君との思い出は常に消えていくことになる。だけど、君の恋は続けたいし、思い出もたくさん作りたい――。

 目の前に広がる海をぼんやりと眺めている。9月の海は穏やかだ。僕は今、昨日、ここで君に言われたことを思い出している。

 別に事実を簡単に伝えられただけだ。どんな人もきれいな思い出も、切なく感じた気持ちも、いつかは風化し、波にさわられるようにゆっくり忘れる。

 だけど、君の思い出は簡単に消えていく。

 君は昨日、僕と一緒に眺めた、この景色すら忘れてしまうのだろうか――。


「私、そんな呪いにかけられたんだ」

 リリはそう言って、微笑んだ。その微笑みは不気味な暗示を感じ、嘘や思いつきでそんなことを言っているわけじゃないんだと、僕は強く思った。

 二人で9月の海辺を歩いている。季節が進んでいるのがわかる。今日は珍しく風は穏やかだけど、空気はいまいち暖まっていなかった。息を吸うたびに気道に冷たさを感じた。

「でも、どうして、そんな呪いなんか、かけられたんだろう」
「ハツミくん、これは運命なの。私の。だけど、自分の人生を生きなくちゃいけないでしょ。だから、私はこの呪いに抗うように生きているの」

 リリのショートボブが風で弱く揺れた。リリの呪いは毎週、金曜日。1週間おきに記憶がリセットされる呪いらしい。

「ねえ、だけど、ハツミくんのことは忘れないよ。――きっと」
「うん、信じてるよ」
「こうやって、ずっと居れるように努力するね」

 今日は木曜日だ。憂鬱だ。

「はやく呪いが解けるといいね」

 僕はそう言って、微笑もうと思ったけど、きっと自分が思っているより上手くいっていない、引きつった表情になっている気がした。

 だけど、リリはそれをひっくるめて、僕に精一杯、微笑みをくれた。


 インターフォンを押すと、リリの母親の声がした。

『今日もありがとう。ちょっとまっててね』

 そうインターフォンが告げたあと、ぶつっと音声が切れた。リリの実家のマンションのエントランスはひんやりとしていた。日が入らない北側――。

 僕はこのリリを待っている一瞬がいつもつらい。

 オートロックの鍵が開く音がした。ガラスの扉越しに制服姿のリリがいた。リリはゆっくりと扉を開けて、こちらに入ってきた。
 
「――おはようございます」
「リリ。おはよう。――お母さんから聞いてる?」

 リリは怯えた表情のまま、うんと小さく頷いた。こんなことが続いて、もう2ヶ月も経つ。

「これから、リリが通っている高校に行くからね」

 リリはもう一度、小さく頷いた。リリの親はリリが呪いにかかったとき、退学も考えたらしい。だけど、学校側が卒業まで、半年しかないから、リリの面倒をみると言ったらしい。半年程度だったら、どんなにテストの点数が悪くても、特別な事情として、単位を渡すという口約束がされたようだ。

 僕とリリはエントランスを出て、駅まで歩き始めた。


「――もしかして、ハツミくん?」

 電車を待つホームでリリはそっとした声でそう言った。リリはブレザーの制服に赤のストライプが入っている黒いマフラーをしていた。外の空気は冷たく、11月の半ばなのに、冬が始まろうとしているように感じる。

「正解」

 僕はいつものようにそう返した。毎週金曜日、リリはなぜかホームで電車を待っているときに僕の存在に気づく。

「私、中学校までの記憶はあるみたいなんだけど、私が高校3年生だってこと、信じられない」
「――そうだね」

 だから、僕とリリが付き合い始めた高校一年生からの思い出はすべて、今、ここにいるリリのなかには存在しない。いつも、中学校までの記憶があるってリリに言われると胸がズキッと締め付けられる感覚がする。

「ねえ」
「なに?」
「もしかして、私、ハツミくんと付き合ってたり……する?」

 僕が右手を差し出し、リリの左手を握った。リリの手はすっかり冷え切っている。――今日のこの寒さなら、手袋したってよかったのに。

 リリを見ると、リリは顔を赤らめて反対側のホームを見ていた。

「あとで、日記読んでおいてよ」
「日記?」
「うん。毎週、リリに頼まれているんだ。読むようにって。たぶん、バッグの中に入ってるよ」

 リリはバッグのジッパーを開けて、中を確認しているようだった。これも一週間おきにやってくる日常だ。すでにそんなことをし始めて、2ヶ月くらい経っている。

「――このピンクのやつかな」
「そうだよ。それに自分への申し送りが書かれてるんだって」

 僕がそう言い切ったのと合わせて、電車がホームに入線してきた。


 魔女が地底から出てきたのは僕がまだ、6歳くらいだったときだ。ニュースで魔女が人々に呪いをかけていることが報道されて、みんな外に出なくなった。

 だけど、そのうちに魔女はよほどの運が悪い人じゃないと遭遇しないことがわかり、いつの間にか日常は戻っていった。

 忘れた頃にたまに魔女のことがニュースになった。

 リリは運悪く、魔女と会ってしまっただけだ。
 

「全部ありがとう」

 リリにそう言われたから、大丈夫と僕は軽く答えた。

 イオンモールの中のフードコートでリリと二人で、マックのシェイクを飲んでいる。平日だからか、僕たちと同じように飲み物を飲んで過ごしている高校生ばかりだった。
 
「みんなすごい優しくしてくれて、嬉しかった」
「そっか。よかったな」

 リリはにっこりとして、ゆっくり頷いた。

「――ハツミくんもだよ。朝、付き合ってるって聞いたときはびっくりしたけど、学校で日記読んだら、本当に私達、付き合ってるんだってこと、わかったよ」
 
 リリが微笑んだから、僕もゆっくりと口角を上げて、鼻で弱く笑った。
 
 ただ、周りの人たちと決定的に違うのは積み重ねた思い出が共有されていないということだ。リリは友達に恵まれている。学校につき、リリのクラスまで送り届けると、僕の朝の役割は終わる。

 そして、放課後になると必ずリリと合流して、こうやって帰り道、どこかに寄り道して、リリと話す。

「ねえ。受験勉強は? ほら、私達、三年生でしょ」
「そうだよ。だけど、いいんだよ。俺は」
「え、卒業したらどうするの?」
「――とりあえず、浪人のふりして、フリーターするよ」
「そうなんだ」

 リリはなぜか、悲しそうな表情をしてそう言った。僕は別に悪いことを言っているわけではないはずなのに、バツが悪くなり、バニラシェイクを手に取り、一口飲んだ。

「ねえ」
「なに?」
「――もしかして、私に合わせてる? 進路」
「まさか」

 リリは不安げな表情のまま、シェイクを手に取り、一口飲み始めた。僕は大きくため息を吐いたあと、少しだけ上を向いた。天井は高く、大きな窓からオレンジ色の夕日が室内にきれいに射し込んでいた。

「なあ」
「なに?」
「俺、今さ、将来のこと、考えられないんだ」
「――そうなんだ」
「だけど、やりたいことはないけど、ひとつだけやりたいことがある」
「――なに?」

 視線をリリに戻すとリリはまだ浮かない表情をしていた。

「リリとずっと居たい。――ただ、それだけだよ」

 リリはいつものように困惑した表情を浮かべた。

 ――いいよ。別に。

「そんなことより、土曜日、水族館行こう」
「え、いきなりだね」
「日記読んだんだろ?」と僕がそう言っても、まだ何も飲み込めてないんだけどってリリの顔はそう言っているように見えた。
 
「読んだけど、まだ――」
「大丈夫だって」
「ハツミくん。心の準備できてないよ」
「大丈夫だって」
「――ハツミくん。楽しめないかもしれないよ」
「楽しめない?」

 リリは小さく頷いた。気まずそうで申し訳なさそうな、そんな顔をしている。

「――私、まだハツミくんのことあまり知らないし」
「俺はリリのこと知っているから、大丈夫だよ。それにまだ、4日もあるから、すぐに俺のこと、わかってくれるよ。きっと」

 リリの表情は変わらなかった。月曜日はいつもフラれた気持ちになる。
 

 こうして、あっという間に学校での一週間は終わった。朝、リリを迎えに行き、帰りに寄り道をして、リリと会話を重ねる。その繰り返しだ。

 そして、今、二人で大きな水槽に漂う無数のクラゲを水槽の前のベンチに座り、黙ったまま眺めている。水槽の中はLEDで赤、緑、青、黄色の順番で色が変わっていた。

「――リリと付き合うことになったきっかけの話してもいい?」

 リリにそう聞くと、リリは小さく頷いた。頷くのと合わせて、ショートボブの毛先が弱く揺れた。

「リリとぶつかったんだよ。廊下で」
「――もっと、普通な出会いかと思った」
「普通?」
「うん、同じクラスで声かけられてとか、共通の友達がいてとか」

 リリは右手の指で首元の毛先をいじりながらそう言った。
 
「普通じゃなかったから、リリと接点ができたんだよ」
「私達、接点なかったの?」
「あぁ。学校の廊下で出会い頭でぶつかって、俺と抱き合う形になったんだ」
「ラッキースケベ」
「違うよ。バカ。リリが走ってきたのを俺がかばったんだよ」

 リリはふふ、と弱く笑った。僕は右手をリリの左手の甲に乗せて、上から被せるように手を繋いだ。

「そして、一緒に帰って仲良くなったって感じ」
「変なの」

 リリはそう言ったあと、また弱く笑った。そのとき、たまたまリリが持っていた日記の内容が目に入って、誘ったことは言わないことにした。そして、その帰り道で悩みを聞いたことも。

「ねえ。なんで一週間周期で消えるんだろうね。――私の記憶」
「そうだね――」

 僕はそのあとの言葉が見つからずに浮遊しているクラゲを凝視した。どうせ、こうした今日のやりとりも、あと2日経てば、水疱のように消える。

 この繰り返しだ。
 
「ねえ」
「なに?」
「今、単純にハツミくんとの思い出、たくさん作れたらいいのにって思った」

 リリを見るとリリは穏やかに微笑んでいた。


 帰り道、魔女にあった。魔女は不気味に微笑んでいる。
 
 誰も居ない夜が始まって数時間経った路地の真ん中に魔女は立っていた。なんで、地元に、しかもこんな住宅街のど真ん中に魔女なんかいるんだよ――。

 リリと僕は思わず顔を見合わせた。
 
「前もこんなだった?」
「――覚えてないよ」
 
 リリの声は震えている。白色のLEDの街頭に照らされている魔女はなにか言いたげな表情をしていた。

 本物の魔女を見るとのは初めてだった。だけど、なぜか、恐怖は感じない。リリが魔女に呪いをかけられたとき、きっと、すごく怖かったんだろうなって冷静に思う。

「なあ。どうせ呪い、かけるんだろ。俺達に」

 魔女は小さな声で笑った。魔女と目があう。魔女は普通に30代くらいの女に見える。だけど、服装が明らかに現代的なファッションではない。黒い布で全身を覆っている。

「なあ。リリが記憶喪失の呪いにかけられて困ってるんだ。だから、呪い解いてほしいんだけど」
「ちょっと、なに言ってるの」

 リリは僕の左腕にしがみついたまま、焦ったような声でそう言った。
 
「私は知らない。魔法をかけて、お前らからエネルギーをもらうだけだ」
「へえ」

 ニュースでやってたけど、魔女と遭遇したらほぼ、100%呪いにかけられるって言っていたのを思い出した。走って逃げても無駄だ――。

「あんたたち、逃げないんだね」

 魔女はそう言ったあと、ゲラゲラ笑った。何が楽しいのか、よくわからない。
 
「――なあ。俺の隣にいるリリはすでに記憶喪失の呪いにかかってるんだけど、どうにかならないかな?」
「女の呪いは解けないよ」
「そうなんだ。あんたがかけたのか。リリに。リリは数ヶ月前に呪いにかかったばかりなんだ」
「知らないねぇ。そんなお嬢ちゃんのこと」
「へえ」

 僕は思わず抑揚のない声がでてしまった。間抜けな声だ。

「なあ。呪いって、何度もかけられないんだろ」
「なぜ、知っている」
「ニュースでみた」

 左腕が小刻みに揺れている。リリがものすごく震えているのを感じる。

 ――俺だって怖いよ。リリ。

 僕はゆっくりと息を吐き、まぶたを閉じた。そして、三秒、頭の中で数えたあと、まぶたを開き、思いついたことを話すことにした。

「なあ、呪いって、人に移すことできないの?」
「やめてよ。ハツミくん」
「――リリの呪いを俺に移すこと、できるか」

 もう一つ、ニュースでやっていたことを思い出した。魔女と遭遇する確率は通り魔と遭遇するくらい、まれなことだって言っていた。

「手を差し出せ」 
「できるってことだな」
 
 僕がそう言うと、魔女は不気味に微笑んだ。

「ハツミくん。やめて」
「リリ。違うんだ。どっちにしろ、呪いにかかるなら、そうしたほうがいい」
「ダメだよ。――それだとハツミくんが、記憶喪失になっちゃう。それに」
「それに?」
「私の呪いが消える保証なんてないじゃん」

 リリを見ると、リリは首を大きく振っていた。僕は小さく、息を吐き、もういいやって、心のなかでつぶやいた。
 
「――俺が記憶喪失になったら、そのときはよろしくね。リリ」

 僕は魔女に右手を差し出した。
 
「やめてーーー!」

 リリの高い声が辺りに響いたけど、きっと、助けなんて誰も来てくれないだろう。僕はそっと、目を瞑った。