門の前では殺気立つ使用人たちが集まってきていた。
その間をすり抜け、前に出た柚子の正面に男性が立っている。
やや髪が乱れたように見えるのは、クセが強いというからではないはずだ。
額には汗がにじんでおり、周囲の鬼たちを見て怯えているのが分かる。
これが、鎌崎風臣。
鬼とは比べものにはならないが、やはりあやかしだけあって整った容姿をしている。
しかし、情報通り、年齢は鳴海と比べるとだいぶ離れているように見える。
鬼である使用人に対するのとは反対に、人間である柚子を見るや軽んじるように強気な眼差しを向けてくる鎌崎。
それだけで鎌崎がどういう人物か知れるというもの。
「芽衣を渡せ」
開口一番脅すように命令してくる鎌崎に、柚子は怯えるどころかあきれ顔。
ここをどこか分かっているのだろうか。
これだけ周囲に鬼がいるのだから、玲夜の屋敷と知らぬはずがない。
「ずいぶんと不躾ですね。名乗りすらしませんか?」
「なんだと?」
柚子は心の中で自分に言い聞かせる。
自分は玲夜の妻だ。鬼龍院次期当主である玲夜の。
そんな自分が気圧されることはあってはならない。
柚子は手本となっている桜子を真似るように、毅然とした態度で鎌崎に向き合う。
周りにこれだけたくさんの鬼が守ってくれているのだから、敵意を剥き出しの鎌崎を前にしても恐怖心はなかった。
それに、彼らがいるからこそ、無様な姿は見せられないという気持ちが柚子を強くさせる。
玲夜の妻であることを恥じさせない存在でありたい。
玲夜がそばにいなくてもやってみせると、柚子は意気込む。
「ここは鬼龍院次期当主の屋敷です。先触れもなく突然やって来て騒がないでください」
「なにを偉そうに。旦那の地位がなければなんの価値もない小娘が!」
瞬間、雪乃を始めとした使用人たちの眼差しが鋭くなった。
それまでもすでに厳しかったものが、今は視線だけで射殺せそうである。
鎌崎は鈍くはないらしく、一瞬気圧されるも、よほど花嫁である鳴海を手に入れたいのか、鬼を前にしてもすごすご引き下がることはしなかった。
「芽衣がここにいるんだろう。隠しても無駄だぞ。私はちゃんと分かっているんだ!」
「確かにいますよ。けれど、あなたに関係ないでしょう? 家族でも恋人でもない他人のあなたには」
「芽衣は俺の花嫁だ!」
「彼女は認めていません。それはあなたが誰よりご存知なのではありませんか? 彼女を手に入れるために相当あくどい真似をしたそうじゃないですか」
柚子は軽蔑したような眼差しを鎌崎に向ける。
今こうしている間にも、芽衣は怯えているだろう。
そう思うと、彼のしたことは許されない。
「お前には関係ない」
「私が関係ないというならあなたもでしょう」
「俺は違う! 芽衣は恥ずかしがっているだけだ。そう、きっとあの両親に反対されていて、優しい芽衣は両親の言いなりになっているに決まっている。そうでなければどうして俺を避けるというんだ? 芽衣と私は相思相愛なんだ。芽衣はツンデレだから素直になれないどけなんだよ」
自分に酔ったように語る鎌崎の姿を見て、柚子は頬を引きつらせた。
「あれ? デジャブ?」
少し前に似たような男に遭遇したのは気のせいだろうか。
柚子がそっと雪乃に視線を移すと、まるで得体の知れない汚物でも見るかのような表情で鎌崎を見ていた。
『うーむ。ここにもストーカーがおったか。これほど蔓延っているとは、世も末だ』
龍も柚子と同じ人物を思い浮かべていたようで、気持ち悪そうにしながら鎌崎に目を向けている。
「と、とりあえず、鳴海さんをあなたに会わせるわけにはいきません。お帰りください! そして、今後彼女に関わらないで」
厳しい口調で告げる柚子は、昔を思うとずいぶんとたくましくなった。
けれど、それはあくまで昔の柚子と比べてだ。
それなりに成熟した大人の鎌崎からしたら、なんの威嚇にもなっていない。
「鬼の花嫁だろうが、私と芽衣の邪魔をするならどうなるか分かっての覚悟だろうな?」
「……邪魔をしたら、どうするというんだ?」
地を這うような低い声にはっとしたのは、柚子だけではない。
「玲夜?」
柚子はびっくりとした目で玲夜を見る。
昨夜の電話では、帰ってくるのはまだまだ先のように話していたのに、などうしてここにいるのか。
あふれる存在感と威圧感に、鎌崎は顔色を変える。
「きさま、まさか俺の柚子に対して、脅しているわけではないよな?」
「ひっ……」
引きつらせるように息をのむ鎌崎は、しかし花嫁である鳴海の存在を思い出したのか玲夜に食ってかかる。
「わ、私の芽衣を返せ! 花嫁を奪うなど、いくら鬼と言えど横暴がすぎるではないか! あやかしならば素直に引き渡せ」
「誰にものを言っている?」
ただひと言。
なのに、言葉に言い表せぬ圧はさすが玲夜であった。
あれほど饒舌に語っていた鎌崎は言葉をなくしている。
ただただ、怯える小動物のように肩を震わせていた。
「失せろ」
「ひ、ひぃぃ」
凍り付くような言葉に、鎌崎はなすすべなく走り去っていった。
『うーむ、なにやら不憫に思えてきた。あれほど強い霊力を叩きつけられたら、ちびってもおかしくなかろうに。よく耐えたものだ』
龍は柚子のよく分からないことを口にしている。
「どういうこと?」
『人間の柚子には見えておらなんだが、あやつめ、かまいたちの男に鬼の気配がたっぷり乗った霊力で威圧しておった。ほれ、他の鬼ですら冷や汗を流すほどなのに、かまいたちのように弱いあやかしなら即死レベルだぞ』
龍に言われてから周囲の様子をうかがうと、雪乃を始めとした使用人たちが顔を強張らせていた。
中には額に汗を浮かべている者もいる。
どうやら柚子の知らぬところで壮絶な攻防が行われていたらしい。
まったく気がつかなかった。
だが、おかげで鎌崎は撃退できたので、なんの問題もない。
いや、それよりも柚子にとって今重要なのは鎌崎よりも玲夜である。
柚子は早足で玲夜に近づいた。
「玲夜、どうしているの? まだ仕事が忙しいって言ってたのに」
「仕事は終わらせてきた。柚子を驚かせようと思って、昨日は伝えなかったんだ。驚いたか?」
ドッキリが成功したように喜色を浮かべる玲夜に、柚子は肯定するしかない。
「驚いたに決まってる! まだ時間がかかると思って私……」
玲夜のいない寂しさを紛らわせるように、子鬼、龍、まろ、みるくと一緒に眠っていた。
まだ帰れないと聞いて、ひどく落ち込んで夜を明かしたというのに、帰れるなら帰れると言って欲しかった。
「どんな気持ちで待ってたと思うの?」
少々八つ当たり気味に玲夜に言葉をぶつけると、玲夜柚子を腕におさめ、包み込むように強く抱きしめる。
「俺も柚子と同じだ。会いたくて会いたくて仕方なかった。だから、大急ぎで仕事を終わらせてきたんだ」
「ええ、まったく。無茶をなさいますよ」
やや疲れた様子で現れたのは高道だ。
「玲夜様ときたら、一日でも早く帰るために、スケジュールを詰め込みまくったのですよ。付き合わされる社員が気の毒なぐらいです。ですので労ってさしあげてください」
「そうなの?」
玲夜を見あげるが、疲れが見える高道と違い、玲夜は表情に表れないのでよく分からない。
しかし、高道の様子を見れば、苦労したことがうかがえる。
「玲夜も私に早く会いたかったの?」
「当たり前だ。本当なら一日たりとも離れたくはないさ」
飾らぬ率直な言葉に、柚子はふわりと微笑む。
寂しがるのが子供っぽくて恥ずかしいと思っていたが、玲夜も自分と同じだと知り嬉しくなる。
そう言えば、まだ伝えていない言葉があった。
「玲夜。おかえりなさい」
「ただいま。柚子」
玲夜はいつもしているように、柚子の頬に軽いキスをする。
早速鳴海に、帰ってきた玲夜を紹介する。
鳴海は玲夜に恐縮し通しで、ペコペコと頭を下げていた。
なにやら自分との態度が違う気がして、柚子は複雑な気分だ。
あやかしが嫌いなのではなかったのではないのか。
鳴海も玲夜の美しさの前にひれ伏してしまったのだろうか。
「あなたが、あいつを追い返してくれたと聞きました。それに、両親のことも守るように手配してくれたのはあなただって。なにからなにまで、本当にありがとうございます」
その言葉で合点がいく。
これまでの対処と、鎌崎を一蹴してしたので玲夜に好印象を抱いたというところか。
実際に、柚子に対しても鳴海は態度を軟化させてきている。
「礼は柚子に言え。お前を助けると判断して動いたのは柚子だ。俺は柚子が望んだからにすぎない」
そう言って柚子に優しく微笑みかける玲夜を、鳴海は悲しげな表情で見ていた。
悔しいという方が正しいかもしれない。
「……あなたみたいなあやかしもいるんですね。あやかしは皆あいつみたいな奴らばかりかと思ってました。花嫁のことを自分の所有物と感じているような最低な奴らだって」
「玲夜は私を所有物なんて思ったりしないよ」
柚子が否定したにもかかわらず、玲夜は反対の言葉を口にする。
「いや、思ってるぞ」
「えっ」
しれっと答える玲夜に、柚子がなんとも言えない顔で固まった。
「柚子の体も髪も目も唇も全部俺のものだ。所有物というならその通りだ。その代わり、俺も柚子の所有物だがな」
「玲夜……」
あまりにも色気を漂わせる玲夜に、柚子だけでなく鳴海まで顔を真っ赤にしている。
できればこういうことはふたりきりの時に言ってほしかった。
恥ずかしすぎる。
鳴海にどんな顔を向けたらいいのか分からず、柚子は両手で顔を覆った。
からかうような笑みを浮かべながら、横に座る柚子を抱き寄せ頭にキスをするものだから、柚子の羞恥心は最高潮だ。
柚子にとことん甘い透子たちならば、またやってるぐらいにしか思わないだろうが、初見の鳴海には免疫がなく。
ひどく居心地が悪そうにしていた。
「玲夜、お願いだから鳴海さんの前では止めて……」
消え入りそうな声で願えば、しぶしぶという様子で手を離された。
柚子はほっとして、まだ赤らめた顔のまま鳴海に向き合う。
「鳴海さんのいう、あの人は一応玲夜がおいかえしちゃって、結局話にはならなかったの、ごめんね」
『いや、そうでなくとも会話になっておらなかった。あやつ、前に柚子にストーカーしていた教師と同じ匂いを感じたぞ。完全に自分の世界の住人だったではないか』
「そうなの?」
鳴海がいぶかしげに視線を送ってくる。
「うん。鳴海さんと自分は本当は相思相愛なんだとか。素直になれないだけだとか」
「気持ち悪い……」
鳴海は吐き気をもよおしそうなほどに顔を歪ませた。
最近同じような目に遭った柚子には気持ちが大いに分かる。
柚子のトラウマまで刺激されそうだ。
ああいう輩には二度と会いたくないと思っていたのに、そう時を置かずして出会ってしまった。
自分が相手でないことが幸いだろうか。
いや、鳴海にとってはこれ以上ない不幸だろう。
「あれは一筋縄ではいきそうにないね」
「そうなのよ。何度か話した時も、人の話を聞かないし、自分主導で話を進めるから、全然話にならないのよ。こっちは何度も根気よく話していても無駄に終わってばかりで……。最終的には花嫁だからで全部終わらせちゃうのよ」
鳴海は頭を抱えたが、相手がそのような調子では抱えたくもなるだろう。
「時には脅迫したり、声を荒げて威圧してくるから、私も怖くてびびっちゃったりして。それが余計につけあがらせちゃう結果になってるんだと思う。私がもっと毅然と対応できたらよかったんだけど、あっちは柄の悪そうなつき人も一緒だったから……。ほんと悔しい……」
「大人の男の人相手ならなら仕方ないよ」
自分の言葉が慰めになっているか分からないが、投げかけることしかできない。
「とりあえずゆっくりしているといい。脅しておいたから、この屋敷に近づいてきたりはしないだろうからな」
「本当にありがとうございます」
鳴海は玲夜に深々と頭を下げた。
そして、恥ずかしそうにしながら、やっと聞き取れる声で柚子にも「あんたもありがと」とつけ加えた。
鳴海にはこれまで散々な言われようだったので、本人も柚子には感謝を伝えづらいのかもしれない。
そう思うと、なんだか温かな気持ちになった。
「どういたしまして」
柚子は嬉しそうにそう返した。
鳴海には部屋でくつろいでくれと言い、柚子と玲夜は自室へと場所を移す。
子鬼たちはまだ少し鳴海のそばにいるとついていった。
まろとみるくは龍となにやら話し中のようで、ふたりだけ。
部屋に入り扉を閉めるや、後ろから玲夜が抱きしめる。
背中に感じる玲夜の温もりに、確かな存在が伝わってくる。
柚子はくるりと体制を変え、自分からも玲夜に腕を回して抱きついた。
玲夜がここにいることを確かめるように、しっかりと捕まえる。
そして、顔を見合わせると、どちらからともなくするキス。
たった数日のことなのに、何年も離れた恋人のようにお互いの存在を噛みしめた。
部屋のソファーに玲夜が座り、横抱きにされながらいる柚子は、ずっと玲夜にぴとりとくっついている。
「……鳴海さんも災難だよね。あんな人に目をつけられるなんて」
「花嫁を見つけたあやかしの中には、強引な手段に出る者も珍しくはない」
もしも、自分だったら……。柚子は思う。
「玲夜だったら同じことをした?」
「俺か?」
誰よりも権力のある玲夜なら、たとえ柚子が嫌がったとしても、簡単に手中に収めてしまえるだけの手段がいくらでもあるだろう。
「私は家族と折り合いが悪くて、花嫁に憧れがあったし、玲夜が花嫁だって言ってくれて戸惑いも大きかったけど嬉しさもあった。でも、普通に考えたら、鳴海さんみたいに拒否しちゃうのが普通だよね」
突然花嫁だと言われて、はいそうですかと素直に受け入れるのは難しいのではないか。
そう考えると、自分はなんとチョロい女だったのだろうか。
いくら当時追い詰められていて冷静な判断ができなかったとはいえ、初対面の相手の家に、出会った直後についていったのだから。
「まあ、正直、玲夜に花嫁にって言われて拒否できる人がいるか分かんないけど……」
なにせ鬼の中でもトップレベルの容姿だ。
多少の傲慢さを見せても、鎌崎と違って花嫁だと言われて喜ぶ人は少なくないはずだ。
「でも、私が嫌がった可能性もあるわけだし、そうしたら玲夜はどうしてた?」
玲夜が鎌崎のような卑劣な行いをするとは思えないが、少し気になった。
「そうだな。もし柚子に嫌がられていたら、とりあえずは様子を見て……」
「様子を見て?」
「柚子に好かれるように一生懸命口説く」
ふっと笑った玲夜は、柚子の頬を撫でる。
「柚子が俺に落ちるまで、何年かけてでも愛を伝え続ける。だから思う。あの男は馬鹿だなと」
「あの男って鎌崎って人?」
「ああ。もしかしたら真摯に気持ちを伝えていたら、相手も受け入れてくれたかもしれないのに、そのチャンスを無駄にしたんだからな」
「真摯って、あの人には無理じゃないかな。だってすでに奥さんがいるんだよ。しかも、政略結婚とかじゃなくて、恋愛婚だよ? 私その情報見て言葉を失ったもの」
柚子とて玲夜に桜子という婚約者がいると知った時には言葉を失った。
自分は騙されているんじゃないかと思ったし、ショックだった。
それは一族が決めた政略だと聞いて、玲夜が好んで決まった婚約じゃないと分かって安堵したものの、複雑だったのは間違いない。
それなのに、愛し合った奥さんがいるというのだから、鳴海が拒否するのは当然だ。
「じゃあ、もし玲夜が結婚していたらどうしてた? あやかしにとって花嫁が特別なのは理解してるつもりだけど、花嫁だからって簡単に相手を変えられてしまえるものなの? 花嫁を見つけた瞬間に奥さんはどうでもよくなっちゃうの?」
疑問がどんどん湧いてきて、質問が止まらない。
「それでも俺は柚子を選んでいただろうな。それまでの妻を捨てても」
即答してくれたのは嬉しいが、それまでの妻を捨ててもという発言には複雑な気分になる。
すでに玲夜と結婚しているからか、どうしても奥さんの気持ちになってしまうのだ。
突然愛した旦那に、他に相手ができたからと捨てられたら……。
柚子ならショックで立ち直れない。
「うー。玲夜に他の女性ができるなんて考えたくない」
柚子は眉間にしわを寄せて少々不細工な顔になってしまっている。
そんな顔すら愛おしいというように、玲夜は優しい眼差しで柚子を見つめる。
「俺の場合は一族が決めた桜子だったからな。鎌崎という男のように、愛した相手を捨てるという気持ちは分からない。そもそも、これまで柚子以外の誰かに好意を持ったこともないし」
これには柚子もびっくりだ。
「えっ、ひとりも? つき合ったりは……さすがに桜子さんがいるから駄目か。でも、この人いいなとか、初恋とか」
「いないな。昔も今もこれからも、俺には柚子だけだ。他には必要ない」
思わず柚子は赤面してしまう。
玲夜には自分だけ。それがどれだけ柚子を嬉しくさせているか、玲夜に伝わらないのが悔しい。
「だが、鎌崎という者のように、花嫁を見つけてそれまでいた恋人や妻を捨てて花嫁に走るあやかしは少なくない。花嫁はあやかしの本能だからな。だが、本能だけで生きているわけではない。柚子の友人のように、花嫁を得ずに別のあやかしとの幸せを選ぶ者だっている」
「うん」
蛇塚と杏那のように。
「結局はそのあやかしの本質次第だ。それは人間同士でも同じじゃないのか?」
「確かにそうだと思う」
人間同士でも浮気する者もいるし離婚する者もいる。
でも、生涯ひとりの人を大切にする人間だっている。
鎌崎は前者だったということかと、柚子は納得してしまった。
「私が花嫁だからないって分かってるけど、玲夜は私以外に目を移さないでね」
「柚子が危なっかしくて、そんな暇はないさ。たとえ柚子が花嫁でなかったとしても、それは変わらない。俺だけの柚子だ」
玲夜はクスリと笑い、柚子に触れるだけのキスを落とした。
六章
宝くじの結果をライブ配信で見守る。
鳴海の手にはくしゃくしゃになったくじ券が握られており、発表を今か今かと待つ。
そして、次々に数字が発表されるたびに、鳴海の目が光り輝いていく。
「来い来い来い来い!」
興奮しすぎで顔を真っ赤にしながらテーブルをバンバン叩いている鳴海の耳に、最後の当選番号が響く。
瞬間。
「よっしゃぁぁぁ!」
ガッツポーズを天に掲げる鳴海は最高潮に盛りあがっていた。
かく言う柚子も、大喜びで拍手する。
「わー、ほんとに一等当選した。すごいね」
「あーい」
「あいあい!」
『それもこれも、我のおかげだぞ』
一緒に喜ぶ子鬼と、ドヤ顔の龍がいる。
そんな中で、さっきまで大興奮していた鳴海は、次には涙をボトボトと落とし、号泣した。
「うわぁぁん! これでお店が助かるー」
緊張感から解き放たれたように涙する鳴海の背を、柚子はトントンと撫でた。
「よかったね」
鳴海はついに言葉も出なくなってしまい、ただひたすらこくこくと頷いた?
「でも、まだ終わってないよ。換金してお金を叩き返さないと」
「う、ん……」
翌日、鳴海は両親と合流して銀行で換金した。
金額は七億となっており、借金を返してもあまりある。
傾いた店の再建にも役立つだろう。
あれほど大喜びだった鳴海は、七億というお金を前に挙動不信になっていたが、それは鳴海の両親も同じだ。
本当はこれから鎌崎の会社に乗り込む予定なのだが、鳴海一家だけでは心許ないので柚子と護衛もつき添うことになった。
本当は玲夜もついて来たがったが、仕事で来られなかった。
大急ぎで出張を終わらせたがため、後回しにすることができなかった。
代わりに柚子の護衛にはいつもより選りすぐりの人材を多く投入したくれた。
ありがたいが、過保護がすぎると柚子は苦笑した。
しかし、玲夜は柚子のことになるといつでも本気だ。
柚子に指一本触れさせるなと、しっかりと護衛たちを脅し聞かせていた。
顔を青ざめさせ引きつらせていた護衛たちが、かなり不憫だった。
胃を押さえていた人には、後で胃薬を差し入れしようと思う。
とりあえずは護衛のことを置いておいて、いざ鎌崎の元へ。
スーツケースを何個も持って、鎌崎が社長を務めている会社のオフィスビルへやって来た。
受付で鎌崎を呼び出す時には鬼龍院の名前を大いに有効利用させてもらう。
玲夜の妻とその関係者だと聞いて無下に扱うあやかしの一族はいない。
受付は人間のようだったが、鬼龍院の名を知らぬわけではなかったので大慌てであったのは申し訳なかった。
けれど、鬼龍院の名前で脅しをかけたのは柚子ではなく護衛たちだ。
そもそも柚子に鬼龍院の名前で脅すなどという真似ができるはずがない。
鬼龍院の名前を出すことによって、玲夜に迷惑がかかるかもしれないのだから、気の弱い柚子は考えもしない。
だが、玲夜から圧をかけられている護衛たちは、文句なら玲夜にとばかりに鬼龍院の名前を活用しまくっていた。
後で玲夜に叱られないか心配する柚子に、彼らは「柚子様のためなら怒られないので大丈夫です」と、白い歯を見せながらぐっと親指を立てた。
「むしろそうしないで柚子様に危険が及ぶ方が怖いし……」
と、誰かがぼそっとつぶやいたのがしっかり聞こえてしまった。
そんなこんなありながら、鎌崎の部屋へ通されると、鳴海の姿を見せて鎌崎は不敵な笑みを浮かべる。
柚子たちの姿など眼中にない様子だ。
「芽衣、やっとお前から来てくれたのか」
大きく手を広げて芽衣を受け入れるその姿は滑稽そのもの。
独りよがりな愛情を見せる彼に対して、鳴海が蔑むような眼差しで見ているのを本人だけが気づいていない。
「私の花嫁になる決心をつけてくれたか。鬼の家に連れていかれた時はどうなることかと心配していたんだ。きっとそこの女にそそのかされたのだろう。お前は騙されやすいからな。やはり私がいなければ生きていけないんだ」
ちょいちょいと鳴海を下げる発言をする鎌崎に、柚子は不愉快な気分になる。
それは鳴海も同じようで、目に怒りが映っている。
「誰があんたのものになるか! 今日は借金を返しに来たのよ」
「借金? なにを言ってるんだ?」
真剣な眼差しの鳴海を前に鎌崎は声をあげて笑う。
「ははははっ、冗談はやめてくれ。五億だぞ、五億。そんな大金を寂れた店しか持たないお前の家が払えるわけがない」
寂れさせたのは鎌崎だというのに、なんという言い草。
まさに、お前が言うなと怒鳴りつけたい。
「お前は私の花嫁になるしかないんだよ」
嘲笑う鎌崎に向け、不敵な笑みを浮かべた鳴海が、スーツケースのロックを外して中身をぶちまける。
何枚もの札が宙を舞った。
鳴海はひとつだけでなく、次から次にスーツケースを開けては投げつけた。
札束がそこら中に散らばる異様な光景だが、場を作り出した鳴海は鼻を鳴らし満足げだった。
「しめて、五億。受け取りなさいよ」
「そ、そんな。ありえない……」
鎌崎は激しく動揺しているようで、視線を彷徨わせている。
しかし、落ち着くのを待ってやる義理などなく、鳴海は早々に背を向けた。
「二度と私たち家族に関わるんじゃないわよ! 行こう、お父さん、お母さん」
鎌崎のことなど眼中にないように去っていく鳴海の後を柚子も追う。
一度だけ振り返った柚子の目に、がっくりと膝をつく鎌崎の姿が映った。
その後、鳴海の両親から何度となくお礼の言葉をかけられ、今度店に食べに来てくれと誘われた。
柚子の答えは当然決まっている。
「ぜひ、行かせていただきます」
どうやら店を見張っていた鎌崎の手下もいなくなったと報告があり、鳴海も無事に家に帰ることができた。
これで万事解決、と言いたいところだが、柚子は花嫁だからこそ、花嫁を見つけたあやかしの執着心を知っている。
このまま大人しく引き下がってくれればいいのだがと思いつつ、柚子は日常に戻った。
間近に迫った試験の勉強を、学校の休み時間に行っていると、憔悴した鳴海がやって来る。
「ちょっといい?」
「はあ!? なによ、あんた。柚子になんか用?」
鳴海と和解した形になったことを知らない澪は、臨戦態勢に入るが、かばうように子鬼たちが鳴海の肩に乗った。
「あいあーい!」
「あーい!」
「なに、あんたたち。いつの間にそんなに仲よくなったのよ」
面白くなさそうな澪の様子に苦笑して、柚子はふたりの間に入る。
「ごめんね、澪。ちょっと鳴海さんと話してくる」
「えー、柚子までどうしたの? つい数日前まで険悪だったのに」
「この間話しをする機会があって、お互い誤解があったのが分かったの。でも今は解消したからもう大丈夫。心配してくれてありがとうね」
「むー。柚子がそう言うなら分かったけど、私はまだ許してないからね」
ビシッと人差し指を突きつけて、目をつり上げる澪に反抗する気力すら鳴海はないようだった。
これはただ事ではないと察した柚子は、鳴海の手を取った。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね。次の授業間に合わなかったら、上手くいっておいてくれる?」
澪は不満そうにしながらも手を振って見送ってくれた。
そして、人気のない場所に移動して鳴海と話す。
「どうしたの? なにかあった?」
「…………」
鳴海は話すのを迷っているようだった。
「鎌崎って人のこと?」
柚子から話しかけると、堰を切ったように話し出す。
「あんなにお世話になって、これ以上あんたに相談するのはどうかって思ったの。けど、他に頼れる人がいなくて……」
「なにがあったの?」
「借金もなくなって、資金もできたし、心機一転、また一から店を大きくしていこうって話してたの。けど、家に帰った翌日から続々と仕入れ先から仕入れを断られるようになったの」
すぐに嫌な予感がした。
「最初はこんなこともあるかって、笑ってた。ほら、うちってあいつのせいで悪い噂が出てたから。でも、その後いろんなところに頼んだけど、どこからも商品を仕入れられなくなったの。理由が分からなくて……。そしてら昔からつき合いの長かった仕入れ先の人がこっそり教えてくれたの。鎌崎の会社が裏で手を回して商品を仕入れられないようにしてるって」
「やっぱり……」
柚子は表情を曇らせる。
柚子の予想していたかのような言葉に、鳴海は反応した。
「やっぱりってどういうこと!? あんた、こうなることが分かってたの!?」
鳴海の手が、柚子の肩を力強く掴み、柚子は痛みでわずかに顔を歪める。
すると、子鬼が柚子を助けようと、鳴海の指に歯を立てた。
「いたっ!」
思わず柚子の肩から手を引いた鳴海は、少し冷静になったようだが、まだ混乱しているに違いない。
「鳴海さん、落ち着いて。私がやっぱりっていったのは、借金を返しただけで鎌崎が引き下がると思えなかったからよ。まさか商品を仕入れられないようにするとは思わなかったけど」
『むすめごよ。散々柚子に世話になっていてその態度はないのではないか?』
「あ……」
龍の言葉を聞いて、鳴海の顔には後悔の色が現れていた。
「ご、ごめんなさい。私……動揺してて。本当にごめ……っ」
鳴海はたまらず顔を覆った。
「うん。大丈夫だから気にしないで」
かなり追い詰められているようだ。
柚子は玲夜とも、今後なにかしら仕掛けてくるのではないかと話していたのだが、他人の柚子が勝手に動くわけにもいかず、鳴海の相談待ちだったのだ。
しかし、こんなにも辛そうな姿を見ると、先手を打っておくべきだったのではないかと思ってしまう。
謝らなければならないのは柚子の方かもしれない。
「状況を知りたいの。鳴海さんのお店に行っていい?」
「それは、もちろん。でも、いいの?」
「うん。行けるなら今すぐ行こう」
柚子はまず迎えの車を頼んでから、鳴海とともに私服に着替える。
学校内ではコックコートを着ているので、その格好のまま外に出るわけにはいかない。
着替えている間に車が到着したようで、学校前に停められた車に乗り込み、鳴海の店へ向かった。
駅からも近く、人通りも多い道の通りに立つ店は、立派ななりをしているがクローズの札がかけられたままだ。
周辺の店が開いている時間帯だというのに、店は暗く閉められている。
客が誰ひとりいない店内に入っていく。
店舗と住居が一体になっている作りのようで、店の奥にはキッチンがあり、さらにその奥はリビングになっていた。
そこでは、意気消沈した鳴海の父がいる。
すぐそばには電話と、リストらしきメモが置いてあり、たくさん書かれた名前が横線で消されていた。
「お父さん」
「おお、芽衣。それに柚子さんまで。いらっしゃい。遊びに来てくれたのかい? けど、悪いね。料理を出してあげたいんだけど、まだ店は再開していないんだよ」
無理やり作られた笑顔が痛々しかった。
「お父さん、どうだったの? 取引してくれるところはあった?」
「いや、どこも駄目だったよ」
力なく笑う鳴海の父の手元にあるメモを柚子は手に取る。
「借金を返せばすべて元通りだと思ってたのに、世の中そんなに甘くないってことか……」
「あきらめないでよ!」
「そうは言ってもな。食材がないんじゃ、作りたくても作れないさ」
鳴海はなにか言葉を発しようと口を開いて、すぐに閉じた。言いたいことはたくさんあるのだろうが、悔しそうに唇を噛むことで耐えている。
そんな暗い空気の中、払拭するように柚子がメモをテーブルに叩きつける。
びっくりしたように柚子を見る鳴海親子に向け、柚子はにっこりと微笑んだ。
「鳴海さんのお父さん、必要な商品や材料を書き出してくれませんか?」
「えっ?」
「ほら、早く」
「は、はい!」
柚子に背中を押されるように、鳴海の父親はペンを走らせる。
それを見ながら柚子は電話をした。
相手はもちろん、頼りになる旦那様だ。
玲夜はなにかしらの邪魔が入ることを想定していた。
だからこそ、なにか助けが必要ならばすぐに連絡するよう柚子に言い置いていたのだ。
「玲夜、今大丈夫?」
『ああ。なにをしてほしいんだ?』
どうやら玲夜にはお見通しのようだ。
それも当然。柚子が学校を抜け出したことも、鳴海の見せに行っていることも、柚子のすべては玲夜に報告される。
「あの男が鳴海さんのお店に商品を仕入れられないようにしたみたいなの。なんとかできる?」
『問題ない。鬼龍院の傘下には、飲食店に食材その他を卸している会社もあるからな。必要なものを高道に伝えておいてくれ』
「分かった。ありがとう」
『礼は帰ってからたっぷりともらう。覚悟しておけ』
こんな緊迫した時なのに、柚子は頬を染めた。
玲夜との電話を切ると、鳴海の父親が書き出したものを高道にメールする。
すると、二時間後には注文した商品が届いたのである。
これには鳴海親子もびっくりとしていた。
ついでに玲夜は商品を卸している会社の従業員も寄越してくれたようで、その場で契約を行い、今後はその会社が食材などを卸してくれることになった。
鳴海の父は、安堵からか静かに涙を流し、何度も何度も頭を下げていた。
そして鳴海も喜んでいたが、柚子の方を見ながら複雑な表情をする。
「ねぇ、どうして?」
「なにが?」
「私、あんたにひどいことばっかり言ってたじゃない。敵意剥き出しで、ムカついたでしょう? それなのにどうして、こんなにも私を助けてくれるの?」
芽衣が理解できないのもしょうがない。
けれど、柚子もなんの考えもなしに動いていたわけではなかった。
「以前にね、鳴海さんと似た状況の子と会ったの。親が負債を抱えてて、援助と引き換えに花嫁になった子のこと」
「えっ」
「その子は自分を花嫁に選んだ相手のことを毛嫌いしてた。親に言われるまま花嫁になって、相手を嫌って、そのくせ相手から援助はもらってるの」
「なにそれ。嫌なら花嫁なんてならなきゃいいじゃない」
その通りだ。
「あやかしの方が強要したの?」
だったら許せないというように鳴海の目つきが鋭くなるが、蛇塚は強要などしたいない。
「ううん。花嫁になるかは本人の意志に任せられてた。だから、嫌なら断ればよかったのよ」
「なおさら、なんでよ」
「本当だよね。彼女は利益を受けながら嘆くことしかしなかった」
それは昔の自分にも重なってしまう。
嘆くだけで誰かの助けを待つしかしなかった、柚子。そして梓。
けれど、鳴海は違う。
現状を打破しようと自分の力で乗り越えるべく努力している姿が、率直に尊敬できた。
「だから、羨ましかったのかな。鳴海さんは自分の力で立って、道を切り開こうと努力していて、そんな強さに私は惹かれたんだと思う」
自分には備わっていなかった強さ。
「あなたを尊敬する」
柚子はにこりと微笑みかけた。
鳴海は照れくさそうに視線を逸らす。
「私はそんな大層な人間じゃない。結局はなにもできなかったんだから」
「鳴海さんが頑張ったからよ。それに、純粋に友達になりたかったのかもしれない」
「……だったら、これからは友達になってあげてもいいわ。芽衣って呼んでもいいわよ」
柚子は目を見張ってから、相好を崩す。
「うん。ありがとう、芽衣」
すると、鳴海──いや、芽衣は、初めて柔らかな笑顔を見せてくれた。
「ありがとうは、私の言葉でしょう。柚子」
***
まだ日も昇らぬ夜中、玲夜はぱっと目を覚ました。
隣には最愛の妻である柚子の姿があるが、その表情は険しく、苦しそうにしている。
うなされているようで、額に浮かんだ汗を玲夜はタオルで拭った。
起こすべきか迷っていると、次第に穏やかな寝息へと変わっていった。
それを見てほっと息をつく玲夜は、最近のことを思い返す。
柚子がこうしてうなされ始めたのはいつからだったろうか。
出張を早く切り上げてきたのも柚子が心配だったからに他ならない。
けれど、朝にはケロリとしており、柚子は自分がうなされているのにも気づいていないようだった。
細心の注意は払っている。
まだストーカー事件のことか尾を引いているのだろうかと心配な玲夜は高道に相談した。
ひどいようなら医者に診せることも視野に入れていたからだ。
夢でうなされたごときで大げさだと他人は言うかもしれない。
けれど、玲夜にとって柚子は唯一無二の存在なのだ。
わずかな憂いも与えたくなかった。
すると、高道は最近柚子の不安になっているものを取り除けばいいのではないかと提案してきた。
今、柚子のストレスになっているのは柚子本人に聞かずとも分かる。
最近仲よくなった鳴海芽衣という娘。
芽衣はかまいたちのあやかしである、鎌崎という男の花嫁であったことから執着されている。
普通ならそれがどうしたと捨て置くのだが、柚子は鳴海を大層気にしている。
元々あった借金は返し、店の取引はすべて鬼龍院系列のものに変えた。
もはや鎌崎ごときに手を出す隙など与えてはいない。
しかし、それでもなおちょくちょく芽衣の周りに出没するようで、芽衣を怖がらせていると柚子が話していた。
時に柚子が体を張って追い返しているそうだが、玲夜としては逆上した鎌崎に柚子が傷つけられないかと心配でならない。
当然護衛は以前よりも強化した。
龍も子鬼もそばにおり、アリンコ一匹近づけさせない体制が整っている。
しかし、それでも心配は尽きないのだ。
これは柚子のためにも、自分自身のためにも、早々に鎌崎という男を潰しておいた方がいいと、玲夜は判断した。
訪れたのはとあるパーティー。
特に代わり映えのしない、上流階級のあやかしの集まりだ。
ここに鎌崎が訪れると報告があった玲夜は迷わず参加した。
そして玲夜の方から鎌崎に近づく。
周囲では玲夜から話しかけられた鎌崎を羨ましそうにしているが、射殺しそうなほどの目で見られている鎌崎の額には汗がにじみ出ている。
顔も強張っており、玲夜への恐怖心で立っているのがやっとであった。
それを分かっていながらさらに眼差しを鋭くする玲夜。
「俺はあまり気の長い方ではない。言いたいことは分かるな?」
「あなたには関係のないことだ」
「俺の大事な花嫁が、お前がちょっかいをかけている娘と懇意にしている。それゆえ柚子が大層心配しているんだ。俺の花嫁を煩わせることの愚かさを身をもって知りたいか?」
あやかしの世界で千夜に次ぐ霊力を持った玲夜からの威圧に、息も絶え絶えな鎌崎。
鬼との力量の差を身をもって理解させられている。
「警告はこれが最後だ。二度と柚子にも、柚子の友人にも近づくな。関わろうとするな」
「……くっ」
それだけを告げると、玲夜は鎌崎に背を向けた。
すると、すぐに別のあやかしに声をかけられる。
その横には人間の女性。
愛おしげに腰に手を回していることから、花嫁であるとすぐに理解する。
そのあやかしは玲夜も何度か顔を合わせたことのある見知った人物だった。
「お久しぶりです。玲夜様」
「ああ」
「紹介するのは初めてとなりますが、妻の穂香です。以前は花茶会で、玲夜様の奥方とご一緒したようで、ご挨拶に参りました」
「そうか。柚子が世話になったようだな」
穂香という女性はただ静かに頭を下げた。
その目はどこかうつろで、元気がないように見える。
しかし、柚子以外は眼中にない玲夜にとってはどうでもいいこと。
気にも止めない。
「なにやらもめているように見えましたが、大丈夫でしたか?」
「ああ、問題ない。少し花嫁に目がくらみ理性を放棄したあやかしに、あきらめというものを教えていたところだ」
男性はにこやかに笑い出した。
「それはなんとも酷なことをおっしゃる。我々あやかしにとって花嫁がどれだけ甘美な誘惑か、花嫁を持つあなた様が知らぬはずがないでしょうに」
「そうだな」
玲夜は男性につられて思わず苦笑する。
玲夜が振り返ると、鎌崎がフラフラと会場から出ていこうとしているところだった。
「花嫁への執着心は不治の病ですよ。かく言う私も、その不治の病に冒されているのですがね」
そう言って穂香をさらに引き寄せた。
穂香はまるで人形のようにされるがままだ。
その様子を見て、ふたりの関係性がなんとなく見える。
いつか柚子も自分に死んだような目を向けてきやしないかと、玲夜は気が気でならない。
こういう現実を見せられるので、玲夜のパーティー嫌いは、柚子という花嫁を得てから悪化したように思う。
穂香はずっと夫であるあやかしの方をチラリとも見ずにいる。
しかし、視線はなにかを追うように動いていたので、その先に目を向けると、先ほど鎌崎が出ていった会場の外へつながる扉だった。
すると、それまで静かだった穂香が初めて声を発する。
「旦那様。少しお化粧室へ行って参ります」
「俺もついていこう」
「いいえ。旦那様はどうぞ、鬼龍院様とのご歓談を続けてくださいませ。鬼龍院様とお話しできる機会など多くはありませんから」
あやかしは一瞬考え込んでから、穂香から手を離した。
「確かにそうだな。なにかあればすぐに私を呼ぶんだよ」
頬にキスを落とし、名残惜しそうに穂香を見送る。
この時穂香がほの暗い顔で笑っていたのに気づくことなく、あやかしは笑った。
「ははは、いけませんね、花嫁を持つあやかしというものは。たかだかトイレにすら嫉妬してしまいます。玲夜様も同じではありませんか?」
「俺はそこまでひどくはないが、気持ちは大いに理解できる」
「そうでしょうとも。花嫁というものは──」
その後、他のあやかしとも歓談しながら屋敷に帰った玲夜は、これ以上鎌崎が鬼を敵に回すような真似はしないだろうと柚子に伝えた。
ほっとした顔をする柚子と話すのは、今度の新婚旅行の話だ。
***
パーティー翌日、学校へ行くと、芽衣が近寄ってきた。
「ちょっといい?」
「またなにかされたの?」
「されたというかなんというか、判断に困るのよ」
よく分からない柚子は首をかしげる。
澪はまだ登校してきていないので、教室の隅で話をすることにした。
「昨日、鎌崎が家にやって来たのよ」
「えっ、今度はなにをしに来たの?」
「それが……」
芽衣は眉を下げ、困惑した様子でいる。
「私もよく分からなくて……。突然来たから警戒したけど、すぐに鬼龍院さんがつけてくれた護衛の人が駆けつけてくれたから安心したんだけどね。でもあいつ暴れるわけでも脅してくるでもなくて、私のことをじっと見てから、『どうやらお前が花嫁だったのは勘違いだったようだ』って言って帰っていったのよ」
「勘違い? それってどういう意味?」
「分からないから、こうしてあんたに相談してるんじゃない。あれだけ俺の花嫁だって騒いでたのに、勘違いなんてことあるの?」
「いや、私に聞かれても……」
花嫁だと感覚で分かるのはあやかしだけだ。人間である柚子には、玲夜の花嫁となり結婚した今も理解できない。
玲夜が花嫁と言ったからそうなのかと受け入れているだけ。
「勘違いすることなんてあるの?」
柚子は腕に巻きついている龍に向かって訪ねた。
『いや、あやかしが花嫁を間違えるなんてありえぬ』
「じゃあ、なにかの作戦とか?」
それしか柚子には思いつかない。しかし、芽衣は否定する。
「そういうわけではなさそうなのよね。なんていうのかな。言葉では表現しづらいんだけど、これまでのあいつからは執着心って言うか、まとわりつくような嫌な視線を感じてたんだけど、昨日のあいつからはそういった感情が抜け落ちてたように思うのよ。私に対してほんとに興味なさそうって言うか」
店を追い込もうと様々な手を回していたのに、おかしな話だ。
「他にはなにか言ってた?」
「もう関わるつもりはないから安心しろとか。お前のような奴に関わって鬼龍院に目をつけられるなんてごめんだからなとか、勝手なこと言って帰っていったわ」
「パーティーで玲夜が牽制していたって言ってたからそのせいなのかな?」
「その程度であきらめる奴とは思えないんだけど」
柚子と芽衣はそろって「うーん」と唸る。
玲夜にも相談し、とりあえず様子を見ることになったが、その後鎌崎が鳴海家に関わってはぱったりと来なくなかった。
玲夜も不思議そうにしていたが、牽制が聞いたのだろうと結論付けた。
『これは、もしや……』
龍がひっそりとなにかをつぶやいていたのには誰も気づかなかった。
不完全燃焼ぎみではあるが、一応の解決を見せてからしばらくして、ようやく前期の試験も終わり、結果は無事に合格を勝ち取った。
思わずガッツポーズをしてしまったのを、芽衣にあきれたように見られてしまう。
けれど喜ぶのも仕方ない。
待ちに待った新婚旅行に行けるのだから。
ふたりきりになれる場所という要望をどんな風に叶えてくれるのかドキドキしながら、玲夜と車に乗って移動する。
残念ながら仕事の忙しい玲夜は何日も休んではいられない。
だから、なにかをして大騒ぎするよりは、まったりとふたりだけの時間を過ごせることを優先したかった。
車を走らせて数時間。見えてきたのは広大な海だ。
この海もまた柚子の希望のひとつである。
夏と言ったら海。
しかし、玲夜の花嫁となってから、海どころかプールにもいけていない。
というのも、自分以外の男の前で水着姿になるなど言語道断、らしい。
できるだけ露出の少ない水着にするからとお願いしても無駄だった。
それは透子も同じだったので、学校のプールの授業はしかたなくふたりだけ見学だった。
なので、柚子は花嫁になって以降初めての海だ。
「海で泳ぐなんて久しぶり~」
「誰が、海で泳ぐのを許すと言った」
「えっ!?」
ルンルン気分だった柚子が固まる。
「えっ、でも海に……」
「海は見るだけだ」
「そんな! だってこの日のために水着も買ったのに!」
「あーい!」
「あいあい!」
子鬼からも不満噴出だ。
なにせ子鬼たちも、元手芸部部長に水着を特注したのだから。
海では泳がないがプールがある。
「そうなの? そこでなら水着で泳いでいい?」
「貸し切りだからな。存分に泳げる」
ひくりと口元を引きつらせた柚子は悪くない。
「貸し切り?」
「ああ」
「ちなみに泊まるのってどこなの?」
宿泊先は玲夜に一任していたので、柚子は希望を言うだけで場所までは知らない。
なにせ、指輪を作るために店まで建ててしまえる人である。
確認はしておくべきだったかもしれない。
「旅行のために別荘を建設することにした」
やはりスケールがでかい。
「が、今回の旅行には間に合わなくてな。その別荘を使うのは今度だ。残念だが、普通のホテルだ」
「そうなんだ」
ほっとしたような残念なような。
けれど、別荘を建てているのは間違いなく、つまりは次があるということ。
それが知れただけでもテンションはあがる。
「すまなかった。記念に残るものにしたかったのに」
玲夜は残念そうだが、柚子は問題ない。
「玲夜と一緒なら古い安宿でも全然いい!」
そう思っていたのに、やって来たのは五つ星のホテルだった。
しかもホテルの中でもっともいいお部屋。
やはり玲夜と金銭感覚は合わないらしい。
泊まるだけなのにいったいどれだけの部屋あるのかと、着いて早々子鬼たちと探検してしまった。
しかもここは玲夜と柚子だけの部屋。
子鬼たちと龍には別の部屋を用意しているというのだから驚きだ。
龍は不満げだったが、玲夜が大量のDVDを渡すと、我先にと部屋に籠もってしまった。
最近はアニメにはまっているらしい。
「これで邪魔がひとりいなくなったな」
と、玲夜がつぶやいたのを柚子は聞き逃さなかった。
柚子は早速貸し切られたホテル内のプールに来た。
室内プールではなかったため、念入りに日焼け止めクリームを塗る。
「子鬼ちゃん。背中塗ってくれる?」
後ろを見ずにクリームを渡すと、背中が塗りやすいように髪を横に流す。
そして待っていると、明らかに子鬼よりも大きな手が柚子の背中を撫でた。
「ひゃっ!」
驚いて後ろを向くと、子鬼ではなく玲夜がいるではないか。
「えっ、子鬼ちゃんは?」
「プールは明日にしろと言っておいた。今頃龍と一緒にDVDでも見てるだろう」
そう言いつつ柚子の背中にクリームを塗っていく。
子鬼なら大丈夫なのに、相手が玲夜に変わるとそれだけでドキドキしてしまう。
しかもなんだか……。
「玲夜、手つきがやらしい……」
「ここで襲わないだけ、ありがたく思うんだな」
なんて恐ろしいことを言うのか。
「少し騒がしいな」
眉をひそめる玲夜だが、仕方がない。
目の前は海で、世の中は夏休み。
海ではしゃぐのはひとりふたりではないのだ。
うるさいとは言っても、浜辺からは少し距離があるのでそこまでうるさくはない。
けれど、人間より五感の鋭いあやかしにはうるさいのかもしれない。
どこか違う方向を見ている玲夜の注目を向けるため、柚子はすくった水を玲夜にかけた。
見事に顔に命中したため、玲夜はびっくりとした顔をする。
けれど、次の瞬間、意地が悪そうに不敵に笑うと、柚子を横抱きにしてそのままプールに飛び込んだ。
「きゃあ!」
悲鳴をあげる柚子は全身ずぶ濡れだ。
「ひどい、玲夜の馬鹿」
「くっくっくっ」
玲夜はおかしそうに声をあげて笑う。
お返しだとばかりに、柚子は手持ちの水鉄砲で攻撃した。
玲夜と散々遊んだ翌日。
早朝の人のいない浜辺には玲夜と手をつないでいる柚子の姿があった。
波の音が絶え間なく続き、心が癒されていくようだ。
こんなにのんびりとしたのはいつぶりだろうか。
砂に足を取られながら、サクサクと音のする砂の上を歩く。
すると、突然玲夜が足を止め、向かい合う。
「渡すタイミングがなかなかなくて悪かった」
そう告げながら取り出したのは、ふたつの指輪である。
綺麗な曲線と細工がされた指輪は、おそろいになっている。
「結婚指輪。完成してたの?」
「ここに来る少し前に藤悟から送られてきた」
玲夜は指輪をひとつ手にすると、柚子の左手を取り、薬指にはめた。薬指には玲夜からの婚約指輪もあり、ふたつの指輪が輝いている。
自然と顔をほころばせる柚子に、玲夜が箱を渡す。
「俺にもつけてくれるか?」
柚子は嬉しそうに笑み、指輪をおそるおそる玲夜の薬指にはめた。
普段装飾品をつけない玲夜が指輪をはめている。
それも自分と同じデザインのものをだ。
柚子は左手で玲夜の左手を握り、指を絡める。
「一緒だね」
「ああ」
なんだかこそばゆく感じるのはなぜだろうか。
***
あっという間の旅行が終わり、屋敷に戻ってきた柚子は、その日はぐっすりとベッドで眠った。
ゆらゆらとゆりかごに乗るような心地よさを感じ、遠くで誰かから呼ばれる声がする。
玲夜でもない。けれど知っているような不思議な声。
柚子ははっと目を開けた。
「……ここ、どこ?」
柚子は真っ暗な場所でひとりぽつんと立っていた。