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アンヴァ侯爵家での夜会の後日。ロレシオは再びアンヴァ公爵の屋敷に来ていた。
この前の夜会に参加するときにリンファスを感じられるようにハンカチーフを胸に挿してきたが、宿舎に帰った後、洗おうと思ってポケットから取り出そうとしたら、ハンカチーフがなかった。
落としたとしたらアンヴァ公爵の屋敷だと思ったので訪れたが、使用人に聞いてもハンカチーフは見つからなかった。
(だとしたらあとは何処だ……。ハラントにもう一度聞いてみないといけないか……)
宿舎で落としたことも考えて、此処に来る前にハラントには確認したが、公爵家でこれだけ探してもらっても見つからないということは、宿舎で誰かが拾ってそのまま持っている可能性もある。
リンファスの刺繍は素晴らしかったから、自分の目の色とは関係なく持っている可能性も否定できない。
こういう時、館で交流を持たなかったことがあだになる。
ロレシオの目を異端視する宿舎のイヴラたちを一人一人問い詰めるわけにもいかない。
拾ったかもしれないイヴラの良心と、ハラントの気遣いに頼るしかなく、ロレシオは宿舎に戻った。
そしてハンカチーフは、ハラントに探し物をしている旨を他のイヴラたちに聞いてもらって、無事、手元に帰って来た。
アンヴァ公爵の屋敷ではなく、宿舎に帰ってきて衣服を寛げて廊下を歩いていた時に落としたらしい。
拾ったイヴラも持っていて悪かったと謝ってくれて事なきを得た。
ロレシオは改めてハンカチーフを洗って綺麗にし、ジュエルボックスに大切に仕舞った。
今は舞踏会に行っても、ロレシオの口から彼のことを聞くことは出来ないのだろうか。だったら舞踏会に参加する意味もない。
そう思ったが、何度か茶話会に参加して、少し話をするイヴラも増えた。
『愛し愛される』間柄でもないロレシオの気持ちを少しでも信じられない今、花乙女の役割としてロレシオ以外のイヴラにも知ってもらって愛してもらわなければならない。
役割を分かっていて放棄するなんてことは、リンファスには出来なかった。
ロレシオからは前日に「明日、庭で会おう」という手紙が来た。
リンファスの贈り物を大切にしない一方で、リンファスに会いたい気持ち、というのはロレシオの中で成立するのだろうか。
リンファスだったらそんなことは出来ない。
それでも手紙が届いたことで約束は交わされてしまった。
会わないことを告げる手段は文字も書けず、またそれを代筆してもらう勇気も持てなかったリンファスにはなく、リンファスは結局、ロレシオの多弁の花を咲かせて舞踏会に参加した。
いつもと同じくプルネルと遅くに会場に着いたリンファスを待っていたのはサラティアナだった。
「平気な顔をしてその花を着けて来るのね」
いつも明朗な笑顔で居たサラティアナからの憎しみの視線を受けて、リンファスは怖気づいた。そんな目で見られる理由が分からなかった。
「花って……、この蒼い花のことですか?」
「そうよ。それはロレシオの花でしょう。貴女にその花は相応しくないわ」
相応しくないとはどういう意味だろう。
疑問に思っているとサラティアナは優雅にドレスを捌いてリンファスに近づき、ぱっと蒼い花を掴んでリンファスからむしり取った。
咄嗟のことに避けられなかったリンファスは、花がむしり取られたこと、そして散った花びらが舞い散る中で同じ場所から再び蒼い花が咲いたことに驚いた。
花をむしり取ったサラティアナも再び咲いた蒼い花に目を剝き、そして怒りの声を張り上げた。
「貴女なんてロレシオの素顔も知らないくせに! 花芯の色の意味を知らない貴女なんて相応しくないって、ロレシオも分かっている筈なのに!」
悔しそうに地団太を踏んだサラティアナは、青い花弁が散った床に背を向けて会場から出て行った。
(相応しくない……? 花芯の色の意味……?)
何のことだろう。
何かリンファスの知らないことがあるのだろうか。
確かにリンファスは貧しい村の娘で、ロレシオは仕草からしておそらく裕福な家の息子だ。
でも最初にインタルに来た時に、花乙女とイヴラには貧富の差も、身分の差も関係ないとケイトが言っていた筈だけど、そうではないことなんだろうか。
サラティアナが部屋から去って行ってしまった今、疑問をぶつける相手は約束をしたロレシオしか居なかった。
ハンカチーフのこともある。リンファスがロレシオに相応しくないから譲り渡したのだろうか。聞いてみたらロレシオはどう答えるのだろう……。
庭に出るとこの前ダンスを踊った場所まで来た。果たして庭の奥から何時も通りロレシオが姿を現した。
「リンファス……」
リンファスの名を呼ぶロレシオは嬉しそうだった。
この前の舞踏会で彼に疑問を感じる前までのロレシオだった。
リンファスには訳が分からなかった。ハンカチーフのこと。それからサラティアナのこと。
ロレシオがリンファスに歩み寄り、リンファスの長い髪をやさしい手つきで梳いた。いとおしそうに頬を包まれて、ますます混乱する。
「リンファス……。今日もネックレスを着けてくれたんだね、嬉しいよ」
喜びの口の形で愛の言葉を続けようとするロレシオを前に、リンファスは疑問をぶつけた。
「ロレシオ……、今日はハンカチーフを持っていないの……?」
この前は胸に挿してくれたのに、今日は差してなかった。
「ああ、君からの大切な贈り物だから、無くさないようにジュエルボックスに大切に仕舞ってある。毎晩眺めているよ」
嘘だ。この前知らないイヴラが茶話会で胸に挿していた。
リンファスはロレシオを糾弾したい気持ちを抑えて、もう一つの疑問をぶつけた。
「……さっき、……サラティアナと話したの……。私が貴方に相応しくないって、サラティアナは言ってたわ……。どういうこと……? 私、訳が分からないわ……」
ロレシオはリンファスの言葉を聞くと、口許をこわばらせた。何かリンファスに言いたくないことがあるんだ。そう分かった。
「私に話してないことがあるのね? 話して。
人と話さなければ、自分のことを分かってもらえないし、愛してももらえない、ってプルネルが言ってたわ。
貴方を分かっていないから……、知らないことがあることが相応しくないことに繋がるなら、ちゃんと教えて欲しいの……」
リンファスは薄暗がりの中でロレシオの目を見て言った。
……しかし視線は逸らされた。ロレシオが顔を背けたのだ。
ロレシオが手で顔を覆う。手の隙間から零れ出たのは、震えた声だった。
「聞かないでくれ……。聞いたら君も僕を裏切るだろう……?」
裏切るだって!? リンファスは生まれてから一度だって誰かを裏切ったことはない。そんなことをすることすら考え付かなかった。
ロレシオはリンファスにとって特別な恩人であり友人だ。
ロレシオに愛されるなら、ロレシオを愛せたら良い。そうまで思ったのに、ロレシオはリンファスが自分を裏切ると疑っているなんて……!!
「じゃあ、私は虚構の貴方を愛さなければいけないの? それを貴方は真実(ほんとう)の愛だと思うの!?」
「リンファス!!」
ロレシオの叫びにリンファスは黙る。ぽとり、と一つ、蒼い花が落ちた。根元から落ちた花の後にまた蒼い花が咲く。
「……リンファス、お願いだ……。僕を愛して……。僕を、見捨てないでくれ……」
悲哀に満ちた言葉は幼い子供のようだった。愛情に飢えて飢えて、でも与えられなかった子供……。
しかし、リンファスはロレシオの母親じゃないし、アスナイヌトでもないリンファスは、無償の愛を知らない。
ロレシオのすべてを知らないからこそ知りたいと思うことが、どうしていけないのだろう。
リンファスはぽろり、と涙を零した。
「どうして……、どうして知りたいと思うことがいけないの……。貴方を知って……、愛せたら良かったのに……」
ぽとりと花が落ちる。花が咲く。
落ちては咲き、また落ちては咲く。
咲いては落ちる蒼の花を見て、ロレシオは辛そうにリンファスから目を背けてその場を去った。
リンファスは庭の中央に蒼いじゅうたんを敷き詰めるようにして花を着けては落とすを繰り返し、プルネルが探しに来るまでその場で泣き崩れていた……。
「花が着くことが彼の心じゃない。信じてあげれば良いのに」
プルネルはそう言ってリンファスを慰めた。でも出来ないのだ。
ケイトに言わせてみるとファトマルはリンファスを愛さない酷い親だった。しかし一方でリンファスに嘘を吐くことはなかった。
博打に行くことも幼い頃から告げられていたし、機嫌が悪いことを隠すこともなかった。リンファスに対して素直な父親だったのだ。
嘘を吐かれたことも、隠し事をされたこともないリンファスにとって、ロレシオの行為は彼を信じることを難しくさせていた。
「ロレシオの気持ちを信じてないわけじゃないの……。誠実で居て欲しいだけなのよ……」
ぽろぽろと涙を零すリンファスを、プルネルは根気よく慰めてくれた。
きっと何か事情があるのだろう、それを知らせる時期ではなかっただけかもしれない。
彼も今夜のことを憂いて態度を変えるかもしれないから、今度彼から連絡があったら是非話し合ってみると良い、と助言を受けた。
「お互いを知るには話さないと始まらないし、信頼も愛情も、そこから生まれるわ」
尤もだと思った。リンファスは頷いて顔を上げたが、蒼い花が落ちては咲く現象は治らなかった。
三日後にロレシオから手紙が来た。
インタルの音楽ホールで行われる音楽劇を一緒に観ないかという誘いだった。
きっと観劇前かその後に話が出来る。リンファスはプルネルの励ましも受けて、音楽ホールへ出掛けた。
席で待ち合せようという誘いだったから、ハラントに送ってもらって音楽ホールまで来た。
招待状を見せると、二階のバルコニー席に案内されたが、まだロレシオは来ていないようだった。
何時も角の楡の木で待ち合わせをしていたのに、今日、迎えに来てくれなかったのは、もしかしたら気まずいと思ったのだろうか。
リンファスに誤解があるなら早く解きたいから、早く話せた方が良かったのに。そう思ったけど、時期じゃなかったのかもしれない。
もしかしたらこの音楽劇に何かヒントがあったりするのだろうか。そんなことを色々考えていたが、開幕の鐘が鳴るまでロレシオは席に現れなかった。
どうしたのだろう、急に来れなくなったのだろうか。
もしかして病気とか怪我……?
灯りの消された暗いバルコニー席で舞台上の劇の内容も頭に入って来ない状態で、リンファスは不安と共に一時間半の音楽劇を終えた。
歓声と拍手が鳴り響く中、客席を照らすシャンデリアと壁のランプが灯る。
ふと目に入ったのは、向かいの壁の三階の一番奥のバルコニー席に白い髪の少女が座って居るところだった。花乙女だわ、と思ったら、遠目でも良く目を引く色とりどりの花を着けたサラティアナだった。
サラティアナとは三日前に言いがかりをつけられたままになっていた。
結局彼女の言ったことも分からず終いだったし、ロレシオも現れなかった。
そう思って彼女の方を見ていたら、隣の席に座って居る人をリンファスの目が見つけた。
(……ロレシオ……)
淡い金の髪を肩から右の胸に流した姿は間違いようもなくロレシオだった。
ロレシオが、明かりの下でサラティアナと話をしている。
広間でプルネルたちに紹介したいと頼んだ時は拒んだのに、サラティアナとならフードも被らず明かりの下で談笑するの……?
リンファスに咲く花の意味は……?
「…………っ」
ロレシオの真意が分からなくて涙が出る。
信じたいのに信じることが出来ないことが次々と起こって、リンファスはバルコニー席を飛び出した。
ぱたぱたと走るリンファスの後に蒼い花が点々と落ちる。
どうして咲くの?
サラティアナを選んだんじゃないの?
訳が分からないまま、音楽ホールから逃げるように走り続ける。その時リンファスを怒鳴るように呼ぶ人が居た。
「リンファス!」
ロレシオは懐中時計の蓋を開け閉めしながらため息を吐いた。
王家の社交の一環とは言え、今はサラティアナに会いたい気分ではなかった。
礼服の胸を触る。三日前にリンファスが贈ったハンカチーフを持っていないのかと尋ねたので、身に着けていた方が良いかと思って、今日は持って来た。
やはり贈ってもらった特別感から、持っているとリンファスと繋がっているような気がして心が強くなる。
「君の所為でリンファスを傷付けることになった」
「貴方のコンプレックスを受け止められるのは、私だけよ。だって最初の花が咲いたときに落ちなかったんですもの」
確かに幼いあの時、既にロレシオは忌子として隔離されていた。そこへ現れたサラティアナはロレシオの瞳を見ても驚かず、そしてロレシオの友情の花を着けてくれた。
子供の頃には気付けなかったが、花が着いて、ロレシオが落としてしまうまで、サラティアナはロレシオの友情を受け止め続けていたのだ。
裏切ったわけではなかった。
「カタリアナさまとウオルフさまのようになりたかったのよ。愛され愛し合う花乙女とイヴラの象徴ですもの、憧れるなというのが無理だわ」
そして、サラティアナの言葉も嘘ではなかった。ロレシオがサラティアナの気持ちを見抜けなかったのだ。
でももう遅い。ロレシオは自分の父親と母親を知らなかった、……いや、愛情というものさえ知らなかったリンファスを愛してしまったのだ。
「サラティアナ、何度言われても答えは同じだ。君を愛することはない。君のお父上が画策することも実を結ばない」
「リンファスが現れずに、こうやって私たちの間に和解の場があったら、貴方は私を愛してくれた筈なのに!」
「時は戻らないよ、サラティアナ」
カチリと開けた懐中時計を見る。秒針は一方向にしか動かずに時を刻んでいた。ロレシオの刻(とき)はリンファスに向かってだけ、進むのだ。
「さあ、もういいかい、サラティアナ。僕はもう帰りたいんだ」
「酷いわ。レディを置き去りにするの?」
自分の要求が叶えられないことはないと信じているサラティアナに折れた。
サラティアナの強みはこういうところだ。そういう自信が表情に出て、沢山のイヴラを惹き付けて大輪の花を咲かせている。
裏切られたと思っていても叔父の屋敷で顔を合わせれば話し掛けられはしていたし、ロレシオも寂しい幼少時代を過ごした所為で、決定的に人を憎めるようには出来ていなかった。
「サラティアナ。馬車を回してもらってくるから、此処で待っていてくれ」
サラティアナにそう言って取って返そうとしたその時、通りに散らばる蒼い花を見つけた。
「リンファス……! 此処に来ていたのか……!」
「ロレシオ、もうあの子のことは忘れて! あの子は貴方の隣に相応しくないわ。貴方の立場を何も分かってないあの子は貴方の足を引っ張るだけよ。それを分かってもらう為に、あの子に来てもらったのよ」
ロレシオはサラティアナに向き合った。
「なんてことをしたんだ、サラティアナ。リンファスに誤解されるようなことを……。
それに、君はそう思うかもしれないけれど、知らないことはこれから覚えていけば良いだけだろう。リンファスは学ぶ機会に恵まれなかっただけで、学びさえすればきっと知識は追いつく。彼女の生き方がそうだからだ」
常に『役割』を求めていたリンファスのことを思い、ロレシオはそう言った。
「それにイヴラと花乙女は、貧富の差や立場の違いで隔てられるものではない。歴代の王妃にも庶民の出の方は居る。そのことは君も知っているだろう?」
ロレシオの意志の強い瞳に、サラティアナは泣きそうな顔をする。
「そんなにあの子が良いの? 私と、何処が違うのよ……!」
ロレシオはサラティアナに向き合った。自分に言い聞かせるように、ロレシオは言った。
「僕に、新しい生をくれた人なんだ。大事にしたい」
「……っ!」
サラティアナはロレシオの言葉にぽろぽろと涙を零した。
「……私と向き合って話をしてくれるようになったのも、それでなの……?」
そう。幼いあの頃に受けた傷から立ち直れたから、サラティアナとも向き合うことが出来た。静かに頷くと、諦めたようにサラティアナが項垂れた。
「……リンファスは父親と一緒に居るわ……。あの子さえ居なければ、貴方がもう一度私を見てくれるんじゃないかと思って、暫く地元に帰っていてもらおうと思ったの……」
リンファスの父親と言えば、リンファスに白い花さえも咲かせなかった人だ。リンファスをどう扱うかもわかったものじゃない。
ロレシオはサラティアナに馬車を用意すると、自分は馬を借りた。
「リンファスを連れ戻しに行く。君は宿舎に帰れ」
駆けて行ったロレシオをサラティアナは見送った。自分の初恋はこれで終わるのだと、理解した。
「リンファス!」
大声でリンファスを呼んだのはファトマルだった。別れた頃よりいくらかまともな服を着て、箱馬車から降りてきた。
「父さん!?」
驚きでリンファスが立ち止まると、ファトマルはリンファスをしげしげと眺め、これが花乙女か、と口の端を上げた。
「人間に花が咲くなんて信じちゃいなかったが、こうなると俺にもまだ運がある」
何のことだろう。疑問に思っていると、ファトマルはリンファスの腕を引いてリンファスを箱馬車に乗せた。
いきなりのことでリンファスが何も言えないでいると、ファトマルが言葉を続けた。
「貰った金は使いきっちまった。お前は俺の為に尽くすよな?」
据わった目付きで言われて、過去の暴力を思い出す。青ざめて無言のリンファスに、ファトマルは言った。
「世の中にはお前みたいなやつでも見て楽しむって言う奇特な人間が居るらしい。
お前は俺の子供だ。俺が子供を働きに出したって、何の問題もないだろう?」
走り出しガタガタと揺れる馬車の中で、ファトマルがリンファスを睨みつける。
リンファスはファトマルに何も言えなかった。ファトマルが親であることは間違いないのだから、言い返す言葉もなかったのだ。
「お前は本当だったら、今でもウエルトで畑仕事をしてたかもしれないんだ。それを思ったら、次の仕事先はずいぶん楽なはずだ。文句は言わせねえ」
フン、と息を吐いたファトマルのそれが酒臭い。ファトマルが何を考えているのか分からなくて、リンファスは震えるしかなかった。
蒼い花を追って馬を走らせたが、途中で花がなくなっていて、ロレシオはリンファスの行方を見失った。
丁度花が途切れた辺りに散らばる花が多かったので、此処でファトマルと会ったのではないかと推測する。
ファトマルがリンファスを連れて行ったのなら、此処での目撃情報を集めた方が良いと判断した。
周囲に居た人に手あたり次第聞いて回ると、黒い箱馬車に花乙女が乗って、南の方へ行ったという情報は割と直ぐ入手できた。
南へ伸びる大きな街道は海沿いまでつながっている。ウエルトの村はインタルから東の方だから、ファトマルは地元へ帰っているわけではないのだと分かる。
ロレシオはファトマルの顔を知らない。罪人であれば捜索状を書けるが、ファトマルの目的が分からない。
村の仕事を手伝わせるなら南に行かないだろうし、ファトマルは貧しい生活をしていた筈だから、大陸の地理に詳しいわけでもないだろう。
アディアの中でも南の方は治安が悪い。その治安の悪い所へ、地理に詳しくないファトマルが向かっているのには何かの目的があって南へ向かっているのだと判断して、不安がよぎった。
更にロレシオが王都の警備隊で得た情報では、同行していた御者がハティ男爵家から報告が上がっている海賊の一員だということが分かって、最悪の事態を想定する。
どうか何事もなく、と思わずにはいられない。
「ハンナ!」
インタルで唯一ファトマルの顔を知っているハンナにファトマルの特徴を聞こうと、ハンナに会いに来た。
丁度これから次の花乙女を探しに出るところで、ケイトと打ち合わせをしていた。ハンナは突然花乙女の宿舎を訪れたロレシオに驚いていた。
「どうされたのです、血相を変えて」
「リンファスが父親に連れ去られた!」
ロレシオが言うと、ハンナはさっと顔色を変えた。
「村へ連れ戻しに!? リンファスは最近花が咲いてきたところだとケイトから聞いたばかりなのに……」
「いや、村には戻ってないと思う。父親とリンファスを乗せた馬車は南へ街道を下っていくのをその場にいた人たちが見ている。
どういう目的か分からないが、最悪のことを考えなければならない」
「南……。……海ですか!?」
「ああ。海に出られるとまずいことになる」
セルジュから聞いていた海賊に攫われたとなると、リンファスをどう扱うか分かったものじゃない。
彼らの金儲けに使われる可能性は大いにある為、全ての手を打たなければならない。
「出来るだけ早く手配して奴らの根城を突き止めたい。その為には早く叔父に情報を聞く必要がある。
まずは叔父の家がある海沿いのハティ男爵領を訪問しなければならない。きっと男爵家では海賊の手がかりを持っている筈だ。
ハンナ、リンファスの父親の似顔絵を描くのを手伝って欲しい」
「も、勿論です……!
ロレシオさま、今までにも迎えに行く南方の花乙女の行方が分からなくなっていたことがあったのはご存じですか? 情報収集不足なのかと考えたりしたのですが、もしかして……」
ロレシオは召し上げられた後の花乙女のことしか分からない。
ハンナからもっと早くに情報を吸い上げることが出来ていたら、こんなことにはならなかったかもしれないとは思うが、今は過去を悔いるよりも兎に角早く行動を起こした方が良い。
国家警備隊の似顔絵師に連絡を、と思っていたら、ロレシオたちの騒ぎを聞きつけたイヴラたちが隣の棟からやって来た。
「リンファスが連れ去られたと聞こえたんだが……!」
「……君たちは?」
「僕はルドヴィック。こっちはアキムだ。僕らはリンファスの友人だ」
まるで宿舎で話したことのないイヴラなのに、リンファスの友人というだけで心配して出てきてくれたらしい。ロレシオは手短に事情を説明する。
「リンファスが父親に連れていかれた。行く先が地元の村ではなく、南へ下る街道を辿っているらしい。
海に出られると厄介だ。その手前で捕まえたい。
父親の考えが分からないから、二人が一緒に行動しているかどうかも定かじゃない。
リンファスを保護できなければ父親に目的を聞く必要がある。今から至急、似顔絵師に父親の似顔絵を描いてもらおうと思っていて……」
「そう言うことなら、僕に任せてくれ。絵は得意なんだ」
ロレシオの言葉にアキムが反応した。騒ぎを聞きつけて館でざわめいている花乙女たちの中から一人、本当です、とアキムを推す声がした。
「彼は絵が上手なんです……! 私もリンファスと一緒の所の絵を描いて頂きました! こ……、これ、その時の絵です……!」
見せられた少女・プルネルとリンファスが佇む絵は、確かに写実的で上手く描けている。彼の腕を使わないわけにはいかなかった。
「すまない、協力してもらえるか? 僕はロレシオだ」
「リンファスの為なら何でもするよ」
「何でも言ってくれ。プルネルの為にも連れ戻したい」
申し出を受けて、ロレシオは二人と固く握手をした。フードを被らない日中なのに、皆ロレシオのことを気味悪がらないのが不思議だった。それだけこの事態を重く見ているのだろう。
「早馬を用意する。まずは、ハティ男爵領でリンファスを連れ去った馬車の御者をしていた男の情報を知りたい。
昨今アディアの南東海域で勢力を増している海賊の一員らしい。男爵家で海賊たちの根城を知っていれば、なんとしてでもそれが知りたい」
ロレシオの言葉にルドヴィックが反応した。
「その話なら聞いたことがある。僕の家の領地だ」
何とそうだったのか。これは情報がいち早く手に入って良かった。
「すまないが、君の領地を訪問させてもらえるだろうか」
「構わない。父も海賊のことでは悩んでいたんだ。この機に叩ければ、家にとってもこんなに都合の良いことはない」
そう言ってもらって助かった。一刻を争う時に地の利に詳しい味方が居ることが何より心強い。
話し合いの最中に、アキムがハンナにファトマルの容姿を聞いて似顔絵を作っている。アキムの筆が素早くファトマルの顔を紙の上に描いていって、ロレシオたちがリンファスを捜索するための三枚の似顔絵が直ぐに出来上がった。
「よし、これで準備は整った。頼めるだろうか」
「任せてくれ!」
「友達の危機だ。何でもやるさ!」
強力な助っ人を得て、ロレシオは動き出した。
リンファスが海に出てしまうまでに保護しなければならない――――。
「新しい自衛の村?」
ロレシオは聞いたことのない話をルドヴィックから聞いていた。
心当たりがあると言ってハティ領についての話をルドヴィックがしていた。
「そうだ。
港から外れた崖を背中に小さな自衛の村が出来ているんだ。自ら自衛団を持ち、柄の悪い連中が集っていると、近隣の村から報告が上がっている。
ただ、その連中が何か領地内で問題を起こしたわけでもないから、こっちも干渉できなかった。税もちゃんと収めていたしね。
ただ、その産業は明らかになっていなかったんだ。土地自体は潮風に当たるやせた土地で作物が育つとは思えない。
かといって海側は崖だから船が着く場所もないと思っていたんだが……」
その村が海賊を匿っているのなら、セルジュの取引が妨害された理由も頷ける。
同じ領地内でなら、何処の家が何処の船と交易しているかなんてすぐに分かるだろう。
「自衛団を持っているなら、お行儀よく『ごめんください』も通用しないんだな」
アキムが忌々し気に吐き捨てる。リンファス誘拐と不正取引との二重の嫌悪で、苛立っているようだった。
「いいじゃないか。こちらが、より腕が立つことを実践で証明すればいいだけのことだろう?」
そうって不敵に笑ったルドヴィックは、普段の温厚な彼からは想像もつかないような好戦的な炎を瞳に燃やしていた。
「イヴラとしてインタルに集められて、若干腕の振るいどころがなかったところだからな。僕も自分の腕が海賊相手にどこまで通用するのか、試したいね」
口端を吊り上げるアキムも、やはりプルネルやリンファスの前で笑みを見せたアキムではなかった。
三人とも、彼らの行いに怒っていた。友人として、想う相手として、大切な人を失う訳には、断じていかなかったのである。