花乙女は愛に咲く【他サイトでジャンル別ランキング1位!】


「うぎゃああ!!」

ザシュッ、と何かを切り裂く音がすると、男が大きな叫び声をあげてリンファスを地面に落とした。
うっ、と鈍い呻きを上げると共に何が起きたのかを見極めようと目を開くと、地面に落ちたリンファスの視界に、黒いマントの裾が見えた。その脇には、闇に光る、(やいば)の切っ先。

「花乙女に護衛が付いていることは、知っているだろう」

低く、温度を感じさせない淡々とした声を発し、リンファスを庇った声が容赦なく男に切りかかる。人さらいは悲鳴を上げて許しを請うた。

「き……、切らないでくれ! 金に困ってたんだ!」

「お前の事情など、僕が知ったことではない」

冷ややかな声が夜の闇に落ちる。このままでは男が切られてしまうと悟り、リンファスは自分を庇った黒いマントの裾に縋りついた。

「き……、切らないであげてください……! わ……、わたし、は、無事……、です、し……!」

リンファスがしがみついたことで、ふ、と剣の動きが止まる。さあっと風があたりを通り抜け、その力でマントのフードが持ち上がった。

宿の玄関に灯された灯りに照らされた顔に、フードが深い陰影を刻み、その、ちょうど境目に見えた、きらりと灯りを反射するような左側の瞳が、闇夜でしなやかに跳躍する美しい狼の瞳のようだと思った。

思わず息を飲み込んで顔を見つめると、ロレシオはリンファスの視線に気づいて深くマントを被り直した。

「……ロレシオさん……、や、闇夜に跳ねる、勇ましい狼、みたい、です……。しなやかで、……目が、きれいで……」

軽快な身のこなしも、瞳の輝きも。

そういうリンファスの気持ちを込めて言葉をようように継ぐと、ロレシオは僅かに息をのんだ後、フードをさらに深く被り直した。
顔を隠されると、凍り付いた冷ややかな声しか届かない。それが恐ろしくて、言外に顔を見せてくれと言ったつもりだった。

しかしロレシオは、リンファスの要求を上手に理解したのか、それともリンファスの言いかたが悪くて理解しにくかったのか、より深く、フードを被り直しただけだった。

そのやり取りの間に、人さらいは悲鳴を上げて逃げていった。後に残されたリンファスは、ますますその場にへたり込んだ。その頭上から、冷たい声が降ってくる。

「何故一人で外に出た。花乙女の重要性は、ハンナが教えただろう。それに、奴らを捕縛する機会を邪魔して」

確かにハンナはファトマルに、『国が保護する』と言っていた。でもそれがどんな意味かなんて、考えなかった。考えなかった、リンファスの落ち度だ。

「す……、すみません……」

リンファスが謝罪すると、剣の切っ先がカチンという音をさせて鞘に収まる。

「まあいい。今後は同じことをしないことだ。君は花乙女として生きていくことを決めたのだろう?」

あまりそういう決意の許、ウエルトを出たわけでもなかったリンファスは、ことの大きさに改めて動揺した。
そんな、人の言動までもを左右する決意をしたつもりはなかったのだ。

「……、…………」

地面に這いつくばったまま黙りこくったリンファスをどう思ったのか、リンファスの視線の先でつま先が向こうを向く。

「ロ……、ロ、……レシ、オ……、さん……、何処へ……」

「見張りだ。君がインタルに着くまでの間、これ以上僕を煩わせないでくれ」

言外に邪魔なのだと言われ、リンファスは俯いた。






――――私は何処へ行っても、役に立たない。

翌日も王都へと一路西へと馬車を走らせていた。
御者台に座って手綱を持っているロレシオは一言も発さず、寡黙に御者の役割をこなしている。

ロレシオは昨夜のことをハンナに言っていないようだった。言う必要もないと思われているのかもしれない。自然、馬車での会話はハンナとリンファス二人だけのものになった。

馬車の上で話をしている間にも、周りの景色はどんどん変わっていく。
王都の気配が感じられるようになる頃、空に妙に遠近感の狂った枝が伸びていることに気が付いた。

初めは空に浮かんでいる雲の端が黒っぽいのかと思ったらそうではない。その黒っぽい筋は繋がっており、先は雲の上へ、始点はなにやら地面から垂直に立つものから生えていた。

リンファスが疑問に思ってハンナに問うと、

「あれが世界樹よ」

と微笑みながら答えてくれた。
リンファスは世界樹というものを初めて見た。世界『樹』というくらいなんだから、樹なんだろう。何処に生えているのかと問うと、今リンファスが居るこの大陸・アダルシャーンの真ん中だという。

「世界樹はこの世界の真ん中にそびえているの。根は大地を、枝葉は空を支えているわ。リンファスが見ている枝の先は空の上へ伸びていて、雲を吊り上げて支えているの。あの世界樹に、アスナイヌトが宿っているのよ」

ハンナの言葉をぼんやりと聞く。

「アスナイヌトが健やかであることは世界樹が健康に保たれることに繋がるの。つまり世界が揺れずに、私たちが安心して暮らせるためにも、花乙女は大切なのよ」

国が花乙女を保護する理由が、少し分かって来た。
しかしそんな大役を自分が担っているとはとても思えない。リンファスは視線を俯け、膝で握った手を見た。
その様子を察したハンナがそっとその手に手を被せる。

「心配しないで、リンファス。貴女はきっと役目を果たせるわ。その時にこそ、貴女は幸せになるのよ。誰の為でもない、貴女自身の為に」

(幸せ……)

リンファス自身の幸せ、というものを、今まで考えたことがなかった。
リンファスの幸せはファトマルが満足に博打を打てることであり、魚のスープが食べられることであり、浴びるほど酒が飲めることであった。

リンファス自身の幸せ、というものが分からない。

リンファスは、ハンナの言葉にやっぱり俯くしかなかった。



途中、いろんな町の宿にも泊まりながら、結局一週間の時間を費やして、リンファスたちは王都・インタルに入った。王都に入るとリンファスはその圧倒的な街の佇まいに威圧された。

村ではオファンズの家にしか使われていなかった煉瓦や漆喰の建物ばかりが並び、道は石畳で舗装されていて、常に砂ぼこりにまみれていたリンファスにとっては、この街は異世界だった。
勿論往来する馬車の多さ、人の多さも言わずもがなだ。

「基本的に、花乙女たちは宿舎で過ごすの。外に出るときは誰かと一緒の時だけね」

「自由に出来ない……って言うことですね……?」

リンファスはこの前の夜のことを思い出す。一人で夜の空を眺めようとしたら、人さらいに会いかけた。
男はリンファスを『花乙女』だと言って攫おうとしたのだから、やはり理由はそれだろう。

「そうね……。少し窮屈に感じるかもしれないけど我慢して頂戴。国の安寧を守るための花乙女が誘拐されるという話も、なくはないのよ」

誘拐……。

現実にそれに遭いかけたリンファスは、背筋を凍らせるしかない。誘拐して……、それからどうするのだろう……? 
国に身代金を要求するのだろうか……? リンファスの疑問はハンナの言葉に、そこで途切れる。

「そうならないためにも、決して一人で外に出ては駄目よ」

「はい……」

ウエルトの村は、貧しかったが危険なことは何もなかった。振り返るとリンファスの居場所はなかったけど、それだけ平和だったという事だ。
リンファスは、この選択が既に間違いだったのではないか、と思い始めていた。

やがて馬車が白い壁に赤茶色の屋根が続く住宅街の一角にたどり着く。

庭が広いその白い建物は高い門構えの玄関と槍のようなデザインのフェンスに囲まれており、中の建物は二階建ての大きな建物で、二階部分には三つの小さな尖塔が立っており窓が沢山あった。

勿論リンファスの家よりも見上げるほど大きくて、リンファスはぽかんとその建物を見つめた。
建物の東側の庭には見たことのない紫色の花が咲き乱れていて、ますますウエルトの村とは違ったところに来たのだと実感する。

馬車からハンナが降りる。リンファスも倣って降りた。そこここで人がたむろしてリンファスたちの方を見ていた。

……なんだか見世物小屋の見世物になっているようだった。

居心地悪く馬車を降りると、ロレシオは空になったフェートンを片付けるために馬を繋いだまま建物の陰へと消えていった。ぼうっとロレシオの様子を見送っているとハンナが門の門扉をギッと開いた。

「さあ、リンファス・フォルジェ。ようこそ、花乙女の館へ」

ハンナがにっこり笑う。

リンファスは緊張からごくりと喉を鳴らした。
見たこともない景色が広がっていた。ウエルトの村を出てから宿泊した宿にもいちいちそれを感じていたけど、それらとは比べ物にならないくらいだった。

真っ白い外壁と遜色ないくらいに内部の作りも白で統一されており、ところどころに渡してある柱や梁、廊下の板は飴色に磨かれている。

廊下の天井は共有場所だという一階部分から高く、一番奥に当たる壁には美しい花をまとった女性が描かれたステンドグラスの窓がしつらえられている。

廊下に面した各部屋は、玄関から入って手前から応接室、談話室、図書室、そして食堂となっており、食堂の向かいには医務室が造られていた。

廊下の突き当りを左に折れてカーブする、やはり磨き抜かれた飴色の手すりを辿って階段を上っていけば、二階部分は居住スペースになっている。

此方の天井も勿論高くて、アーチ状に弧を描いて美しく造られている。外から見て小さいながらに尖塔が三つ見えるのは、この造りから来るものであるとはハンナの言葉だ。

「リンファスはこの部屋を使ってね」

ハンナに案内されて入った部屋には、飴色の窓枠に覆われた開放的な窓に白いカーテンが揺れており、白いチェストやベッドが壁際に配されている。
入口脇には鏡と洗面台があり、楕円形をしたボウル型の白いホーローが洗面台にはめ込まれていた。

隣の小さなチェストには洗顔用の水を入れておくピッチャーまであった。
井戸まで顔を洗いに行かなくても良いと言うのは宿泊してきた宿で知った行為だが、自分の部屋で洗顔が出来ると言うのは驚きだった。

大きな窓から差し込む陽光に映える美しく清潔な部屋の隅々までを見て、リンファスは不安げに口を開いた。

「こ……、こんな部屋を……、私一人で……?」

リンファスが戸惑うのも当然だった。ウエルトの家には彩光の良い部屋などと言うものはなかった。
傷みが激しく修理しながら暮らしていた為、壁や柱を補強しながら使っていた。

窓ガラスは気づいたときにはもう割れていてそれをふさぐために木の板を十字に打ち付けていた。家のすべての窓でそうだったから、家の中は太陽が出ている昼でも薄暗かった。

こんなに日差しが差し込む部屋を自分が使って良いのかと及び腰になる。それをハンナが微笑んで背に手を当ててくれた。

「陽の光を浴びることは気持ちを前向きになることに繋がるわ。花乙女には出来うる限りの良い環境で過ごすことが必要なのよ。それは住環境だけにとどまらず、着る物も、食事もそうよ」

そう言ってハンナが部屋の中に入ると、備え付けのチェストの引き出しを一つ開けた。
中にはきれいな白のワンピースが入っており、よく見ると入っている洋服はそれ一着ではなかった。

「最初に整えさせてもらったものはこのくらいだけど、今後必要に応じて洋服を増やしていくと良いわ。
そして食事も徐々に花に慣れていくと良いわね。貴女を美しく成長させるのは花だし、花乙女として、それは正しいのよ」

あまりの好待遇にリンファスは身の置き所がない。広い部屋の入り口で委縮していると、ハンナがふふっと微笑んだ。

「緊張しないで。私たちは貴女を心から歓迎するわ。花乙女は愛されて幸せになる為に居るのよ」

「……しあわせ……」

ハンナは此処に来るまでの道中でも何度もそう言った。その度に幸せとはどういう意味だろうとリンファスは考えた。

ファトマルからも屋根のある家で過ごさせてもらった。
あの村で自分のような異端児を育てるのは大変だっただろうに、売り飛ばしもせずにリンファスに仕事をくれた。
あの生活を、不幸だったとは決して思えない。異端児のリンファスにとっては、生き永らえただけありがたかったのだ。

それなのに、『愛されて幸せに』とは、どういうことだろう。

(……愛される、って、どういうことだろう……)

リンファスが考えに耽ったのをどう解釈したのか、実際に乙女たちに会ってみると良いわ、と言って談話室に連れて行ってくれた。

宛がわれた部屋を出て、再び一階へ降りる。先程通って来た廊下を談話室まで戻ると、ハンナがドアを軽くノックした。

「ごきげんよう、皆さん。ちょっと良いかしら?」

ひょこりと顔をのぞかせたハンナに、部屋の中に居た人たちからどうぞ、と小鳥のような声が聞こえた。

「今日からまた新しくこの館に花乙女が加わることになったの。紹介するわ」

そう言ってハンナはリンファスの背に手を当てて、一緒に部屋の中に入ってくれた。リンファスがおずおずと一歩部屋の中に入ると、目の前には色の洪水が現れた。

洪水……否、其処には色や形が様々な花を身に着けた少女たちが居た。
色も形も全く違う花々を身に着けた少女たちは、そろって白い髪で紫の目をしていた。
……ウエルトの村で悪魔の子として後ろ指をさされたリンファスと同じ色の人たちが、此処では穏やかに微笑んでいる。そのことにまず衝撃を受けた。

「大陸の果ての方の村に居た子よ。リンファスというの。……リンファス、挨拶は出来るわね?」

ハンナに促されてはっとする。これから此処に居るのなら、この人たちに受け入れてもらわなければならない。
ウエルトの村では髪と目の色のことで差別されたが、この人たちは同じ色をしている。少なくとも見た目で差別されるようなことはないだろう。

だったら受け入れてもらえるかもしれない。そうしたら此処での生活が村での生活よりも、少しは暮らしやすいかもしれない。そう思って緊張しながらリンファスは口を開いた。

「……リンファス・フォルジェと……いいま、す……。あの、……」

よろしくお願いします。

そう言えなかったのは、少女たちの検分するような視線からだった。

口からは何の音も出てこなくなり、スカートをぎゅっと握った手は、細かく震えた。
ウエルトの村でも幼い頃から度々感じたこの感じ……。あまり、……多分、リンファスを好きになってくれない人から見られた時の感じと似ている……。

どきんどきんと心臓が鳴る。緊張から息が浅くなり、小さくひゅっと息を継いだ時、少女たちの中の一人――色とりどりの大きく咲き誇る花を着けた少女――がハンナに声を掛けた。

「その子、花が付いてないじゃない」

そのひと言で、リンファスは理解した。此処でも、リンファスは仲間に入ることは出来ない。
髪や瞳の色が同じでも、ハンナが言ったような花乙女としての花が付いていないことで、リンファスは受け入れてもらえないのだ。

リンファスは少女が言ったように花なんて付いてない。
ハンナはリンファスのことを、国が大事にする花乙女だと喜んでくれたけど、現実として花は付いてない。花が咲いていなければ、花乙女だと証明することは出来ないんだろう。

此処は花乙女の宿舎だし、花乙女しか住んではいけない場所なのだ。それなのに、髪と瞳の色が一緒だからと言って、リンファスが仲間であるわけがなかった。

(私は……、何処に行っても一人なんだわ……)

いや、ウエルトの村では少なくともファトマルがリンファスを養ってくれていた。
ファトマルは、ハンナやロレシオが言うように不出来な親だったかもしれないけれど、でもリンファスを同じ家に住まわせて仕事を与えてくれた。
ファトマルは確かにリンファスの味方だったのだ。此処には……味方が居ない。

かくりと首を項垂れて、リンファスは黙った。その様子を見ていたハンナが慌てて口を開く。

「リンファスはちょっと特殊な事情の中で暮らしていたのよ、サラティアナ。それで花が咲いてないだけで、ここで暮らしていくうちにきっと花が咲くわ。だから一緒に住まわせてあげて頂戴。みんなも、お願い」

「此処に住まわせるかどうかは、ハンナたちが決めることなんでしょう? 私たちが口を出すことではないわ」

はっきりとした声でサラティアナと呼ばれた少女が言った。自分たちが決めることではない。つまり、同意して一緒に居ることを認めたわけではない……、ということだろう。

(……平気。村でも家の外では一人だったわ……。此処にはハンナさんが居るし、考えてみたら村と何が変わったわけでもないわ……)

ただ、居場所が変わっただけ。その中で今までの家でのような自分の場所を作ることをしなければならないけど、それだってさっきハンナが与えてくれた部屋があれば簡単だ。
リンファスはそう思い、彼女たちに一礼した。ハンナは最後に仲を取り持つようなことを言った。

「花乙女は本当に数が少なくて貴重な存在なのよ。上手くやっていって欲しいわ」

それは彼女たちにも、リンファスにも向けた言葉だった。サラティアナが、ふん、と腕を組んだ。


談話室を後にすると、ハンナが帰ると言った。てっきりこの館の人だと思っていたリンファスは慌てた。

「私は花乙女の保護の仕事をしているの。また何処かに花乙女が生まれたら、その子を此処に連れてくる役目があるの。だからこの館にずっとは居ないわ」

そうなんだ……。てっきりこれからの生活の中で、ハンナに手助けをしてもらえると勘違いしてしまった。こうなると本当に独りっきりだ。

そんなリンファスの覚悟を察したかのように、ハンナは最後に宿舎の寮母を紹介してくれた。
丁度テーブルに食器を並べているところだった彼女は、ハンナが呼び止めるとその手を止めてくれた。

女性は七十を超えるだろうか、口許と目じりに皴を刻んだ老女だった。
長くみつあみにされた髪の毛は鳥の羽のようなオレンジ色だが、瞳は紫だ。
その身には先程の少女たちと違って小さな琥珀色の美しい花が咲いており、彼女も花乙女なのではないかと推測した。

「ケイト、今日から此処に住むことになるリンファスよ。色々貴女に聞くと思うわ。十分お世話をしてあげて」

ハンナがリンファスをケイトに紹介すると、ケイトはやはりリンファスを見て驚いたように目を大きくした。

「あんたは色は花乙女のようだけど、花乙女かい? 白色(しろいろ)の花も咲いてない乙女は初めて見るねえ」

白色の花とは何だろう。特別な花なのだろうか。そう言えば、さっきの談話室に居た少女たちも白色の花をつけていた。

「事情があるのよ。それも含めて、貴女が支えてあげてくれると嬉しいわ」

「良く分からないけれど、この館の住人の世話があたしの仕事だ。何かあれば言っとくれ」

ハンナに言われると、ケイトは漸くその顔に深いしわを刻んで微笑んだ。
リンファスはほっとして、お願いします、と小さな声で挨拶した。
良かった……。取り敢えず此処に居ても良いみたいだ。此処で追い返されても路頭に迷うだけだったから、リンファスのことを受け入れてくれる人が一人でも居てくれてよかった。

ハンナはケイトにリンファスを任せると帰っていった。ケイトはリンファスをじっと見て、さあて、どうしようかねえ。と呟いた。

「? ……あの?」

「取り敢えず、食事が困るねえ」

食事が困るとは、どういうことだろう。そう考えてハンナの言葉を思い出した。

(そうだわ。花乙女は自分の花を食べるんだって言ってたわ……)

ケイトは花が咲いてないリンファスに、何を食べさせるべきか困ってしまったのだろう。リンファスは口を開いた。

「あの……、私今まで、普通の食べ物を食べていたんです。花なんて食べたことないですし、何か……野菜のスープでも良いので、そういうもので……」

そう言ってしまって、自分の食べる物を人に頼まないといけないことに、居心地の悪さを感じた。

「あの……、私、自分で作るので。……なにか切れ端の野菜とかあれば、それで……」

そうも言って、やはり材料を頼らなければならないことに落ち込んだ。

今までとは何もかもが変わってしまった。自分で何もかもをして、自分で全てを済ませることがリンファスの生活だったのに、此処ではケイトに頼ることしか出来ず、それがなんとも居心地が悪い。
談話室の少女やケイトが言うように、花が付いてないんだから、もし自分が本当に国が大事にしているという花乙女というものだとしても、出来損ないじゃないかと思うのだ。

そんな出来損ないのリンファスは、此処でさっきの少女たちみたいに、ケイトに世話になることは出来ない。村でやっていたように、自分で自分のことを面倒見るべきなのだと思うのだ。

そう思ってケイトを見たが、ケイトは眉を寄せて難しい顔をしたままだった。
「此処は花乙女の館だからね。花しかないんだよ」

水くらいは出せるが、人間の食べ物はないと言う。そんな……、とリンファスは思った。

困惑した様子のリンファスに、ケイトは、先ずは花を食べて見ないか、と誘った。

「花……、ですか? でも私には花が咲いてません」

「そう、でもこんな事態だからね。ひとまず他の花乙女に分けてもらうのはどうだろう?」

「良いのですか? 花は、女神さまに捧げるものだと聞いています。……そんな大切なものを、良いのでしょうか……」

きっと大事なもののはずだ。しかしケイトは緊急事態にはみんなで力を合わせるもんだよ、と微笑んだ。

「あんたに花が咲くまで少し分けてもらうとアスナイヌトさまに祈っておこう。
あんたが餓死しちまうと、将来アスナイヌトさまに寄進する分の花が少なくなっちまうからね」

ぽん、とケイトがリンファスの背を叩いた。
でもそんなことをして大丈夫なのだろうか。それに、リンファスは花を食べたことがない。本当に、美味しいのだろうか。
ハンナが言ってたように、人間の食事よりも美味しいのだろうか。

(ううん。美味しいとか美味しくないとかの話じゃないわ。ケイトさんは私の為の食事を考えてくれたんだもの。きっと食べられるものなのよ……)

そう思って、やっとリンファスはケイトにありがとうございます、と礼を言うことが出来た。
……当面の食事の問題は解決できた。後はハンナやケイトが言うように、リンファスに花が着けばいいのである。

……でも、どうやって?

愛されて幸せになると、花が咲くとハンナは言った。
とすれば、リンファス一人の努力ではどうにもならない。
ウエルトの村では自分のことは何でも自分で出来たのに、此処ではそれが通用しない。
自分のことを自分で解決できない難しさを、リンファスは初めて体験していた。

(……このまま、ずっとこの館のお荷物で居るのかしら……)

そう思うと、此処で出来ることを探さなければならないと言う気持ちになってきた。
ハンナは此処がリンファスの居場所だと思って連れてきてくれたのだし、ケイトも面倒を見ると言ってくれている。それならば、此処に居ていいと言う理由を作りたかった。

「あの……、ケイトさん。私に仕事をくださいませんか……」

リンファスはケイトに頼んだ。ケイトは目を丸くしてリンファスを見る。

「仕事? 花乙女は花を咲かせるのが仕事だよ。あんたは此処で過ごしながら、花を着けることが仕事なのさ」

「それはハンナさんにも言われて、分かっています。でも今現在、私には花が着いていません。
花が着いていない花乙女は用なしなんでしょう? それなら、花を着けること以外の、何かお役に立てるような仕事が欲しいんです」

村でファトマルの為に働くことで居場所を作って来た。それと同じようにしたいのだ。しかしケイトは困惑した様子のままだ。
「……花乙女に労働を与えるなんて、聞いたことないねえ……。……でもあんたがそうしたいのなら、叶えてやるほうが良いんだろうねえ……」

ケイトは悩んだ様子で暫く考え込んだ後、ぽん、と手を叩いて、良いことを思いついたよ、と微笑んだ。

「花乙女は一日一回、アスナイヌトさまに寄進する花を摘むんだ。その花をアスナイヌトさまのところまで持って行ってくれないかい。
今まであたしがやってた仕事だ。
それならアスナイヌトさまの場所を教えればあんたにも出来そうだし、他の乙女たちの為にもなるだろう? どうだい? やるかい?」

仕事なら何でも嬉しいし、それが他の乙女たちの為になるなら、もっと嬉しい。
この仕事をすることで、さっきの少女たちにも此処に居ることを認めてもらえるかもしれない。そう思ってリンファスは綻ぶような笑みで、はい、と答えた。

「是非、やらせてください! まじめに働きます」

「あっはっは! 働きたいなんて言い出す花乙女は本当に初めてだ! あんた本当に変わった子だねえ!」

花乙女に見えなかろうと、変わって見えようと、そんなことは気にしていられない。
もう帰るところはないんだから、此処に居ることのできる理由が出来て良かった。ほっと安堵したリンファスの頭を、ケイトが撫でる。

「不思議な乙女だと思ってたけど、本当に不思議で変わった乙女だ。じゃあ、明日から頼めるかい? 最初はあたしがついて行こう。明後日からはあたしの旦那と行っとくれ」

「はい」

返事をしたら、ケイトの目が糸のようになって目じりに深いしわを刻んだ。リンファスは少しケイトに打ち解けた気分になって、気になっていたことを思い切って聞いてみることにした。

「あの……、聞いても良いでしょうか……?」

リンファスの問いに、ケイトは何だい? と応えた。

「ケイトさんは、花乙女なんですか……?」

ケイトは紫の瞳をして花を咲かせている。
でも、みつあみをした髪の毛がオレンジ色だ。花乙女ではないのだろうか?
リンファスの疑問を正しく聞き取ったケイトが簡単な子供の問いに答えるように教えてくれた。

「そうか、あんたは花乙女がどんなものかを知らないんだね。
……花乙女は唯一の相手と結ばれるために存在している。そして、その唯一の相手と結ばれると、その相手の瞳の色に染まるんだよ」

「染まる……」

意味が良く分からなかったリンファスは、ケイトの言葉をおうむ返しにした。ケイトは微笑みを深くする。

「そうだよ。この、あたしに付いている花は胡白色の芯をして、花びらがオレンジ色だろう? 
これはあたしの旦那の瞳の色だ。あたしの旦那はオレンジ色の虹彩に琥珀色の瞳をしている。
旦那の瞳はきれいだよ。明日にでも会わせてやるよ。
談話室に居た乙女たちについていた花も、全部彼女たちを想うイヴラの想いで咲いている。あの子たちもやがて、唯一となるイヴラと結ばれて、その身を一色に染めるよ。
その時には貧富の差も、身分の差も関係ない。国全体で花乙女とイヴラを祝福するんだ」

にっこりと……、穏やかでやさしい微笑みを浮かべるケイトは、多分アスナイヌトという女神のような笑みを浮かべている。そんな気がした。