「全治二ヶ月のドクターストップです。次の大会まで時間がないのはわかりますが、これ以上動いたら、手術せざるえなくなります」
壊れかけたクーラーの歪な音が頭に響く中、担当医はくたびれた白衣を揺らして席を立つ。告げられた言葉が受け止められなくて、わたしは頭が真っ白になった。
膝蓋腱炎――別名「ジャンパー膝」。ジャンプや着地、長距離走行といった、膝の使い過ぎが原因で膝蓋靭帯に炎症が生じ、酷い場合は手術をしなければならない。
きっかけは夏休みに入る少し前、陸上部で走り高跳びの練習中のこと。助走から踏み切ろうとした途端、左膝に激痛が走ってポールに激突した。その時はすぐに治まったから気にかけていなかったけど、練習を重ねるたびに痛みが生じたため受診したところ、体育の授業、部活や個人の練習すべてにストップがかかった。すぐそこまで迫っていた新人戦を前に、絶対安静を言い渡されたのだ。
努力なんて報われない。
願って縋ったって救われない。
自分で勝ち取れるものすべてがほしいと願う自分は貪欲で、醜いと思った。
ドクターストップを宣言されてから一ヵ月半が過ぎた十月。診断されたあの日から学校と家、そして病院を行き来する日々が続いている。
いつもなら、放課後は夜遅くまで練習していたのに、日がまだ落ちない夕暮れ時に学校を出るのは後ろめたさがあった。グラウンドの横を通れば、見知った陸上部の生徒と目が合ったような気がして、俯いて足早に立ち去る。
しばらく部活を休む旨を伝えると、多くの部員から「皆頑張っているのにどうしてお前は来ないんだ」と言われた。怪我のことも伝えたけれど、納得してもらえていない。
わたしだって練習したい。
せっかく選抜メンバーに選ばれたのに、こんなことで諦めたくない。
でも今のわたしができるのは、ストレッチを欠かさず行い、安静にすることで膝にかかっている負担を減らすことだけ。そのために新人戦も棄権した。今後のためにと自分に言い聞かせて、観客席から部員の勇姿を眺めては虚無感に包まれていた。
グラウンドの端がぎりぎり見える位置で足を止めて振り返る。後輩が助走をつけて、自分の背よりも高いポールを跳び越えようとしていた。しかし、踏み切る足がもたついて、勢いあまってぶつかってしまう。すぐに起き上がったのを見て安堵する反面、妬ましいと思ってしまった。
――跳びたいなぁ。
そう呟いても、誰の耳にも届かない。
膝の負担を減らすための安静期間とはいえ、休んでばかりなんていられない。
ストレッチだけじゃ物足りなくて、気を紛らわすために通院の日以外は学校から家までの距離を遠回りして帰ることにしていた。幸い、歩いて通える距離だ。探検するのも少し長い散歩と思えば気が楽だった。
今日も学校が終わると、いつものように帰路につく。しばらく歩いていると、建物の向こう側に薄桃色の何かが見えた。風に揺れるたび、何かがひらひらと落ちている。すぐ下には同じ色の絨毯が敷かれているようで、不意にその薄桃色の何かが、春に咲くあの花を連想させた。
でも今は十月。残暑が続いていたが、ここ数日で朝方は一気に冷え込んだ。それでも季節はまだ秋だ。
どうしても確かめたくて足早に向かうと、そこには木々に囲まれた小さな公園があった。そのうちの一本が、十月にも関わらずブランコの上に覆いかぶさるように、満開の桜が咲き誇っている。
わたしは思わず息を呑んだ。
これから冬を迎えようと休眠する蕾を抱えた木々の中で、ただ一本の桜だけが寒空の下で両手を広げ、空を独り占めしているようだった。
幻想的に映った公園に足を踏み入れ、木のちょうど真下にあるブランコに腰かけて顔を上げれば、薄桃色の隙間からこぼれる夕日の木漏れ日が眩しい。
幼い頃から、晴れた日に見上げる桜が好きだった。新学期や就職で心機一転し、新しい生活に胸が踊る時に見上げた空も澄んでとてもきれいだけど、秋にひとりぼっちで咲く桜が、少しだけ空を支配しているのも素敵だと思う。
「――あれ、珍しいな」
しばらく見上げていると、いつの間にか同い年くらいの男子がすぐ傍に立っていた。桜に夢中になりすぎていたわたしは驚いて、ブランコから滑り落ちそうになる。大きく揺れた鎖を、彼は慌てて掴んで止めてくれると、顔を見合わせてフッと笑みを浮かべた。
「驚かせてごめん、ここに来る人、滅多にいないから嬉しくてつい。狂い咲きを見に来たの?」
わたしが首を傾げると、突然現れた彼はわかりやすいように説明してくれた。
季節外れのこの桜は「狂い咲き」という現象らしい。実際は虫による食害だったり、台風で葉が落ちてしまったりして、開花に向けて充分に蓄えることができず、春に咲けなくなってしまったのだという。
十月に咲く桜も存在はするが、公園にあるものは春に咲く品種で、十年以上前からこの一本だけが狂い咲きになってしまったらしい。
彼は空いているもう一つのブランコに腰かけると、同じように桜を見上げる。
「きれいだなぁ。十月の桜もなかなか良いよね」
さも平然と話しかけてくる彼に、わたしはそうだね、とあっさりと返事をする。彼の着ている制服はこの近辺にある高校のもので、ボロボロのスニーカーと土のついたズボンの裾が特に目立っていた。
「その制服、見たことないなぁ……ああ、最近できた高校なんだ。俺が知らなくて当然か。しばらくここを離れていてさ、最近戻ってきたばかりなんだ」
そうかそうか、と納得して頷く。
わたしが通っている高校は一昨年できたばかりの私立高校だ。知名度はまだ低いし、知らなくても仕方がない。
「俺、晴れた日だけここにいるんだ。よかったらまた話し相手になってくれる?」
特に断る理由もなくて、わたしは頷いた。
新しく公園に立ち寄る理由が増えたことが嬉しいと思う傍らで、悩む時間が減ることにホッとしたのかもしれない。
それから、通院以外で晴れた日の放課後は公園に立ち寄り、彼――透と話すようになった。
わたしより一つ上の十七歳。幼い頃はこの近くに住んでいたらしい。近かった頃は毎日のように通っていたという。
「一回り離れた妹がいてね。よく公園で遊んでいたんだ。……今は俺が高校に進学したから、時間がなくてさ。でも休みの日は、父さんに連れられて夕飯だって呼びに来るんだ。それが嬉しくて、遅くまで公園にいたのかもしれないなぁ」
透はよく自分の家族の話をしてくれた。とても仲が良いようで、特に妹には甘いらしい。
彼の個人的な話を、わたしは相槌を打って聞いていた。話を掘り下げてもよかったのかもしれないけど、なぜかそんな気にはなれなかった。
自分勝手だとは思ったけど、無理に笑みを作った顔を見るのはなんだか申し訳なくて、わたしは名前も家族も、自分から話そうとはしなかった。もちろん、彼からも問われることはない。
それでもよかった。
夕日が完全に落ちて、辺りの街路灯が灯る時間まで彼の話に耳を傾ける。たったそれだけのことが、今のわたしには心落ち着く時間だった。
*
十月の半ばになっても、公園の狂い咲きの桜は健在だった。気温も下がったこともあって、しばらくは季節外れのお花見ができるらしい。
今日も学校帰りに公園に寄ると、透はベンチに座って桜を見上げていた。
小さく風が吹いて落ちた花びらが彼の頬を撫でたのを見てふと、彼が消えてしまうのではと不安がよぎった。確証も何もない不安を振り払い、わたしはいつものように彼の元へ行く。
ブランコに揺られながら他愛もない話をしていると、透が躊躇いがちにわたしに訊いてきた。
「ずっと気になっていたんだけど……その足、どうしたの?」
指さしたのは、わたしの左膝に巻かれたサポーターだった。真っ黒で厚い生地が膝に巻かれているから、普通に立っているだけでもスカートの下から見えてしまう。少し迷って「部活で怪我をした」と簡単に話すと、透はぱあっと顔を明るくした。
「運動部に入ってるってこと? ふくらはぎの筋肉とか、そんな気がしたんだよね!」
どこに目をつけているんだ。
疑いの眼差しを向けると、透は慌てて「ちがうって!」と弁明してくる。
「俺も陸上部入ってたからさ、癖だよ癖! 今は休んでいるんだけどさ、全国大会まで行ったんだ。決勝で負けちゃったけど、それでも県代表にまで選んでもらえて、やっててよかったと思う。君はどうしてその部活を始めたの?」
一方的に話していたのが一転し、目を輝かせた彼の問いかけに、わたしは一回りも上の兄の影響で始めた、とだけ答える。
兄が宙を舞う姿を見て、幼い頃のわたしは感動した。
地面から足が離れてからポールに触れずマットに落ちるその滞空時間は、カメラを通して見たスローモーションみたいで、何も知らなかったわたしは、兄は空が飛べるのだと待望の眼差しを向けていたほどだ。
結局は筋肉や体の使い方といった人間らしいことが正解だったけど、勘違いしたままのわたしに向けて自慢げに鼻を鳴らした兄は、どこか誇らしかった。県代表の選手に選ばれた直後だったこともあるかもしれない。
今思えば、わたしの道のりは兄とよく似ている。
兄も、同じように膝を壊した。酷使しすぎて全国大会までに復帰は見込めないと診断され、悩んで悩んで、いろんな人と話した上で最終的に県代表を断ったのだ。
それに比べたらわたしは、ただの部活で済んでいる。一生跳べなくなったとしても、わたしは後悔しない。しいて言うなら、直前で棄権した新人戦には出たかった。
来年もチャンスがあるからと言って、膝が完治し、以前のように跳べるかは別の問題。
だから、最初で最後の部活になるのなら多少の無茶くらいしたっていいと思う反面、自分が思っている以上に未練がないんじゃないかと自分に失望する。
背面跳びで宙を舞う兄の姿に憧れたはずなのに。記録を伸ばし、結果を残すたびにこの種目が好きだと思っていたのに、膝を壊しただけで全部がおじゃんになった。
辛いだけなら。
この先ずっと跳べないのなら。
もう、すべて辞めてしまってもいいじゃないか。