ジンジャーエールみたいな初恋の人がいた。

 ジンジャーエールとは、ショウガが入った炭酸飲料だ。ショウガ独特の辛みがあって、のどごしはしゅわっと弾ける。ちょっぴり甘くて、ちょっぴり苦い。あと味は、きりっとしている。極めつけはゴールドに輝く色合い。シャンパンみたいな華やかな色合いだ。ノンアルコールなのに、ちょっと大人の飲み物。そんなイメージがある。ショウガは体を温める作用があるらしい。

 同じ歳の翔我《しょうが》は、言い方はきついし、一見冷たそうに見えるけれど、意外と優しかった。味で例えると、まるでジンジャーエールの甘さと辛さを兼ね備えていた。見た目は大人っぽいし、顔立ちがきれいで華やかなタイプだ。黄金色に輝いているカリスマ性を持っていた。実は心根が優しいので、いつも私の心を温めてくれた。まさにジンジャーエールと心の中でいつも思っていた。

 小学生の時に、近所に引っ越してきた彼がいつも持ってくる飲み物がジンジャーエールだった。大人の飲み物の苦いイメージがあったので、あまり飲んだことがなかった。彼は空腹の私に、ジンジャーエールとクリームパンをもってきてくれた。私はいつも空腹な小学生だった。ネグレクトとか放置子っていう言葉を知ったのはもっと後だけれど、それが私の母親だった。近所の人は憐みの目で見たけれど、手を差し伸べる人はいなかった。見て見ぬふりをする人が多い地域性だったのかもしれない。

 そんな地域に新しい立派な一軒家が建った。私が住んでいる古い借家とは全然違う。そこに、生涯忘れられない初恋の彼が引っ越してきた。夏の暑い日だったと思う。夏休みに入った頃、時間ばかりがあって、何もない子供だった。学校がなければ、行くところもない。どこにも連れて行ってもらえない。習い事なんてしたこともない。何も望んでいなかった。空腹でなければ幸せだと思っていた。いつも母親がいないのは当たり前。仕事で忙しいらしい。

 母子家庭の我が家の母親は、子供に無関心で少しだけお金を置いていく。母親が料理を作ったことはあまりない。置いていくお金が少なくて、あまり食料を買うことができなかった。給食がない休みの日は空腹で、どうしようもないこともあった。でも、それが我が家の普通で、その頃は違和感もなかったと思う。

 翔我という彼の名前はまさにジンジャーそのもので、彼はよくジンジャーエールを飲んでいたような記憶がある。大人びた少年だったような気がする。翔我の家はお金持ちで両親は仕事で忙しいらしい。だから、お金はたくさん置いていくけれど、子供には無関心だと言っていた。

 いつも私の食事も買ってくれる翔我。夏休みは一緒に食べた記憶がある。
 朝顔を見ながら朝食を食べて、どこからともなく聞こえてくる風鈴の音を聞きながら、昼食を食べた。ひまわりをながめながら、お菓子を一緒に食べたりした。夜は星空を見ながら夕食を食べる。翔我のお母さんは料理を作る暇がないから、近くのコンビニやスーパーで買うことが多かった。お金はたっぷり渡されていたらしく、二人分買っても、お菓子をたくさん買ってもなくなるということはなかった。翔我は引っ越してきて間もないので友達もいないし、同級生の私と遊ぶことが楽しかったのかもしれない。

 お金持ちでも貧乏でも、いつも孤独な気持ちは一緒だ。気持ちはお金だけで解決できないときもある。だから、ずっと彼と私は同じなのだとどこか思っていた。そして、空虚な心の穴は彼がいれば埋まるような気がしていた。優しくて、頼れる同級生。1年半くらいは一緒のクラスで夕食や休日は一緒にいる時間が多かった。

 あの頃――辛くて孤独なことが普通だと思っていた。でも、翔我のおかげで、私の心は温められたし、癒されていたのだと思う。どんなに辛くても、どんなに悲しくても一人じゃない。そんな気がしていた。

 彼と出会った1年半後、大震災の津波で私の母親は死んだ。海岸に近い場所が職場だったから、流されたらしい。結局、母親は見つからなかった。でも、思ったほど悲しくない自分がいた。予想外だった。こんなに愛情がないものだったのだろうか。血がつながっていたらもっと悲しい気持ちになるのが普通だと思う。だから、私はきっと普通じゃないのかもしれない。

 大震災のとき、私の住む古い借家は音をたてて揺れた。聞いたこともない地鳴りが鳴った後に、大きく揺れた記憶がある。まるで地面が鳴いて、地球が発狂したような感覚に近かった。うちは大きな家具もたいしてなかったので、物が倒れてくるようなことはなかったけれど、元々散らかった我が家の部屋はもっと散らかってしまった。教科書がばらばらに落ちて、母親の化粧品も床に散らばっていた。地球がすすり泣きするかのような余震が続く。余震はかなりひどく揺れた。

 その後、電気がつかなくなった。停電だ。はじめての経験で夜は怖い。夕暮れ時に、翔我が懐中電灯を持ってきてくれた。うちには用意されていなかったし、あったとしてもどこに置いてあるのかもわからなかったので、とても助かった。翔我は私のために食料や水などを持ってきてくれた。水道は止まってしまい、ミネラルウォーターがない我が家への差し入れは本当に助かった。彼がいたから今、私は生きていられるのかもしれない。常備食がある家ではなかったし、お金もなかった。あのままだったら私は死んでいたかもしれない。

 暖房がない寒い真っ暗な冬の極寒の夜は、彼が持参した毛布が私を温めてくれた。1日目は彼が寄り添ってくれた。だから、少しだけ暗闇に慣れた。とても寂しくて心細い夜はなんとか通過した。2日目以降は彼の親が帰宅したらしく、昼間はなるべく傍にいてくれた。温かい人だった。余震が何度も来る。地面がうめくような地鳴りも何度も聞こえた。とっても怖い日々だった。暗闇はさらに恐怖を倍増させる。

 翔我のおかげで心も体も温められたような気がする。幸い、自宅は高台にあり、津波の被害はなかった。電気と水が使えない状態は3日近く続いたような気がする。その間、彼は自宅にあった缶詰やすぐ食べられる食べ物を持ってきてくれた。母親が帰ってこない。この先どうやって生きていけばいいのか、小学生の私は全くわからなくなっていた。

 凍えながら過ごした冬の日々、避難所で水を配っているとか、食料を配っているという情報を教えてくれたのも翔我だった。避難所で、小学生の私は施設を紹介され、保護された。ちゃんとお礼を言えないまま、転校することになってしまった。もう一度会えたら――落ち着いたら会いに行こうと思っていた。

 天涯孤独になった私は転校が決まっていた。それを聞いて、一番最初に来てくれたのは翔我だった。その時も、ジンジャーエールを片手に持って、クリームパンと共に「食べろ」と一言だけ言って、そのまま隣にいてくれた。それ以来、彼と会えていない。

 あなたがいたから、今の私がいる。本当にありがとう。ずっと伝えたい想いは未だ伝えられていない。

 一度、中学生になった頃に、隣町にある施設から会いに行ったこともあったけれど、すでに空き家になっていて、引っ越していた。友達がいなかった私には、手掛かりがなく、ただ時間だけが過ぎた。

 高校に入学した。勉強を頑張って、公立でなるべく近く、通える範囲のところを受験した。相変わらず施設にいる私は、確実に入ることができそうな公立高校を受験したから合格確実だと思っていた。高望みはしない。ただ、高校卒業資格がもらえればいい。あとは何とか働き口を探そう。そう思っていた。

 桜が舞い散る校舎へ行く歩道を黄金色のサラサラした髪の少年が歩いている。

 クラスメイトと既に友達になっている派手な少年は、輪の中心にいる。こういう人をリア充っていうのだろうか。うちの学校は比較的自由な校風だ。髪色をはじめ私服通学だ。校則があってないような高校。だから、髪色も赤とか青なんかもいる。三人揃ったら信号機のような目立つグループだ。目の前を歩く三人に勝手に名付ける。信号機トリオ、なんだか、苦手だな。

「ジンジャーって呼んでよ」
 金髪のサラサラ男が外国人のような名前を名乗る。ハーフなのかな。

「外国人みたいでかっこいいじゃん?」
 青い髪の男が、ノリノリで賛成している。若さ全開という感じだ。

「あたしもあだ名で呼んでいい?」
 最近友達になったらしき赤い髪の女子もノリが良さそうだ。この人たち、入学してから友達になったのだろうか。それにしては、三人共距離が近い。私のような黒髪地味女は、既に仲良しキラキラな男女のグループには入りにくい。

 なるべく避けて生活しよう。地味に生きることを決めた私は関わらないように視線を合わせないようにする。すると――

「あれ? 瑠香《るか》じゃん?」
 下の名前で呼ぶなんて、馴れ馴れしいなぁ。これだから、ナンパなタイプは苦手だ。きっとみんなにそんな風に接しているのだろう。

「俺だよ、翔我」
「翔我って……木村翔我君?」
「まぁ、うちも色々あって……今の名字は金城翔我《きんじょうしょうが》」

 たしかに、クラスに初恋の人と同じ名前の人はいるけれど、名字が違うなぁと思ったんだけど。ま、まさかの……本人? どことなく面影がある。それにしても随分と髪色が派手だ。脱色の極みの金髪という感じだろうか。

「何も言わずに引っ越しちゃったから。小学生以来だね」
 ずっと会いたかった人を目の前にすると、何を言えばいいのかわからない。それに、ずっと伝えたかったありがとうを出会い頭に言うのは変だと思う。

「実は、中学に入るころに両親が離婚してさ。あの家から、引っ越しちゃったんだよな」

「ジンジャーの知り合い?」
 青い髪のたれ目短髪男子が寄ってくる。苦手なタイプだ。

「小学生の時に近所に住んでた子」
 近づきたくないと思った瞬間紹介されてしまった。これは拒否する権限もないし、同じクラスだから無下にもできない。

「同じクラスの青井。よろしく」
 ピースサインをする青井。見るからに軽そうなタイプの男子だな。

 もう一人は、赤い髪の女子だ。
「ジンジャーの友達なん? もしかして元カノとか?」
 好奇心旺盛の元気系だ。

「違う違う」
 翔我は即効否定する。初恋の人に冷静に否定されると、ちょっと苦しい。

「あたし、赤野桃」
「黒沢瑠香です。よろしくおねがいします」
「ジンジャーの友達にしては真面目そうな子だ」
 青井が意外そうな顔をする。

「翔我君ってジンジャーっていうあだ名なの?」
「俺、ショウガだし、いつもジンジャーエール飲んでるからジンジャーだねって言ったの瑠香だろ」
 そう言えば、震災の頃、そんなことを言ったまま会えなくなった気がする。体の芯から温めてくれるショウガを英語で言ってみたけれど、あだ名と言えるほどその後会っていなかったから、忘れていた。

「もしかして、忘れてた? 俺、結構気に入っていたから中学でもジンジャーって友達に自己紹介してたんだけどな」

「覚えててくれたんだ」
 頬が少し火照る。翔我の中に私はいたんだ。それだけでうれしい。
 辛い時間を共に共有した記憶は楽しい時間にすりかえられた。

 桜の花びらが散る下で、初恋の人と再会して、信号機トリオと仲良くなった。高校生活が少しばかり色づいてきた。ただ、卒業するために、社会人として生きていくために入った高校が楽しいと思えるようになっていた。

 夏休みに入るころ、翔我と二人の時に、言いたかったことを伝えた。
「子供の時、たくさん助けてくれてありがとう。停電の夜、ひとりぼっちでさびしい時に寄り添ってくれてありがとう。あなたがいたから、今の私がいる。本当にありがとう」
「何だよ突然」
 少しばかり驚いた顔をする。

「私の中に、ずっとあなたがいた。だから、ずっと会いたいと思っていた。お礼を言いたかった。その一方で、母親がいなくなっても何も感じなかった。だから、私はおかしいのかもしれないってずっと悩みと葛藤を抱えてきたんだ」

「俺の中にもずっと瑠香がいた。だから、俺はジンジャーと瑠香が名付けたあだ名を呼んでもらうことで忘れないつもりだった。瑠香がどこにいるのかもわからなかったしな」

「実は、中学の時に一度翔我の家に行ったの。でも、引っ越していて、手掛かりはなかった。もう会えないと思っていた」

「俺も、もう会えないかもしれないと思っていた」

 蝉の音がうるさいくらいに鳴り響く夏。日差しは最高潮だ。初めて出会った夏を思い出す。朝顔とひまわりと星空を見て1日が過ぎた夏。時間ばかりいっぱいあって、ただ時が過ぎるのを待った夏。

「小学生の時とイメージ違うから、最初、わからなかったよ」
「髪を金色に染めたのは、母親に対する反抗かもしれないな」
「でも、似合ってるね。最初近寄りがたい感じだったけれどね」
「瑠香は相変わらず変わっていないから、最初から気づいていたけどな」
「本当に?」
「名前と姿を見て、あの時の瑠香だと確信した」

「震災って俺らに色々な経験を与えたんだと思うんだ。生活が変わった人、死んだ人もたくさんいる。困った人を助けられる仕事に就きたいって思うんだよな。俺の将来にも影響を与えた」

「そうだね。たくさんの影響を与えたね。私は父親は元々いないし、母親は死んだらしい。未だに行方不明だけどね。今は施設で暮らしている。私ね、この町の公務員になって、震災を伝承するような仕事をしたいの。防災士っていう資格を取りたいとも思っているんだ。震災伝承ボランティアも考えている」

「すげーな、瑠香はちゃんと考えている。俺は、自衛隊に入りたい。困っている人を直接助けられるからな。電気も水も通っていない真っ暗な夜が、何度も来る余震が俺たちの未来を変えたのかもしれないな」

「私は、今の方がずっと幸せ。空腹に飢える日々を過ごさなくていいし、とってもいい人ばかりなんだ」

「俺たちの日常は変わったこともたくさんあるけど、瑠香の優しい気持ちは昔から変わってないと思っているよ」

 少し沈黙の後、ぼそっと翔我が言う。
「来週、花火大会があるよな。行く予定ある?」
「ないけど」
「川で灯篭流しもあるんだ。瑠香のお母さんの弔いをするのもいいと思うんだ。どんな親でもいなければ、瑠香はいない。空腹と隣りあわせだった少女がこの町をよくしようとしている。君がまっすぐなまま変わっていなくてよかった」

 花火大会の日に、灯篭を流しに申し込む。初めて母親に向き合った瞬間だ。
 川辺を光を灯しながら灯篭が流れる。ひとつの場所でとどまることのない人生みたいな感じがした。亡くなった人を想う時間。それは、必要なことなのかもしれない。夕暮れの空は青と群青色の中間で不思議な色だった。

「この先もどんな震災に遭うか未来はわからない。でも、予防したり対策することはできると思うんだ。実際起こってしまったら、仕事として助ける人も必要だし、法的な整備も必要だ。俺たちが、未来で手助けできる仕事につけたら幸いだよな」

「そうだね。お母さんへの気持ちも灯篭に込めることができたのはジンジャーのおかげだよ」

「停電の夜、おまえが傍にいてくれたから、俺は心を保つことができた。本当は小学生の子供にとって暗闇と孤独ほど怖いものはない。余震もひどかったしな。次に震災があったとしても、傍にいてほしいんだ。だから、俺と……これからも一緒にいてほしい」

「もちろん、これからも一緒にいるよ」

「その、つまりだな……」

 その瞬間打ち上げ花火が始まった。近い場所らしく、よく見える。音が少々大きくて、声がかきけされる。赤、緑、黄色、青。様々な色合いと個性を混ぜ合わせて、花火は大きく花を咲かせる。

「あれ、おまえらも来てたのか」
 青井と赤野だ。二人は最近付き合い始めたらしい。

 つまりだなの後が聞けないまま、気になる素振りを隠しつつ花火を鑑賞する。きれいだな。こんなに心を打つ花火は初めてかもしれない。

 ジンジャーの手が私の手を包む。
「付き合おう」
 人混みの中でも、耳元で言われると、さすがに聞こえる。
 青井と赤野は気づいていないようだ。

 少し背伸びをした私は、ジンジャーの耳元でささやく。
「これからもよろしくね」
 花火を見たまま固まるジンジャー。

 持参した飲みかけのジンジャーエールを渡す。
 転校以来、いつもジンジャーエールを持っていることが多かった。
 翔我が傍にいるような気がしたからだ。
 一緒に過ごした日々は少しばかり甘くて苦くてしゅわっとしていた。
 のどごしは爽快で、これ以上ない初恋の味だ。

 渡したジンジャーエールをすぐさま飲み干すジンジャーは、相当緊張して喉がカラカラだったようだ。これは、恋が始まる味になるのかもしれない。
少しばかり、辛くて甘いシュワッとした刺激が私達の日常の中にあるのだから。