」
女性はリンファスにそう断って店の奥に入っていった。リンファスは店内を眺めた。
他の少女の用事で服飾店に行くこともあったが、この店はずいぶん高級そうな店だった。
おおよその服飾店では店頭にトルソーが立ち、そのトルソーに店自慢のドレスを着せる。そして壁面の棚には絵型と生地が並び、客は絵型を見ながら使う生地を決めるのだ。
ところがこの店にはトルソーはなく、先ほど女性が居た仕立て台の上には数枚のデザイン画が置いてあった。
不思議な店だ……、と思って店内を見渡していると、少し体がふらつく感じがした。今、店内を見る為にぐるりと視線を動かしたからだろうか。
その時に女性が店の奥から大きな箱を持って戻って来たので、リンファスはぐっと足に力を入れて、その場に立ち直した。
「此方がお品になります。ご要望通り、東方から取り寄せた刺繍糸で刺しゅうを施しました」
リンファスの前で女性がドレスの入った箱を開けた。
中には抜けるような青空の色のドレスに技巧を凝らした蒼の刺繍が施されている。
刺繍糸は窓から差し込む陽光や店の奥のランプの光の加減で艶やかに輝き、前身ごろの中央には刺繍糸と同じ色のリボンが編み上げ状に渡されていた。
サラティアナは蒼が好きなのかな、とリンファスは思った。
「ありがとうございます。確かに受け取りました」
「サラティアナさまによろしくお伝えくださいませ」
女性がリンファスに頭を下げて、ドアを開けてくれる。リンファスは大きな箱を持って店の外に出た。
明るい陽光が、しかし目の奥にめまいを起こす。体の芯にも、力が入りづらい。
(いけない……。ちゃんとドレスとネックレスを持って帰らないと、サラティアナさんが困るわ……)
リンファスは意思の力でその場に足を踏ん張った。そしてドレスの入った箱を荷馬車の荷台に置くと、その足取りでカーンの店のドアを開けた。
丁度店に来ていたと思しき客が出て行ったところで、リンファスはその入れ違いで店に入った。
「ごめん下さい」
店に入ると、ロレシオが居た。そう思っていると、店主はロレシオ越しにリンファスを見て声を掛けてくれた。
「いらっしゃい、お嬢さん。少し待っててもらえるかな」
リンファスは店主に頷いてドアの横に待機した。
心なしか、やはり体に力が入らないような気がする。それでも用事を放り出すわけにはいかなかった。仕事の出来ない人間は要らないのだと、ファトマルから散々教えられてきたからだった。
「それで、カーン。時計は直ったのか」
カーンと呼ばれた店主が、黒いトレイに載せたものをロレシオに見せている。
「見て頂ければ分かるでしょう、ロレシオさん。秒針も間違いなく時を刻んでますよ」
「ふむ……」
ロレシオはトレイから銀に輝く懐中時計を取り上げて目線の高さに持つと、まじまじとその盤面を見ていた。
「ちゃんと動いているな。ありがたい。この数日、外出すると時間が分からなくて困っていた」
「お役に立てて光栄ですよ」
にこりとカーンが笑って、やっと店主がリンファスの方を見る。
「お嬢さんは何を持ってきたのかな?」
「あ、サラティアナさんのネックレスを受け取りに来ました」
これ伝票です、とリンファスはスカートのポケットに入れていた預かり票を出して、サラティアナのネックレスを出してもらうようお願いしようとする。
ロレシオが店の外に居る、と言ってドアを開けた、その時。
その入れ替わる空気の動きに合わせてリンファスの体が揺れた。
目の前が歪んでいく様子が瞼の裏に映り、リンファスはその直後、意識を真っ暗な闇に手渡した。
ふわっと。
まるで体の芯が空気になったみたいにリンファスはその場にくず折れた。カーンが慌てたような声を出した。
「お嬢さん!?」
店を出ようとしていたロレシオも、カーンの声に店の中で倒れたリンファスを振り向いた。
ロレシオの目の前でリンファスが床に倒れている。手に持っていたと思しき伝票は長い髪が散らばった近くに落ち、その顔は少し青ざめている。
体調が悪かったのか? 荷馬車で隣に座って居たけれど、それらしい仕草は見せなかった。
しかし、ついでの用があったとはいえ、護衛した花乙女の体調を見抜けなかったのはイヴラとして失敗ではないだろうか。
ロレシオはちっと舌を鳴らすと、リンファスの傍らに膝をついた。
やはり顔色が悪い。
頬も自分の知っている花乙女とは違って線がシャープで体つきも貧相だ。倒れた拍子に伝票を手放した手の先が荒れている。
花乙女で花が付いていないというだけでも驚きなのに、王都(ここ)での生活で、彼女の体は回復しなかったのだろうか?
「ロっ、ロレシオさん、どうしましょう!? 医者を呼んだ方が良いんでしょうか!?」
気が動転している様子のカーンがおろおろと叫ぶ。落ち着け、と諭したうえで、ロレシオは言った。
「僕が花乙女の館に連れて帰る。花乙女に普通の薬は効かない。カーンはベジェモットの屋敷に行ってセルン夫人を館に呼んでくれ」
「わ、分かりました!」
そのまま店を飛び出そうとするカーンを、ロレシオは呼び止めた。
「ああ、この子が持ってた伝票の品、僕が代わりに届けるから出して行ってくれるか」
「はっ、はい!」
カーンは店の奥に取って返すと、ガタガタと音をさせた後、少女が取りに来た品を出してくれた。
「ありがとう。僕はこのまま荷馬車で館に戻る。セルン夫人を頼んだぞ」
「はい!」
ロレシオは倒れているリンファスを抱き上げてまた驚く。外見から想像していたが、こんなに軽いとは……。
ロレシオはリンファスを荷馬車に乗せ、馬を走らせた。
「ケイト!」
ロレシオが男でありながら花乙女の館に踏み込むと、館の中からケイトがロレシオの呼びかけに大慌てで出てきた。
「何だい!? 男性はこの館に……、……ど、どうしたんだい、リンファス!」
ケイトは少女を認めると顔を青ざめさせて駆け寄って来た。ロレシオは簡単に経緯をケイトに説明する。
「街へ行くこの子の護衛を頼まれて一緒に行ったが、行った先の店でこの子が倒れた。今、カーンがセルン夫人を呼びに行ってくれている。取り敢えずこの子を医務室へ運ぼう」
「そ、そうだね。こっちだよ」
ロレシオはケイトの案内で屋敷の一階一番奥の医務室に入り、リンファスをベッドに寝かせた。白いシーツに寝かされたリンファスはやはり顔色が青い。ケイトがリンファスを心配そうに見る合間に此方をちらりと見た。
「……あんた、その髪の色、イヴラなのかい……? それにしては、茶話会では会ったことがないね……?」
ロレシオはケイトの疑問に淡々と応じた。
「それは今この状況で必要な質問か?」
必要以上に干渉して欲しくなくてそう言うと、ケイトは穏やかに微笑んで必要だよ、と言った。
「リンファスが目を覚ましたら、きっと此処に連れて来てくれた人のことを問うと思うよ。その時に、恩人のことを教えてあげられなかったら、申し訳ないよ。リンファスにも、あんたにも」
「この子に僕がしたことは教えなくて良い。どうせ僕は茶話会に出ないし、これきり会うことはない。
この子が店で受け取っていた荷物を持ってくるから、ドアは開けておいてくれ」
そう言ってロレシオはケイトの質問から逃れた。
門の前に止めてあった荷馬車からヘイネスの店の名前が入った水色の箱とカーンの店で受け取った黒いベルベットの箱を持って、もう一度屋敷に戻る。
医務室ではケイトが待っていて、彼女に持っていた二つの箱を渡した。
「僕が分かる範囲でのこの子の持ち物だ。これ以外に忘れているものがあれば、体調が戻ってから取りに行くように言ってくれ」
「ありがとう。私が聞いていた限りでは、これで全部だ。リンファスも安心するよ」
礼を聞いて、ロレシオは医務室を出た。医務室とは反対の壁側に作られた部屋の内のひとつから、少女たちが顔をのぞかせている。談話室のそのドアを開けたところに、一人の少女が立っていた。
「貴方の声が聞こえたと思ったら、リンファスを抱えて来るんだもの、驚いたわ。どうして茶話会にも出てこない貴方がリンファスを連れてくるの?」
「其処をどいてくれないか、サラティアナ。此処に男が居てはまずいだろう。僕は帰りたいんだ」
「私の問いに答えてないわ、ロレシオ。貴方、自分の役目をどう思っているの?」
「答える義務がない。帰るぞ」
サラティアナの質問に答えず、ロレシオは廊下を突っ切った。サラティアナの横を通り過ぎようとした時に腕を取られたが、力任せに外した。
「ロレシオ!」
「裏切ったのは君が先だ、サラティアナ」
言いおいて、ロレシオは花乙女の館を去った。残されたサラティアナは悔しそうに叫んだ。
「裏切ってなんかないわ! どうして信じてくれないの!」
廊下にサラティアナの声が響いた。
程なくしてセルン夫人が宿舎に着いた。夫人は医務室でリンファスの痩せ具合を見て、一体何を食べさせていたの、とケイトに問うた。
「花だよ。だってリンファスは花乙女だから」
「この子には花が咲いてないじゃない」
そうだ。だから他の少女たちから集めた花を食べさせた。そう言うと、それでは駄目なのよ、とセルン夫人は言った。
「花乙女はアスナイヌトさまの子だけど、どんな花でも良いというわけではないわ。
乙女は自分に咲いた花しか受け付けないのよ。アスナイヌトさまはどんな乙女からの花でも召し上がるけど、乙女はそうではないの。
貴女、他の乙女の花を食べたことあって?」
「……ないよ……。……だって、子供の頃に自分の花を食べることを教わったから……」
「そうでしょう、それしか基本的に受け付けないから、そう教わるのよ。
それも無理なら、人間の食べ物しかないわね。
花乙女はアスナイヌトさまの子ですけど、人間から生まれますからね。
花乙女でも赤ん坊の時は母親のお乳で育つでしょう。花乙女が花を食べ始めるのはお乳を卒業してからですから、この子くらいの年になると人間の消化機能はかなり衰えている筈ですけど、でも機能は生きているわ」
セルン夫人の言葉にケイトは以前出したお茶にミルクを入れていたリンファスを思い出した。
花茶のミルクティーを飲んだ時、今まで花を食べていた時とは明らかに違う顔をしていた。驚きと、安心を混ぜたような表情をしていた。
あれは、リンファスの人間の消化機能が機能したからなのだと理解した。
「だとしたら、これからこの子は人間の食べ物を食べていくしかないのかい?
この子は自分に花が着いていないことを、それはそれは苦にしていたんだ。
みんなが花を食べているときに一人だけ人間の食べ物を食べることになったら、余計に花乙女としての自信をなくしちまうよ……」
リンファスは花乙女としてこの宿舎に居られる為に、出来ることを精いっぱい頑張っている。
それに水を差すようなことはしたくなかった。
ケイトが不安な顔になったのを見て、セルン夫人は微笑んだ。
「そういう時のために、庭で紫の花を育てているのよ。ケイト、庭の紫の花をたくさん摘んできて頂戴」
「紫の花を……?」
「そうよ。兎に角お願い」
夫人に言われて、ケイトは分かったよ、と庭に急いだ。