「船を出せ! 早くだ!」
洞の入り口に泊めてあった自分の船に乗り込むオンガが船員に向かって叫んだ。しかし、船は馬車のように急には動けない。
そこへ追いついたロレシオたちがタラップを踏んで乗り込んでくる。鉄の扉からの通路には更にオンガたちを追ってくる揃いの制服を着た警察隊が居た。
タラップを踏み越えて、ロレシオが跳んだ。身軽な行いに、しかしオンガはリンファスを船体の床に転げ落として応戦した。
大きな刀が空を舞い、ロレシオのサーベルに当たる。金属と金属がぶつかり合う、嫌な、ガキン! という音がした。
その音を合図に、船内に残って居たらしいオンガの仲間たちが躍り出た。
多勢に無勢。これでは勝敗は見えている、と思っていたリンファスの目の前で、壮絶な争いが繰り広げられた。
追って来た警察隊も乗り込んでくる。これで数は互角になった。
やがてタラップが外され、船がようやく出港する。
その船上で、ロレシオたちは軽快に身を翻し、剣を捌き、堂々と海賊たちと渡り合った。
シュっと刃が空気を切り裂く音がして、ロレシオの腕に傷がつく。ぱっと一瞬赤い血が飛び散ったが、ロレシオは気にしないでサーベルを斜めにするとオンガの太刀と鍔を合わせた。
ギリギリと力比べになる。大男のオンガの力を、ロレシオは渾身の力で受け止めていた。
汗が散る。刃が空気を切る音がする。
その軌跡の先をロレシオが跳び越え、オンガの肩を彼の足場に背後へ着地した。
その時、オンガを追って船に乗り込んできたファトマルが、床に転がったままだったリンファスを抱き起こし、抱えようとした。
目の前に突き出されたのは尖ったナイフ……。ファトマルはリンファスを殺す気なのか……。
一旦見えた光が消えた、次の瞬間。
ガン! と体を吹き飛ばされて何かにぶつかった。ファトマルがナイフを払われた瞬間に逃げようとして、リンファスをマストの方に突き飛ばしたのだ。
ファトマルのナイフを払ったロレシオが、ファトマルを跳び越えてリンファスの前に立った。リンファスは背後をマストに、前をロレシオの背中に守られた。
マストの裏側には既に警察隊が上りきって、次々とオンガの仲間たちを捕縛しているところだった。
ロレシオはファトマルと、その後ろで捕縛されたオンガに鋭い声を放った。
「年貢の納め時だ。お前たちにはアディアで裁判を受けてもらう」
ファトマルはがくりと項垂れた。アキムとルドヴィックがファトマルを両側から抑え込んで捕縛する。
……リンファス誘拐事件は、決着がついたのだ……。
*
次々と連行されていくオンガとその仲間たち、それにファトマルをロレシオの背後に守られながら見つめて、リンファスは呆然としていた。
目の前で繰り広げられていた切り合いが恐ろしかったと、漸く大きな恐怖の感情が沸き上がる。
「……っ、……っぅ……」
怖かった……。怖かった……。
このまま此処で枯れて死ぬのだと思ったことも、ファトマルがリンファスを売りさばこうとしていたことも、金の為なら何でもやるオンガたちも、……そしてもうみんなと会えないかもしれなかったことも。全部全部、怖かった。
ぽろぽろと泣き出してしまったリンファスのロープを解くと、ロレシオはリンファスの前に片膝をつき、リンファスをそっと抱き締めた。
「リンファス、僕の花の所為で怖い思いをさせてすまなかった」
落ち着いた甘いテノールがリンファスの鼓膜をくすぐる。しかし涙が零れているリンファスはしゃくりあげてしまって、何も言えない。
震える肩をロレシオはあたためるように包み、低く語り掛ける。
「君を失ってしまうかと思ったら、居ても立っても居られなかった。君を失うことに比べたら、自分の些細な欠点なんて気にしていられなかった。
間に合わないかと思った……。無事でいてくれてありがとう……」
リンファスはロレシオに抱き締められたまましゃくりあげ続けた。
口許を手で覆っているリンファスの手の甲に傷があるのを、ロレシオは持っていたハンカチーフで縛った。
リンファスが贈った、青い花の刺繍のハンカチーフだった。これはあのイヴラにあげてしまったのではなかったのだろうか……? それに……。
「ど……、どう、して……っ……。サ、サラティ、アナ……さんは……」
「サラティアナのことで君が傷付いたことも謝る。僕と彼女の歴史の中で、食い違いが起こってしまった結果の行動だった」
「……じゃ、じゃあ、……音楽ホールで一緒に居たのは……」
「やっぱり見ていたのか。王室の社交の一環だよ。僕の気持ちはサラティアナにはない。君だけだ。君だけを想っている」
花が咲く。一つ、二つ、増えていく。ぽとり、ぽとりと落ちていく。
「でも私……、貴方のことを信じられなかったわ。信じてこなかった。花が落ち続けたのが何よりの証拠よ。
部屋にも通路にも沢山花が落ちてるわ。だから貴方に想われる価値なんてないのよ」
くしゃりと顔を歪めて泣くリンファスが俯く。ロレシオは抱擁を解いてリンファスの肩に手を置いた。言い聞かせるようにリンファスに告白する。
「僕こそ悪かった。見た目で忌避されるのを恐れて君に本当の姿を見せてこなかった。
僕は弱い。でも、君の為なら強くなれると思うんだ。君を守るのは僕でありたい。僕を、選んで欲しいんだ」
ロレシオの言葉にリンファスが瞬きをする。ロレシオを正面から見つめていた目じりに溜まっていた涙が、頬を伝う。
「そのことが貴方の辛く悲しい過去に繋がっているのね……。でも私、貴方の瞳好きよ。だって、日に当たって、とてもきれいだもの」
リンファスはロレシオの辛かった過去に対して素直な気持ちを述べる。そして言葉をつづけた。
「……でも、貴方に私は相応しくないとサラティアナさんに言われたわ。その通りだと思う。アディアの王子である貴方に私が出来ることなんて何もないし、私が愛されるなんて、元からお門違いだったのよ……」
どうしても自信が持てないリンファスに、ロレシオは言葉を尽くしてくれる。
「君は僕に、もうしてくれているよ。僕に、人を信じられること、人を愛せることを教えてくれたんだ。この気持ちを君に捧げさせて欲しい。僕の花になって欲しい」
「……私、貴方にそんなことが出来ていたの? ……本当に?」
信じられない気持ちでリンファスは問う。自分が人の為に何か出来たことなんて、あっただろうか!?
「出来ているよ。現に僕の花は君に咲き続けているし、君を助けるためにアキムたちが僕と一緒に君を探してくれた。
彼らと信じあい、此処まで探しに来ることが出来た。
一度も話したことのなかった父とも向き合って話すことが出来たよ。君のおかげで僕も変われた。君は僕の人生を変えてくれたんだ」
「……本当に……? 本当に私、貴方の『証』になれたの……?」
「十二分にだ! だから君にも僕を受け入れて欲しい……! 僕の傍で花を咲かせていて欲しい!」
こんな嬉しい言葉があるだろうか!? 何も出来なかったリンファスを標としてくれたこと、誰にも見向き去れなかったリンファスを欲してくれたこと。
今までの人生で叶わなかったことがロレシオによって叶えられていく。
リンファスは泣きながらロレシオに抱き付いた。ロレシオが抱き締めたリンファスの体中に、蒼い花が咲き乱れ、白色だったリンファスの髪の毛が蒼から銀のグラデーションに染まる。
陽の光に照らされる蒼の花は花芯の蒼から銀のグラデーション色を輝かせて、二人は美しい一枚の絵のようだった。
「ああ、ロレシオ! 私、貴方を一生想うと誓うわ!」
「リンファス……! もう離さないよ! 僕の花、僕の幸せ!」
リンファスとロレシオはお互いに愛を確かめ合い、二人は朝露にも勝る甘い口づけをした。
*
ファトマルとオンガたちは牢に入れられ、裁判を待つ身となった。
グスタンで囚われの身となっていたルシーアやイリエネを始めとする花乙女たちもそれぞれの郷に戻って行き、リンファスには平穏な日々が戻って来た。
リンファスとプルネルは一緒に刺繍を刺しながら談笑をしていた。
「……またこうしてプルネルと過ごすことが出来るようになって、本当に幸せだわ……」
あの時はこんな時間がまた持てるなんて思えなかった。プルネルもほっと息を吐き、安心したわ、と呟いた。
「リンファスがさらわれたと聞いて、何も出来なかった自分が悔しかった……。待っているだけの自分が情けなかったわ」
「プルネル、そんなことないわ。私、貴女たちを思い出して、なんとか帰りたいと思っていたの。貴女たちとの友情がなかったら、早々に諦めていたと思うわ。……だって、父さんの言いつけですもの……」
プルネルはリンファスを痛ましい目で見ると、でも、と言って続けた。
「親子の縁は大事だけど、子供は親から巣立つものだし、何時かはリンファスもお父さまと別れなければならなかったのよ。その時だった、と思うしかないわ」
「そうね……。私はもう、あの頃の未来とは違う未来を歩いているんだわ……」
この数ヶ月でリンファスを取り巻く環境は激変した。
鬱々とファトマルに使われるばかりだった日々から、友人を得て、更には愛する人まで出来た。ウエルトの村で過ごしていた頃は想像もしなかった未来だった。
感慨にふけっていると、プルネルが部屋の時計を見た。
「リンファス、そろそろ時間じゃないの?」
「あっ、本当だわ。じゃあ、私、行くわね」
「ええ、気を付けて。帰って来たらお話聞かせてね」
リンファスは頷くと、針と糸を置いた。そして紫の石の入ったネックレスを着けると、宿舎を出た。すぐそこの角の楡の木の下まで駆けていく。其処には淡い金の髪をたなびかせるロレシオが居て……。
「ロレシオ!」
振り向いたロレシオはフードを被っておらず、美しい瞳でリンファスを眩しそうに見た。
また新たな花乙女とイヴラの恋物語が始まる――――。
<fin>