***
学校へは問題なく通えるようになった。
少し周囲の視線が気になる時はあれど、なにかあれば沙良が配置した警備が駆けつけてくれるというのは心強かった。
なによりそばには子鬼たちと龍がいるのだから滅多なこともないだろう。
目立った騒ぎも起きず一週間経過した週末の休みの日、同じく休みだった玲夜とまったりと過ごす。
後ろから包み込まれるように抱きしめられている柚子は、目の前のテーブルにパソコンを置き、玲夜と新婚旅行の行き先を話し合っていた。
「ねえ、玲夜はどんなところに行きたい?」
「柚子がいるところならどこへでも」
柚子の耳元で甘く囁くと、玲夜はこめかみにキスをする。
カッと頬を赤らめる柚子を楽しげに見つめる玲夜はクスリと笑う。
「いいかげん慣れろ。一緒に過ごすようになって何年経ってるんだ」
「自分でもそう思うけど、やっぱり玲夜が相手だとそうもいかないのっ!」
柚子の旦那様は、人外の中でもとびっきりの美しさを持った玲夜である。
毎日飽きるほど見ていてもその綺麗な容姿に見惚れてしまうのは、玲夜と出会って何年も経った今も変わらない。
玲夜の顔を見るたびに恋してしまう。
愛しさがあふれて柚子の中では昇華しきれないぐらいなのだ。
キスをされて未だに恥じらう柚子は、自分でも落ち着けと言いたくなるほど心臓がバクバクと鼓動が激しくなってしまう。
「玲夜が格好よすぎるながいけないんだもの……」
すねたようにつぶやく柚子の理不尽な八つ当たりは、逆に玲夜を喜ばせるだけであると柚子は気づいていない。
玲夜は一瞬動きを止めたかと思うと、今度は荒々しさのある手の動きで柚子の顔を後ろに向かせ、深い口づけをする。
柚子が驚きのあまり目を大きくしたが、逆らうことなく玲夜に身を任せる。
壊れ物を扱うように優しく。
それでいて逃がさぬように強く抱きしめられる。
まだ玲夜と出会って間もない頃は、戸惑いと恥ずかしさがいっぱいで他のことなど頭になかった。
確かに玲夜で頭がいっぱいなのは今も変わらないのだが、柚子を満たすのは戸惑いよりも大きな幸福感だった。
ずっとこの時間が続けばいいとすら感じている。
けれど、その時間の終わりを告げる音が部屋の外から聞こえてきた。
「失礼いたします。今よろしいでしょうか?」
ノックの後に聞こえてきたのは使用人である雪乃の声だ。
それでもまだ柚子を貪ろうとする玲夜を慌てて止めて、雪乃を部屋の中に呼ぶ。
「ど、どうぞ!」
玲夜はやや不機嫌そうだが、こればかりは仕方がない。
雪乃は入ってくるや、柚子に封筒を渡し、すぐに部屋を出ていった。
「手紙?」
差出人の名前も書いていない封筒だったが、裏に描かれていた撫子の花と狐の絵に、誰からのものかすぐに分かった。
「撫子様からだ」
玲夜も柚子を抱きしめながら後ろから覗き込む。
封を開ければ、中に入っていたのは前回届いた時と同じ、時間と場所が書かれた紙と狐の折り紙だ。
「花茶会のお誘いみたい。あっ、まだなにか入ってる」
今回は別に撫子からの手紙が入っていた。
「なんだって?」
「えーと。花茶会を開催するから、今回は招待客としてではなく、桜子さんと一緒に、手伝いとして参加してくれって」
撫子からいずれ花茶会を任せたいとお願いされたのは、初めて参加した前回の花茶会の時だ。
自分などにそんな大役を任せられてもとてもやりきれないと最初は断ったものの、桜子も補佐としてともにいるからと頼まれた。
花茶会は、普段窮屈な生活を送る花嫁たちのための息抜きをかねた集まりだと知り、柚子は断り切れずに了承してしまったのだ。
今からでも断れないかと思うが、花嫁を思うとそうもいかない。
他の花嫁とはなしたことで、自分がどれだけ恵まれているかを知ったから。
「参加するのか?」
「うん。お手伝いなら行かないわけにはいかないしね」
玲夜はなぜか眉間にしわを寄せている。
「玲夜は嫌なの?」
「柚子が悪影響を受けないか心配だ」
「悪影響って、ただの女子会だよ?」
なんの心配をしているのかと、柚子はクスクスと笑った。
しかし、玲夜は真剣そのもののよう。
「花嫁の中には、あやかしに囲われる状況に不満を持って、あやかしを憎んでいる者もいるからな」
「あー……」
柚子が顔を曇らせたのは、前回の花茶会で会った穂香という花嫁を思い出したからだ。
彼女からは旦那であるあやかしに対する憎しみすら感じた。
柚子のまだ知らない花嫁の苦悩。
それを考えると、彼女たちをまとめていけるのか不安がないと言ったら嘘になってしまう。
けれど、花茶会を唯一の逃げ場としている花嫁たちがいると知っては、関わりたくないとは言えない。
玲夜の不安な気持ちも分かる。
柚子が、穂香が旦那を嫌悪するように、玲夜を嫌わないか心配なのだろう。
いつかその重すぎる愛情ゆえに、玲夜を嫌う日が来るのか今は分からない。
けれど、今言える確かなことがひとつだけある。
「大丈夫だよ。玲夜が今の玲夜でいてくれる限り、私が玲夜を嫌いになんてなったりできないもの」
誰よりも愛する人。
自分に惜しみない愛情を与えてくれる人。
愛することを恐れてすらいた自分に、見返りのない無償の愛情を信じさせてくれた人。
どうして嫌えるだろうか。
「それに、撫子様からも言われてるの。玲夜との自慢話をしてくれって。たくさん惚気て、玲夜はこんなに素敵な旦那様だって皆に知ってもらわないと」
ニコリと微笑めば、玲夜はあきらめたように苦笑した。
「そうか。ほどほどにな」
「うん」
どうやらお許しは出たようだ。
早速狐の折り紙に向かって「参加します」と告げると、折り紙だったものは小さな狐に変化してどこかへと消えていった。
「やっぱり不思議だ……」
二度目なので驚きはしなかったが、不可思議なことに変わりはなかった。
これは花茶会のたびに送られてくるのだろうか。
狐の折り紙だけでも、花茶会のお知らせが来るのが楽しみになってきた。
だが、もし柚子が撫子と沙良から主催の権限を譲られてしまったらこの狐はどうなるのだろうか。
きっと狐の折り紙を楽しみにしている花嫁は柚子だけではないはずだ。
しかし、ただの人間である柚子に、折り紙を狐にするような芸当ができるはずもない。
「これは要相談だ……」
できれば狐の折り紙だけでも手に入れられないものか。
柚子は今度の花茶会で相談することにした。
そして花茶会前日、柚子は翌日に着る服を準備していた。
前回は着物だったが、明日は洋服で行く。
それは、いつも花茶会では招待客が洋服か和服のどちらを選んでもいいように、沙良が洋服で撫子が和服であると聞いたからだ。
そんな沙良たちに倣って、同じく手伝いに行く桜子と相談して、彼女が和服というので柚子が洋服を着ることにした。
どうやら今回、透子は呼ばれていないらしく、かなり心許ないが、桜子がいるのでなんとかなるだろう。
それに、龍も一緒なのだ。
子鬼は留守番だが、前回、ついて来ては駄目だと言っていたにもかかわらず、潜り込んだ龍。
今度は絶対に連れていかないぞと柚子が念を押していたら、どうやったのか、龍を連れてきていいという撫子直筆の手紙を持って帰ってきたのだ。
これで誰はばかれることなくついていけると、龍は『うはははは~』と大笑いしていたが、子鬼たちの許可は出なかったために、龍は子鬼たちからじとっとした眼差しで見られていた。
やはり玲夜が作った使役獣と、神に近い生き物である霊獣とでは扱いが違うのかもしれない。
子鬼はトコトコと柚子のところへやって来て、両手を組んでお願いのポーズをとると、上目遣いで柚子を見る。
「柚子~」
「僕たちも行きたい~」
ウルウルとした目で見あげられ、柚子はうっと言葉を失う。
いったい誰だ。子鬼にこんな仕草を教えたのは。
いや、犯人は捜すまでもない。
絶対に透子だろう。
柚子におねだりの仕方を伝授したように、子鬼にも同じことを教えていたのだろう。
平凡な容姿の柚子と違い、かわいさが限界突破している子鬼の破壊力といったらない。
同じ仕草でもこうも違うのかと、柚子はなんだか悲しくなってきた。
とは言え、どれだけ子鬼がかわいさ爆発状態でも、連れていくわけにはいかない。
花茶会は花嫁のための集まりなのだ。
「だーめ。子鬼ちゃんたちは連れていけないの。ごめんね」
子鬼はガーンとショックを受けたようにうなだれた。
そして、いまだ上機嫌に笑っている龍をギッとにらむと、飛びかかった。
「ずるい~」
「ずるいずるい~」
ふたりはポカポカと龍を叩いている。
『これ、やめぬか!』
「龍だけずるい!」
「僕たちも行きたいのに~」
『柚子、止めてくれ~』
これ見よがしに喜ぶからだと、子鬼たちに責められる龍を自業自得に思った柚子だが、仕方なく龍をすくいあげる。
「はいはい。子鬼ちゃんたちももうお終いにしてね」
「う~」
「む~」
頬を膨らませた不機嫌さいっぱいの顔は、なんともかわいらしい。
柚子は仕方なさそうに小さく笑ってから、子鬼たちを撫でた。
「子鬼ちゃんたちはまろとみるくと大人しく留守番しててね」
しぶしぶという様子で、子鬼たちは「あーい……」と返事をした。
ごねてもどうにもならないと理解したらしい。
「使役獣って皆子鬼ちゃんたちみたいな感じなのかな?」
あやかしが霊力で作る存在だが、なんとも表情豊かだ。
『童子たちは特殊なだけだ。普通の使役獣はあのように強い感情を持っておらぬ。意思もない』
「そうなの?」
『うむ。柚子のところに送ってくる狐のように、主人の言われたことを忠実にこなす道具でしかないからな』
「道具……」
なんとも違和感のある言葉だったので、自然と柚子の眉間にしわが寄る。
『童子たちは霊獣三匹分の霊力を与えられたゆえに、少々普通の使役獣とは違って個を持ってしまっておる。創造主より柚子を自分の意思で選んだようにな』
子鬼たちは玲夜に従うことよりも柚子に従うことを選んだ。
誰かに強制されたわけでもなく、己の意思で決めたのだ。
それは一般的な使役獣ではありえないこと。
「それはいけないこと?」
『よいのではないか? 童子たちを作った本人がなんとも思っておらぬのだし』
確かに玲夜は特に気にしていないようだ。
玲夜ではなく柚子を選んだことに関しても、もともと柚子のために作ったのだからと子鬼たちを咎めることもない。
『本人たちも楽しそうだし、柚子は童子たちが表情豊かの方がよいであろう?』
「うん」
それは確かに間違いない。
『但し、他の使役獣が童子たちと同じだと思わぬ方がよいぞ。あれらは規格外の存在だ』
「そうなんだ。……分かった」
ふと、柚子は考える。
「私が使役獣を作ったりするのはできないの?」
『……人には得手不得手というものがあってだな……』
「回りくどい言い方しなくても、無理なら無理って言ってよ」
『無理だな』
柚子は肩を落とした。
分かっていたことだが、改めて否定されるとがっくりとしてしまう。
そして、花茶会当日。
悲しげに手を振る子鬼たちに「終わったらすぐに帰ってくるからね」と言い置いて、撫子の屋敷へと向かった。
到着した撫子の屋敷は、以前のように清浄な空気を感じる。
空気が澄んでいるのだ。
とても心地よく、なんだか体に力がみなぎってくるかのよう。
これも屋敷内に社があるからなのだろうか。
神聖な雰囲気は元一龍斎の屋敷で見つけた社と同じものを感じる。
他の人たちも柚子と同じ感覚でいるのか気になった。
本社へ訪れた日以降、できるだけ本社へ参るようにしている。
学校のある日にはほぼ毎日参っている。
そのせいだろうか。
これまで以上に感覚が研ぎ澄まされてように、社から発せられる清流のような清らかな力の流れを感じるのだ。
龍によると、それは神の力なのだという。
神子としての力が強まっている証拠だとも言われた。
柚子にはよく分からないが、悪いことではないらしいので放置している。
神子の力が強まったところで柚子にはなにが起こるわけでもないのだから、関係ないだろう。
しかし、本社へあれだけ通っているのだから、撫子の屋敷内にある社にも参っておくべきだろうか。
その辺りのことは、のちほど撫子に問うとして、柚子は屋敷の家人に案内されて参加者が集う部屋へ案内された。
今回は手伝いとしてやって来たので、招待客が来る時間より早く訪れていた。
しかし、部屋にはすでに桜子の姿があるので、柚子は慌ててしまう。
「すみません、桜子さん! 遅れてしまいましたか?」
「いいえ。私も今来たところですよ」
ふんわりと上品に笑う桜子に、やはり鬼の中でも特に美しいなと改めて実感しながら、桜子の品のよさはどうしたら身につくのだろうかと、何度となく感じた疑問を浮かべる。
「他の方もまだいらしておりませんから焦らなくても大丈夫です」
「それならよかったですが、お手伝いと言われると初めてのことにどうしていいやらで、昨日から緊張してしまって」
すると、桜子は口に手を添えてふふふと小さく笑う。
「たいしたことはしません。皆様の話を聞きながら配膳をするぐらいです。いずれは主催者として、中心になって話を回していかねばなりませんが、今はまだ見習いと思っていらしたらよろしいのではないでしょうか」
「見習い……。でも、そのうち主催者だなんて、私には大役すぎて上手にまとめられそうにないです……」
すでに負け戦のような気持ちである。柚子は頭を抱えた。
「前回の花茶会を思うと、余計にやっていけるか心配で……」
初めての花茶会は柚子のトラウマ回と言ってもいい。
新婚で浮き足だっている柚子を現実に引き戻した花嫁たちの本音。
まだ知らない花嫁の実態。
今日もまた前回の花茶会のように不穏な雰囲気にならないだろうか。
柚子はそれだけが心配だった。
撫子には自慢をしろと言われたが、穂香のようにあやかしを明らかに憎んでいる人を相手に、旦那の惚気なんてなんの罰ゲームなのか。
苛立たせること間違いない。
玲夜には気丈に振る舞って、強気な発言をしていたが、内心では憂鬱で仕方なかった。
そもそも柚子は元来打たれ弱い方なのである。
透子の図々しさが心底羨ましい。などと本人の前で言ったら怒られてしまうだろうか。
けれど、本気で思っている。
と、あーだこーだと余計なことを悩んでいると、続々と招待客がやって来た。
沙良と撫子もそろい、花茶会が始まった。
柚子は花嫁たちの会話に相づちをしながら、桜子とともに配膳を手伝う。
雰囲気は始終穏やかなもので、前回のあの暗雲とした空気はどこにもない。
しかも、旦那への愚痴が飛び交うものの、そこに嫌悪感は含まれていなかった。
「私の旦那様ったら、娘にもやきもち焼いてしまうのよ。困ったものだわ」
「あら、うちなんてペットの犬に嫉妬していたわよ」
「ほんと困った旦那様だこと」
「独占欲が強すぎるわ。そんなに私が信用できないのかしらね。まったくもう」
不満をぶつけ怒っているようでいて、これはただの惚気だと柚子でも分かる。
あれ?と思った柚子はなにもおかしくはない。
ここに透子がいたとしても、柚子と同じく首をかしげたに違いないのだから。
あまりにも会の雰囲気が別物なのだ。
前も同じようにあやかしの花嫁が呼ばれたはずなのに、どうしてこうも違うのかと、柚子は戸惑ってしまう。
時折柚子の話となり、玲夜との惚気話を挟んだり、料理学校へ行っている話もした。
だが、玲夜との話題では一同から微笑ましそうに見られ、料理学校へ通っていることは驚かれたものの、穂香のように過剰に反応する者はいなかった。
むしろ応援するような言葉をかけられたぐらいだ。
平和すぎて逆に困惑してしまう。
すると、なにかを察した沙良に声をかけられる。
「柚子ちゃん。今、思ってたのと違うって考えてたでしょう?」
「はい……」
的確に柚子の心の声をついた沙良の言葉に、柚子は頷くしかできない。
「あら、どういうことですか、沙良様?」
「柚子ちゃんが初めて参加した前回は、穂香ちゃんたちを呼んだ回だったのよ」
「あらあら、それは。新人の洗礼ですわね」
「大変でしたでしょう?」
花嫁たちが憐憫を含んだ眼差しで柚子を見た。
「あ、えーと……」
柚子は反応に困り曖昧な言葉しか出てこない。
そんな柚子に花嫁たちはクスクスと笑った。
「穂香様を中心とした一部の花嫁はあやかしである旦那様を嫌って……いえ、憎んでいますからね。自分をなにより不幸だと感じていらっしゃるのですわ」
「でも、決して穂香様たちの被害妄想とも言えないので、私たちも穂香様たちと会をご一緒する時は言葉に気をつけているんですの」
「穂香様たち一部の花嫁の旦那様はなんというか、過激と言ったらいいのでしょうか……。うまい言葉が出てこないのですが、とりあえずすごいのです」
「ええ、すごいのですよねぇ」
別の花嫁が同意すると、まだ別のひとりが頬に手を当てて頷く。
すごいってなに!?と柚子は思ったが、それ以上の言葉が花嫁たちから出てこない。
「あの、それってどういうことでしょうか?」
「思わず語彙力を失ってしまうすごさなのですよ。柚子様もいずれどこかのパーティーで彼女たちの旦那様にお会いしたら分かりますよ」
「はあ……」
「あの方たちとお会いするたびに、自分の旦那様の懐の大きさを感じるのですが、そうでなくとも柚子様の旦那様は懐がたいそう大きな方のようですものね」
「ええ。働くのを許すなんてなかなかできることではありませんわ。きっと旦那様を惚れ直してしまうのではないかしら」
うふふふと、花嫁たちは微笑ましそうな眼差しで笑った。
柚子はよく分からなかったため、愛想笑いをするに留める。
どうやら穂香の旦那が他の花嫁の旦那と比べてかなりヤバイということはなんとなく伝わってきた。
前回、花茶会に参加した穂香を始めとする花嫁たちは特に旦那からの締めつけが強く、この場にいる花嫁たちの旦那は比較的自由にさせたくれるらしいことが伝わってきた。
会えば分かるらしいが、できるなら会いたくないなと柚子は思った。
話は変わり、いつまで撫子と沙良が主催者としているのかという話題に。
「できればいつまでもおふたりに会を率いてほしいですが……」
「私もそうしたいのだけど、撫子ちゃんも当主として忙しいし、年々花茶会を開く回数が減ってきているのを私も撫子ちゃんも気にしているのよ」
沙良がそう言うと、花嫁たちは残念そうにしたが、それ以上を求めることはしなかった。
「大丈夫よ。しばらくは私たちが続けるし、その後はちゃんと柚子ちゃんと桜子ちゃんが花茶会を続けていってくれることになっているから」
中には少々不安そうな表情をわずかに見せた花嫁もいたが、比較的好意的に受け入れられているようで、嫌な顔はされなかったのが幸いだった。
ほっとした表情を浮かべた者がいるところを見るに、やはり花嫁にとって花茶会という存在は彼女たちにとって息抜きになっているのだろう。
惜しんでいるのがよく伝わってくる。
「あの、それについて質問してもいいですか?」
思い切って柚子がおずおずと手をあげる。
「あら、どうしたの、柚子ちゃん?」
「いつも送られてくる招待状のことなんですけど……」
「撫子ちゃんが送ってるものよね。それがどうかしたの?」
「私じゃあ、撫子様のように狐をお使いに出せないんですが、あれってどうしましょう?」
予想外の発言だったのか、沙良は目を丸くしている。
撫子も一瞬の沈黙の後、「ほほほほ」と楽しげに笑い声をあげた。
「柚子はそのようなことを気にしてたのかえ? かわいらしいものよ」
「あらあら、柚子ちゃんったら」
沙良と撫子があまりにも笑うものだから、柚子は自分の発言が恥ずかしくなってきた。
しかし、ここで思いもせぬ助け船が出る。
「柚子様の気になる気持ちは分かりますわ。私も毎回送られてくる狐の折り紙を楽しみにしておりますもの。折り紙が狐へと変身する様は何度見ても不思議でなりませんものね」
「私もです。いつ見てもかわいらしいですもの」
「確かにあの狐さんがなくなってしまうのは悲しいですね」
次々に花嫁から狐を惜しむ言葉が続く。
やはりあの狐を愛らしく思っていたのは自分だけではなかったと知って柚子は嬉しかった。
同志を得た気分だ。
「どうやらわらわが思っているよりあの狐を楽しんでくれておるようじゃな。わらわも作りがいがあるというものよ」
「確かにあの使役獣は人間には作れないものね」
東吉にも作れないと昔言っていたので、弱いあやかしにも作るのは難しいだろう。
「だったら桜子ちゃんに作ってもらえばいいわ」
名案だと言わんばかりに、沙良は両手を合わせた。
「えっ、桜子さんもああいうのが作れるんですか?」
桜子に視線が集まると、桜子はにっこりと微笑んだ。
「撫子様のように上手に作れるかは分かりませんが、似たようなものは作れると思いますよ」
「だそうよ。よかったわね。柚子ちゃんが主催者になった時には、桜子ちゃんに招待状を作ってもらえばいいわよ」
「ええ。お任せください」
問題は解決したというように、沙良は笑顔で手を叩いた。
それに追随するように、他の花嫁も喜びを表して手を叩く。
「桜子様が作られるなら狐ではなく小さな鬼なのかしら?」
「あら、全然違う子かもしれませんよ?」
「どんな使役獣がお使いにくるのか今から楽しみですね」
柚子と桜子が後を引き継ぐことは、受け入れられた様子。
この日の花茶会はなんとも平和な空気のまま終わりを告げた。
花茶会が終わり、招待客が帰った後、撫子に呼び止められる。
「柚子。せっかくこの屋敷にきたのだから、ここの社にも参っていっておくれ」
「私などが、いいんですか?」
神から与えられた社だと知った今、部外者である自分が安易に近づいていいものか分からなかった。
「うむ。その方が喜ばれると、そこの龍にも言われたのでな」
柚子の腕には、花茶会の最中どこかへ消えていた龍が戻ってきて巻きついていた。
「喜ぶって神様がですか?」
何故に自分だと喜ばれるのか、柚子はいまいち分からない。
「その通りじゃ。ここへ来たら必ず参っていっておくれ」
「分かりました」
撫子がそう言うのなら、断る理由もない。
平日はほぼ毎日本社へ参っているのだから、やることは一緒なのだ。
撫子について屋敷内にある社へ向かうと、手をパンパンと鳴らして静かに参った。
それ以上特になにをするわけではなかったが、以前に来た時より違和感を覚えた。
強い気配とでもいうのだろうか。
そこになにかがいるような、ただの直感。
けれど、決して悪いものではないとなんとなく思えた。
『……ず……』
三章
「……ねえ、玲夜?」
「なんだ?」
「まだ昼間なのにいいのかな?」
柚子は今、後ろから玲夜に抱きしめられるようにしてベッドに寝っ転がっている。
夜ではなく日も高い昼だというのにだ。
今の状況に疑問を抱きながらも玲夜の腕から抜け出せずにいるのは、嫌ではないからだ。
むしろ、できればこのまま一日過ごせないかとすら思っている。
しかし、昼間からという時間にわずかな背徳感を抱いていた。
柚子は玲夜の腕の中にいたまま、ぐるりと体の向きを変えて、向き合うようにした。
そうすれば互いの顔がよく見える。
玲夜が非常に機嫌がよさそうだというのも分かった。
部屋には柚子と玲夜のふたりだけ。
いつもはそばにいる子鬼も龍もいない。
玲夜がまろとみるくとともに寝室から追い出してしまったのだ。
今頃は柚子の部屋にでも行って文句でも言い合っているかもしれない。
「そもそも仕事は大丈夫なの?」
「今日は休みだから問題ないだろ」
柚子がストーカー被害に遭った直後は、沙良の計らいで仕事を千夜に押しつけて休みを取っていた。
しかし、柚子が学校に通えるようになった後は、それまでの休みの分を取り返すように毎日忙しくしていた。
なので、今日はようやく取れた休みなのだが、だからといって昼間からベッドの上でゴロゴロしていていいものだろうか。
「たまにはこんな風にのんびりするのもいいだろう。仕事でなかなか柚子のそばにいてやれないからな。いっそ仕事を桜河を社長にして仕事を押しつけるか……」
本気で悩んでいる玲夜。
これは桜河の危機だと柚子は察した。
「さすがに桜河さんがかわいそうだよ」
桜子の兄で、分家筆頭の鬼山家の御曹司。
秘書である高道のように普段から玲夜を支えてくれている人だ。
どことなくチャラい印象を受ける人だが、仕事はできるらしい。
それに、柚子の印象だが、桜河はその軽薄そうな雰囲気と違い、結構な苦労性ではないかと思っている。
高道とも仲がよく、高道の愚痴を普段から聞いているようだし、玲夜からは時に難題をたびたび課せられているという話しだ。
これ以上仕事を増やしたら桜河が泣いてしまうのではないだろうか。
「まあ、確かに。柚子が学校を休んでいたしばらくは父さんが仕事を裁いてくれていたが、案外早くに音をあげていたと桜河が言っていたな。いつもより仕事が増えたと桜河が嘆いていたようだ」
「えっ、でも、玲夜はお義父様が本気を出せばすぐに片付けられるぐらい仕事ができるみたいなこと言ってなかった?」
「本気を出せばな。父さんが真面目にやるとは言ってない」
「…………」
柚子は心の中で静かに桜河にエールを送った。
桜河は鬼龍院親子にかなり振り回されているのではないだろうか。
なんて不憫なんだ。
いや、そもそもは柚子が変な人に目をつけられてしまったのが原因だ。
柚子が、菓子折をもって謝りに行かねばならないのかもしれない。
玲夜が聞いたら必要ないとか言いそうだ。
「そういえば、柚子。社には行っているのか?」
「うん。学校帰りに毎日行ってるよ。でもね、そこに行くと何故かまろとみるくも必ずいるんだよね。いったいいつの間に屋敷を抜け出してるんだろ? 雪乃さんに聞いても知らないうちにいなくなってるらしいの」
「まあ、見た目は普通の猫だが、龍と同じ霊獣だからな。それより……」
玲夜はじっと柚子を見つめる。
まじまじと見られて柚子も居心地が悪い。
「なに?」
「いや……。最近なにか変わったことはないか? 体調とか」
「体調? 別にないけど?」
急になんの話しかと柚子はきょとんとする。
「……それならいいんだが」
「なに? なんか玲夜らしくなく歯切れが悪いなぁ」
変わらずベッドに横になりながらクスリと柚子が笑えば、玲夜はそっと指の背で優しく柚子の頬を撫でる。
柚子はうっそりと目を細めた。
玲夜も柔らかく微笑む。
愛おしく感じるほどの時間が流れる。
「体になにか異変があったらすぐに言うんだぞ」
「今のところ元気だから大丈夫よ。それに、龍によると龍の加護を得てると病気にならないんだって。確かに龍が来てから風邪とかひかないなぁって」
「そうか。そんな効果があるなら少しはマシか」
なにやら真面目な顔をしている玲夜に、柚子は不思議に思った。
「なに? なんかさっきから私の体調を気にしてるみたいだけど。なにかあった?」
「柚子は自分で気づいてないか? 柚子から少しだが、霊獣たちと同じような力を感じる。あやかしや陰陽師の持つ霊力とは違う、もっと清らかなものだ」
「えっ!」
柚子は思わず上半身を起こし、玲夜を見つめる。
玲夜の目は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。
「それって龍といつも一緒にいるからじゃなくて? ほら、玲夜と一緒にいると、私から鬼の気配がするってにゃん吉君がよく言ってるし」
「それなら今まででも感じていたはずだ。柚子から感じるようになったのは最近だぞ」
「えー」
そう言われても原因の心当たりがない。
「なんで?」
「さあな。俺には分からない。だが、もしかしたら社に通っているのがなにかしらの影響を及ぼしているのかもしれないな。柚子には神子の素質があるようだし」
自分で言い出しておきながら、玲夜は特に興味がなさそうな様子。
むしろ柚子の方が大事だというように、離れた柚子を再び腕の中に引き寄せる。
「柚子の体になにもないならそれでいい」
「玲夜ったら、どうでもよさそうにして。そんなこと言われたら、私の方が気になってきたんだけど」
「忘れろ。今は俺といることの方が重要だ」
そう言い、こめかみにキスを落とし、上から覆い被さり深いキスをして、柚子は考えることを放棄せざるを得なくなった。
昼食をのんびりと食べると、柚子と玲夜は外に出かけることにした。
ずっと延期にしていた指輪をようやく作りに行くのだ。
完全オーダーメイド。
柚子は既製品でも全然よかったのだが、玲夜がこだわりを見せたために、結婚式には間に合わなかった。
そもそも鬼の一族では指輪の交換というものがなかったので、これはただ玲夜と同じ指輪をしていたいという柚子の我儘に玲夜が応えてくれたようなものだ。
これまでは婚約指輪が柚子が既婚者だという証のようなものだったが、やはり婚約指輪とは別に結婚指輪はどうしても欲しかった。
柚子は普段料理学校で料理を作るので、衛生面を考えてチェーンに通して首から提げている。
実際にお店で料理を提供する時には手袋をはめるなどして対応できるが、卒業するまでは常時つけるのは難しいだろう。
けれど、玲夜はずっとつけてくれるというので、玲夜の指に光る指輪を見るだけでも幸せな気持ちになりそうだ。
着いたお店は、予想していた有名ブランドの高級店とは違い、柚子は拍子抜けした。
玲夜が高道に頼んで厳選したオーダーメイドの指輪を作ってくれるお店と聞いていたので、てっきり柚子でもよく知る高級店かと思っていたのだ。
しかし、清潔感はあるごくごく普通のガラス張りのお店で、外からアクセサリーを飾ってあるショーケースが見える。
そこは高級店とも変わりないようには見えるが、立てかけてある看板に書いてある名前は聞いたことのないものだった。
「玲夜、ここ?」
「ああ」
「全然知らないお店だね」
ただ自分が知らないだけかもしれない。
柚子とてファッションに明るいわけではないので、知らないブランドとてたくさんある。
ただ、普段利用している店と違ったので不思議に思っただけだ。
玲夜が選んだのだから下手な店を選ぶはずがなく、そこは信用しているので見知らぬ店だったとしても柚子にはなんの問題もない。
が、次の玲夜の言葉は柚子を驚かせるものだった。
「柚子との指輪を作るために新しく店を建てた」
「……は?」
一拍の沈黙があったのは、玲夜の言葉が理解不能だったからだ。
「どういうこと?」
なにかとても恐ろしいことを言った気がする。
「指輪を作るに当たって、腕のいい職人を捜してきたんだが、腕はいいがかなりこだわりが強い奴で、それまで勤めていた店と揉めて辞めさせられたんでな。無職になったから無理だと断られた。なら店を建ててやるから最初の仕事に指輪を作れと交渉してできあがったのが、この店というわけだ」
「いろいろとツッコミどころが多くて、なにがなにやら」
「こんなに指輪を作るのが遅くなったのも、店を開店するのに時間がかかったからでもあるんだ。本当は結婚式には間に合わせたかったんだが。悪かったな」
柚子は頭を抱えた。
問題なのは遅くなったことではないだろうに。
どこの世界に、指輪を作らせるために店から建ててしまうものがいるだろうか。
いや、ここにいたか。
「あい~」
「や~……」
子鬼たちもあきれているのか、なんとも言えない表情をしている。
「玲夜。ここまでしなくとも、別に普通のお店でよかったのよ?」
「一生に一度のものだ。妥協はするべきじゃない」
頑なな玲夜に柚子は遠い目をした。
おそらくいろいろと手配したのは高道だろうが、指輪のために店を作ると聞いて呆気にとられただろう。
できれば止めてほしかった。
「そいつは婚約指輪も手がけた奴だから腕は確かだ。しかし、嫌なら別の店でもいいぞ?」
「いやいや、ここでいいです。ここが、いいです!」
嫌など口にできるはずがない。
そんなことを言ったら、用がなくなったこの店はどうなるのだ。
怖くて聞けないではないか。
「そうか。柚子が気に入ったなら、今後もこの店でアクセサリー類を注文しようと思っていたんだ。結婚指輪だけじゃなく、欲しいアクセサリーがあったら一緒に注文したらいい。今後も欲しい物ができたら気軽に利用するといいぞ」
「う、うん。ありがとう」
玲夜の愛が重い……。
悪い意味でそう思ったのはこれが初めてかもしれない。
いや、愛ゆえというより、玲夜の金銭感覚がぶっ壊れているのか。
さすが鬼龍院。
玲夜にとったら店ひとつ作るぐらいわけないのだろう。
久しぶりに玲夜との生まれの違いを感じた瞬間だった。
玲夜から引き抜きにあった職人とはどんな人だろうかと、興味半分怖さ半分で店に入る。
店員をしていたのはなんともかわいらしい女性で、ひと目であやかしだと分かった。
女性はにこやかに「いらっしゃいませ~」と呼びかけをしたかと思えば、玲夜の姿を見て慌てて裏へと行ってしまった。
奥から大きな声で「藤悟さーん! 鬼龍院様が来てるよ~!」という声が聞こえてきたので、件の職人を呼びに行ったのだろう。
「もしかして職人さんもあやかし?」
「ああ」
「あやかしなのに?」
「あやかしでも誰もが俺のように会社の経営に回っているわけじゃない。まあ、言い家柄の生まれではあるがな」
柚子の知るあやかしというと、皆どこぞの御曹司だったりして、家を継いでいるイメージが強かった。
それなのに会社と揉めて無職になるとは、急に親近感が湧いた。
待っている間に店内を見回ってみると、商品がたくさん並べられていた。
「これも全部手作りなのかな?」
「ああ。始めの仕事は俺たちがオーダーメイドする指輪と言っていた手前、まだ客は入れていないんだ。だが、明日からは客を入れる予定なのに、店内になにも置かないわけにはいかなかったから、あいつがこれまでに作った試作品を置いて売ることにしたようだ」
玲夜の口にする“あいつ”といういい方に引っかかりを覚えた。
「試作品なのにすごくかわいいね。このネックレスなんて素敵」
値札がついていないことに不安を覚えていると、先ほどの店員が戻ってきた。後ろにもじゃもじゃと髪を爆発させた眼鏡の男性を伴って。
無精ひげも生えており、かなり野暮ったい。
あやかしとは美しいもの。という概念を覆した容姿に、柚子は静かに驚いた。
「あれ~。玲夜じゃん。約束って今日だっけ?」
「藤悟。お前は相変わらずだな」
あきれるような玲夜の声色には親しみを含まれており、柚子は再度驚く。
「玲夜の知り合い?」
もちろん、腕がいいと言うのだからある程度の顔見知りだろうが、ふたりからはそれ以上の関係をうかがわせる。
「あー、君が玲夜の花嫁ちゃんね。よろしく。俺は孤雪藤悟ってぇの」
気だるそうに自己紹介をした藤悟という男性の名字に、柚子は気がつく。
「孤雪? 撫子様と同じ名字?」
すると、藤悟は苦虫をかみつぶしたような顔をする。
「あー、うん。撫子は俺の母さんね」
「うえ!?」
ここに来て何度驚いただろうか。
柚子は確認を取るように玲夜に視線を向けると、同意するように頷かれる。
柚子はもう開いた口が塞がらない。
「えー」
もう一度藤悟を見ても、やはり信じられない。
どこをどう見ても、あの艶やかで存在感のある撫子とは似ても似つかないのだ。
彼はむしろ存在感は薄い方である。いや、個性的な容姿なので、その点では目立つかもしれないが、あまりいい意味ではないのは確かだ
顔は……、爆発したかのような髪と長い前髪が邪魔でよく見えない。
けれど、無精ひげと作業のせいでか汚れた服のせいで、清潔感は皆無だ。
「こいつは間違いなく妖狐当主の末の息子だ。それと、藤悟は俺の同級生でもある」
「玲夜と同い年!?」
「その反応失礼じゃね? そこまで驚かんでもさ」
「いや、だって……」
藤悟はそう言うが、どうやっても藤悟は玲夜の十歳は上に見える。
「うーん。あやかしでもいろいろなんだね」
「なんか含みのあるいい方だなぁ。まあ、俺は特に母さんより父さん似だしなぁ。長男は一番母さんに似てるから、会う機会があったらよろしく言っといて」
「そうなんですね」
撫子の旦那。
残念ながら柚子は一度も会ったことがなく、どんなあやかしなのかも知らない。
それに息子がいたのも初耳である。
撫子とはそれなりに会っているのに、初めてとはこれいかに。
撫子から家族の話が出ないのは言いたくないからなのだろうかと邪推してしまう。
花茶会では主に花嫁たちの話しを中心に回るのでその辺りのことは分からなかった。
今度聞いてみてもいいのだろうか。
撫子によく似ているという長男には非常に興味がある。
撫子の長男ということは妖狐の次期当主かもしれないのだ。
その辺りも、一度玲夜から教えてもらった方がよさそうだ。
柚子は、いずれ鬼の一族の当主となる玲夜の妻なのだから。
「それにしても、玲夜に友達がいるなんて初めて知った。披露宴には出席されてなかったですよね?」
高道に言われて、出席者の名前は一応覚えているのだ。
撫子が来ていたのは知っているが、他に孤雪の名はなかった。
あれば強く印象に残っているはずだ。
「あー、あの時は会社と揉めて辞めさせられて、無職でどうしようって時に玲夜から指輪を作れって脅迫されてた時だから、出席しなかったんだよなー。店をやるって言われて結局飛びついたんだけど。いやぁ、持つべきは財力がある友達だよなー」
藤悟はヘラヘラと笑っている。
「でも、撫子様のご子息なんですよね? 財力なら十分あるのでは?」
孤雪家とて鬼龍院に及ばないまでも、かなりの資産家だ。
無職を百人養ってもあまりある財力がある。
「なに言ってんの。心身ともに健康なのに、この年になっても親のすねをかじるの恥ずかしいじゃん」
「そ、うですね……」
見た目に反して意外に常識的だったので、柚子は一瞬言葉を詰まらせた。しかし。
「ま、玲夜のすねはかじりついて絶対に離さないつもりなんだけどさー」
「おい」
珍しく玲夜がツッコんだ。
藤悟は声をあげて「あっはっはっはっ」と笑いながら玲夜の背中をバシバシと叩く。
玲夜は藤悟をギロリとにらみつけ、舌打ちする。
「長話はそれぐらいにして、頼んだものを作れ。でないと援助を打ち切るぞ」
「えー、それは勘弁。はいはい、オーナーの言う通りお仕事頑張るとしますか。そこ座って」
店内にあった丸テーブルと椅子のある場所に案内されて座る。
藤悟はスケッチブックと鉛筆を手に、質問を始めた。
「で、どんなのにしたいの? あ、玲夜は後でいいから花嫁ちゃんお先に」
玲夜は眉をひそめながらも反論する気はないのか静かにしている。
その間、柚子と手を絡めるのは忘れない辺りが玲夜である。
「えっと、私はせっかくオーダーメイドするなら、他にはないオリジナリティのあるのがいいです」
「うんうん」
「石は小さくていいから、その分デザインが凝っていて、シンプルだけど細工がしっかりしたものを」
「ほーほー」
藤悟は柚子の出す注文にいちいち相づちを打つながら、スケッチブックに鉛筆を走らせ続けた。
これ以上はないというほど希望を出し、ひと息つく。
玲夜に視線を向ければ、愛おしそうに柚子を見つめる眼差しと合い、柚子ははにかむ。
「それで、玲夜からはないの?」
「俺たちに似合うものを作れ」
「なにその横暴。簡単に思えてめっちゃむずいじゃん」
「お前の腕は信用しているからな」
鼻を鳴らす玲夜は不敵な笑みを浮かべており、それはまるで藤悟を挑発するかのようだった。
それに応じるように藤悟もニッと口角をあげた。
「そんな風に言われたら、その挑戦受けないといけないよなー。任せとけ。最高の結婚指輪を作ってやるよ」
「ああ」
そのふたりのやり取りを見ていて、柚子はなんだかドキドキしてきた。
一部の例外を抜き、他人には無関心な玲夜がこれほど気安く話す相手を見たことがなかった。
柚子との関係とも違う。
高道との主従関係とも違う。
千夜との父子の関係とも違う。
対等な者同士のやり取り。
鬼龍院の次期当主であり、人の上に立つことを自然としてしまえる玲夜と同じ目線で話せる人。
そんな人に柚子は初めて会えた。
ふたりの会話が特別なもののような気がして、柚子は胸が高鳴るのが分かる。
ここに桜子を連れてきたらどうするだろうか。
きっと今の柚子の言葉にできぬ喜びを共感してくれるのではないだろうか。
ただし、桜子がまた別の負の遺産を量産するかもしれないというデメリットがある。
連れてくるか悩むところだ。
いや、そもそも桜子なら藤悟の存在を知っているかもしれない。
今度ぜひとも聞いてみようと、柚子は静かに興奮していた。
藤悟の店を後にした後は、ふたりでデートをする。
デートと言っても、町をブラブラと歩くだけだ。
けれど、柚子にはそれだけでも十分に楽しいひと時だ。
世の夫婦なら普通にしているありきたりなことも、柚子と玲夜にはなかなか難しくい。
現に少し離れて護衛がついているのを視認してしまう。
あやかし──特に鬼は見目がいいせいですぐに分かってしまうのが難点だ。
護衛の姿を見ると、ふたりっきりでないことを実感させられ現実に戻されたような気になってしまう。
けれど、日本のトップに立つ鬼龍院である玲夜の妻でいるには仕方のないことだと柚子も理解していた。
ひいてはそれは柚子を守るのにつながるのだから。
というか、護衛は玲夜のためというより柚子のためにつけられていると言ってもいい。
玲夜自身はあやかしでも千夜に継ぐ実力者なのだから、護衛など必要としていないのだ。
ふたりだけのデートのつもり……子鬼は置いておいてだが、つもりで歩いていると、柚子の目に止まる店があった。
「あっ、おじいちゃんの好きなチーズケーキのお店だ」
思わず足を止めた柚子に、玲夜が微笑み頭をポンポンと撫でる。
「ならこの後、土産を持って会いに行くか?」
「いいの?」
「ああ」
最近はなんだかんだと私生活が忙しく、祖父母と会えていなかった。
学校で事件があったことも、祖父母はニュースで知り、鬼龍院によって情報規制がかけられていたため、まさか柚子が関わっているとは思わずに心配して電話してきて、そこでようやく祖父母は状況を知った。
電話口の向こうで大層驚いていたのが伝わってきて、本当に申し訳なかった。
どうやら心配をかけまいと話をしなかったのが裏目に出たようだ。
柚子もまさかニュースで取り沙汰されるほど大事になるとは思わなかったのだ。
テレビでも紹介されていた有名なシェフだったので、おかしなことではなかったのに。
なんとか無事であると納得してもらったが、それ以後もまったく会いに行けていなかった。
きっとかなり心労をかけただろうに、なんて祖父母不幸な孫だろうか。
なので、玲夜からの申し出はすごくありがたく、なにより嬉しかった。
「じゃあ、私並んでくる! 玲夜はここで待ってて」
「一緒に行く」
「だ、大丈夫! すぐそこだから。子鬼ちゃんも一緒にいるし、私だけで行ってくるから」
「分かった」
素直に引いてくれた玲夜にほっとする柚子。
お店に並んでいるのは若い女性が多く、玲夜が気づいているかいないか分からないが、先ほどからこちらに熱い視線を向けてきていたのだ。
視線の先はもちろん玲夜。
誰よりも美しい鬼は、そこにいるだけで人間を魅了してやまないようだ。
目がハートになる気持ちは同じ女としてよく分かったが、なんだか玲夜をじろじろ見られるのが不快だった。
見るだけならまだしも、女子高生とおぼしき集団がスマホを向けているのを、柚子は見逃さなかった。
写真でも撮ろうとしているのだろう。
そんな場所に玲夜を近づけるわけにはいかない。
鴨がねぎを背負ってやって来るようなものだ。
玲夜を見せたくない。独り占めしたい。
「玲夜をどうこう言えないなぁ……」
玲夜の愛が重いと言いつつ、自分もなかなかの重さだと、柚子は自分を顧みる。
前はこんなに嫉妬するなんてことは少なかったように思うのだが、結婚してから悪化した気がしてならない。
醜いただのやきもちだと分かっているので、玲夜には知られたくない。
柚子は子鬼を肩に乗せたまま、道路を挟んだ向かいの道へ行き、店の列に並んだ。
普段から人気のあるお店なので、柚子の順番が来るまで時間がかかった。
待っている間、件の女子高生が柚子をチラチラと見ていたのが気になったが、どうすることもできない。
玲夜を待たせているのを申し訳なく思いながら、ようやく順番が来て目的の商品を注文し、会計をしていると……。
「あーいあーい」
「あい!」
子鬼が小さな手でペシペシと柚子の頬を叩く。
叩くと言っても、軽くつつくようなもので、全然威力はない。
「子鬼ちゃん、どうしたの?」
「玲夜が浮気してる」
「浮気だー」
「はあ!?」
秒で反応した柚子は、玲夜が待っているはずの信号の向こう側に目を向ける。
すると、柚子より前に並んでいた女子高生が玲夜の周りを囲んでいるではないか。
明らかに逆ナンしているのが分かる。
女子高生たちの声が大きいので、柚子のところまでわずかに「一緒に行こうよ~」なんて、誘う声が聞こえてきていた。
これは一大事。
慌てて商品を受け取り向かおうとするも、赤信号が柚子の行く手を邪魔する。
その間に玲夜があしらってくれたらいいものを、普段なら言い寄ってくるような輩には冷たい玲夜が、静かに女子高生たちの話を聞いているのだ。
そんな姿になにやらムカムカとしてくる柚子は、玲夜に対しても若干の怒りを感じてきた。
何故拒否しないのだろう。
まさか好みの女性が女子高生の中にいるのか!?なんて馬鹿なことを本気で考えながら、青信号になると駆けだした。
「玲夜!」
息を切らしながら、柚子は玲夜の腕に抱きついた。
玲夜は走って乱れた柚子の髪をそっと直してくれた。
そんな些細な仕草にときめきなりながら、女子高生に目を向ける。
さすがに透子のように喧嘩を売る強さはないので、困ったように眉を下げて静かに見るだけだ。
だが、玲夜は渡さないとでも告げるように、玲夜の腕にしがみついた。
すると、玲夜が口を開く。
「悪いが、妻が来たからここまでだ」
女子高生は声をそろえて「えぇー」と不満そうに声をあげる。
しかし、その時にはもう玲夜の目には柚子しか映っておらず、女子高生たちに背を向けた。
「あれが奥さんとかありえなーい」
「釣り合ってないよね」
などといった声が聞こえてきて地味に傷ついたが、事実ではあるので反論ができない。
もし自分が桜子のように綺麗だったら、あんな不満は言われなかっただろう。
そう思うとなんだか気分が落ち込んだ。
すると、柚子の気持ちを察したように、玲夜が柚子の頬を撫でる。
「気にするな。見ず知らずの他人の言葉など聞き流せばいい。俺の唯一は柚子だけなんだから」
欲しい時に欲しい言葉をくれる。
玲夜の優しさに胸がぎゅっとなる。
「玲夜。あの人たちとなに話してたの?」
「たいしたことじゃない」
「嘘! だって、なんか誘われてたの聞こえてたもの。ナンパされてたの?」
どこか拗ねたような柚子の表情に気づいた玲夜は、意外そうに目を見張った。
そして、意地が悪そうに笑ったのだ。
「なんだ、柚子。あんな小娘たちに嫉妬したのか?」
「そんな! やきもちなんて焼いて……なくもない……」
言葉は尻すぼみになり、柚子は恥ずかしそうに顔を俯かせる。
すると、玲夜の手が俯いた柚子の顔を上に向けさせ、軽く触れるキスをした。
びっくりと目を大きくした柚子は声を荒げる。
「玲夜! ここ、外!」
しかも道の往来で、周囲にはたくさんの人が行き交っている。
さらに言うと、玲夜の容姿のせいで人目を集めていた。
なので、キスをした場面はたくさんの人に見られてしまっただろう。
そんな柚子の焦りをよそに、玲夜はくっくっくっと笑った。
「笑い事じゃないんだけど」
少々怒りを含んだ声も、玲夜を喜ばせるだけだったようで、機嫌がよさそうに笑みを深める。
「柚子がこんなに分かりやすく嫉妬するのも珍しいな」
そう言われると反論の言葉が出てこない。
「うう……」
これまで玲夜に関係のある人に対してやきもちを焼いたことはあるが、通りすがりの人まで対象に入れるなんて……。
黒歴史を作ってしまったように恥ずかしがる柚子の一方で、玲夜は笑っていた。
「なんで玲夜はそんなに笑うのよ」
じとーったした眼差しで見あげれば、優しく頭を撫でられる。
「柚子に嫉妬されて嬉しいからに決まっているだろう。柚子から愛されていると実感する」
「私は恥ずかしい……」
「逆に俺が柚子に近づいた男に嫉妬したらどうする?」
「……嬉しい、かな?」
疑問形になるのは、嬉しい以前に玲夜の嫉妬の矛先となった相手の身の安全の方が心配になってくるからだ。
純粋に嬉しさを堪能できない。
「嬉しいからといって、あまり俺を嫉妬させるなよ?」
「玲夜もね」
きっと自分たちは端から見たらバカップルと呼ばれるものなのだろうなと感じ、柚子はむず痒くなった。
「早くおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行こう?」
「ああ。そうだな」
二人の手はしっかりと握りられていた。
四章
楽しいデートを楽しんだ日から一転して、今日から玲夜は出張に出かける。
数日留守にするのだ。
結婚してからは初めての出張とあって、寂しさもひとしおだ。
スーツ姿で今まさに出かけようとしている玲夜にぎゅうっと抱きつく。
玲夜も時間いっぱいまではされるがままになってくれるらしく、同じように柚子を抱きしめ返しながら、頭にキスをする。
「できるだけ早く仕事を終えて帰ってくる」
「うん。頑張ってね。でも、無理はしないでちゃんと休んでね」
「夜には電話する」
「待ってる」
そうして行ってしまった玲夜のいない屋敷で、柚子は思わずため息をついた。
「すぐお帰りになりますよ」
雪乃がそう言って慰めてくれる。
それに対して柚子は力なく微笑み返すしかできない。
すると、雪乃と同じく慰めるように、まろが柚子の足に頭を擦りつけてくる。
まるで、自分がいると言うように。
「慰めてくれてるの?」
「アオーン」
「ありがとう、まろ」
『我もおるぞ』
するりと柚子の腕に巻きついた龍に続き、子鬼たちも柚子の肩に登ってきた。
「あーい!」
「あいあい!」
どうやら玲夜がいなくとも賑やかさは変わりないようで、自然と柚子の顔に笑みが浮かぶ。
「ありがとう」
これならなにごともなく乗り切れそうな気がする。
玲夜が帰ってこないということで、急いで屋敷に帰宅する必要もないのからと、学校が終わると日課のようになっている社のお参りを済ませてから、猫田家を訪れた。
快く迎えてくれる透子。
残念ながら東吉は不在のようだ。
大学を卒業後、東吉は家業の手伝いをしているようで、玲夜ほどではないが忙しくしているらしい。
幅広く事業を展開している猫田家の跡取りとして、覚えることも多いようだ。
「にゃん吉君も忙しいみたいだね」
「そうなのよ。せっかく莉子が生まれたのに、なかなか遊んであげる時間がないって嘆いてたわ」
透子もどこか寂しそうに感じるのは柚子の気のせいではないはずだ。
玲夜が出張でいない今は透子の気持ちがよく分かる。
とはいえ、花嫁である柚子たちがどうこうできる問題でもない。
手伝えるものならそうしたいが、あやかしは花嫁を働かせるのを嫌がるのだ。
バイトをしたり、料理学校に行って店を出そうとしている柚子が例外というだけである。
「柚子は大丈夫なの? 若様いなくて寂しくて泣いちゃうんじゃない?」
「そこまで子供じゃないよ。それに、これまで出張とか!泊まりでの仕事がなかったわけじゃないし」
「お互い忙しい旦那様を持つと大変ねぇ」
「だね」
まったくだと、柚子は困ったように息を吐いた。
「でもさ、にゃん吉が働き始めて思ったんだけど、にゃん吉のスーツ姿に思わずときめいちゃうのよねぇ」
不本意そうな透子に、柚子はクスクスと笑いながら頷く。
「でも、分かるかも。私も玲夜がスーツ着てるといつも以上に格好よく見えるもの」
普段、屋敷内では和服の玲夜は、仕事に出かける時だけスーツになる。
デートの時にするラフな格好の威力もすさまじい。
和服とのギャップにドキドキしてしまうのは柚子だけではなく、屋敷で働く女性たちもだと思っている。
「スーツ着ると、なんだか一気に大人びたように見えるのよねぇ。中身は一緒なのに、スーツマジックだわ」
「にゃん吉君がそれ聞いたら喜ぶんじゃない?」
「調子に乗るから駄目よ。ここだけの話にしておいて」
「了解」
なんでも率直な意見を口にするのが常の透子も、東吉に関することには恥じらいがあるのかもしれない。
東吉にとったら残念な話だ。
「それに、大人びて見えるって言っても、若様ぐらいの色気が出ればもっといいんだけどねぇ」
「それはちょっと……」
難しいのではないかと思う。
そもそも東吉と玲夜では、同じ整った容姿でもタイプが違うのだ。
どこか色気をまとった玲夜と、明るく健康的な美しさを持った東吉では、平行線のまま交わることはないだろう。
「まあ、にゃん吉じゃあ若様の足的にも及ばないわよねぇ」
透子はケラケラと笑っているが、それは絶対本人の前では言わない方がいいと思う。
ショックを受けて落ち込む東吉の姿が目に浮かぶようだ。
「あっ、若様で思い出したけど、若様ネットでちょっとバズってるわよ」
「え?」
透子はスマホを操作して画面を見えるようにテーブルの上に置いた。
そこには玲夜の写真が何枚か載っているではないか。
誰かが玲夜の写真を撮って、SNSに投稿したようだ。
透子の言うように、それなりに反響があったようで、コメントがいくつも書き込まれていた。
それらのほとんどは玲夜の美しさを賛辞する言葉ばかり。
「今朝投稿されたものみたいなんだけど、覚えある?」
「うーん……。服装からしてこの間指輪を作りに行った時かな?」
気になったのは、写真とともに投稿されたコメント。
『こんな綺麗な人見たことない~。でも奥さんがブスで笑う』
写真の中に、玲夜の腕にしがみついている柚子の写真もあった。
本人の了承なしに素顔を投稿するとか非常識ではないのかと、わずかな怒り以上に戸惑いを感じていた柚子は、すぐにいつ撮られたものか分かった。
「これ、たぶん、チーズケーキ買い終わった後かも」
写真の柚子は手に店の袋持っている。
柚子が荷物を持っていたのは、買い物をして玲夜と合流した直後だけ。その後はずっと玲夜が荷物を持っていたので間違いない。
「この時、玲夜が女子高生にナンパされてたんだったかな。もしかしたらその女子高生が投稿したのかも」
「あーあ。鬼龍院の御曹司の写真を投稿するなんて、無知ってのは怖いわね。たぶん投稿を消すように鬼龍院が動くんじゃないかってにゃん吉が言ってたわ」
玲夜はあまりメディアには顔を出さないようにしている。
騒がれるのが嫌いだというのもあるが、セキュリティの面が理由でもある。
あまり顔を世間に出したくはないそうだ。
しかし、このネットが蔓延した時代で、一度あがった写真を抹消するのは不可能に近い。
「結構拡散されてるから完全に消すのは難しいよね?」
「そうね。この女子高生、まじでヤバいかもね。安易に写真なんかあげるから、なにかしらの報復されるかもしれないわよ。まあ、若様の美しさを見たら思わず写真に撮って見せびらかしたくなるのは分かるけど」
玲夜は気にしなさそうだが、高道辺りは激怒しそうな案件だ。
そう思っていたら、透子も同じようなことを考えていたようで……。
「柚子のこと揶揄してるから、若様が激怒しそうだわね」
「これぐらいなら大丈夫じゃない?」
「甘いわよ。あの若様なんだから。いいかげん柚子も若様を理解しとかないと。柚子が馬鹿にされて黙ってるわけないじゃない?」
ありえるのでそれ以上の否定ができなかった。
「とりあえず、朝見つけてすぐに有能秘書さんにお知らせしといたんだけど、まだアカウントがあるところを見ると大事にはしないのかしらね」
高道ならすぐさま動いて対処しているだろうに、消されていないのが不思議だった。
「うーん……」
「柚子? なによ?」
柚子は投稿を見ていて表情を曇らせる。
「これ、料理学校の誰かが見てるなんてことないよね?」
「ありえるんじゃない? これだけ拡散されてたらさ」
「うああ~」
柚子は思わず頭を抱えてしまった。
玲夜が一度料理学校に姿を見せたことを覚えている者は少なくないはずだ。
なにせあれほどの存在感。すぐに忘れるという方が無理がある。
そんなところにこの写真。
がっつり柚子の顔が映っている写真を見られたら、ごまかしようがないではないか。
「明日学校行くのが憂鬱だ……」
「まっ、なんとかなるわよ。うるさかったら、私が奥さんで文句あるか!って怒鳴りつけたらいいじゃない」
透子ならそれで言い負かしてしまえるのだろうが、柚子には少し難しい。
どうか誰も見ていませんようにと、柚子は切に願った。
翌日、朝に確認すると写真どころかアカウントごと消されていて、やはり高道が動いたのかと察する。
しかし、しっかりと拡散された後なのであまり意味はないのかもしれない。
昨夜出張中の玲夜と電話をしたのだが、投稿されたもののことは話さなかった。
あるいは玲夜から話が出るかとも思ったが、話す内容は自分がいない間の柚子を心配する言葉ばかり。
玲夜が言い出さないならわざわざ知らせる必要もないかと言い出さなかった。
投稿のことはすでに透子が高道に話しているというし。
電話では、新婚旅行のことを話した。
どこへ行きたいか。
なにをしたいか。
どうやら仕事のせいで何日も日にちは空けられないらしく、海外は無理だとなり、国内のどこかにしてくれとお願いされた。
柚子は玲夜と一緒にいられるならどこへでもよかったので、問題はない。
柚子から希望したのは、できるだけ護衛の人からも離れて、ふたりきりでいられる場所でゆっくりとしたいというものだった。
完全に護衛を切り離せないのは分かっている。
その上で、護衛を離して過ごせるなら嬉しいと告げたのだ。
この日ばかりは子鬼や龍からも離れて、玲夜とふたりの時間を堪能したかった。
玲夜もその願いに否やはなく、静かな場所を探してくれるらしい。
いくつか候補を出して、ふたりで決めようとなった。
少しずつ現実味を帯びる新婚旅行に、柚子の期待は高まっていく。
だが、その前に試験を攻略せねばならない。
料理の実技試験なので、こればかりは玲夜では教えられないので、頑張れとだけ応援された。
新婚旅行のためなら意地でも合格を獲得してみせると意気込む。
そえして今日も学校へ行くと、柚子が机に座るや、わらわらと女子生徒たちが集まってきた。
昨日の今日である。嫌な予感がするのは仕方ないというもの。
そして、その予感は的中してしまう。
「ねぇ! 鬼龍院さんって結婚してるの!?」
「あの写真の人が旦那さんなの?」
「あの人って前にも学校に来てたことあるよね?」
「本当にそうなの?」
次から次へと息もつかせぬ怒濤の質問攻撃に、柚子はタジタジに。
「なんで黙ってたの!?」
「教えてくれればいいのに」
黙ってたのかもなにも、教えるほど彼女たちとは仲がよくないではないか。
もちろんそんなことを口にしようものなら、鬼の首を取ったように責められるので口にはしないが、勘弁してほしい。
ほっといてくれというのが素直な気持ちだ。
なのに、彼女たちは遠慮なく質問を続行する。
「ねえ、どうやってあんな人と出会ったの?」
「紹介してよ」
「どんな仕事してる人なの?」
「鬼龍院さんってよくブランド物持ってるし、お金持ちなの?」
うるさい!と怒鳴れたらどれだけいいだろうか。
そんな勇気はないので、柚子はどうしようかと戸惑うしかない。
初めて玲夜の花嫁と周りに知られた時も大騒ぎとなったが、当時は高校生で、柚子を取り囲んだのは友人たちだった。
多少遠慮はないが、信頼関係がそこにはあったので、問い詰められても嫌な気はしなかった。
困ったなぁと思っただけ。
けれど、今は違う。
人気シェフでもあったストーカー教師に贔屓されていたために、女生徒から嫌われており、そこに信頼関係などまったくない。
これまで避けていたくせに、玲夜に関わりがあると知るや寄ってくる彼女たちには、嫌悪感しか抱けない。
だんだんと柚子の表情がなくなっていく。
それにも気づけず質問を続ける女子生徒たちに怒りも湧き出して来た時、彼女たちの騒がしい声をかき消すほどの大きな声が教室内に響いた。
「うるさーい!!」
びくっと体を震わせたのは柚子以外にも数人いた。
ぴーちくぱーちくうるさかった女子生徒たちは一気に静まり返り、声の先に顔を向ける。
先ほどの声の主はどうやら澪だったようだ。
澪は腰に手を当てて、怒りの表情を浮かべている。
「ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ、うるさいわね。あんたたちに恥じらいはないわけ?」
柚子を囲む女子生徒達に対し、澪は怒っていた。
「なによ、あなたには関係ないでしょう」
「私は柚子の友人だから関係あるわよ! それに対してあんたたちこそなによ!? これまで柚子に陰口叩いたりしてたくせに、急に擦り寄って来ちゃって。柚子が誰と結婚してようが、旦那が誰だろうが、柚子の友人でもないあんたたちに関係ないでしょう?」
澪の言葉に、幾人かの女子生徒がムッとした表情を浮かべた。
「だからこうして今話しかけてあげてるんじゃない」
「あげてるってなに!? 誰が頼んだのよ。恩着せがましくして、結局はあんたたちの好奇心を満たしたいだけでしょうが!」
「別にいいでしょう。話してくれたって、減るもんでもなし。これを切っ掛けに仲よくなるかもしれないじゃない」
「柚子はどうなの? この人たちと仲よくしたいの?」
澪の眼差しが柚子を射貫く。
澪にここまで言わせて、柚子が黙っているわけにはいかない。
「悪いけど、友達でもない人たちに自分の私生活を話す気はないわ。彼のことを知りたいだけならあっちへ行ってくれる?」
きっぱりと柚子は言い切った。
すると、途端に不満を露わにする女子生徒たち。
「はあ!? なにそれ。せっかく私たちの方から話しかけてあげたのに」
「ノリ悪~い」
「めっちゃ冷めた。もういいや」
「イケメンの旦那がいるからっていい気になっちゃって。明らかに釣り合ってないんだから、どうせすぐに捨てられちゃうわよ」
口々に言いたいことを言って彼女たちは離れていった。
ほっと息をつく柚子の元へ澪がやって来る。
「あんなうるさい輩の言う言葉なんて気にすることないわよ」
「うん。ありがとう、澪」
なんて頼もしいのだろうか。
いい友人ができたと喜ぶとともに、自分が発端の騒ぎぐらいは自分でなんとかしなくてはと反省した。
「あーい」
「あいあいあい」
子鬼は戦闘態勢に入り、シャドーボクシングをしている。
いつでも行けるぞという気合いを感じたが、さすがに手を出してこない一般人相手に手を出させるわけにはいかない。
そう思っていたら、急に教室内に強雨が降り注いだ。
しかも、先ほどまで柚子を囲んでいた女子生徒だけに。
女子生徒たちはきゃあきゃあ騒いでおり、スプリンクラーの故障か?と、被害のなかった他の生徒が話し合っているが、柚子の視線は腕に向いていた。
腕に巻きついていた龍が得意げな顔をしながら『カッカッカッ』と笑っているのである。
犯人は間違いない。
しかし、少々彼女たちの勢いに怒りを感じていた柚子は、ポンポンと龍の頭を優しく叩くだけにした。
「ほどほどにね」
『分かっているとも』
龍はニヤリと凶悪な顔で笑ったのだった。
***
今日のことで完全に澪以外の女子生徒を敵に回したなとげんなりしつつ、手のひらを返したような質問攻めに遭うよりはマシかと思い直す。
少し気になったのは、あんな大騒ぎの中心が柚子なら、まず間違いなく言いがかりをつけてきそうな鳴海の存在だが、今日はやけに大人しくしていた。
鳴海の席は柚子の斜め前なので、かなりうるさかっただろうに。
まるで目に入っていないように無視だった。
そのまま学校は終わり、学校前で澪と別れる。
迎えの車が停まっているコンビニと、駅とでは方向が反対なのだ。
「じゃあ、柚子、また明日ね~」
「バイバイ、澪。今日はありがとう」
「いいってことよ。バイバーイ」
手を振ってから柚子はコンビニ向かって歩き出す。
たまに迎えに来てくれる玲夜を他の生徒に見られたくなくて、迎えの車は少し離れたコンビニに停めてもらうようになったが、今回の件で玲夜が柚子の旦那であると周知された今、離れた場所で待っていてもらう必要はないのではないか。
子鬼がいるとはいえ、コンビニまでの距離に危険がないとも限らない。
さほどの距離ではないが、ストーカー事件のことを思うと、警戒心は残っていた。
もうひと騒ぎあったのだから、いっそ開き直るべきかもしれない。
今さら高級車一台迎えに来たぐらいどうってことないだろう。
そもそも前から柚子の服や鞄についてはブランドものばかりだとヒソヒソされていたわけだし。
まあ、柚子は澪に指摘されるまで気づかなかったのだが。
いろいろと考え出すと、コンビニまでの道のりが無駄に思えてならなくなってきた。
「明日から学校の前まで迎えに来てもらおうかな」
「あーい」
「やー」
子鬼もその方がいいというように頷いたので、車に着いたら運転手にお願いしようと思っていた時、前方に黒い車が停まっているのが見えた。
そのそばには鳴海の姿があり、なにやら一緒にいる男性と揉めているように見えた。
「離してよ!」
「話がある」
「私にはないわ!」
鳴海は男性に掴まれた手を振り払ったが、すぐに再び腕を掴まれている。
「店がどうなってもいいのか?」
「卑怯者!」
「いいから乗れ!」
「嫌!」
不穏な気配を漂わせているふたりに、柚子は焦りを見せる。
間に入るべきか、どうすべきか考えている間に、鳴海は男性によって車に押し込められようとしていた。
明らかに鳴海は嫌がっている。
これはまずいと、柚子は足が動いた。
突っ込むようにふたりの間に走っていき、勢いを殺さぬまま鞄を振りあげて男性に叩きつける。
小さく呻き声をあげる男性。かなり痛いだろうなと思いつつ、鳴海から離れた手をこれ幸いと柚子が掴み、手を引いて走り出す。
鳴海は柚子の登場に驚いた顔をしている。
「あんたっ」
「こっち来て。早く!」
柚子は一瞬抵抗しようとした鳴海を怒鳴りつけると、鳴海は弾かれたように動き出した。
「芽衣!」
男性が鳴海の名を呼び、追いかけてくるのが彼女にも見えたのか、大人しく柚子に手を引かれる。
「どこに行くのよ!」
「そこのコンビニまで!」
コンビニに行けば迎えの車がいる。
「芽衣! どこに逃げようとお前は私のものだ!」
鳴海の手を引いて、後ろから追いかけてくる男性の声をわずかに聞きながら。必死に走る。
さほど距離がなかったのが幸いだ。
柚子が鳴海と走ってきたのを、運転手は気づいてくれ、外に出て扉を開けてくれた。
柚子は鳴海とともに車の中に飛び込んだ。
ヒールを履いたままの全力疾走はかなり足に負担があったが、幸いと靴擦れは起こしていない。
けれどかなり疲れた。
息切れしながら、運転席に乗り込んできた運転手に問う。
「後ろから誰か追いかけてきてましたか?」
「ええ。男性が。しかし、私の姿を見るとどこかへ行きました」
それを聞いてほっとする柚子に、運転手は心配そうにする。
「なにかございましたか? 問題があるようでしたら玲夜様にご連絡します。先ほどの男が原因でしょうか?」
「玲夜に連絡するのは待ってください。さっきの男は私じゃなく彼女の関係者みたいなので」
柚子は隣に座る鳴海に目を向ける。
息を荒くし、俯き加減の彼女の顔色は悪い。
「あの……大丈夫?」
「大丈夫なわけないじゃない」
感謝されたくて助けたわけではないが、そんな仏頂面で不機嫌そうに返さなくてもいいではないか。
しかし、柚子は震えた鳴海の手を見て、彼女の精いっぱいの虚勢だと気がつく。
「誘拐されそうになってたの?」
「……違う。けど、似たような感じ……」
すると龍が柚子の腕に巻きつきながら身を伸ばして鳴海に近づく。
『先ほどの男、あれはあやかしであったな』
「そうなの?」
柚子は男の顔まではしっかり見ていなかった。
顔を見たらその容姿の美醜で、あやかしか判別できたかもしれないのに。
余裕がなかったのは仕方ない。鳴海をその場から逃がすのに精いっぱいだったのだから。
「あやかしと知り合いなの? そのわりには仲がいいとはとても言えない様子だったけど」
『柚子よ。あやかしの男がああまでに人間の女に固執する理由などひとつしか考えられぬであろう』
「……花嫁?」
ひとつと言われて柚子は花嫁という言葉しか浮かばなかったのだが、その言葉を聞いた瞬間、鳴海がびくりと反応し、くしゃりと顔を歪めたかと思うと、激しく感情を荒ぶらせた。
「どうして私だけこんな目に遭わないといけないのよ!」
うわあぁぁぁ!と声をあげて泣き出した鳴海に、柚子は困惑する。
彼女の身になにが起きているのか、まったく分からない。
なので対処のしようもなかった。
そもそも彼女を助けることは子鬼も龍も不満のようで、泣いている鳴海にも冷たい眼差しを向けている。
これまで散々柚子に喧嘩腰だったので仕方はないかと柚子も叱ったりはしない。
それに、泣いている女の子に追い打ちをかけるほど非情ではないようなので、目つきの悪さぐらいはご愛嬌だろう。
耐えていたものが決壊したように泣き喚く鳴海の背中を、柚子はひたすら撫で続けた。
振り払われることも想定していたが、予想外に鳴海はされるままだった。
そこまで気を回せなかったのかもしれない。
しばらくそうしていると、次第に落ち着きを取り戻してきたのか、鳴海の泣き声が小さくなり、すすり泣きに変わる。
しゃくりあげ、柚子が渡したハンカチで涙を拭いながらながら、鳴海はわずかに憎まれ口を叩けるほどに回復してきた。
「最悪。なんでよりによってあんたに、助けられなきゃならないのよ」
「ご、ごめんなさい……」
「謝んないでよ!」
「ごめっ……あっ、えと……」
謝るなと言われたのに反射的に謝罪の言葉が出そうになってすぐに止めるが、続く言葉が出てこない。
柚子は困ったように眉を下げる。
鳴海はまだクズクズと鼻を鳴らしながら柚子に問う。
少しだけ鳴海のいつもの威勢のよさが戻ってきたように見えた。
「どうして助けたのよ。危ないかもしれないのに」
「誘拐されるかと思ったから、つい」
「…………」
鳴海はなにかを耐えるように唇を噛みしめた。
そんな鳴海の顔を見て柚子は問う。
「……ねえ、聞いていい? さっきの男性となにを揉めてたの? あやかしだったんでしょう?」
お節介かと思ったが、聞かずにはいられなかった。
鳴海が柚子を敵視する理由が分かるかもしれないと思ったのもある。
しかし、素直に話してくれるとも思っていなったが、予想外に鳴海は口を開いた。
「さっきのあやかし……。鎌崎風臣って言って、かまいたちのあやかしらしいんだけど、私を花嫁として迎え入れたいって言ってるの」
柚子は目を大きくした。
まさかこんな近くに花嫁がいるとは思いもしなかったのだ。
「じゃあ、彼の花嫁になるの?」
「冗談じゃないわよ! 誰が頼まれてもなるものですか! あいつは……あいつは、私の家族をめちゃくちゃにした張本人だっていうのにっ!」
鳴海からは鎌崎という男への嫌悪しか感じられなかった。
どうやら柚子のように花嫁に選ばれて嬉しいという簡単な話ではなさそうだ。
「めちゃくちゃにしたってどういうこと?」
「……あいつ、最初から嫌な感じがしたのよ。突然やって来たかと思ったら、偉そうな態度で私を花嫁にしてやるって。そんなの私は微塵も望んでないのに」
鳴海は手の爪が食い込みそうなほど拳をぐっと握り込む。
「だから、断ったの。そしたら、お父さんの店に嫌がらせを初めて、どんどんお客さんが来なくなったの。最初はあいつのせいとは思わなくて、店をなんとかしようとしたお父さんは詐欺に騙されて多額の借金を負わされた。裏で手を引いていたのが……」
「まさか、さっきの男の人なの!?」
思わず声を大きくしてしまう柚子の問いかけに、鳴海はこくりと頷いた。
「そうよ。お父さんの店の評判を悪くした上に借金まで負わせて、手が回らなくなったところで、私に借金と引き換えに花嫁になれって。ふざけんじゃないわよよ」
ギリギリと歯がみする鳴海の目は怒りに燃えていた。
「お父さんのことを思うと受け入れるしかない。けど、どうしても嫌だったから拒否してやったわ。そしたら嫌がらせはなくなるどころか一層ひどくなって……」
ぽたりと、鳴海から流れた涙が落ちる。
「昔はたくさんあったお店もどんどん手放すしかなくて、今じゃひとつしか残ってないわ。お父さんとお母さんの最初のお店。それだけは手放せなくて、どうにか手元に置いてる。けど……それももう難しいかもしれない」
「どうして?」
「あいつが……。いつまでもあいつを拒否する私に焦れて、本気で潰しにかかろうとしてるの。借金を返さないなら担保になっている店を差し押さえるって」
「そんな……」
いくら花嫁を手に入れるためとはいえ、そこまでのことをしてしまえる神経が分からない。
「最近はお父さんの体調もよくないのよ。ほとんど精神的なものよ。当然よね。返せもしない借金を背負っちゃって、詐欺に騙されたのも自分を責めてるのよ。だから私が料理学校を卒業して、店をもり立てるんだって、そう思ってたのに……」
「借金はいくらなの?」
「五億よ」
「ごっ!」
個人で背負うにはあまりにも多い金額に声がうわずる。
「今月中に返せなかったら店を差し押さえるって。それが嫌ならはなよめになれってさ」
「どうするの?」
「どっちも嫌よ!」
鳴海は声を荒げる。
当然だ。柚子だって同じ立場なら絶対に嫌だ。
「話し合いで解決できたらいいけど、あいつは絶対にあきらめない……。私という花嫁を手に入れるまでは、こらからもずっと嫌がらせを続けるわ。私は、私のせいで両親に迷惑をかけるのが嫌なのよ」
鳴海は迷っているようだった。
『あやかしの花嫁への執着はとてつもない。柚子のように相思相愛ならば幸せだが、受け入れられない花嫁にとっては不幸でしかない』
不意に穂香の姿が頭をよぎった。
どういう経緯で花嫁になったか知らないが、現状では鳴海の気持ちを一番理解できるのは彼女なのではないかと、そんなことを思った。
「月末までに五億なんて返せるはずがない……」
頭を抱える鳴海の姿を見ていると、ある人を思い出させる。
「ねえ。とりあえず、五億返せたらいいの?」
「簡単に言わないでよ。確かに五億返せたらとりあえずお店を取られることはないけど、五億よ、五億! それに返せたとしても、嫌がらせはきっと続くわ」
不可能だと嘆く鳴海の目は絶望に染まっている。
彼女は覚悟を決めようとしている。家族のために犠牲になる覚悟を。
なにもできなかったあの時感じた、やるせなさが蘇ってくる。
頭に浮かぶのは、蛇塚と彼の花嫁だった梓。
柚子には見過ごすことはできなかった。
透子に「このお人好しが!」だなんて、あきれたように叱られてしまうのかもしれない。
「よし。とりあえずは五億返そう。それでもって、五億の札束もって、その男の横っ面引っ叩いてやるの!」
なんだか発言が透子みたいだなと思いながら、きっと原因は柚子が小さな怒りを感じていたからだと理解していた。
柚子は運転席に乗り出して運転手に指示を出す。
「車を出してください! 向かうのは競馬場です!」
「へ?」
「ちょっと、なんで競馬場なのよ!?」
運転手は素っ頓狂な声を出し、鳴海は理解が追いつかないようで怒鳴っている。
しかし、ちゃんと柚子には考えがあってのことだ。
「いいから、任せて! 運転手さん。レッツゴーです。早く!」
「あーい」
「あーいあーい!」
子鬼まで急かすと、運転手は慌ててエンジンをかける。
「は、はい!」
そうして車はようやくコンビニの駐車場から動き出した。