「おはよう」
「……おはようございます」

 玄関のドアを開けると、女の子が立っていた。ショートボブで華奢な見た目。――親から聞いた子か。
 
「やめてよ。敬語なんか使わないで。私のことわかる?」

 僕はどんなに考えても思いつかず、首を振った。

「私、リリだよ。――ほら、中学のとき、一緒だったでしょ」
「え、リリ?」
「そうだよ。ほら、行くよ」

 リリは僕の手を握り、歩き始めた。僕は戸惑ったまま、リリの手の温かみを感じた。


「もうすぐで卒業だね」
「そうなんだ。――なんにも記憶ないや」

 駅のホームはものすごく寒くて、空は灰色だった。時折、雪がちらついていた。
 
「――そうだね。日記みてよ」
「日記?」
「たぶん、バッグの中に入ってるはずだから」

 僕はバッグの中身をみると、確かに緑色の日記があった。
 
「あとで読みなよ。――はぁ。月曜日は憂鬱だねぇ」

 リリがそう言って、微笑んだ直後、電車がホームに入ってきた。


「どう。私と付き合ってるってことわかった?」
「あぁ。マジだったね」

 僕はそう言ったあと、コーヒーを一口飲んだ。イオンモールの中にあるスタバは今日も穏やかな時間がゆっくりと流れていた。

 日記を読んだ午前中から、僕はすごく無力に感じた。どうやら、僕の記憶は1週間ごとにリセットされているらしくて、それは先月から、始まったらしい。

 しかも、厄介なのが、高校三年間の記憶が丸々リセットされていて、僕の記憶は15歳で止まったままになっているらしい。

 どうして、そんな僕にリリは優しくしてくれるんだろう――。
 
「――どうして、こんな記憶喪失の俺なんかに付き合ってくれるんだよ」

 しばらく、沈黙が流れた。リリを見るとリリは何かをずっと我慢しているようなそんな表情をしていた。その一言だけで、まずいことを言ったことにすぐに気がついた。

「――ごめん」
「ハツミくん、違うの!」

 リリが少し大きな声でそう言ったから、一瞬、周りから、視線を一気に感じた。

「――そうじゃないの。――私が全部悪いの。元々、私が魔女なんかに会ったから、ハツミくんは記憶喪失になっちゃったの」
「ごめん。よくわからないんだけど」

 リリは下唇を噛み締めていた。そして、一粒の涙が頬を伝っていた。涙は間接照明でキラキラ輝いていた。

「私の所為なの。ハツミくんが記憶喪失になったのは」

 僕は黙ったまま、リリの次の言葉を待った。


 スタバでリリから、すべてを聞いたあと、僕とリリは地元に帰ることにした。学校の最寄り駅から、地元の駅を降りて、今、二人で手を繋ぎながら歩いている。

 外は冷え切っていて、少しだけ、アスファルトに雪が積もっていた。さっき乗った電車は雪を切るように進んでいたのに、駅に着き、歩き始めたら、雪はやんでいた。
 
「ハツミくんがね、私のこと、かばってくれたの。記憶を失ってから、ずっとハツミくんは私のこと、守ってくれてた。だから、私もそうしてるだけだよ」

 リリは前触れもなく、ぽつりとそう言った。

「――ありがとう。こんな、俺に付き合ってくれて」
「違うよ。――罪滅ぼし」

 リリにそう言われ、僕はため息をひとつ吐いた。ため息は白く、すっと上へ上がっていった。

「そんな、罪滅ぼしって思ってるなら、いいよ。こんなことしなくて」

 思わず、口にしてしまった。言ったあと、すぐに後悔と、どんよりした気持ちで胸が締め付けられる感覚がした。

「バカ。仕方ないじゃん――。一緒にいるうちに好きになったんだから、そういうこと言わないで」

 僕は思わず立ち止まってしまった。僕が急に立ち止まったから、リリは僕に手を引っ張られるように歩みを止めた。

「――誰かのそばに居たいって思ったの初めてなの。私だって、記憶失う前に戻りたいって思ったよ。だけど、もう、戻れないの。そして、ハツミくんのこと、もうほっておけないの!」

 誰もいない昼の住宅街にリリの声が響いた。リリはまた涙目になっていて、目元から、今にも涙が溢れそうだった。

 もう一度、息をすっと吐いた。さっきと同じように凛とした空気の中に自分の白い息が混ざっていく。

 繋いでいたリリの左手を離し、僕は両手でリリを抱きしめた。


 卒業して、少しだけ時間が経った。午前中のこの小さい公園は、僕とリリ、二人きりだった。ベンチでこうやって、二人きりで座るのは久しぶりに感じた。桜は満開になっていて、たまに吹く冷たい風で綺麗に揺れていた。

 僕が記憶を取り戻したのは2週間前だった。魔女が突然、地底に戻ったらしい。前触れもなく。そして、世界中の呪われた人々の呪いが解けた。
 
「ねえ」
「なに?」
「ようやく二人の記憶が戻ったことだし、本当のこと、教えて」

 僕はリリにそう言われて、驚いた。そして、小さくため息をついた。リリは僕に手紙を差し出した。その手紙には他の男の名前が書いてあった。

「本当は私、この人と、付き合ってたみたいなんだけど」

 リリは彼氏に振られたんじゃなかったのかよ。廊下でぶつかったとき、床に落ちた日記にそう書いてあっただろ――。

 あのときの帰り道に相談された話はなんだったんだ――。
 
「本当はリリと付き合ってなかったんだ。ごめん」

 リリは眉間にしわをよせて、「嘘でしょ」と言いたげな表情で、僕のことをじっと見つめてきた。だけど、すぐにリリはいつもの微笑みに表情が変わり、僕は少しだけほっとした。