――『君が自分に対して自信が持てなかったのは、君の父親の罪だよ』
ふと思い出したのは、この前のロレシオの言葉だった。
あの時ロレシオは、リンファスのことをファトマルの呪縛の中に居ると言った。確かにファトマルに否定され続けて、自分は役立たずなんだと思っていた。
でもインタルに来て、ケイトからも、ハラントからも、プルネルからも、ねぎらいの言葉を貰った。
それが如何に幸せな事なのかという事を、リンファスは身にしみて感じていたし、館の乙女たちの役に立てることは、リンファスの自信を育てていた。
それが、何も出来損ないの役立たずではない、と知ることに繋がっており、ロレシオが言う、『ファトマルの呪縛』からは解き放たれているのではないかと考えるのだ。
それに。
(この、蒼い花……)
ロレシオが贈ってくれた蒼い花があるから、リンファスはお腹いっぱい食事を出来るし、以前は出来なかった、アスナイヌトへの花の寄進も出来るようになった。
勿論、プルネルやアキム、ルドヴィックからの花もそれぞれ美味しいのだが、ロレシオの花は、より甘くて満たされる気がする。
ロレシオはリンファスのことを『友人』だと言ったのに、プルネルたちがリンファスに対して思っている『友人』とは違うのだろうか? それに……。
リンファスも、思いの外野外音楽堂でのダンスが楽しくて、ロレシオに対して一気に親密感を持った。
窮屈な、宿舎と茶話会や舞踏会、という生活から抜け出した友人……、いわば『同志』だった。
収穫祭に似たダンスを楽しいと言い、リンファスの素行を注意しなかったロレシオも、あの生活を窮屈に思っていたに違いない。そう思うと、カーニバルがますます楽しみになる。
カーニバルでどんなロレシオに出会えるのだろうと思うと、気持ちが落ち着かなくなる。とくんとくんと拍動を打つ心臓に触れながら、リンファスは知らず微笑んでいた。それを、プルネルに指摘されて気付く。
「リンファス、どうしたの? なんだかうれしそうだわ」
「えっ……? え、そ、そうかしら……」
今まで心臓が動悸するときは、必ず怒られることを予兆しての時だったので、嬉しそうと言われて、困惑しつつも改めて自分の感情に向き直る。
そして、あの収穫祭でのことが、リンファスにとって初めて《《羽目を外した》》行動だった、と感じた。
其処に一緒に居たロレシオも、おそらく一緒に羽目を外していた。
リンファスの行動は常に、誰かの役に立つ為ということで成り立っていた。その『呪縛の枷』が、一つ外れたのだ。
そう思うと、そうさせてくれたロレシオに対する感謝と、一緒に羽目を外して、リンファスを楽しい気持ちにさせてくれた彼に対する恩義が、心を満たす。自分は良い友人を持った、と思った。
「野外音楽堂で楽しいダンスを踊ったの。全然形式ばっていなくて、とても楽しかったわ」
「まあ、どなたと?」
プルネルが目を輝かせて問うので、この花の方よ、と言って、右胸の『友情』の花を撫でる。するとプルネルはとても喜んでくれた。
「リンファスが心を許せる方がまた増えて、私も嬉しいわ。花を贈ってくださった方なら、信頼できるものね」
そうか、花には乙女に取って贈り主をはかる手掛かりにもなるのか。確かにロレシオは信頼できる人だと思う。
「プルネルの言う通り、その人とお話してみて分かったの。
彼は私のことを友人だと言ってくれたわ。彼の言葉に納得できたのも、彼と話が出来たからなのよ」
リンファスがプルネルに対して微笑んで言うと、アキムが、いいね、その表情、と言ってカンバスに鉛筆を走らせた。
「リンファスは最初に会った時から比べて、随分明るくなったと思うよ。僕はいいことだと思う」
視線を、カンバスとリンファスたちの間で往復させながら、鉛筆を持たない方の手で持っている齧りかけのサンドウィッチを口にした。
「例えばこのパンだって、そのまま食べることも出来るけど、でもこうやって、いろいろな具材と合わせることで味が変わるだろう?
それと一緒で、君はプルネルや僕たち、そしてその蒼い花の主と関わって、変化してきている。それはとても君にとっても良いことだよ、リンファス」
リンファスの変化を認めてくれる友人が此処にも居る……。
リンファスの胸は、アキムたちの思い遣りにあたたかくなったが、どこか、違う、と感じた。
ふと、脳裏に音楽堂でロレシオと踊った時の光景が思い浮かぶ。あの時の暮れた夜空がとても美しいと思った。それと同時に、ロレシオの言葉がとても嬉しい、とも。
彼も、アキムやルドヴィックも、同じ『友愛』の花を咲かせてくれているのに、アキムのやさしい言葉がリンファスにもたらす喜びは、ロレシオがリンファスを認めてくれた時のそれに及ばない。
これは……、どうしたことだろう。疑問を顔に浮かべて黙っていると、やはりプルネルがリンファスの様子を察して、どうしたの、と助け舟を出してくれた。
「……同じ花を頂いて、同じように私のことを認めてもらっているのに、……なんだか心が騒ぐの……。
……同じ葡萄ジュースの筈なのに、違う葡萄ジュースを飲んだみたいな感覚になったの……」
「……言っていることが分からないわ、リンファス」
会って、話をしているのに、通じないこともあるんだ……。リンファスは胸の中のもやもやを、そのまま胸の深く閉じ込めてしまおうと思った。
その時口を開いたのはルドヴィックだった。
「同じ葡萄ジュースでも、違う味がすること、僕は分かるな」
微笑んでリンファスの疑問に応じてくれるルドヴィックに、縋りたい気持ちになってリンファスは問うた。
「なんだか……、どちらのジュースも美味しいんだけど、どこか違う気がするの……。葡萄の味は同じだわ。でも、違うの。ルドヴィックもそんな気持ちになったことがあるのね?」
リンファスの問いにルドヴィックは、実に明朗に、あるさ、と応えた。
「僕にとっての最高の葡萄ジュースの味は、サラティアナと一緒に舞踏会で飲む、葡萄ジュースの味だ。
この前君と一緒に飲んだ葡萄ジュースの味には、残念ながら劣ってしまう。これは葡萄ジュースの所為ではなく、僕の所為なんだ。……つまり、僕は君とサラティアナを明らかに区別している。
君とサラティアナに咲いている、僕の花の形を見れば一目瞭然だと思うが、僕はサラティアナのことを愛しているが、君にその気持ちはない、という事なんだよ、リンファス。大変申し訳ない例えですまないが……」
気持ちが……違う? 同じ『友情』の花を貰っているのに、リンファスが、……違うという事……?
「わ……、私がルドヴィックにとって、愛して幸せにする相手じゃないという理由はとてもよくわかるわ。
だって、私はこんなに痩せぎすでみっともなくって、きっと今だって、周りから見たら、貴方たちに釣り合っていないって指を指されて当たり前ですもの……。
サラティアナさんと比べるまでもないわ。分かり切ったことよ」
「リンファス。君は自分をそこまで卑下しなくても良いと思うよ。
ただ僕が、サラティアナを愛している、それだけのことなんだ。
だから、君の疑問は君を僕に置き換えてみると分かりやすいと思うよ。
君は……、僕たちには想わない何か別な感情を、もう一つの葡萄ジュースに傾けているっていう事なんじゃないのかな」
ルドヴィックたちには想わない……別な感情?
「な……、何かしら……。別な感情って……」
リンファスの戸惑いを楽しむように、ルドヴィックは笑った。
「ははは。僕と、もう一つの葡萄ジュースが花乙女だったら、君にそれを示してあげられるのにね。
こういう時に、花が咲かないっていうのは、本当に相手の気持ちを表現するのに不便だよ」
……ルドヴィックも、ロレシオと同じようなことを言う……。『鏡』で自分の姿を見られたらどんなに良いだろうかと、姿見を知った人ならみんなそう言うんだ……。
リンファスがルドヴィックの言葉にぽかんとした顔をしていると、彼は茶目っ気たっぷりに人差し指を口の前に立ててこう言った。
「しかし、花で示されないからこそ、人間の心というものは尊いんだと思うよ。
人を思い遣り、相手のことを想って自分がどう在れるかと自らに問う。
これこそ、人が複雑な想いをもって感情の糸を絡め合う、人間たる一つの理由なのではないかな」
人間である、理由……。
リンファスはルドヴィックの言葉を自分なりにかみ砕いた。
ウエルトの村では、リンファスに向けられる人々の気持ちは一辺倒だった。
それ故、リンファスもすべてを受け入れ、耐えるという事しか出来なかった。
しかしインタルに来て周りの人に少しずつ受け入れてもらって、リンファスは受け入れて、耐えるだけではない感情を知った。
それは友への気持ちを差し出すことだったり、支えてくれる大人を頼ることだったりした。
また、リンファスに向けられた言葉に俯くだけではなく返事を返すことも覚えた。
人と話して分かり合っていくうちに、『憐み』から『友情』、『友情』から『友愛』へと、与えられる感情が変化してきた。
その花を受け取って咲かせたリンファスもまた、与えられた感情を肯定し、少なくとも同じだけは返しているのではないだろうか?
だってロレシオは、リンファスがどうして自分に対して話し掛けてくるのだろう、という疑問という『興味』を持ったら、ロレシオもまたリンファスに対して『興味』をもってくれたではないか。
花乙女とイヴラ、……つまり、人と人との間には、感情のやり取りが必ずあって、それが花の形が変わるように変化していく。
その真っただ中に、リンファスは居るのだった。
花を咲かせる側でないリンファスは、それを表す言葉を持たなければならない。
「……難しいのね……。人と話して……、分かってもらうって……。貴方たちイヴラが花乙女に花を咲かせて嬉しい気持ちが、少しだけ分かるわ……」
少なくとも、難しい言葉が要らないから……。形となって見えるから……。
今、この胸の中にあるもやもやも、花の形にしてしまえたら、どんなに分かりやすいだろう。
それを見ることが出来ないから、リンファスはもやもやと向き合わなければならなかった。
……実に、難しい問題だった。
ロレシオは次の金曜日にケイトに手紙を送ってくれた。
リンファスは前回同様やはりケイトに読んでもらって、明日午後五時にこの前と同じ楡の木の下で、とロレシオが連絡してきたことが分かった。
手紙を部屋に持ち帰ったリンファスは、少し心持ちが落ち着かないで居た。
以前のようにお腹の底がそわそわする気もするし、胸がどきどきする気もする。
今の気持ちを言葉で表現できずに居て、すっきりしない。言葉でかみ砕いてすっきりできたら良いのに……、とリンファスは思った。
ウエルトの村でただただ働いていた頃は、自分のことで悩むなんてなかった。じっとしていられなくて、部屋の中を無意味にうろうろとしてしまって、だから部屋のドアがノックされたときは飛び上がるほどびっくりした。
「リンファス、良いかしら?」
プルネルだ。丁度良かった、この悩みを聞いてもらおう。そう思ってリンファスはドアを開けた。
「プルネル! 丁度良かったわ!」
「えっ、どうしたの? リンファス」
出迎えるなりそう言ったリンファスに、プルネルはしかし話を聞いてくれた。
明日、ロレシオに会う前に自分なりに気持ちを落ち着けておきたい。
このままではどんな顔をしてロレシオに会ったらいいか分からない、というようなことを、たどたどしく説明した。
プルネルはリンファスの言葉を根気強く聞いてくれて、そして微笑みながらこう答えた。
「頂いた花に感謝をして、その方にそう伝えたら良いと思うわ。
リンファスが今落ち着かない気持ちになっているのは、その方が貴女にとって特別な方になっているからなんじゃないかしら?」
「特別……?」
リンファスがおうむ返しに問うと、プルネルはそうよ、と言って続けた。
「アキムやルドヴィックには感じない気持ちを思っているのなら、少なくとも彼らより『特別』なんだと思うわ。
貴女がこの前、ジュースの味が違うと言ったのも、その方のことだったのかしら?
リンファスがそうやって気にするのも無理ないと思うわよ。だって、貴女に次々と花を咲かせてくれた人ですもの。私だってそんな方がいらしたら、きっと気にしてしまうわ」
「そうなのね……。そういう時に、どういう気持ちで居たら普通に振舞えるかしら……。なんだか普段通りに振舞えない気がするのよ……」
こんなことを感じるのは初めてだ。
自分が話術に長けていないことは十分に知っていたし、ロレシオが知って楽しいようなことを話せる過去の持ち主であるとは思えない。
不安になって聞くとプルネルは、そのままでいいんじゃないかしら、と言った。
「その方だって、気持ちを偽ったリンファスに会いたいわけではないでしょう? リンファスは自然にして居たら良いと思うわ」
そう……、なのだろうか……。リンファスのこれからの『証』になってくれるというロレシオを、がっかりさせたくない。
「リンファス。貴女に花を贈ってくださった方に対して、貴女は自分を卑下しすぎてはいけないわ。貴女のありのままを認めてくださった方に、失礼になるから」
プルネルの言葉にハッとする。
今まで常に自分が至らないことを嘆いてきたが、そんなリンファスに花を贈ってくれたロレシオは、至らない筈のリンファスに『興味』を持ってくれて『友人』だと思ってくれたのだ。そのことを、大切にしないといけない……。
リンファスに咲いた『友愛』と『友情』の花がふるりと揺れて、リンファスを励ました。
「そ……、そうね、プルネル……。貴女の言う通りだわ……。……私、この花を贈ってくれた彼の気持ちを大切にする。そうすることで、彼を大切にすることに繋がるのね……」
「そうよ、リンファス。そうやって、心と心が結ばれて行くんだわ」
微笑んでリンファスを落ち着けてくれたプルネルに感謝する。明日が、待ち遠しくなった。
「わあっ! 凄い!」
リンファスはロレシオが連れてきてくれたカーニバルの様子に興奮状態になった。
軒先にランタンを灯したテントが幾筋にも伸び、多くの人で賑わっている。
陽が暮れ行く藍からピンクへのグラデーションで美しい空の下に大小のオレンジ色の光が輝き、人々が楽しそうに行き交っている。
その様子に心が躍って、昨日落ち着かないで居たことなんて忘れてしまった。
……勿論、待ち合わせの時には少し緊張したのだけど。
『リンファス、どうかしたの?』
先に楡の木の下に居たロレシオと会った時、リンファスはそう言われた。
昨夜プルネルに自然に、と言われたのに、やはりどこか緊張してしまったようだった。
『あの……、私、……村では友達が居たことがなかったから……、何を話したらいいのか……』
不安で先にそう言ってしまうと、ロレシオは、ははは、と笑った。
『言っただろう? 心を飾る言葉を、僕は信用できないと。ありのまま居てくれたら、それで良いんだ』
『……それでロレシオは、楽しめるのかしら……』
リンファスの不安に、ロレシオは明快に答えた。
『楽しいさ。僕は今、二度目の人生を歩んでいる気分だからね。
君が与えてくれた人生だ。君に感謝しこそすれ、君のことを不快に思うことはないよ。君に咲いている花が証拠だと言えば、分かりやすいかい?』
ロレシオに言われて、自分に咲いていた花を見た。確かにロレシオの花はリンファスに咲いていて、そのことがリンファスを安心させた。
『……そうね、ごめんなさい、貴方を疑うようなことを言ってしまって……。どうしても自信が持てなかったの。でももう止めるわ。貴方に失礼だから』
『そう。それでいいんだ、リンファス。僕たちは互いに友情を感じ合っている。そのことを、誇らしく思うよ』
ロレシオはそう言ってリンファスをカーニバルに誘(いざな)ってくれた。
「テントの数が凄いわね。見ているだけで楽しいわ」
「そう? だったら良かった」
リンファスとロレシオは歩きながら市を見て回った。
途中、小さな砂糖菓子を並べているテントがあって、かわいらしい花の形をしたものが什器に盛られていた。
以前ルドヴィックがサラティアナの為に買ったという花砂糖とはこういうものかな、と興味深く見た。
その並びのテントに、白くて小さいパンが売っていた。
花乙女にとって一番美味しいのは自分に咲いた愛情の花だが、一方で花乙女も人間であるので、普通の人間と同じ嗅覚・味覚は持っている。
その、リンファスの人間としての嗅覚を、パンの焼きたての香ばしい香りがいとも簡単に刺激した。
リンファスが見たことがあるパンは、どれも焼き色が付いていて表面が茶色いものだったから、真っ白いパンというのは珍しかった。
そう言う意味でも、そのテントは賑わっていた。
「さー、買って行っておくれ! 特別な製法で作った、ふわふわな真っ白いパンだ! 中には特製のクリームが入ってるよ!」
パンにクリームが入っているだって?
パンと言えばウエルトで食べていた干からびて固いパンか、インタルに来てから花が咲くまでの間に食べた、茶色い焼き目のついたパンしか食べたことがない。
どちらも勿論、パンに混ぜ物などなく、だから、クリームが入っている真っ白なパン、という紹介に、リンファスは心惹かれた。
テントの前には人が群がっていて、リンファスも人の間からテントの什器に山積みにされたパンの形を見る。
……丸っこくて、小さくて、そして何より真っ白だ。
客は次から次へとその白いパンを買い求めていて、店主が次々と紙袋に客が求めるだけの数のパンを放り込んでは渡していた。
どんな味なんだろう。そう思ったのがロレシオに伝わったのか、気になる? と尋ねられた。
「そ、そうね……。真っ白いパンって、どうやって焼くのか、まず興味があるわ。
それに、混ぜ物のあるパンだなんて、初めて聞いたわ。インタルではよく売っているの?」
「いや、僕も混ぜ物のあるパンは初めて聞いたな……。
どうだろう、一つ買ってみないかい? お祭りらしく、食べながら歩こう」
ロレシオの提案は、何とも楽しそうだった。
リンファスが喜んでこくこくと頷くと、ロレシオは人だかりの中に入って行って、少ししてから手に紙袋を持って戻って来た。
「凄いな。まだあたたかいよ。テントの奥に小さな石窯を持っていた。
きっとキャラバンが持つ調理道具の一つとして使ってるんだろうね。
あんなに小さな窯は見たことがなかったな。旅をするというのも、工夫の連続なんだろうと思うと、彼らの発想には驚かされるな」
ロレシオはそう言って、紙袋の中から白くて丸いパンをリンファスに渡してくれた。
本当だ。まだほのかにあたたかくて、冬だったら湯気が出たかもしれない、というあたたかさだった。
リンファスは両手でパンを持ち、はむっと白い表面に食いついた。
ふわふわの食べ心地。舌に当たった生地がほろほろとほどけていく感触。そして齧ったところからじわりと溢れる、甘くて卵色のクリーム。
これは、人間の食べ物としては、かなり美味しい。茶話会で出るケーキやスコーンよりも、あたたかい分美味しさが増していた。
「すごい! こんな食べ物、初めてだわ!
この卵色のクリーム、滑らかでとてもやわらかいのに、パンから零れ落ちないのが不思議!
これは……ミルクと砂糖なのかしら? 初めて花茶を飲んだ時の味に似ているわ。
それにパン生地! パンって、こんなにふわふわに軽く焼けるものなの? 窯で焼いているんでしょう? とても不思議だわ!」
興奮した様子でパンの齧り口から覗く卵色のクリームを見ているリンファスの横で、ロレシオもまた、白いパンを頬張る。
「へえ、本当だ。こんなパンは初めて食べたな……。
このパンをインタルのパン屋で売ったら、かなりお客が集まるんじゃないかな。
まず、パンにクリームを閉じ込めようとした発想が凄い。それに、焼き色がついていない白いパンというのも、珍しいからね」
ずっとインタルに居るロレシオでもそう言うのなら、本当に珍しいパンなんだろう。
リンファスはもうひと口はむっとパンに齧りつき、中に閉じ込められたクリームを頬張った。
「本当に不思議なパンだわ……。花のように甘いパン……。ああ、とっても不思議!」
夢中で白いパンを食べていたら、ふとロレシオがリンファスのことをじっと見た。
「なあに? ロレシ……」
「はは。リンファス、クリームがついてしまっているよ。これは食べるのが難しいから、仕方ないね」
ロレシオはそう言って、リンファスの口許を親指で拭った。
ほら、と見せてくれるロレシオの親指には、卵色のクリームがほんのひと欠片。
しかし、明らかにサラティアナやプルネルがしなさそうな失敗をしてしまい、リンファスはその場で恐縮した。ウエルトで見たことのある、幼子が母親に世話を焼いてもらっている状態と、まるで同じだった。
「ご……っ、ごめんなさい、ロレシオ……。子供みたいね、私……」
ロレシオからは、そうだね、子供のように世話が焼けるね、そういう呆れた言葉が返ってくるのだと思っていた。
しかしロレシオは指についたクリームをぺろりと舐めると、これで一緒だ、と楽しそうに笑った。
「指についたクリームを舐めたのなんて、子供のころのお茶の時間以来だ。
これで僕たちは二人とも子供っぽいってことで、おあいこだよ」
リンファスは、ロレシオのしたことをぽかんと見ていた。
失敗すると叱られるんだ、と身に染みて知って来たリンファスの記憶をまるで刺激しない、楽しそうな声だ。
「……怒らないの……? 呆れて、しまわないの……?」
当然の疑問だった。ウエルトで誰かに手間を掛けさせたら、これだから役立たずは、と罵声が返って来た。
年相応、それ以上の働きをしなければ、見捨てられた。それなのに、リンファスに合わせて子供っぽいことを示してくれるなんて!
ロレシオはリンファスの言葉を意外だ、と言わんばかりに口許を三日月のように美しくカーブさせて、肩をすくめた。
「何故? 君と一緒に楽しめて、僕は嬉しいよ。
楽しい時は、自分の年齢(とし)も忘れて子供みたいにはしゃいでいいんだ、って君が笑って示してくれたから、僕も真似してみたんだ。
実際、子供みたいな仕草は楽しいね。しがらみが取り払われたような気分にさえなるよ」
ロレシオが抱えるしがらみとはなんだろう。
「あの……、聞いても良いかしら……?」
「? どうぞ?」
人の内側に踏み込むのは勇気が要る。しかし、リンファスの心の中に、どうしてもロレシオを理解したい、という気持ちが芽生えていた。
リンファスにこんなに親切にしてくれる理由は、彼の人生を息吹かせたからだけなのか。それが理由で、こんなにリンファスに親しくしてくれるものなのか。
友達が最近まで居なかったリンファスは、他人の気持ちを推し量ることが苦手だ。
リンファスがイヴラのように相手に花を咲かせることが出来ない以上、言葉で問わねばならなかった。
「……私、……本当に……、貴方の友達として、相応しいのかしら……。
貴方は色々なことを知っていて、私は何も知らなくて、教わるばかりよ……。
貴方にしてあげられていることなんて、『鏡』としての役割くらいしかない……。あまりにも天秤が傾きすぎているわ……。
……それを、貴方はおかしいとは思わないの……?」
常に結果を求められてきて、求めることに応じてこられなかった。
長年一緒に住んでいたファトマルの世話だって満足に出来なかったのに、最近知り合ったばかりの人に満足してもらえているとは、到底思えない。
するとロレシオは、また出たね、と口の端を上げた。
「君はインタルに来てからいろんな人の役に立っていた筈だ。それは前にも言っただろう? どうしてもそれを認められないのは、君の人生にとって、実に不幸なことだと僕は思うよ。
急がなくて良い。周りの人の言葉に耳を傾けてごらん? 誰も君を、悪く言ったりしていない筈だ。
君に感謝し、楽しい時間を過ごしていると言ってくれる筈だ。僕も同じだよ。
それは君に新しい人生を貰ったからだけじゃない。僕は、君の屈託のない笑顔に救われているんだ……。言いようのない感謝を感じているよ」
笑顔……? こんな陰気な顔の自分の笑顔だって?
「……館には、もっときれいな花乙女がいっぱいいるわ。プルネルだって、サラティアナさんだって、着いている花が負けてしまうくらい、綺麗に笑うのよ。私みたいな不景気な顔を……」
「リンファス」
如何に自分の笑った顔に価値がないか分かっていたから、それを述べようとしていたのに、ロレシオはリンファスの言葉を厳しい声で遮った。
オレンジ色のランタンの灯りに照らされた長いまつげがゆっくりと瞬きをし、リンファスをひたと見つめていることが分かる。
「お願いだから、それ以上、僕の友達を貶さないでくれ。大事な……友達なんだ。……とても。……君には、分からないだろうけれど……」
友達、と言ったのが、自分のことを指しているのだと、リンファスは分かった。
リンファスにとって自分なんて何の価値もない人間だったが、それを言ってはいけないらしい。
……どうして?
「君がそう言う発言をするのは、君が本当の意味で僕を生きていく証として認めていないからだろう?
僕のことを、本当に君の生きる証にしてくれたなら、今君の口からそんな言葉を聞かなくて良かったんだ」
……どういうこと? ロレシオの言いたいことが分からない。
「わ……、私だって、貴方を証にしても良いくらいの人間になりたいと思っているわ……。本当よ。あの時言った言葉は、嘘じゃないわ……。
……でも、今はまだ私は至らないことだらけで、釣り合わないことが多すぎるわ……。だから私……」
恐る恐る言葉を紡ぐと、ロレシオは少し雰囲気を和らげて、すまなかった、と謝罪してくれた。
「大事な友達を傷付けられることは、……とても辛いことなんだ……。
君も、同じ花乙女の友達に置き換えて考えてみてくれないか。彼女が君に対して自分を卑下したら、どれだけ君は辛い思いをするだろう。
それと同じことを、君は今、僕にしたんだ。
君が自信を持てないのは十分理解しているよ。お父上の呪縛はとても強固だ。
それでも、あの時、これからの証を僕に見てくれると言ったのなら、君は僕に対して、君を傷付けてはいけない……。
僕が、君に対して僕自身を傷付けないように」
友達だから……。生きる証として居てくれる存在だから……。
だからその大役を請け負ってくれたロレシオを、傷付けるような人間であってはならない。
頭の悪いリンファスに、丁寧に言葉を重ねてそう教えてくれたロレシオに、感謝する。
思いやりが巡る。
ロレシオがリンファスを思い遣ってくれたことで、リンファスが気付けたこと、知ったこと。
それをいずれ、ロレシオに返せたら良い。リンファスが今感じた、震えるくらい嬉しい気持ちをそのままに。
「……私、……花以外で、貴方に喜んでもらえるような人間になりたいわ……」
自分の為に言葉を尽くし、心を掛けてくれるロレシオに、そう思う。
この込み上げる想いを、花で表現できたら良いのに……。
「やっぱりイヴラって、ちょっとずるいわ」
すねてリンファスが口を尖らせると、ロレシオはやっと笑ってくれた。
「でも、乙女が想いを受け取ってくれなければ、花は咲かない。
だから花が咲くのは、お互いの意思が通じている証なんだよ。
僕と君の間で、気持ちが通じている証だと思うから、この花を僕は誇りに思うよ」
ゆるりとした笑みを浮かべたままのロレシオが、リンファスの胸の花をするりと撫でる。ひらひらと花弁を靡かせる蒼の花は、ロレシオに触られて嬉しそうだ。
「ふふ……。花が嬉しそうだわ」
「すごいな、そんなことも分かるの?」
驚いた様子のロレシオに、そう感じるだけよ、とリンファスは言った。
「でも、私も嬉しいもの。ロレシオの友達で居られて、とても嬉しいわ」
微笑んでそう言うと、ロレシオの口許が満足そうに弧を描いた。
それから大陸の各地から集められた布や釦、糸などを取り扱っているテントも見た。
美しい光沢をした糸は色の種類が豊富にあって、店主が、大陸の東の方から取り寄せた貴重な糸だと教えてくれた。
艶やかなその糸の内の青色の糸が、リンファスに着くロレシオの蒼い花の色に、とてもよく似ていて素晴らしいと思った。
「お嬢ちゃん、気に入ったかい?」
リンファスが熱心に糸を見ていたら、店主がそう聞いてきた。
「あんた、花乙女だろう。気に入ったんなら要るだけ持って行けばいい。花びらを一枚貰って、買った金額を付けた帳簿と一緒に役所に出すと、後で国から売上がもらえるんだ」
リンファスがドレスを仕立てた時は、花乙女が用立てする店は登録制で、だから花乙女に使った分の売り上げは国から出るんだと店主のルロワが言っていたが、市でも花乙女が買い物をする為の仕組みが作られているのだとは思わなかった。
リンファスは店主の言葉に甘えて、その糸の青と黄色を少し分けてもらった。
「君は裁縫もするのか」
ロレシオがそう聞いてきたので、村では何でもしたわ、と応えた。
「繕い物から屋根の修理まで、何でもやったわ。父さんと私が生活する為の全てのことをしていたもの」
「……君の手が荒れていた理由が分かるよ。少し良くなっているね。良いことだ」
ロレシオはそう言ってリンファスの指先を手に取って見た。宿舎の少女たちとはだいぶ違う指先だろうに、ロレシオは微笑んでそう言った。
「倒れた時から比べると、頬も少しふっくらしたかな。あの時の君は、本当にひどかった」
「ロレシオの花を食べられるからよ。貴方には感謝しなければならないわ」
「それを言ったら、僕だって同じだ。だからおあいこだよ」
笑って言うロレシオが嬉しくて、リンファスも笑った。
「そうね。貴方が花乙女だったら、私の瞳の色の花が咲いたのかしら」
以前、アキムがリンファスに言った謎かけだった。
あの時はアキムに即答できなかったけど、いまなら彼の言葉の意味が分かる。
リンファスがロレシオに友情を感じていることを伝えたいように、アキムもリンファスに友情を感じていると伝えたかったのだ。
リンファスがふふふと笑うと、ロレシオも微笑んだ。
「そうだね。全身紫の花だらけになって、君に見せてあげたかったよ」
想像するだけでおかしい光景に、二人で大きな口を開けて笑う。
その後も色々なテントを見て回った。あたたかそうな毛皮が並んでいたり、眩い宝石が並んでいたりもした。
美しく加工された宝石を並べているテントでは、店主の強引な勧めで店主自慢のアクセサリーだという品々を見ることになった。