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 今日のことで完全に澪以外の女子生徒を敵に回したなとげんなりしつつ、手のひらを返したような質問攻めに遭うよりはマシかと思い直す。
 少し気になったのは、あんな大騒ぎの中心が柚子なら、まず間違いなく言いがかりをつけてきそうな鳴海の存在だが、今日はやけに大人しくしていた。
 鳴海の席は柚子の斜め前なので、かなりうるさかっただろうに。
 まるで目に入っていないように無視だった。
 そのまま学校は終わり、学校前で澪と別れる。
 迎えの車が停まっているコンビニと、駅とでは方向が反対なのだ。
「じゃあ、柚子、また明日ね~」
「バイバイ、澪。今日はありがとう」
「いいってことよ。バイバーイ」
 手を振ってから柚子はコンビニ向かって歩き出す。
 たまに迎えに来てくれる玲夜を他の生徒に見られたくなくて、迎えの車は少し離れたコンビニに停めてもらうようになったが、今回の件で玲夜が柚子の旦那であると周知された今、離れた場所で待っていてもらう必要はないのではないか。
 子鬼がいるとはいえ、コンビニまでの距離に危険がないとも限らない。
 さほどの距離ではないが、ストーカー事件のことを思うと、警戒心は残っていた。
 もうひと騒ぎあったのだから、いっそ開き直るべきかもしれない。
 今さら高級車一台迎えに来たぐらいどうってことないだろう。
 そもそも前から柚子の服や鞄についてはブランドものばかりだとヒソヒソされていたわけだし。
 まあ、柚子は澪に指摘されるまで気づかなかったのだが。
 いろいろと考え出すと、コンビニまでの道のりが無駄に思えてならなくなってきた。
「明日から学校の前まで迎えに来てもらおうかな」
「あーい」
「やー」
 子鬼もその方がいいというように頷いたので、車に着いたら運転手にお願いしようと思っていた時、前方に黒い車が停まっているのが見えた。
 そのそばには鳴海の姿があり、なにやら一緒にいる男性と揉めているように見えた。
「離してよ!」
「話がある」
「私にはないわ!」
 鳴海は男性に掴まれた手を振り払ったが、すぐに再び腕を掴まれている。
「店がどうなってもいいのか?」
「卑怯者!」
「いいから乗れ!」
「嫌!」
 不穏な気配を漂わせているふたりに、柚子は焦りを見せる。
 間に入るべきか、どうすべきか考えている間に、鳴海は男性によって車に押し込められようとしていた。
 明らかに鳴海は嫌がっている。
 これはまずいと、柚子は足が動いた。
 突っ込むようにふたりの間に走っていき、勢いを殺さぬまま鞄を振りあげて男性に叩きつける。
 小さく呻き声をあげる男性。かなり痛いだろうなと思いつつ、鳴海から離れた手をこれ幸いと柚子が掴み、手を引いて走り出す。
 鳴海は柚子の登場に驚いた顔をしている。
「あんたっ」
「こっち来て。早く!」
 柚子は一瞬抵抗しようとした鳴海を怒鳴りつけると、鳴海は弾かれたように動き出した。
「芽衣!」
 男性が鳴海の名を呼び、追いかけてくるのが彼女にも見えたのか、大人しく柚子に手を引かれる。
「どこに行くのよ!」
「そこのコンビニまで!」
 コンビニに行けば迎えの車がいる。
「芽衣! どこに逃げようとお前は私のものだ!」
 鳴海の手を引いて、後ろから追いかけてくる男性の声をわずかに聞きながら。必死に走る。
 さほど距離がなかったのが幸いだ。
 柚子が鳴海と走ってきたのを、運転手は気づいてくれ、外に出て扉を開けてくれた。
 柚子は鳴海とともに車の中に飛び込んだ。
 ヒールを履いたままの全力疾走はかなり足に負担があったが、幸いと靴擦れは起こしていない。
 けれどかなり疲れた。
 息切れしながら、運転席に乗り込んできた運転手に問う。
「後ろから誰か追いかけてきてましたか?」
「ええ。男性が。しかし、私の姿を見るとどこかへ行きました」
 それを聞いてほっとする柚子に、運転手は心配そうにする。
「なにかございましたか? 問題があるようでしたら玲夜様にご連絡します。先ほどの男が原因でしょうか?」
「玲夜に連絡するのは待ってください。さっきの男は私じゃなく彼女の関係者みたいなので」
 柚子は隣に座る鳴海に目を向ける。
 息を荒くし、俯き加減の彼女の顔色は悪い。
「あの……大丈夫?」
「大丈夫なわけないじゃない」
 感謝されたくて助けたわけではないが、そんな仏頂面で不機嫌そうに返さなくてもいいではないか。
 しかし、柚子は震えた鳴海の手を見て、彼女の精いっぱいの虚勢だと気がつく。
「誘拐されそうになってたの?」
「……違う。けど、似たような感じ……」
 すると龍が柚子の腕に巻きつきながら身を伸ばして鳴海に近づく。
『先ほどの男、あれはあやかしであったな』
「そうなの?」
 柚子は男の顔まではしっかり見ていなかった。
 顔を見たらその容姿の美醜で、あやかしか判別できたかもしれないのに。
 余裕がなかったのは仕方ない。鳴海をその場から逃がすのに精いっぱいだったのだから。
「あやかしと知り合いなの? そのわりには仲がいいとはとても言えない様子だったけど」
『柚子よ。あやかしの男がああまでに人間の女に固執する理由などひとつしか考えられぬであろう』
「……花嫁?」
 ひとつと言われて柚子は花嫁という言葉しか浮かばなかったのだが、その言葉を聞いた瞬間、鳴海がびくりと反応し、くしゃりと顔を歪めたかと思うと、激しく感情を荒ぶらせた。
「どうして私だけこんな目に遭わないといけないのよ!」
 うわあぁぁぁ!と声をあげて泣き出した鳴海に、柚子は困惑する。
 彼女の身になにが起きているのか、まったく分からない。
 なので対処のしようもなかった。
 そもそも彼女を助けることは子鬼も龍も不満のようで、泣いている鳴海にも冷たい眼差しを向けている。
 これまで散々柚子に喧嘩腰だったので仕方はないかと柚子も叱ったりはしない。
 それに、泣いている女の子に追い打ちをかけるほど非情ではないようなので、目つきの悪さぐらいはご愛嬌だろう。
 耐えていたものが決壊したように泣き喚く鳴海の背中を、柚子はひたすら撫で続けた。
 振り払われることも想定していたが、予想外に鳴海はされるままだった。
 そこまで気を回せなかったのかもしれない。
 しばらくそうしていると、次第に落ち着きを取り戻してきたのか、鳴海の泣き声が小さくなり、すすり泣きに変わる。
 しゃくりあげ、柚子が渡したハンカチで涙を拭いながらながら、鳴海はわずかに憎まれ口を叩けるほどに回復してきた。
「最悪。なんでよりによってあんたに、助けられなきゃならないのよ」
「ご、ごめんなさい……」
「謝んないでよ!」
「ごめっ……あっ、えと……」
 謝るなと言われたのに反射的に謝罪の言葉が出そうになってすぐに止めるが、続く言葉が出てこない。
 柚子は困ったように眉を下げる。
 鳴海はまだクズクズと鼻を鳴らしながら柚子に問う。
 少しだけ鳴海のいつもの威勢のよさが戻ってきたように見えた。
「どうして助けたのよ。危ないかもしれないのに」
「誘拐されるかと思ったから、つい」
「…………」
 鳴海はなにかを耐えるように唇を噛みしめた。
 そんな鳴海の顔を見て柚子は問う。
「……ねえ、聞いていい? さっきの男性となにを揉めてたの? あやかしだったんでしょう?」
 お節介かと思ったが、聞かずにはいられなかった。
 鳴海が柚子を敵視する理由が分かるかもしれないと思ったのもある。
 しかし、素直に話してくれるとも思っていなったが、予想外に鳴海は口を開いた。
「さっきのあやかし……。鎌崎風臣って言って、かまいたちのあやかしらしいんだけど、私を花嫁として迎え入れたいって言ってるの」
 柚子は目を大きくした。
 まさかこんな近くに花嫁がいるとは思いもしなかったのだ。
「じゃあ、彼の花嫁になるの?」
「冗談じゃないわよ! 誰が頼まれてもなるものですか! あいつは……あいつは、私の家族をめちゃくちゃにした張本人だっていうのにっ!」
 鳴海からは鎌崎という男への嫌悪しか感じられなかった。
 どうやら柚子のように花嫁に選ばれて嬉しいという簡単な話ではなさそうだ。
「めちゃくちゃにしたってどういうこと?」
「……あいつ、最初から嫌な感じがしたのよ。突然やって来たかと思ったら、偉そうな態度で私を花嫁にしてやるって。そんなの私は微塵も望んでないのに」
 鳴海は手の爪が食い込みそうなほど拳をぐっと握り込む。
「だから、断ったの。そしたら、お父さんの店に嫌がらせを初めて、どんどんお客さんが来なくなったの。最初はあいつのせいとは思わなくて、店をなんとかしようとしたお父さんは詐欺に騙されて多額の借金を負わされた。裏で手を引いていたのが……」
「まさか、さっきの男の人なの!?」
 思わず声を大きくしてしまう柚子の問いかけに、鳴海はこくりと頷いた。
「そうよ。お父さんの店の評判を悪くした上に借金まで負わせて、手が回らなくなったところで、私に借金と引き換えに花嫁になれって。ふざけんじゃないわよよ」
 ギリギリと歯がみする鳴海の目は怒りに燃えていた。
「お父さんのことを思うと受け入れるしかない。けど、どうしても嫌だったから拒否してやったわ。そしたら嫌がらせはなくなるどころか一層ひどくなって……」
 ぽたりと、鳴海から流れた涙が落ちる。
「昔はたくさんあったお店もどんどん手放すしかなくて、今じゃひとつしか残ってないわ。お父さんとお母さんの最初のお店。それだけは手放せなくて、どうにか手元に置いてる。けど……それももう難しいかもしれない」
「どうして?」
「あいつが……。いつまでもあいつを拒否する私に焦れて、本気で潰しにかかろうとしてるの。借金を返さないなら担保になっている店を差し押さえるって」
「そんな……」
 いくら花嫁を手に入れるためとはいえ、そこまでのことをしてしまえる神経が分からない。
「最近はお父さんの体調もよくないのよ。ほとんど精神的なものよ。当然よね。返せもしない借金を背負っちゃって、詐欺に騙されたのも自分を責めてるのよ。だから私が料理学校を卒業して、店をもり立てるんだって、そう思ってたのに……」
「借金はいくらなの?」
「五億よ」
「ごっ!」
 個人で背負うにはあまりにも多い金額に声がうわずる。
「今月中に返せなかったら店を差し押さえるって。それが嫌ならはなよめになれってさ」
「どうするの?」
「どっちも嫌よ!」
 鳴海は声を荒げる。
 当然だ。柚子だって同じ立場なら絶対に嫌だ。
「話し合いで解決できたらいいけど、あいつは絶対にあきらめない……。私という花嫁を手に入れるまでは、こらからもずっと嫌がらせを続けるわ。私は、私のせいで両親に迷惑をかけるのが嫌なのよ」
 鳴海は迷っているようだった。
『あやかしの花嫁への執着はとてつもない。柚子のように相思相愛ならば幸せだが、受け入れられない花嫁にとっては不幸でしかない』
 不意に穂香の姿が頭をよぎった。
 どういう経緯で花嫁になったか知らないが、現状では鳴海の気持ちを一番理解できるのは彼女なのではないかと、そんなことを思った。
「月末までに五億なんて返せるはずがない……」
 頭を抱える鳴海の姿を見ていると、ある人を思い出させる。
「ねえ。とりあえず、五億返せたらいいの?」
「簡単に言わないでよ。確かに五億返せたらとりあえずお店を取られることはないけど、五億よ、五億! それに返せたとしても、嫌がらせはきっと続くわ」
 不可能だと嘆く鳴海の目は絶望に染まっている。
 彼女は覚悟を決めようとしている。家族のために犠牲になる覚悟を。
 なにもできなかったあの時感じた、やるせなさが蘇ってくる。
 頭に浮かぶのは、蛇塚と彼の花嫁だった梓。
 柚子には見過ごすことはできなかった。
 透子に「このお人好しが!」だなんて、あきれたように叱られてしまうのかもしれない。
「よし。とりあえずは五億返そう。それでもって、五億の札束もって、その男の横っ面引っ叩いてやるの!」
 なんだか発言が透子みたいだなと思いながら、きっと原因は柚子が小さな怒りを感じていたからだと理解していた。
 柚子は運転席に乗り出して運転手に指示を出す。
「車を出してください! 向かうのは競馬場です!」
「へ?」
「ちょっと、なんで競馬場なのよ!?」
 運転手は素っ頓狂な声を出し、鳴海は理解が追いつかないようで怒鳴っている。
 しかし、ちゃんと柚子には考えがあってのことだ。
「いいから、任せて! 運転手さん。レッツゴーです。早く!」
「あーい」
「あーいあーい!」
 子鬼まで急かすと、運転手は慌ててエンジンをかける。
「は、はい!」
 そうして車はようやくコンビニの駐車場から動き出した。