鬼の花嫁 新婚編2~強まる神子の力~


 翌日、朝に確認すると写真どころかアカウントごと消されていて、やはり高道が動いたのかと察する。
 しかし、しっかりと拡散された後なのであまり意味はないのかもしれない。
 昨夜出張中の玲夜と電話をしたのだが、投稿されたもののことは話さなかった。
 あるいは玲夜から話が出るかとも思ったが、話す内容は自分がいない間の柚子を心配する言葉ばかり。
 玲夜が言い出さないならわざわざ知らせる必要もないかと言い出さなかった。
 投稿のことはすでに透子が高道に話しているというし。
 電話では、新婚旅行のことを話した。
 どこへ行きたいか。
 なにをしたいか。
 どうやら仕事のせいで何日も日にちは空けられないらしく、海外は無理だとなり、国内のどこかにしてくれとお願いされた。
 柚子は玲夜と一緒にいられるならどこへでもよかったので、問題はない。
 柚子から希望したのは、できるだけ護衛の人からも離れて、ふたりきりでいられる場所でゆっくりとしたいというものだった。
 完全に護衛を切り離せないのは分かっている。
 その上で、護衛を離して過ごせるなら嬉しいと告げたのだ。
 この日ばかりは子鬼や龍からも離れて、玲夜とふたりの時間を堪能したかった。
 玲夜もその願いに否やはなく、静かな場所を探してくれるらしい。
 いくつか候補を出して、ふたりで決めようとなった。
 少しずつ現実味を帯びる新婚旅行に、柚子の期待は高まっていく。
 だが、その前に試験を攻略せねばならない。
 料理の実技試験なので、こればかりは玲夜では教えられないので、頑張れとだけ応援された。
 新婚旅行のためなら意地でも合格を獲得してみせると意気込む。
 そえして今日も学校へ行くと、柚子が机に座るや、わらわらと女子生徒たちが集まってきた。
 昨日の今日である。嫌な予感がするのは仕方ないというもの。
 そして、その予感は的中してしまう。
「ねぇ! 鬼龍院さんって結婚してるの!?」
「あの写真の人が旦那さんなの?」
「あの人って前にも学校に来てたことあるよね?」
「本当にそうなの?」
 次から次へと息もつかせぬ怒濤の質問攻撃に、柚子はタジタジに。
「なんで黙ってたの!?」
「教えてくれればいいのに」
 黙ってたのかもなにも、教えるほど彼女たちとは仲がよくないではないか。
 もちろんそんなことを口にしようものなら、鬼の首を取ったように責められるので口にはしないが、勘弁してほしい。
 ほっといてくれというのが素直な気持ちだ。
 なのに、彼女たちは遠慮なく質問を続行する。
「ねえ、どうやってあんな人と出会ったの?」
「紹介してよ」
「どんな仕事してる人なの?」
「鬼龍院さんってよくブランド物持ってるし、お金持ちなの?」
 うるさい!と怒鳴れたらどれだけいいだろうか。
 そんな勇気はないので、柚子はどうしようかと戸惑うしかない。
 初めて玲夜の花嫁と周りに知られた時も大騒ぎとなったが、当時は高校生で、柚子を取り囲んだのは友人たちだった。
 多少遠慮はないが、信頼関係がそこにはあったので、問い詰められても嫌な気はしなかった。
 困ったなぁと思っただけ。
 けれど、今は違う。
 人気シェフでもあったストーカー教師に贔屓されていたために、女生徒から嫌われており、そこに信頼関係などまったくない。
 これまで避けていたくせに、玲夜に関わりがあると知るや寄ってくる彼女たちには、嫌悪感しか抱けない。
 だんだんと柚子の表情がなくなっていく。
 それにも気づけず質問を続ける女子生徒たちに怒りも湧き出して来た時、彼女たちの騒がしい声をかき消すほどの大きな声が教室内に響いた。
「うるさーい!!」
 びくっと体を震わせたのは柚子以外にも数人いた。
 ぴーちくぱーちくうるさかった女子生徒たちは一気に静まり返り、声の先に顔を向ける。
 先ほどの声の主はどうやら澪だったようだ。
 澪は腰に手を当てて、怒りの表情を浮かべている。
「ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ、うるさいわね。あんたたちに恥じらいはないわけ?」
 柚子を囲む女子生徒達に対し、澪は怒っていた。
「なによ、あなたには関係ないでしょう」
「私は柚子の友人だから関係あるわよ! それに対してあんたたちこそなによ!? これまで柚子に陰口叩いたりしてたくせに、急に擦り寄って来ちゃって。柚子が誰と結婚してようが、旦那が誰だろうが、柚子の友人でもないあんたたちに関係ないでしょう?」
 澪の言葉に、幾人かの女子生徒がムッとした表情を浮かべた。
「だからこうして今話しかけてあげてるんじゃない」
「あげてるってなに!? 誰が頼んだのよ。恩着せがましくして、結局はあんたたちの好奇心を満たしたいだけでしょうが!」
「別にいいでしょう。話してくれたって、減るもんでもなし。これを切っ掛けに仲よくなるかもしれないじゃない」
「柚子はどうなの? この人たちと仲よくしたいの?」
 澪の眼差しが柚子を射貫く。
 澪にここまで言わせて、柚子が黙っているわけにはいかない。
「悪いけど、友達でもない人たちに自分の私生活を話す気はないわ。彼のことを知りたいだけならあっちへ行ってくれる?」
 きっぱりと柚子は言い切った。
 すると、途端に不満を露わにする女子生徒たち。
「はあ!? なにそれ。せっかく私たちの方から話しかけてあげたのに」
「ノリ悪~い」
「めっちゃ冷めた。もういいや」
「イケメンの旦那がいるからっていい気になっちゃって。明らかに釣り合ってないんだから、どうせすぐに捨てられちゃうわよ」
 口々に言いたいことを言って彼女たちは離れていった。
 ほっと息をつく柚子の元へ澪がやって来る。
「あんなうるさい輩の言う言葉なんて気にすることないわよ」
「うん。ありがとう、澪」
 なんて頼もしいのだろうか。
 いい友人ができたと喜ぶとともに、自分が発端の騒ぎぐらいは自分でなんとかしなくてはと反省した。
「あーい」
「あいあいあい」
 子鬼は戦闘態勢に入り、シャドーボクシングをしている。
 いつでも行けるぞという気合いを感じたが、さすがに手を出してこない一般人相手に手を出させるわけにはいかない。
 そう思っていたら、急に教室内に強雨が降り注いだ。
 しかも、先ほどまで柚子を囲んでいた女子生徒だけに。
 女子生徒たちはきゃあきゃあ騒いでおり、スプリンクラーの故障か?と、被害のなかった他の生徒が話し合っているが、柚子の視線は腕に向いていた。
 腕に巻きついていた龍が得意げな顔をしながら『カッカッカッ』と笑っているのである。
 犯人は間違いない。
 しかし、少々彼女たちの勢いに怒りを感じていた柚子は、ポンポンと龍の頭を優しく叩くだけにした。
「ほどほどにね」
『分かっているとも』
 龍はニヤリと凶悪な顔で笑ったのだった。


***

 今日のことで完全に澪以外の女子生徒を敵に回したなとげんなりしつつ、手のひらを返したような質問攻めに遭うよりはマシかと思い直す。
 少し気になったのは、あんな大騒ぎの中心が柚子なら、まず間違いなく言いがかりをつけてきそうな鳴海の存在だが、今日はやけに大人しくしていた。
 鳴海の席は柚子の斜め前なので、かなりうるさかっただろうに。
 まるで目に入っていないように無視だった。
 そのまま学校は終わり、学校前で澪と別れる。
 迎えの車が停まっているコンビニと、駅とでは方向が反対なのだ。
「じゃあ、柚子、また明日ね~」
「バイバイ、澪。今日はありがとう」
「いいってことよ。バイバーイ」
 手を振ってから柚子はコンビニ向かって歩き出す。
 たまに迎えに来てくれる玲夜を他の生徒に見られたくなくて、迎えの車は少し離れたコンビニに停めてもらうようになったが、今回の件で玲夜が柚子の旦那であると周知された今、離れた場所で待っていてもらう必要はないのではないか。
 子鬼がいるとはいえ、コンビニまでの距離に危険がないとも限らない。
 さほどの距離ではないが、ストーカー事件のことを思うと、警戒心は残っていた。
 もうひと騒ぎあったのだから、いっそ開き直るべきかもしれない。
 今さら高級車一台迎えに来たぐらいどうってことないだろう。
 そもそも前から柚子の服や鞄についてはブランドものばかりだとヒソヒソされていたわけだし。
 まあ、柚子は澪に指摘されるまで気づかなかったのだが。
 いろいろと考え出すと、コンビニまでの道のりが無駄に思えてならなくなってきた。
「明日から学校の前まで迎えに来てもらおうかな」
「あーい」
「やー」
 子鬼もその方がいいというように頷いたので、車に着いたら運転手にお願いしようと思っていた時、前方に黒い車が停まっているのが見えた。
 そのそばには鳴海の姿があり、なにやら一緒にいる男性と揉めているように見えた。
「離してよ!」
「話がある」
「私にはないわ!」
 鳴海は男性に掴まれた手を振り払ったが、すぐに再び腕を掴まれている。
「店がどうなってもいいのか?」
「卑怯者!」
「いいから乗れ!」
「嫌!」
 不穏な気配を漂わせているふたりに、柚子は焦りを見せる。
 間に入るべきか、どうすべきか考えている間に、鳴海は男性によって車に押し込められようとしていた。
 明らかに鳴海は嫌がっている。
 これはまずいと、柚子は足が動いた。
 突っ込むようにふたりの間に走っていき、勢いを殺さぬまま鞄を振りあげて男性に叩きつける。
 小さく呻き声をあげる男性。かなり痛いだろうなと思いつつ、鳴海から離れた手をこれ幸いと柚子が掴み、手を引いて走り出す。
 鳴海は柚子の登場に驚いた顔をしている。
「あんたっ」
「こっち来て。早く!」
 柚子は一瞬抵抗しようとした鳴海を怒鳴りつけると、鳴海は弾かれたように動き出した。
「芽衣!」
 男性が鳴海の名を呼び、追いかけてくるのが彼女にも見えたのか、大人しく柚子に手を引かれる。
「どこに行くのよ!」
「そこのコンビニまで!」
 コンビニに行けば迎えの車がいる。
「芽衣! どこに逃げようとお前は私のものだ!」
 鳴海の手を引いて、後ろから追いかけてくる男性の声をわずかに聞きながら。必死に走る。
 さほど距離がなかったのが幸いだ。
 柚子が鳴海と走ってきたのを、運転手は気づいてくれ、外に出て扉を開けてくれた。
 柚子は鳴海とともに車の中に飛び込んだ。
 ヒールを履いたままの全力疾走はかなり足に負担があったが、幸いと靴擦れは起こしていない。
 けれどかなり疲れた。
 息切れしながら、運転席に乗り込んできた運転手に問う。
「後ろから誰か追いかけてきてましたか?」
「ええ。男性が。しかし、私の姿を見るとどこかへ行きました」
 それを聞いてほっとする柚子に、運転手は心配そうにする。
「なにかございましたか? 問題があるようでしたら玲夜様にご連絡します。先ほどの男が原因でしょうか?」
「玲夜に連絡するのは待ってください。さっきの男は私じゃなく彼女の関係者みたいなので」
 柚子は隣に座る鳴海に目を向ける。
 息を荒くし、俯き加減の彼女の顔色は悪い。
「あの……大丈夫?」
「大丈夫なわけないじゃない」
 感謝されたくて助けたわけではないが、そんな仏頂面で不機嫌そうに返さなくてもいいではないか。
 しかし、柚子は震えた鳴海の手を見て、彼女の精いっぱいの虚勢だと気がつく。
「誘拐されそうになってたの?」
「……違う。けど、似たような感じ……」
 すると龍が柚子の腕に巻きつきながら身を伸ばして鳴海に近づく。
『先ほどの男、あれはあやかしであったな』
「そうなの?」
 柚子は男の顔まではしっかり見ていなかった。
 顔を見たらその容姿の美醜で、あやかしか判別できたかもしれないのに。
 余裕がなかったのは仕方ない。鳴海をその場から逃がすのに精いっぱいだったのだから。
「あやかしと知り合いなの? そのわりには仲がいいとはとても言えない様子だったけど」
『柚子よ。あやかしの男がああまでに人間の女に固執する理由などひとつしか考えられぬであろう』
「……花嫁?」
 ひとつと言われて柚子は花嫁という言葉しか浮かばなかったのだが、その言葉を聞いた瞬間、鳴海がびくりと反応し、くしゃりと顔を歪めたかと思うと、激しく感情を荒ぶらせた。
「どうして私だけこんな目に遭わないといけないのよ!」
 うわあぁぁぁ!と声をあげて泣き出した鳴海に、柚子は困惑する。
 彼女の身になにが起きているのか、まったく分からない。
 なので対処のしようもなかった。
 そもそも彼女を助けることは子鬼も龍も不満のようで、泣いている鳴海にも冷たい眼差しを向けている。
 これまで散々柚子に喧嘩腰だったので仕方はないかと柚子も叱ったりはしない。
 それに、泣いている女の子に追い打ちをかけるほど非情ではないようなので、目つきの悪さぐらいはご愛嬌だろう。
 耐えていたものが決壊したように泣き喚く鳴海の背中を、柚子はひたすら撫で続けた。
 振り払われることも想定していたが、予想外に鳴海はされるままだった。
 そこまで気を回せなかったのかもしれない。
 しばらくそうしていると、次第に落ち着きを取り戻してきたのか、鳴海の泣き声が小さくなり、すすり泣きに変わる。
 しゃくりあげ、柚子が渡したハンカチで涙を拭いながらながら、鳴海はわずかに憎まれ口を叩けるほどに回復してきた。
「最悪。なんでよりによってあんたに、助けられなきゃならないのよ」
「ご、ごめんなさい……」
「謝んないでよ!」
「ごめっ……あっ、えと……」
 謝るなと言われたのに反射的に謝罪の言葉が出そうになってすぐに止めるが、続く言葉が出てこない。
 柚子は困ったように眉を下げる。
 鳴海はまだクズクズと鼻を鳴らしながら柚子に問う。
 少しだけ鳴海のいつもの威勢のよさが戻ってきたように見えた。
「どうして助けたのよ。危ないかもしれないのに」
「誘拐されるかと思ったから、つい」
「…………」
 鳴海はなにかを耐えるように唇を噛みしめた。
 そんな鳴海の顔を見て柚子は問う。
「……ねえ、聞いていい? さっきの男性となにを揉めてたの? あやかしだったんでしょう?」
 お節介かと思ったが、聞かずにはいられなかった。
 鳴海が柚子を敵視する理由が分かるかもしれないと思ったのもある。
 しかし、素直に話してくれるとも思っていなったが、予想外に鳴海は口を開いた。
「さっきのあやかし……。鎌崎風臣って言って、かまいたちのあやかしらしいんだけど、私を花嫁として迎え入れたいって言ってるの」
 柚子は目を大きくした。
 まさかこんな近くに花嫁がいるとは思いもしなかったのだ。
「じゃあ、彼の花嫁になるの?」
「冗談じゃないわよ! 誰が頼まれてもなるものですか! あいつは……あいつは、私の家族をめちゃくちゃにした張本人だっていうのにっ!」
 鳴海からは鎌崎という男への嫌悪しか感じられなかった。
 どうやら柚子のように花嫁に選ばれて嬉しいという簡単な話ではなさそうだ。
「めちゃくちゃにしたってどういうこと?」
「……あいつ、最初から嫌な感じがしたのよ。突然やって来たかと思ったら、偉そうな態度で私を花嫁にしてやるって。そんなの私は微塵も望んでないのに」
 鳴海は手の爪が食い込みそうなほど拳をぐっと握り込む。
「だから、断ったの。そしたら、お父さんの店に嫌がらせを初めて、どんどんお客さんが来なくなったの。最初はあいつのせいとは思わなくて、店をなんとかしようとしたお父さんは詐欺に騙されて多額の借金を負わされた。裏で手を引いていたのが……」
「まさか、さっきの男の人なの!?」
 思わず声を大きくしてしまう柚子の問いかけに、鳴海はこくりと頷いた。
「そうよ。お父さんの店の評判を悪くした上に借金まで負わせて、手が回らなくなったところで、私に借金と引き換えに花嫁になれって。ふざけんじゃないわよよ」
 ギリギリと歯がみする鳴海の目は怒りに燃えていた。
「お父さんのことを思うと受け入れるしかない。けど、どうしても嫌だったから拒否してやったわ。そしたら嫌がらせはなくなるどころか一層ひどくなって……」
 ぽたりと、鳴海から流れた涙が落ちる。
「昔はたくさんあったお店もどんどん手放すしかなくて、今じゃひとつしか残ってないわ。お父さんとお母さんの最初のお店。それだけは手放せなくて、どうにか手元に置いてる。けど……それももう難しいかもしれない」
「どうして?」
「あいつが……。いつまでもあいつを拒否する私に焦れて、本気で潰しにかかろうとしてるの。借金を返さないなら担保になっている店を差し押さえるって」
「そんな……」
 いくら花嫁を手に入れるためとはいえ、そこまでのことをしてしまえる神経が分からない。
「最近はお父さんの体調もよくないのよ。ほとんど精神的なものよ。当然よね。返せもしない借金を背負っちゃって、詐欺に騙されたのも自分を責めてるのよ。だから私が料理学校を卒業して、店をもり立てるんだって、そう思ってたのに……」
「借金はいくらなの?」
「五億よ」
「ごっ!」
 個人で背負うにはあまりにも多い金額に声がうわずる。
「今月中に返せなかったら店を差し押さえるって。それが嫌ならはなよめになれってさ」
「どうするの?」
「どっちも嫌よ!」
 鳴海は声を荒げる。
 当然だ。柚子だって同じ立場なら絶対に嫌だ。
「話し合いで解決できたらいいけど、あいつは絶対にあきらめない……。私という花嫁を手に入れるまでは、こらからもずっと嫌がらせを続けるわ。私は、私のせいで両親に迷惑をかけるのが嫌なのよ」
 鳴海は迷っているようだった。
『あやかしの花嫁への執着はとてつもない。柚子のように相思相愛ならば幸せだが、受け入れられない花嫁にとっては不幸でしかない』
 不意に穂香の姿が頭をよぎった。
 どういう経緯で花嫁になったか知らないが、現状では鳴海の気持ちを一番理解できるのは彼女なのではないかと、そんなことを思った。
「月末までに五億なんて返せるはずがない……」
 頭を抱える鳴海の姿を見ていると、ある人を思い出させる。
「ねえ。とりあえず、五億返せたらいいの?」
「簡単に言わないでよ。確かに五億返せたらとりあえずお店を取られることはないけど、五億よ、五億! それに返せたとしても、嫌がらせはきっと続くわ」
 不可能だと嘆く鳴海の目は絶望に染まっている。
 彼女は覚悟を決めようとしている。家族のために犠牲になる覚悟を。
 なにもできなかったあの時感じた、やるせなさが蘇ってくる。
 頭に浮かぶのは、蛇塚と彼の花嫁だった梓。
 柚子には見過ごすことはできなかった。
 透子に「このお人好しが!」だなんて、あきれたように叱られてしまうのかもしれない。
「よし。とりあえずは五億返そう。それでもって、五億の札束もって、その男の横っ面引っ叩いてやるの!」
 なんだか発言が透子みたいだなと思いながら、きっと原因は柚子が小さな怒りを感じていたからだと理解していた。
 柚子は運転席に乗り出して運転手に指示を出す。
「車を出してください! 向かうのは競馬場です!」
「へ?」
「ちょっと、なんで競馬場なのよ!?」
 運転手は素っ頓狂な声を出し、鳴海は理解が追いつかないようで怒鳴っている。
 しかし、ちゃんと柚子には考えがあってのことだ。
「いいから、任せて! 運転手さん。レッツゴーです。早く!」
「あーい」
「あーいあーい!」
 子鬼まで急かすと、運転手は慌ててエンジンをかける。
「は、はい!」
 そうして車はようやくコンビニの駐車場から動き出した。

 車を走らせる車内では、鳴海が不機嫌そうに腕を組んでいた。
「どういうつもり!? 競馬場に行ってなにするのよ」
「もちろん、賭けて償金をもらうの」
 他になにが?という顔をしている柚子に、鳴海がくわっと目をむく。
「馬鹿なの!? どんなに賭けたって五億なんて償金稼げるわけないじゃない!」
「そうなの?」
 少々、怒りのせいか突っ走っていた柚子の勢いが削がれた。
「あんた競馬やったことある?」
「ないです……」
 やったどころか見たことすらない。
「そんなんでどうすんのよ!」
 改めて思い返すと、賭け方もよく分からない。
 とりあえず行けばなんとかなるだろうという思いからの、勢いでしかなかった。
 あきれたように鳴海ににらまれて、柚子は身を小さくする。
 選択肢を誤ったかと頭を悩ませていると、運転手がおずおずと口を挟む。
「柚子様、差し出口かと思いましたが、あまり賭け事をご存知ないようなので補足しますと、たとえ競馬で五億稼げたとしても、その後税金がかかってきますので、実際手元に残る金額は少なくなるかと思いますよ」
「えっ。そうなんですか?」
「はい。五億全部渡してしまったら、来年の確定申告で莫大な税金を払わねばならず、今度は税務署から金を払えと要求されてしまいます」
 柚子は税金のことなどまったく頭になかったので大慌てだ。
 後から徴収されるのはまずい。金を払えと言われても鳴海の家には支払い能力など残っていないのだから。
 横からじとーっとした眼差しを向けられ、柚子は焦る。
「じゃあ、競馬場はなしで! えっと、えっと、税金がかからない方法となると……」
 柚子は考えを巡らせて、思いつく。
「宝くじは大丈夫ですか?」
 柚子はいったん路肩に停まった車内で、運転席に身を乗り出して運転手に聞く。
「そうですね。宝くじなら、税金はかからないかと」
 見るからに動揺して慌てている様子だった柚子は、目を輝かせた。
 思った通りである。
 以前に柚子が宝くじに当たった時、特に税金を取られたりしなかったのを覚えていたのだ。
 まあ、柚子の知らぬところで玲夜が支払っていた可能性はあったが。
「じゃあ、近くの宝くじ売り場にお願いします!」
「承知いたしました」
 再度車が動き出す。
「はあ……」
 鳴海は先ほどまで泣き喚いたことも忘れたように冷静な様子で、深いため息をついた。
 そこには大きなあきれが多分に含まれているように感じる。
 柚子はなにかしでかしたかとビクビクしながら鳴海の様子をうかがう。
「なにか?」
「どうして私はここにいるのかと馬鹿馬鹿しくなってるのよ。相談する相手がそもそも間違ってたわ。あやかしの花嫁になってる奴に弱音を吐くなんて意味ないのに」
「あっ、やっぱり私が花嫁だって知ってたの?」
 以前つぶやいた鳴海の、柚子が花嫁だと知るかのような言葉が引っかかっていたが、間違いではなかったようだ。
「あの野郎のせいであやかしの世界のことを少しだけ勉強したからね。あやかしであるはずの鬼龍院の名前を人間が名乗ってるなんて、理由はひとつしか考えられなかった」
「もしかして、鳴海さんが私にきついのもそのせい?」
「ええ、そうよ。だって、私をこんなに苦労させるあの野郎と同じあやかしに嫁ぐなんて正気とは思えなかったんだもの。あんな奴の花嫁になったって不幸になるのが目に見えてるのに、同じ花嫁に選ばれたあんたはすごく幸せそうだった。けど、あんたがブランドものをこれ見よがしに持っているのを見てイラついたのよ。この子はお金の心配なんてしたことないんでしょうねって」
 鳴海は口を挟む隙もないほど一気に話しきった。
 鼻息を荒くする鳴海に、柚子は困ったように笑う。
「私は玲夜がお金持ちだから結婚したわけじゃないよ」
「お金かのために結婚したんじゃないなら、なおさらあんたは異常よ!」
 鳴海は怒っているというより、八つ当たりしているように感じた。
「あやかしなんて、見た目が綺麗なだけで、中身は所詮人間とは別の生き物なのよ。じゃなきゃ、あんな非道なことできるはずがないじゃない! あいつのせいで、私の家族はめちゃくちゃ! あんたもそんな奴の仲間よ。なにが花嫁よ! なにが本能よ!」
 鳴海の悲鳴のような叫びは、車の中に悲しく響いた。
 あやかしはひどい奴ら。
 そうでなければ困ると言わんばかり。
「花嫁なんてなりたくてなったわけじゃないのに。私のことは放っておいてよ……」
 次第に弱々しくなる声に、柚子も胸が痛くなる。
 自分はなんと幸せ者なのか。
 花嫁の犠牲となった人間がここにもいる。
 神様はどうして花嫁など作ったのだろうか。
 しかし、神様を責めることなどできない。
 自分は玲夜に出会えて心の底からよかったと思っているから。
 だからこそ目の前の鳴海を無視してはおけなかった。
「鳴海さんを花嫁に選んだあやかしは確かにひどいと思う。けど、そんなあやかしばかりじゃないって知って欲しい。玲夜はとても愛情が深い人で、優しくて、私をなにより愛してくれてる。普通の花嫁ならあり得ない自由も与えてくれてる。友達のあやかしだってそう。明るくて気さくで、仲間思いで、人間と変わりない思いやりを持ってる人よ」
「…………」
 悔しそうに口を閉ざしているのは、鳴海も分かっているからかもしれない。
「逆に人間にもひどい人はいる。相手を痛めつけていることにも気づかず、自分本位で、我儘で、他人を不幸にしてもなんとも思わない人間が」
 柚子をどん底に落としたのは人間だった家族。
 けれど、そこから助け出したくれたのは玲夜というあやかしだ。
「あやかしだからとか、人間だからとかない。ただ、その人が悪いだけ」
「……だからって、どうしろっていうのよ! 出会った相手が悪かったっての? そんなの分かってるわよ! じゃあ、私はあきらめてあいつの花嫁になれって言いたいの!?」
「ううん。嫌ならなる必要なんてないよ!」
 声を荒げる鳴海の肩を強く掴む。
 柚子は真剣な眼差しで鳴海を見つめた。
 その言葉では言い表せない真摯な瞳に、鳴海は落ち着きを取り戻していく。
「でも……どうするの……?」
「これから一発逆転する場所へ行くの」
 そここそが、宝くじ売り場だ。

 宝くじ売り場の前で下ろしてもらうと、柚子は龍を鷲掴み、意気揚々と一直線に向かった。
『我の扱いがひどいではないか』
 ぶらーんと揺れる龍がなにやら不満を言っているが、柚子は無視だ。
 子鬼だけが気の毒そうにしている。
「あーい」
「やー」
 そして売り場にある旗を見て柚子は拳を握る。
「よし! キャリーオーバー中!」
「なにがよし!なのか、全然分かんないんだけど。まさかと思うけど、宝くじで借金返そうとしてる?」
「うん」
「ぶぁっかじゃないの!!」
 鳴海はあきれを通り越した怒りで吠えた。
 しかし、柚子はなんと言われようと、その目には勝利を確信していた。
「大丈夫。あっ、鳴海さんの宝くじだからクジ券代払って欲しいんだけど、持ち金ある? 貸そうか?」
「さすがにそれくらいあるわよ! 馬鹿にしてんの! それより当たるわけないじゃない」
「よし、じゃあ、一番当選金額が多いの買おう」
「あんた人の話聞いてないわね!?」
 ふたりのやり取りを見ていた龍がつぶやく。
『このふたり、なにげに相性がいいのではないか?』
「あーい」
「あいあーい」
 子鬼は分からないというように小首をかしげる。
 その間にサクサクと柚子は進め、鳴海にペンと用紙を渡す。
「ほら、鳴海さん。適当に好きな番号選んで」
 柚子が選んだのは、キャリーオーバー中で、最も当選金額が多い、番号を自分で選ぶタイプだ。
 明日抽選と書いてあるので、当選すれば月末までの返済には十分間に合う。
 鳴海は不満いっぱいの顔をしながら、しぶしぶ番号を選び、受付でお金を払ってくじ券に変えてもらった。
 そしてすぐさま車の中へ戻った柚子たち。
「あんた、本当にあたるって思ってるの?」
 当たるはずがないと信じて疑わない鳴海の意見はもっともだ。
 しかし、ここにはラッキーグッズがあるのを忘れてはならない。
「大丈夫。大丈夫。鳴海さん、さっきのくじ券貸してもらえる?」
 鳴海は不審そうにしながらも、素直にくじ券を柚子に渡す。
 柚子はくじ券を細長く折りたたむと、目をギラリとして龍を見る。
 いち早く危険を察する龍だが、少し遅かった。
「子鬼ちゃんたち。龍の頭と尻尾を捕まえてて」
「あい!」
「あーい」
 柚子の命令に素早く反応した子鬼は、龍が逃げる前に龍を捕獲した。
『な、なんだ。なにをするのだ?』
 うにょうにょと動かす龍の胴体に、柚子はまるで乾布摩擦でもするかのようにくじ券を擦りつけたのである。
『ぬあぁぁぁぁ!』
 ゴシゴシゴシと、鱗がハゲないか心配になるほどに擦りつける。
「子鬼ちゃん、逃げにいようにちゃんと押さえててね」
「あーい」
「やー」
『お主ら止めぬかぁぁぁ!』
 龍の悲鳴が車内に響き渡るが、柚子は手を止めない。
 ひとりついていけないのは鳴海である。
「ねえ、なにしてんの?」
「この龍はね、霊獣って言って、とっても御利益のある生き物なの。私も前にこの龍のおかげで宝くじで十億あたったのよ」
「じゅ、十億!?」
 鳴海が腰を抜かしそうなほど驚いている。
 まあ、当然だ。一般人にとって十億とはそれだけの価値がある。
「でも、私が当たったのは龍の加護があるおかげだと思うの。鳴海さんは龍の加護がないわけだから、こうしてくじ券に龍の御利益をしみ込ませてるとこ」
「そしたら当たるの?」
「たぶんね」
 その話を聞いた瞬間、鳴海の目もギラギラとしたものに変わった。
「うーん、もう少し擦りつけて置いた方がいいかな?」
「貸して。私がやるわ。私の宝くじだもの」
 先ほどまでの消極的な態度が嘘のように、鳴海の目はやる気に満ちあふれていた。
『待て、むすめごよ。そっとだ。優しくしてくれ』
「五億ぅぅぅぅぅ!」
『ぎゃあぁぁぁ!』
 鳴海は人が変わったように一心不乱に、くじ券を龍に擦り込みまくった。
 これでもか、これでもかと、その姿は狂気すら感じる。
 目の色を変えてしまう金の力は偉大であった。
 ようやく気がすんだ柚子と鳴海から解放された龍はフラフラとしている。
『ひ、ひどい……。我は偉大な霊獣だというのに、こんな扱いをされたのは初めてだ……』
「あいあい」
「あい」
 しくしくと泣いている龍を、子鬼が肩を叩いて慰めていた。
 さらに追い打ちをかけるように、龍の胴体にくじ券を巻きつけてリボンで結んだ。
「肌身離さず持っていれば、もっと効果があるのでは?」と、運転手が余計なひと言を言ってしまったためだ。
 最近の龍は、お洒落のためにリボンを身につけていたのも仇となった。
 すぐさま身ぐるみ剥がされ、くじ券をくくりつけられた。
 結果が出るまでここままにするようだ。
「結果は明日の夜になるから、換金するなら明後日以降だね。それまでどうする?」
「いったん家に帰るわ。くじ券はあんたが持ってて。その方が御利益あるらしいし」
 よよよよと泣く龍をちょっと不憫そうに見ながらも、鳴海は止めはしない。
 なにせ今後の生活どころか、人生がかかっているのだから当然である。
「じゃあ、家まで送るね。さっきの人が途中で待ち伏せしてるかもしれないし」
「うん。……あっ、ちょっと待って。家から連絡来てたみたい。先に電話させて」
「うん。どうぞ」
 鳴海は電話をかけ始めた。
 柚子はまだ嘆いている龍をよしよしと撫でて、機嫌を取っていた。
 その時……。
「えっ! どういうこと!? お父さんたちは大丈夫なの?」
 声の緊迫さからただ事ではないと察した柚子たちが、鳴海に注目する。
「うん……。うん……」
 だんだんと泣きそうな顔になっていく鳴海の様子に、柚子は心配になる。
「……分かった。こっちはなんとかするから、お父さんたちも気をつけて」
 その言葉を最後に電話を切った鳴海は、両手で顔を覆った。
「どうしたの?」
「家に……。家の前に、あいつの関係者が待ち伏せしてるから帰ってくるなって。どこかに非難した方がいいって」
「確かなの?」
「うん。前にも店にあいつと一緒に来たことのある奴らだから忘れもしないって、お父さんが……」
 鳴海の顔色はひどく悪い。
「大丈夫……じゃないよね」
「大丈夫よ。それより、家に帰れなくなったから、送ってくれなくていいわ」
「じゃあ、どこに行くの?」
「分かんない。親戚のとことか」
『身内のところはあちらも手を回しておるのではないか?』
 先ほどまで泣いていた龍が、真剣な顔で鳴海を見あげる。
「っ、そうよね。なら、友達のところに……」
 しかし、鳴海は躊躇っている様子。
 友人に迷惑をかけることを危惧しているのだろう。
「だったら、私のところに来ない?」
「えっ?」
 鳴海は驚いたように柚子を見た。
 柚子も鳴海を見ていたら思わず口を出てしまっていた。
 考えなしだと怒られるだろうか。
 しかし、ここまで付き合った鳴海を、むざむざと放り出すなどできない。
「私が住んでるのはあやかしの中で最も強い鬼がたくさん暮らしてる屋敷よ。そこいらの家に行くよりずっと安全だと思うの」
 相手はかまいたちのあやかしと聞く。
 かくりよ学園で習ったが、かまいたちは猫又と同レベルの強さのあやかしだ。
 鬼の、それも次期当主の屋敷に喧嘩をふっかけてくるようなことはするまい。
『我も柚子に賛成だ。あやかしから狙われておるなら、あの屋敷ほど安全なのは、鬼龍院本家か妖狐当主の屋敷ぐらいのものよ。安心して過ごすがよいぞ』
 ずいぶんと偉そうだなと思ったのは柚子だけではなかったようで、子鬼たちが声をそろえて「龍、偉そう」と言われていた。
「親戚や友人に迷惑をかけるよりは絶対いいと思うの。どうする?」
 最終的には鳴海の意志を尊重するために、問いかける。
「五億が手に入るまで……。それまでお邪魔させてください」
 鳴海は深く頭を下げた。
 柚子に対し好意的な態度を見せたのはこれが初めてかもしれない。
「うん。分かった」
 柚子も多くは語らず、頷く。
 そして運転手へ声をかけた。
「屋敷に向かってください」
「承知しました」

五章

 鳴海を連れて屋敷へと帰ってきた。
 屋敷には玲夜が結界を張ってあるので、玲夜より弱いあやかしなら跳ね返してしまえる。
 それに玲夜に屋敷を任された多くの使用人たちがいるので、鳴海にとって自宅にいるより安全な場所だろう。
「ここがあんたの家?」
 鳴海は屋敷を見て呆気にとられていた。
 今の鳴海の気持ちは十分に分かる。
 なにせ、柚子もこの屋敷に初めて訪れた時は、鳴海と同じような顔で驚いていたのだから。
「うん。私の、というよりは旦那様のね。私はごくごく一般的な家に生まれたから、最初の頃は毎日のように驚いてたよ」
 はたして、柚子の家庭をごくごく一般的と言っていいのかは置いておいて、屋敷の大きさと立派さに驚いたのは間違いない。
 鳴海に本家を見せたらもっと驚くだろうなと思いつつ、屋敷の中に入る。
 使用人たちがずらりと並んで出迎えるその様子に、鳴海は口元を引きつらせていて、柚子も苦笑してしまう。
「これだけ美形がそろってると、逆に怖いわね」
「そうだね。鬼は特に綺麗な人が多いから」
 初見の人はやはりそういう感想を抱くのかと、柚子はなんだか親近感が湧いた。
 逆に大喜びしていた透子の図太さを改めて確認させられる。
 柚子のそばに雪乃が近づいてきて、荷物を受け取ろうと手を伸ばす。
 柚子は手渡しながら鳴海のことを話す。
「すみません、雪乃さん。こちら鳴海さんって言うんですけど、今日から数日間屋敷に泊まるので、客間の用意をお願いしてもいいですか?」
「ご安心ください。すでに客間には必要なものを取りそろえております」
 柚子は「えっ!」と驚いたが、きっと運転手がすでに報告をしていたのだろう。
 ならば玲夜にも話しが伝わっているはずだ。
「ありがとうございます。助かります」
 雪乃はニコニコと微笑んでいる。
「玲夜様には、のちほど奥様から詳細をご説明ください。その方がお喜びになりますから」
 その言葉で、やはり玲夜に話がいっていることを察する。
 そして、許可が出たからこそ、客間の用意がすでにされていたのだと思う。
「そうですね。玲夜には夜連絡します」
 にっこりと笑みを深くした雪乃は、パンパンと手を叩く。
 すると、別の女性の使用人が鳴海の荷物を手にし、「さあさあ、鳴海様はこちらへ。お部屋へご案内いたします」と、案内を始めた。
「えっ、ちょっと……」
 困惑する鳴海に向け、柚子は手を振る。
「今日はいろいろとあったから、ひとまず部屋で休んで。夕食の時間になったら呼ぶから。ご両親にも、心配ないことを連絡していた方がいいと思うし」
「……そうね、分かった。また後で」
「うん。後でね」
 とりあえず鳴海と別れて、柚子も自分の部屋へ行くと、まろとみるくが近づいてきた。
「アオーン」
「ニャーン」
 すりすりと頭を寄せる二匹を撫でてから、柚子は深いため息をついた。
「今日は濃い一日だったなぁ。まさか鳴海さんにあんな事情があるとは」
 柚子の予想以上だった。
 あんな目に遭っていたら、そりゃあ、あやかしにも花嫁にもいい印象を抱くはずがない。
 というか、花嫁に出会う率が高すぎるのではないか。
 花嫁に選ばれるのはまれだと聞いたのに、この遭遇率はどうなのか。
 かくりよ学園ならば分かるが、妹に親友に、たまたま入った学校の同級生。
 こんなにも花嫁とはいるものなのだろうか。
 実は知られていないだけで、いまだ発見されていない花嫁はもっと多くいるのではないだろうか。
 それに、花嫁を抜きにしたとしても、柚子の周りで問題が必ず起こっている気がする。
『柚子は巻き込まれ体質なのではないかと我は思うのだが、お前達はどうだ?』
「あーい」
「思う~」
 子鬼が迷いなくうんうんと頷いているのを見て、柚子はなんとも言えない表情になる。
 柚子もほんのり思ってしまっていたからだ。
「玲夜が怒っていないといいんだけど……」
 柚子に激甘な玲夜なので、怒っていても最終的には許してくれるだろう。
 だが、鳴海のことは以前から玲夜も知っているはずだ。
 問題なのは、いい情報ではなく、悪い情報として玲夜に伝わっていることである。
 鳴海は料理学校に行っていこう、柚子になにかと難癖をつけてきていたのは、玲夜も知るところであり、澪だったなら協力してくれそうだが、これまでの印象が悪い鳴海だとすると、玲夜からの苦言は覚悟しなければならないかもしれない。
 相手があやかしなので、玲夜の協力は絶対必要だ。
 しかし、鳴海を屋敷に受け入れてくれたというなら、協力してくれる可能性は決して低くはないはず。
「勝負は電話の時かな」
 どう説明しようかと頭を悩ませていると、雪乃から夕食の準備ができたと知らせに来てくれた。
 柚子にとってはいつも通りの夕食。かと思ったが、いつもより豪華なのは気のせいだろうか。
 鳴海が驚いたように「すごい……」と目を大きくしているが、普段はこれほどの品数はないので、勘違いしないでいただきたいものだ。
「雪乃さん。今日はなにかイベントごとでもありましたっけ?」
「いいえ。ございませんよ」 
「でも、なんだか料理が豪華なような……」
「ああ、それはきっと奥様が透子様以外のご友人を連れてこられたと聞いて、料理人たちがはりきったのでしょう。透子様以外で女友達を連れてこられたのは今日が初めてですものね」
 その言い方では、まるで柚子に女友達が透子以外にいないように聞こえるではないか。
 現に鳴海が気の毒そうな目を向けてきている。
 この誤解は解いておかねばならない。
 確かに屋敷に連れてきた女友達は透子だけだが、友人はそれなりにいるのだ。
 ただ、あまりにも高級な屋敷に恐れをなして、来てくれないだけである。
 手芸部部長は訪れた機会はあったが、玄関までだったので、もてなすということをしなかった。
「決して友達がいないわけじゃないからね」
「うん。分かったわ」
 鳴海の目はまったく信じていないようで、柚子はがっくりとした。
 きっとなにを言っても、鳴海の中では友達の少ない子というイメージが定着したに違いない。
 料理学校でも澪以外に気安く話している子がいないのも原因だ。
 この誤解はなかなか解けそうに思えなかった。
 あきらめて食事を始める。
「ご両親には連絡ついた?」
「うん。鬼のあやかしの家だって言ったら心配そうにしてたけど、料理学校の同級生の家だからってことと、鬼の家なら手を出せないって伝えたらちょっと安心したみたいよ」
「それならよかった」
 鳴海の両親も、鳴海のようにあやかしに対して好意的な感情は持っていないと想像できる。
 あやかしに嫌がらせされている現状で、あやかしの家にいると聞いたら驚くのは当然だ。
「相変わらず家の前にいるの?」
「うん。ずっと外から見張られてるって」
 隠れることもしないあたりが、鳴海に対してプレッシャーをかけているつもりなのだろうと。
 早く花嫁に来いと。
「ねえ、いっそのことご両親もここに呼んだら?」
「えっ?」
「だって、ずっと見張られてるんでしょう? この屋敷みたいに守ってくれる人もいないんだし、鳴海さんに手が出せないからってご両親の方に手を出される可能性があるんじゃない? 最悪人質とか」
 その可能性は考えていなかったのか、鳴海の顔が強張る。
「ご歓談中のところ失礼いたします」
 突然、雪乃が話しに割って入ってきた。
「鳴海様のご家族に関しましてですが、すでに家の方に護衛を向かわせておりますので、人質などの心配は不要と存じます」
「お父さんもお母さんも大丈夫……なの?」
 力なく問う鳴海に、雪乃は見るだけで安堵するような柔らかな笑みを浮かべた。
「我が鬼の一族に、かまいたちごときに出し抜かれる者はおりません。ご家族のことは私どもにお任せください。必ずお守りいたします」
 今にも泣きそうにくしゃりと顔を歪めた鳴海は、ほっとしたように表情を緩め、雪乃に深く頭を下げた。
 そして、柚子もお礼を言う。見張られていると聞いた瞬間に、鳴海の家族への対処をしておくべきだった。
 まだまだ自分は甘いなと認識させられる。
「ありがとうございます。雪乃さん」
「お礼でしたら玲夜様に。すべては玲夜様のご指示ですから」
 玲夜はまるでこちらの状況を見ているかのようだと、柚子は安心感を抱く。
 玲夜がいるんだと思うと、なんでもできる気がしてくるから不思議だ。
 しかし、本音を言うと、自分が勝手に動いた問題に玲夜を煩わせたくはない。
「明日の学校は休んだ方がいいと思うんだけど、鳴海さんはどうする?」
 鳴海はしばらく考え込んだ後、口を開く。
「迷惑じゃなければ、お金が手に入るまでいさせてくれる? 学校も休みたい」
 これまでの強気な鳴海からは考えられないほど弱々しい問いかけ。
 それだけ重圧がかかっているのだろう。
「うん。学校へ行っている間になにかあったら大変だからそうしたらいいよ。ここにはたくさん人がいるから、困ったことがあったら相談して」
 柚子は安心させるように微笑むと、鳴海は視線を彷徨わせ、なにか言いたそうに口を開閉している。
 柚子が首をかしげると、小さくその言葉は耳に入ってきた。
「あ、ありがとう……。その、いろいろと助けてくれて」
 恥ずかしがるようにつぶやかれた言葉はしっかりと柚子の耳に届いた。
「どういたしまして」
 柚子はくすりと笑った。

 そして食事が終わると、雪乃が柚子に書類を渡してきた。
「雪乃さん。これは?」
「鳴海様に迷惑をかけている鎌崎風臣という人物の資料です。玲夜様より、奥様にお渡しするようにと言づかっています」
「玲夜」
 留守にしていながらも先回りして柚子のために動いてくれている。
 こぼれ落ちた笑みには、玲夜への信頼と愛情が込められていた。
 それを見た鳴海は複雑な表情をしている。
「あんたはあやかしの旦那とうまくいってるのね」
「うん。そうだね。今のところは問題ないかな。重いって思われるぐらい深い愛情をかけてくれてるけど、私はそれを嫌だなんて思ったりはしていないから。それに、鎌崎だっけ? そんなのと玲夜を比べられたくない。彼のような人ならほとんどの女性が嫌がると思うし」
 鳴海から聞いた限りでは男としてもあやかしとしても最低である。
 柚子だって玲夜がそんな裏工作をして無理やり手に入れようとしてきたら、それまで愛があったとしても冷めるだろう。
 しかも鎌崎は初見でやらかしてしまっている。
 愛情なんて生まれるはずがないのだ。
「あやかしどうこうじゃなくて、絶対にそいつ個人が悪いと思うの」
 力強く断言すると、ようやく鳴海がクスリと笑った。
「でしょう? あんなの絶対にごめんだわ。五億積まれたって嫌よ。どんなにイケメンでもね」
「あやかしは容姿がすごくいいもんね」
 雪乃から渡された書類に目を通していた柚子は、ぎょっとする。
「えっ! この人、既婚って書いてるけど、結婚してるの!?」
 勢いよく鳴海を見れば、鳴海は若干怒りを宿した顔で頷いた。
「そう! そうなのよ! 私が断る理由のひとつでもあるんだけど、そいつ奥さんいやがるのよ」
 少々口が悪くなっているが、気持ちは分かる。
 柚子もまさか既婚者とは思わなかった。
「しかも、相手三十過ぎてるじゃない。鳴海さんは十八歳?」
「そうよ」
「それ犯罪ギリギリ……」
 もちろん愛があれば十八歳なら結婚できる年齢でもあるし問題はないが、その愛がないのだからどうしようもない。
 ただのロリコンである。
「う~わ~」
 柚子は分かりやすくドン引きしている。
「奥さんいるのに十八歳に言い寄るってどうなの? しかも花嫁として迎えるつもりなのに、まだ離婚してないみたいだし」
 その上、よくよく書類を確認してみると、鎌崎という男は奥さんと恋愛婚である。
 あやかしの世界では、いまだに政略結婚が多い。
 それはより強い跡継ぎを作るためであり、一族をさらに繁栄させるためである。
 だからこそ、強い子を産み、夫となる者の霊力を高める花嫁は大事に大事にされるのだ。
 玲夜と桜子のように、あるいは東吉が透子と出会う前に婚約していた人のように、一族に決められた婚約なら、花嫁の登場で簡単に破談になるのは分かる。
 すべては一族の繁栄のための婚約だから。
 しかし、鎌崎は今の奥さんと愛し合って結婚しているのだ。
 それなのに花嫁が現れたから花嫁を優先させるとはどういうことなのか。
 奥さんはどうするのか。
「とんだ、クソ野郎でしょう?」
「否定できない……」
「奥さんを理由に断ってみたら?」
「それで聞かなかったからこうなってるのよ」
 もはや言葉も出ず、柚子は書類を鳴海に渡した。
 鳴海は終始嫌そうに書類を眺めている。
 そこには嫌悪感しかなく、どう転んでも鎌崎と手を取り合う未来があるようには見えない。
 これは逃げの一手だ。

 夕食を終えると、柚子は玲夜に電話をかけた。
「大丈夫か?」
 開口一番柚子の心配を口にする玲夜に、柚子はクスクスと笑う。
「うん。大丈夫」
「どうやらいろいろとあったらしいな」
「そうなの。でも玲夜が先回りしてくれたおかげで助かってる。本当にありがとうね。大好き」
 いつだって、どこにいても柚子を第一に考えて助けてくれる玲夜に、想いを告げる。
「…………」
 しかし、沈黙が返ってきて柚子は首をかしげた。
「玲夜?」
「そばにいられないのが惜しいな。今すぐ抱きしめたくなった」
「私も。玲夜に早く会いたい」
 そして力いっぱい抱きしめてほしい。
「そんなことを言うと余計に会いたくなるだろう」
「私も会いたいの我慢してるんだから、玲夜も我慢してよ。ねぇ、仕事はまだかかりそう?」
「ああ。しばらくかかりそうだ」
「そっか……」
 柚子はがっくりとした。
 玲夜の存在を感じられるからこそ、玲夜に会いたくなってしょうがない。
「早く帰ってきてね」
「ああ」
 その日は夜遅くまで、今日あった出来事を話し続けた。


 翌朝、朝食の席につくと、向かいに鳴海が座っている。
「おはよう、鳴海さん。昨日は眠れた?」
「こんな状況で眠れるわけないじゃない」
 ぎろっとにらまれて、柚子は苦笑する。
 昨日は少しデレたのに、また今日はツンが戻ってきている。
 鳴海のような者をツンデレと称するのだろうと、柚子は失礼なことを考えていた。
 しかし、彼女との付き合い方がだいぶ分かってきた気がする。
 朝食もいつもより豪華なのは、料理人がはりきったおかげだろう。
 片っ端から食べていくのになかなかお皿が空になってくれない。
 はりきりすぎである。
「あんたはどうするの?」
 柚子が首をかしげると「学校よ!」と、鳴海は声を荒げる。
「うーん。私がいない間になにか問題があっても困るから、私も休もうかな」
「あんた、この前まで休んでたじゃない。そんなんで、試験受かるの? 旅行に行くのに大丈夫なの?」
 その言葉に柚子は目を丸くし、感動したように鳴海を見た。
「なによ」
「旅行行くのを金持ち自慢とか言ってたのに、心配してくれるの? ありがとう」
 柚子がほわほわとした笑みを浮かべると、鳴海はカッと頬を赤くする。
「そんなんじゃないわよ! ただ、私のせいだとか後から言われたくないだけよ!」
 強い反論にも、柚子はニコニコとした笑みを浮かべていた。
 決して嫌な性格の子ではなかったのだと、知れて柚子は嬉しかった。
 理不尽に嫌われていたわけではない。
 ただ、自分ではどうにもできない状況に追い込まれていただけなのだ。
「借金を返せたら鳴海さんのお父さんのお店に行っていい?」
「はあ!? 嫌よ、絶対に来ないで」
 鳴海は嫌がっているが、透子を連れて行ってみようと密かに考えていた。
「それより、本当に宝くじ当たるのよね?」
 鳴海の視線が、テレビを見ている龍に向けられる。
 肌身離さずを律儀に守り、腹巻きのようにくじ券を胴体に巻いてリボンでくくりつけられている龍の姿は、とても神に近い崇高な生き物とは思えない。
「大丈夫……と思う」
「思うじゃ困るのよ! 絶対に当ててくれないと」
「じゃあ、もう少し擦り込んどく?」
 龍に視線が集まると、龍は己の危機を感じて逃げ出した。
「あっ。こら! 子鬼ちゃん、捕まえて!」
「あーい!」
「あい!」
 子鬼がすかさず追いかけるが、うにょうにょと動き回る龍に手こずっている様子。
 それを見たみるくがまず動き。続いてまろも大きく伸びをしてから、お尻をフリフリして飛びかかった。
『四対一とは卑怯だぞ! ぎゃあぁぁぁ』
 どうやらすぐさままろに捕まったらしく、咥えられて戻ってきた。
 頭のいいまろは龍を柚子の前にぼてっと落とす。
 そこを子鬼が捕獲する。
『わ、我は霊獣であるからして、とても崇高な生き物であってだな……』
「つべこべ言わない」
 有無を言わさず、柚子は再び龍に乾布摩擦するように擦った。
 すると、まろが近づいてきて、くじ券を持っていた手に擦り寄ってきた。
「アオーン」
「なに、まろ?」
 なにが言いたいのか分からない柚子は、猫たちの通訳係でもある子鬼に目を向けた。
「まろが、自分もそれで撫でてくれって」
「それって、くじ券?」
「アオーン」
「自分とみるくの力も込めておくって」
 霊獣三匹分とはどれだけの御利益があるのだろうか。
 それに、非協力的な龍と違ってまろのなんて健気なことだろうか。
 まろとみるくは自分からくじ券に頭を擦りつけ始めた。
 それを黙ってみていると、慌ただしく雪乃がやって来た。
 その顔はなぜか不満げである。
「奥様、おくつろぎのところ申し訳ございません。客人……と言っても、招かれざる客人ですが、いらしておりますが、どう対処いたしましょうか?」
「招かれざる客人って誰ですか?」
「鎌崎風臣でございます」
 柚子がはっと鳴海を見ると、鳴海はひどく顔を強張らせていた。顔色も悪い。
「本当は追い返そうかと思ったのですが、玲夜様より、どうするかは奥様の一存に任せるとのご命令でしたので。もちろん、追い返しますよね?」
 雪乃はやる気満々で、腕まくりをしている。
 柚子としては当然追い返すことが先に頭を占めたが、すぐに思い直す。
 鎌崎風臣という男がどんな男なのか、純粋に興味を抱いたのだ。
 鳴海とは話し合いにならなかったようだが、相手が花嫁ということで理性的ではなかった可能性もある。
 第三者が間に立てば、もしかしたら話し合いが成立するかもしれない。
 とはいえ、要注意人物を屋敷内に入れるのははばかれる。
 そこで、柚子が決断したのが……。
「雪乃さん。門の前でいいので、話がしたいです」
「そんな、奥様。あんな雑魚にお手を煩わせずとも、私どもで対処いたします。二度とその面を出せぬように調教いたしますから」
 ギラリと雪乃の目が光った。
「一度話をしてみたいんです。奥さんがいながら鳴海さんを花嫁と呼んで迎え入れようなんてどういうつもりなのか」
 柚子の目は真剣そのものだった。
「ですが……」
 雪乃としては、毛ほどの危険すら柚子に近づけさせたくないのは分かる。
 それでも、逃げてばかりもいられない。
 借金を返した後も、鳴海の安全を確保するためには、多少の衝突はやむなしだ。
「私ひとりというわけではありません。ちゃんと護衛の人たちに周りを固めてもらいますから」
 あやかし相手に人間の柚子ひとりで立ち向かうほど、柚子も馬鹿ではない。
 花嫁とは呪いだと言ったのは誰だったろうか。
 花嫁を相手にすると、愚かな行動も起こしてしまえるのが花嫁を見つけたあやかしなのだと、さすがの柚子ももう知っている。
「承知いたしました。すぐに場を用意いたします」
 雪乃は心配を拭いきれない顔をしながらも、柚子の我儘に付き合ってくれるようだ。
「ありがとうございます」
 雪乃に礼を言ってから、鳴海に向かい合う。
「じゃあ、ちょっと話してくるから、鳴海さんはこの部屋から出ないでね。子鬼ちゃんたちは鳴海さんと一緒にいて」
「あーい」
「あい」
 以前なら玲夜の命令を優先させて、てこでも危険のある柚子から離れなかっただろうが、自分たちの意志で柚子を選んだ子鬼たちは、柚子の命令を聞き、不安そうな顔で座る鳴海の肩に乗った。
 本当は龍にもいて欲しかったが、柚子が発言する前に柚子の腕に巻きついてしまった。
『我も行くぞ。そいつのせいで我の大事な鱗が剥がれそうになったのだ。迷惑をかける愚か者がどんな奴か顔を拝んでやるのだ』
「いいけど。先に手を出しちゃ駄目だからね」
『それはあっちの出方次第だ』
 やれやれと肩をすくめ、柚子は気合い十分で鎌崎の元へ向かった。


 門の前では殺気立つ使用人たちが集まってきていた。
 その間をすり抜け、前に出た柚子の正面に男性が立っている。
 やや髪が乱れたように見えるのは、クセが強いというからではないはずだ。
 額には汗がにじんでおり、周囲の鬼たちを見て怯えているのが分かる。
 これが、鎌崎風臣。
 鬼とは比べものにはならないが、やはりあやかしだけあって整った容姿をしている。
 しかし、情報通り、年齢は鳴海と比べるとだいぶ離れているように見える。
 鬼である使用人に対するのとは反対に、人間である柚子を見るや軽んじるように強気な眼差しを向けてくる鎌崎。
 それだけで鎌崎がどういう人物か知れるというもの。
「芽衣を渡せ」
 開口一番脅すように命令してくる鎌崎に、柚子は怯えるどころかあきれ顔。
 ここをどこか分かっているのだろうか。
 これだけ周囲に鬼がいるのだから、玲夜の屋敷と知らぬはずがない。
「ずいぶんと不躾ですね。名乗りすらしませんか?」
「なんだと?」
 柚子は心の中で自分に言い聞かせる。
 自分は玲夜の妻だ。鬼龍院次期当主である玲夜の。
 そんな自分が気圧されることはあってはならない。
 柚子は手本となっている桜子を真似るように、毅然とした態度で鎌崎に向き合う。
 周りにこれだけたくさんの鬼が守ってくれているのだから、敵意を剥き出しの鎌崎を前にしても恐怖心はなかった。
 それに、彼らがいるからこそ、無様な姿は見せられないという気持ちが柚子を強くさせる。
 玲夜の妻であることを恥じさせない存在でありたい。
 玲夜がそばにいなくてもやってみせると、柚子は意気込む。
「ここは鬼龍院次期当主の屋敷です。先触れもなく突然やって来て騒がないでください」
「なにを偉そうに。旦那の地位がなければなんの価値もない小娘が!」
 瞬間、雪乃を始めとした使用人たちの眼差しが鋭くなった。
 それまでもすでに厳しかったものが、今は視線だけで射殺せそうである。
 鎌崎は鈍くはないらしく、一瞬気圧されるも、よほど花嫁である鳴海を手に入れたいのか、鬼を前にしてもすごすご引き下がることはしなかった。
「芽衣がここにいるんだろう。隠しても無駄だぞ。私はちゃんと分かっているんだ!」
「確かにいますよ。けれど、あなたに関係ないでしょう? 家族でも恋人でもない他人のあなたには」
「芽衣は俺の花嫁だ!」
「彼女は認めていません。それはあなたが誰よりご存知なのではありませんか? 彼女を手に入れるために相当あくどい真似をしたそうじゃないですか」
 柚子は軽蔑したような眼差しを鎌崎に向ける。
 今こうしている間にも、芽衣は怯えているだろう。
 そう思うと、彼のしたことは許されない。
「お前には関係ない」
「私が関係ないというならあなたもでしょう」
「俺は違う! 芽衣は恥ずかしがっているだけだ。そう、きっとあの両親に反対されていて、優しい芽衣は両親の言いなりになっているに決まっている。そうでなければどうして俺を避けるというんだ? 芽衣と私は相思相愛なんだ。芽衣はツンデレだから素直になれないどけなんだよ」
 自分に酔ったように語る鎌崎の姿を見て、柚子は頬を引きつらせた。
「あれ? デジャブ?」
 少し前に似たような男に遭遇したのは気のせいだろうか。
 柚子がそっと雪乃に視線を移すと、まるで得体の知れない汚物でも見るかのような表情で鎌崎を見ていた。 
『うーむ。ここにもストーカーがおったか。これほど蔓延っているとは、世も末だ』
 龍も柚子と同じ人物を思い浮かべていたようで、気持ち悪そうにしながら鎌崎に目を向けている。
「と、とりあえず、鳴海さんをあなたに会わせるわけにはいきません。お帰りください! そして、今後彼女に関わらないで」
 厳しい口調で告げる柚子は、昔を思うとずいぶんとたくましくなった。
 けれど、それはあくまで昔の柚子と比べてだ。
 それなりに成熟した大人の鎌崎からしたら、なんの威嚇にもなっていない。
「鬼の花嫁だろうが、私と芽衣の邪魔をするならどうなるか分かっての覚悟だろうな?」
「……邪魔をしたら、どうするというんだ?」
 地を這うような低い声にはっとしたのは、柚子だけではない。
「玲夜?」
 柚子はびっくりとした目で玲夜を見る。
 昨夜の電話では、帰ってくるのはまだまだ先のように話していたのに、などうしてここにいるのか。
 あふれる存在感と威圧感に、鎌崎は顔色を変える。
「きさま、まさか俺の柚子に対して、脅しているわけではないよな?」
「ひっ……」
 引きつらせるように息をのむ鎌崎は、しかし花嫁である鳴海の存在を思い出したのか玲夜に食ってかかる。
「わ、私の芽衣を返せ! 花嫁を奪うなど、いくら鬼と言えど横暴がすぎるではないか! あやかしならば素直に引き渡せ」
「誰にものを言っている?」
 ただひと言。
 なのに、言葉に言い表せぬ圧はさすが玲夜であった。
 あれほど饒舌に語っていた鎌崎は言葉をなくしている。
 ただただ、怯える小動物のように肩を震わせていた。
「失せろ」
「ひ、ひぃぃ」
 凍り付くような言葉に、鎌崎はなすすべなく走り去っていった。
『うーむ、なにやら不憫に思えてきた。あれほど強い霊力を叩きつけられたら、ちびってもおかしくなかろうに。よく耐えたものだ』
 龍は柚子のよく分からないことを口にしている。
「どういうこと?」
『人間の柚子には見えておらなんだが、あやつめ、かまいたちの男に鬼の気配がたっぷり乗った霊力で威圧しておった。ほれ、他の鬼ですら冷や汗を流すほどなのに、かまいたちのように弱いあやかしなら即死レベルだぞ』
 龍に言われてから周囲の様子をうかがうと、雪乃を始めとした使用人たちが顔を強張らせていた。
 中には額に汗を浮かべている者もいる。
 どうやら柚子の知らぬところで壮絶な攻防が行われていたらしい。
 まったく気がつかなかった。
 だが、おかげで鎌崎は撃退できたので、なんの問題もない。
 いや、それよりも柚子にとって今重要なのは鎌崎よりも玲夜である。
 柚子は早足で玲夜に近づいた。
「玲夜、どうしているの? まだ仕事が忙しいって言ってたのに」
「仕事は終わらせてきた。柚子を驚かせようと思って、昨日は伝えなかったんだ。驚いたか?」
 ドッキリが成功したように喜色を浮かべる玲夜に、柚子は肯定するしかない。
「驚いたに決まってる! まだ時間がかかると思って私……」
 玲夜のいない寂しさを紛らわせるように、子鬼、龍、まろ、みるくと一緒に眠っていた。
 まだ帰れないと聞いて、ひどく落ち込んで夜を明かしたというのに、帰れるなら帰れると言って欲しかった。
「どんな気持ちで待ってたと思うの?」
 少々八つ当たり気味に玲夜に言葉をぶつけると、玲夜柚子を腕におさめ、包み込むように強く抱きしめる。
「俺も柚子と同じだ。会いたくて会いたくて仕方なかった。だから、大急ぎで仕事を終わらせてきたんだ」
「ええ、まったく。無茶をなさいますよ」
 やや疲れた様子で現れたのは高道だ。
「玲夜様ときたら、一日でも早く帰るために、スケジュールを詰め込みまくったのですよ。付き合わされる社員が気の毒なぐらいです。ですので労ってさしあげてください」
「そうなの?」
 玲夜を見あげるが、疲れが見える高道と違い、玲夜は表情に表れないのでよく分からない。
 しかし、高道の様子を見れば、苦労したことがうかがえる。
「玲夜も私に早く会いたかったの?」
「当たり前だ。本当なら一日たりとも離れたくはないさ」
 飾らぬ率直な言葉に、柚子はふわりと微笑む。
 寂しがるのが子供っぽくて恥ずかしいと思っていたが、玲夜も自分と同じだと知り嬉しくなる。
 そう言えば、まだ伝えていない言葉があった。
「玲夜。おかえりなさい」
「ただいま。柚子」
 玲夜はいつもしているように、柚子の頬に軽いキスをする。



 早速鳴海に、帰ってきた玲夜を紹介する。
 鳴海は玲夜に恐縮し通しで、ペコペコと頭を下げていた。
 なにやら自分との態度が違う気がして、柚子は複雑な気分だ。
 あやかしが嫌いなのではなかったのではないのか。
 鳴海も玲夜の美しさの前にひれ伏してしまったのだろうか。
「あなたが、あいつを追い返してくれたと聞きました。それに、両親のことも守るように手配してくれたのはあなただって。なにからなにまで、本当にありがとうございます」
 その言葉で合点がいく。
 これまでの対処と、鎌崎を一蹴してしたので玲夜に好印象を抱いたというところか。
 実際に、柚子に対しても鳴海は態度を軟化させてきている。
「礼は柚子に言え。お前を助けると判断して動いたのは柚子だ。俺は柚子が望んだからにすぎない」
 そう言って柚子に優しく微笑みかける玲夜を、鳴海は悲しげな表情で見ていた。
 悔しいという方が正しいかもしれない。
「……あなたみたいなあやかしもいるんですね。あやかしは皆あいつみたいな奴らばかりかと思ってました。花嫁のことを自分の所有物と感じているような最低な奴らだって」
「玲夜は私を所有物なんて思ったりしないよ」
 柚子が否定したにもかかわらず、玲夜は反対の言葉を口にする。
「いや、思ってるぞ」
「えっ」
 しれっと答える玲夜に、柚子がなんとも言えない顔で固まった。
「柚子の体も髪も目も唇も全部俺のものだ。所有物というならその通りだ。その代わり、俺も柚子の所有物だがな」
「玲夜……」
 あまりにも色気を漂わせる玲夜に、柚子だけでなく鳴海まで顔を真っ赤にしている。
 できればこういうことはふたりきりの時に言ってほしかった。
 恥ずかしすぎる。
 鳴海にどんな顔を向けたらいいのか分からず、柚子は両手で顔を覆った。
 からかうような笑みを浮かべながら、横に座る柚子を抱き寄せ頭にキスをするものだから、柚子の羞恥心は最高潮だ。
 柚子にとことん甘い透子たちならば、またやってるぐらいにしか思わないだろうが、初見の鳴海には免疫がなく。
 ひどく居心地が悪そうにしていた。
「玲夜、お願いだから鳴海さんの前では止めて……」
 消え入りそうな声で願えば、しぶしぶという様子で手を離された。
 柚子はほっとして、まだ赤らめた顔のまま鳴海に向き合う。
「鳴海さんのいう、あの人は一応玲夜がおいかえしちゃって、結局話にはならなかったの、ごめんね」
『いや、そうでなくとも会話になっておらなかった。あやつ、前に柚子にストーカーしていた教師と同じ匂いを感じたぞ。完全に自分の世界の住人だったではないか』
「そうなの?」
 鳴海がいぶかしげに視線を送ってくる。
「うん。鳴海さんと自分は本当は相思相愛なんだとか。素直になれないだけだとか」
「気持ち悪い……」
 鳴海は吐き気をもよおしそうなほどに顔を歪ませた。
 最近同じような目に遭った柚子には気持ちが大いに分かる。
 柚子のトラウマまで刺激されそうだ。
 ああいう輩には二度と会いたくないと思っていたのに、そう時を置かずして出会ってしまった。
 自分が相手でないことが幸いだろうか。
 いや、鳴海にとってはこれ以上ない不幸だろう。
「あれは一筋縄ではいきそうにないね」
「そうなのよ。何度か話した時も、人の話を聞かないし、自分主導で話を進めるから、全然話にならないのよ。こっちは何度も根気よく話していても無駄に終わってばかりで……。最終的には花嫁だからで全部終わらせちゃうのよ」
 鳴海は頭を抱えたが、相手がそのような調子では抱えたくもなるだろう。
「時には脅迫したり、声を荒げて威圧してくるから、私も怖くてびびっちゃったりして。それが余計につけあがらせちゃう結果になってるんだと思う。私がもっと毅然と対応できたらよかったんだけど、あっちは柄の悪そうなつき人も一緒だったから……。ほんと悔しい……」
「大人の男の人相手ならなら仕方ないよ」
 自分の言葉が慰めになっているか分からないが、投げかけることしかできない。
「とりあえずゆっくりしているといい。脅しておいたから、この屋敷に近づいてきたりはしないだろうからな」
「本当にありがとうございます」
 鳴海は玲夜に深々と頭を下げた。
 そして、恥ずかしそうにしながら、やっと聞き取れる声で柚子にも「あんたもありがと」とつけ加えた。
 鳴海にはこれまで散々な言われようだったので、本人も柚子には感謝を伝えづらいのかもしれない。
 そう思うと、なんだか温かな気持ちになった。
「どういたしまして」
 柚子は嬉しそうにそう返した。
 
 鳴海には部屋でくつろいでくれと言い、柚子と玲夜は自室へと場所を移す。
 子鬼たちはまだ少し鳴海のそばにいるとついていった。
 まろとみるくは龍となにやら話し中のようで、ふたりだけ。
 部屋に入り扉を閉めるや、後ろから玲夜が抱きしめる。
 背中に感じる玲夜の温もりに、確かな存在が伝わってくる。
 柚子はくるりと体制を変え、自分からも玲夜に腕を回して抱きついた。
 玲夜がここにいることを確かめるように、しっかりと捕まえる。
 そして、顔を見合わせると、どちらからともなくするキス。
 たった数日のことなのに、何年も離れた恋人のようにお互いの存在を噛みしめた。
 部屋のソファーに玲夜が座り、横抱きにされながらいる柚子は、ずっと玲夜にぴとりとくっついている。
「……鳴海さんも災難だよね。あんな人に目をつけられるなんて」
「花嫁を見つけたあやかしの中には、強引な手段に出る者も珍しくはない」
 もしも、自分だったら……。柚子は思う。
「玲夜だったら同じことをした?」
「俺か?」
 誰よりも権力のある玲夜なら、たとえ柚子が嫌がったとしても、簡単に手中に収めてしまえるだけの手段がいくらでもあるだろう。
「私は家族と折り合いが悪くて、花嫁に憧れがあったし、玲夜が花嫁だって言ってくれて戸惑いも大きかったけど嬉しさもあった。でも、普通に考えたら、鳴海さんみたいに拒否しちゃうのが普通だよね」
 突然花嫁だと言われて、はいそうですかと素直に受け入れるのは難しいのではないか。
 そう考えると、自分はなんとチョロい女だったのだろうか。
 いくら当時追い詰められていて冷静な判断ができなかったとはいえ、初対面の相手の家に、出会った直後についていったのだから。
「まあ、正直、玲夜に花嫁にって言われて拒否できる人がいるか分かんないけど……」
 なにせ鬼の中でもトップレベルの容姿だ。
 多少の傲慢さを見せても、鎌崎と違って花嫁だと言われて喜ぶ人は少なくないはずだ。
「でも、私が嫌がった可能性もあるわけだし、そうしたら玲夜はどうしてた?」
 玲夜が鎌崎のような卑劣な行いをするとは思えないが、少し気になった。
「そうだな。もし柚子に嫌がられていたら、とりあえずは様子を見て……」
「様子を見て?」
「柚子に好かれるように一生懸命口説く」
 ふっと笑った玲夜は、柚子の頬を撫でる。
「柚子が俺に落ちるまで、何年かけてでも愛を伝え続ける。だから思う。あの男は馬鹿だなと」
「あの男って鎌崎って人?」
「ああ。もしかしたら真摯に気持ちを伝えていたら、相手も受け入れてくれたかもしれないのに、そのチャンスを無駄にしたんだからな」
「真摯って、あの人には無理じゃないかな。だってすでに奥さんがいるんだよ。しかも、政略結婚とかじゃなくて、恋愛婚だよ? 私その情報見て言葉を失ったもの」
 柚子とて玲夜に桜子という婚約者がいると知った時には言葉を失った。
 自分は騙されているんじゃないかと思ったし、ショックだった。
 それは一族が決めた政略だと聞いて、玲夜が好んで決まった婚約じゃないと分かって安堵したものの、複雑だったのは間違いない。
 それなのに、愛し合った奥さんがいるというのだから、鳴海が拒否するのは当然だ。
「じゃあ、もし玲夜が結婚していたらどうしてた? あやかしにとって花嫁が特別なのは理解してるつもりだけど、花嫁だからって簡単に相手を変えられてしまえるものなの? 花嫁を見つけた瞬間に奥さんはどうでもよくなっちゃうの?」
 疑問がどんどん湧いてきて、質問が止まらない。
「それでも俺は柚子を選んでいただろうな。それまでの妻を捨てても」
 即答してくれたのは嬉しいが、それまでの妻を捨ててもという発言には複雑な気分になる。
 すでに玲夜と結婚しているからか、どうしても奥さんの気持ちになってしまうのだ。
 突然愛した旦那に、他に相手ができたからと捨てられたら……。
 柚子ならショックで立ち直れない。
「うー。玲夜に他の女性ができるなんて考えたくない」
 柚子は眉間にしわを寄せて少々不細工な顔になってしまっている。
 そんな顔すら愛おしいというように、玲夜は優しい眼差しで柚子を見つめる。
「俺の場合は一族が決めた桜子だったからな。鎌崎という男のように、愛した相手を捨てるという気持ちは分からない。そもそも、これまで柚子以外の誰かに好意を持ったこともないし」
 これには柚子もびっくりだ。
「えっ、ひとりも? つき合ったりは……さすがに桜子さんがいるから駄目か。でも、この人いいなとか、初恋とか」
「いないな。昔も今もこれからも、俺には柚子だけだ。他には必要ない」
 思わず柚子は赤面してしまう。
 玲夜には自分だけ。それがどれだけ柚子を嬉しくさせているか、玲夜に伝わらないのが悔しい。
「だが、鎌崎という者のように、花嫁を見つけてそれまでいた恋人や妻を捨てて花嫁に走るあやかしは少なくない。花嫁はあやかしの本能だからな。だが、本能だけで生きているわけではない。柚子の友人のように、花嫁を得ずに別のあやかしとの幸せを選ぶ者だっている」
「うん」
 蛇塚と杏那のように。
「結局はそのあやかしの本質次第だ。それは人間同士でも同じじゃないのか?」
「確かにそうだと思う」
 人間同士でも浮気する者もいるし離婚する者もいる。
 でも、生涯ひとりの人を大切にする人間だっている。
 鎌崎は前者だったということかと、柚子は納得してしまった。
「私が花嫁だからないって分かってるけど、玲夜は私以外に目を移さないでね」
「柚子が危なっかしくて、そんな暇はないさ。たとえ柚子が花嫁でなかったとしても、それは変わらない。俺だけの柚子だ」
 玲夜はクスリと笑い、柚子に触れるだけのキスを落とした。

六章

 宝くじの結果をライブ配信で見守る。
 鳴海の手にはくしゃくしゃになったくじ券が握られており、発表を今か今かと待つ。
 そして、次々に数字が発表されるたびに、鳴海の目が光り輝いていく。
「来い来い来い来い!」
 興奮しすぎで顔を真っ赤にしながらテーブルをバンバン叩いている鳴海の耳に、最後の当選番号が響く。
 瞬間。
「よっしゃぁぁぁ!」
 ガッツポーズを天に掲げる鳴海は最高潮に盛りあがっていた。
 かく言う柚子も、大喜びで拍手する。
「わー、ほんとに一等当選した。すごいね」
「あーい」
「あいあい!」
『それもこれも、我のおかげだぞ』
 一緒に喜ぶ子鬼と、ドヤ顔の龍がいる。
 そんな中で、さっきまで大興奮していた鳴海は、次には涙をボトボトと落とし、号泣した。
「うわぁぁん! これでお店が助かるー」
 緊張感から解き放たれたように涙する鳴海の背を、柚子はトントンと撫でた。
「よかったね」
 鳴海はついに言葉も出なくなってしまい、ただひたすらこくこくと頷いた?
「でも、まだ終わってないよ。換金してお金を叩き返さないと」
「う、ん……」

 翌日、鳴海は両親と合流して銀行で換金した。
 金額は七億となっており、借金を返してもあまりある。
 傾いた店の再建にも役立つだろう。
 あれほど大喜びだった鳴海は、七億というお金を前に挙動不信になっていたが、それは鳴海の両親も同じだ。
 本当はこれから鎌崎の会社に乗り込む予定なのだが、鳴海一家だけでは心許ないので柚子と護衛もつき添うことになった。
 本当は玲夜もついて来たがったが、仕事で来られなかった。
 大急ぎで出張を終わらせたがため、後回しにすることができなかった。
 代わりに柚子の護衛にはいつもより選りすぐりの人材を多く投入したくれた。
 ありがたいが、過保護がすぎると柚子は苦笑した。
 しかし、玲夜は柚子のことになるといつでも本気だ。
 柚子に指一本触れさせるなと、しっかりと護衛たちを脅し聞かせていた。
 顔を青ざめさせ引きつらせていた護衛たちが、かなり不憫だった。
 胃を押さえていた人には、後で胃薬を差し入れしようと思う。
 とりあえずは護衛のことを置いておいて、いざ鎌崎の元へ。
 スーツケースを何個も持って、鎌崎が社長を務めている会社のオフィスビルへやって来た。
 受付で鎌崎を呼び出す時には鬼龍院の名前を大いに有効利用させてもらう。
 玲夜の妻とその関係者だと聞いて無下に扱うあやかしの一族はいない。
 受付は人間のようだったが、鬼龍院の名を知らぬわけではなかったので大慌てであったのは申し訳なかった。
 けれど、鬼龍院の名前で脅しをかけたのは柚子ではなく護衛たちだ。
 そもそも柚子に鬼龍院の名前で脅すなどという真似ができるはずがない。
 鬼龍院の名前を出すことによって、玲夜に迷惑がかかるかもしれないのだから、気の弱い柚子は考えもしない。
 だが、玲夜から圧をかけられている護衛たちは、文句なら玲夜にとばかりに鬼龍院の名前を活用しまくっていた。
 後で玲夜に叱られないか心配する柚子に、彼らは「柚子様のためなら怒られないので大丈夫です」と、白い歯を見せながらぐっと親指を立てた。
「むしろそうしないで柚子様に危険が及ぶ方が怖いし……」
 と、誰かがぼそっとつぶやいたのがしっかり聞こえてしまった。
 そんなこんなありながら、鎌崎の部屋へ通されると、鳴海の姿を見せて鎌崎は不敵な笑みを浮かべる。
 柚子たちの姿など眼中にない様子だ。
「芽衣、やっとお前から来てくれたのか」
 大きく手を広げて芽衣を受け入れるその姿は滑稽そのもの。
 独りよがりな愛情を見せる彼に対して、鳴海が蔑むような眼差しで見ているのを本人だけが気づいていない。
「私の花嫁になる決心をつけてくれたか。鬼の家に連れていかれた時はどうなることかと心配していたんだ。きっとそこの女にそそのかされたのだろう。お前は騙されやすいからな。やはり私がいなければ生きていけないんだ」
 ちょいちょいと鳴海を下げる発言をする鎌崎に、柚子は不愉快な気分になる。
 それは鳴海も同じようで、目に怒りが映っている。
「誰があんたのものになるか! 今日は借金を返しに来たのよ」
「借金? なにを言ってるんだ?」
 真剣な眼差しの鳴海を前に鎌崎は声をあげて笑う。
「ははははっ、冗談はやめてくれ。五億だぞ、五億。そんな大金を寂れた店しか持たないお前の家が払えるわけがない」
 寂れさせたのは鎌崎だというのに、なんという言い草。
 まさに、お前が言うなと怒鳴りつけたい。
「お前は私の花嫁になるしかないんだよ」
 嘲笑う鎌崎に向け、不敵な笑みを浮かべた鳴海が、スーツケースのロックを外して中身をぶちまける。
 何枚もの札が宙を舞った。
 鳴海はひとつだけでなく、次から次にスーツケースを開けては投げつけた。
 札束がそこら中に散らばる異様な光景だが、場を作り出した鳴海は鼻を鳴らし満足げだった。
「しめて、五億。受け取りなさいよ」
「そ、そんな。ありえない……」
 鎌崎は激しく動揺しているようで、視線を彷徨わせている。
 しかし、落ち着くのを待ってやる義理などなく、鳴海は早々に背を向けた。
「二度と私たち家族に関わるんじゃないわよ! 行こう、お父さん、お母さん」
 鎌崎のことなど眼中にないように去っていく鳴海の後を柚子も追う。
 一度だけ振り返った柚子の目に、がっくりと膝をつく鎌崎の姿が映った。
 その後、鳴海の両親から何度となくお礼の言葉をかけられ、今度店に食べに来てくれと誘われた。
 柚子の答えは当然決まっている。
「ぜひ、行かせていただきます」
 どうやら店を見張っていた鎌崎の手下もいなくなったと報告があり、鳴海も無事に家に帰ることができた。
 これで万事解決、と言いたいところだが、柚子は花嫁だからこそ、花嫁を見つけたあやかしの執着心を知っている。
 このまま大人しく引き下がってくれればいいのだがと思いつつ、柚子は日常に戻った。

 間近に迫った試験の勉強を、学校の休み時間に行っていると、憔悴した鳴海がやって来る。
「ちょっといい?」
「はあ!? なによ、あんた。柚子になんか用?」
 鳴海と和解した形になったことを知らない澪は、臨戦態勢に入るが、かばうように子鬼たちが鳴海の肩に乗った。
「あいあーい!」
「あーい!」
「なに、あんたたち。いつの間にそんなに仲よくなったのよ」
 面白くなさそうな澪の様子に苦笑して、柚子はふたりの間に入る。
「ごめんね、澪。ちょっと鳴海さんと話してくる」
「えー、柚子までどうしたの? つい数日前まで険悪だったのに」
「この間話しをする機会があって、お互い誤解があったのが分かったの。でも今は解消したからもう大丈夫。心配してくれてありがとうね」
「むー。柚子がそう言うなら分かったけど、私はまだ許してないからね」
 ビシッと人差し指を突きつけて、目をつり上げる澪に反抗する気力すら鳴海はないようだった。
 これはただ事ではないと察した柚子は、鳴海の手を取った。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね。次の授業間に合わなかったら、上手くいっておいてくれる?」
 澪は不満そうにしながらも手を振って見送ってくれた。

 そして、人気のない場所に移動して鳴海と話す。
「どうしたの? なにかあった?」
「…………」
 鳴海は話すのを迷っているようだった。
「鎌崎って人のこと?」
 柚子から話しかけると、堰を切ったように話し出す。
「あんなにお世話になって、これ以上あんたに相談するのはどうかって思ったの。けど、他に頼れる人がいなくて……」
「なにがあったの?」
「借金もなくなって、資金もできたし、心機一転、また一から店を大きくしていこうって話してたの。けど、家に帰った翌日から続々と仕入れ先から仕入れを断られるようになったの」
 すぐに嫌な予感がした。
「最初はこんなこともあるかって、笑ってた。ほら、うちってあいつのせいで悪い噂が出てたから。でも、その後いろんなところに頼んだけど、どこからも商品を仕入れられなくなったの。理由が分からなくて……。そしてら昔からつき合いの長かった仕入れ先の人がこっそり教えてくれたの。鎌崎の会社が裏で手を回して商品を仕入れられないようにしてるって」
「やっぱり……」
 柚子は表情を曇らせる。
 柚子の予想していたかのような言葉に、鳴海は反応した。
「やっぱりってどういうこと!? あんた、こうなることが分かってたの!?」
 鳴海の手が、柚子の肩を力強く掴み、柚子は痛みでわずかに顔を歪める。
 すると、子鬼が柚子を助けようと、鳴海の指に歯を立てた。
「いたっ!」
 思わず柚子の肩から手を引いた鳴海は、少し冷静になったようだが、まだ混乱しているに違いない。
「鳴海さん、落ち着いて。私がやっぱりっていったのは、借金を返しただけで鎌崎が引き下がると思えなかったからよ。まさか商品を仕入れられないようにするとは思わなかったけど」
『むすめごよ。散々柚子に世話になっていてその態度はないのではないか?』
「あ……」
 龍の言葉を聞いて、鳴海の顔には後悔の色が現れていた。
「ご、ごめんなさい。私……動揺してて。本当にごめ……っ」
 鳴海はたまらず顔を覆った。
「うん。大丈夫だから気にしないで」
 かなり追い詰められているようだ。
 柚子は玲夜とも、今後なにかしら仕掛けてくるのではないかと話していたのだが、他人の柚子が勝手に動くわけにもいかず、鳴海の相談待ちだったのだ。
 しかし、こんなにも辛そうな姿を見ると、先手を打っておくべきだったのではないかと思ってしまう。
 謝らなければならないのは柚子の方かもしれない。
「状況を知りたいの。鳴海さんのお店に行っていい?」
「それは、もちろん。でも、いいの?」
「うん。行けるなら今すぐ行こう」
 柚子はまず迎えの車を頼んでから、鳴海とともに私服に着替える。
 学校内ではコックコートを着ているので、その格好のまま外に出るわけにはいかない。
 着替えている間に車が到着したようで、学校前に停められた車に乗り込み、鳴海の店へ向かった。
 駅からも近く、人通りも多い道の通りに立つ店は、立派ななりをしているがクローズの札がかけられたままだ。
 周辺の店が開いている時間帯だというのに、店は暗く閉められている。
 客が誰ひとりいない店内に入っていく。
 店舗と住居が一体になっている作りのようで、店の奥にはキッチンがあり、さらにその奥はリビングになっていた。
 そこでは、意気消沈した鳴海の父がいる。
 すぐそばには電話と、リストらしきメモが置いてあり、たくさん書かれた名前が横線で消されていた。
「お父さん」
「おお、芽衣。それに柚子さんまで。いらっしゃい。遊びに来てくれたのかい? けど、悪いね。料理を出してあげたいんだけど、まだ店は再開していないんだよ」
 無理やり作られた笑顔が痛々しかった。
「お父さん、どうだったの? 取引してくれるところはあった?」
「いや、どこも駄目だったよ」
 力なく笑う鳴海の父の手元にあるメモを柚子は手に取る。
「借金を返せばすべて元通りだと思ってたのに、世の中そんなに甘くないってことか……」
「あきらめないでよ!」
「そうは言ってもな。食材がないんじゃ、作りたくても作れないさ」
 鳴海はなにか言葉を発しようと口を開いて、すぐに閉じた。言いたいことはたくさんあるのだろうが、悔しそうに唇を噛むことで耐えている。
 そんな暗い空気の中、払拭するように柚子がメモをテーブルに叩きつける。
 びっくりしたように柚子を見る鳴海親子に向け、柚子はにっこりと微笑んだ。
「鳴海さんのお父さん、必要な商品や材料を書き出してくれませんか?」
「えっ?」
「ほら、早く」
「は、はい!」
 柚子に背中を押されるように、鳴海の父親はペンを走らせる。
 それを見ながら柚子は電話をした。
 相手はもちろん、頼りになる旦那様だ。
 玲夜はなにかしらの邪魔が入ることを想定していた。
 だからこそ、なにか助けが必要ならばすぐに連絡するよう柚子に言い置いていたのだ。
「玲夜、今大丈夫?」
『ああ。なにをしてほしいんだ?』
 どうやら玲夜にはお見通しのようだ。
 それも当然。柚子が学校を抜け出したことも、鳴海の見せに行っていることも、柚子のすべては玲夜に報告される。
「あの男が鳴海さんのお店に商品を仕入れられないようにしたみたいなの。なんとかできる?」
『問題ない。鬼龍院の傘下には、飲食店に食材その他を卸している会社もあるからな。必要なものを高道に伝えておいてくれ』
「分かった。ありがとう」
『礼は帰ってからたっぷりともらう。覚悟しておけ』
 こんな緊迫した時なのに、柚子は頬を染めた。
 玲夜との電話を切ると、鳴海の父親が書き出したものを高道にメールする。
 すると、二時間後には注文した商品が届いたのである。
 これには鳴海親子もびっくりとしていた。
 ついでに玲夜は商品を卸している会社の従業員も寄越してくれたようで、その場で契約を行い、今後はその会社が食材などを卸してくれることになった。
 鳴海の父は、安堵からか静かに涙を流し、何度も何度も頭を下げていた。
 そして鳴海も喜んでいたが、柚子の方を見ながら複雑な表情をする。
「ねぇ、どうして?」
「なにが?」
「私、あんたにひどいことばっかり言ってたじゃない。敵意剥き出しで、ムカついたでしょう? それなのにどうして、こんなにも私を助けてくれるの?」
 芽衣が理解できないのもしょうがない。
 けれど、柚子もなんの考えもなしに動いていたわけではなかった。
「以前にね、鳴海さんと似た状況の子と会ったの。親が負債を抱えてて、援助と引き換えに花嫁になった子のこと」
「えっ」
「その子は自分を花嫁に選んだ相手のことを毛嫌いしてた。親に言われるまま花嫁になって、相手を嫌って、そのくせ相手から援助はもらってるの」
「なにそれ。嫌なら花嫁なんてならなきゃいいじゃない」
 その通りだ。
「あやかしの方が強要したの?」
 だったら許せないというように鳴海の目つきが鋭くなるが、蛇塚は強要などしたいない。
「ううん。花嫁になるかは本人の意志に任せられてた。だから、嫌なら断ればよかったのよ」
「なおさら、なんでよ」
「本当だよね。彼女は利益を受けながら嘆くことしかしなかった」
 それは昔の自分にも重なってしまう。
 嘆くだけで誰かの助けを待つしかしなかった、柚子。そして梓。
 けれど、鳴海は違う。
 現状を打破しようと自分の力で乗り越えるべく努力している姿が、率直に尊敬できた。
「だから、羨ましかったのかな。鳴海さんは自分の力で立って、道を切り開こうと努力していて、そんな強さに私は惹かれたんだと思う」
 自分には備わっていなかった強さ。
「あなたを尊敬する」
 柚子はにこりと微笑みかけた。
 鳴海は照れくさそうに視線を逸らす。
「私はそんな大層な人間じゃない。結局はなにもできなかったんだから」
「鳴海さんが頑張ったからよ。それに、純粋に友達になりたかったのかもしれない」
「……だったら、これからは友達になってあげてもいいわ。芽衣って呼んでもいいわよ」
 柚子は目を見張ってから、相好を崩す。
「うん。ありがとう、芽衣」
 すると、鳴海──いや、芽衣は、初めて柔らかな笑顔を見せてくれた。
「ありがとうは、私の言葉でしょう。柚子」