香代が私たちの間に入ってきたのは一年前、入学式の翌日だった。

「はい、おばさん。誕生日おめでとう」
 朝の教室で、将太から小さな包みを手渡される。
「高校生になっても変わらないね、余計な一言。制服のブレザー着てても、中身はまるで園児のままだ」
「あ、そう。じゃあ、プレゼントいらないな」
 将太が伸ばした手を振り払い、包みを開ける。お気に入りの猫のキャラクターのキーホルダーだ。
「通学の自転車用。(あきら)、水泳続けるんなら朝練あるだろ?」
「あんたはバスケやらないの?」
「チームプレーはこりごりだ。高校では陸上部に入る」
「そりゃまた大転換だね」
「ひたすら走る。勝っても負けても俺一人の責任だから、すがすがしい」
 将太は薄く笑って頭を掻いた。ここはトラウマだから茶化せない。

「陸上なら、将太も朝練あるんじゃないの?」
「早起きして学校まで走るよ」
「ストイックだなあ。アオハルだぞ。恋しなよ」
「まあ、そのうち見つけるよ。晶こそ、中学までまったく浮いた話がなかったじゃんか」
「将太が知らないだけで、私は案外モテるんだ」
「おばさんなのに?」
「あのね、何度も言うけど、あんたも五月が誕生日でしょ? 一歳差、っていうか、一か月しか違わないじゃない」
「それでも年上は年上だ」
「いいよ、いつまでも憎まれ口を叩いていれば。そのうちイケメン男子に告られて、きっとあんたは青ざめる」
「幼なじみに彼氏ができて、どうして俺が青ざめるんだよ。物好きもいるもんだ、と生ぬるく見守ってやるぜ」

「え、二人、つきあってるんじゃないの!?」
 後ろから不意に声がした。私と将太はそろって振り向く。
 しまった、という表情で、セミロングの同級生がうつむいた。華奢(きゃしゃ)だけど、ブレザー越しに肩の辺りが盛り上がっている。間違いない、この子もスイマーだ。
「……ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったんだ。私も月末、誕生日だし、部活どうしようかなと考えてたから、つい……」
 椅子に腰を下ろしたまま、すまなそうに首をすくめた。のっぽな私より、多分、十センチは背が低い。一五二、三センチってところだろう。いいな、小柄な女の子って。こういう仕草が本当に可愛い。
「全然オッケー。言っておくけど、晶とは保育園から高校まで同じなだけの、単なる幼なじみにすぎないからね。――あ、俺、神崎将太。三中出身」
「……橋本香代。五中です」
「前沢晶。私からも念押しさせてね。将太とは本当にただの腐れ縁。まさか高校でも同級生になるとは思わなかった」
「そうなんだ……。私、そういう存在いないから、よくわからなくって……」
「それで思わず心の声が口から漏れた、と」
 将太がおかしそうに笑っている。こいつは随分背が伸びた。目標にしてた一七五センチはもうすぐだろう。
 香代は「ごめんなさい」と小さな舌をのぞかせて、上目遣いに私と将太を交互に見つめた。ぽってりとした唇に、真っすぐな鼻筋、大きな瞳。
 隣の将太を盗み見る。案の定、だらしなく鼻の下を伸ばしていた。なんだよ、あんたが言ってた「純愛」ってのは、その程度のものなのか。

「――香代ちゃん」
「呼び捨てでいいよ」
「じゃあ、香代。中学の時、水泳やっていなかった?」
「三年間水泳部だった。よくわかったね、晶……ちゃん」
「呼び捨てにして。あのね、私もやってたんだよ、水泳」
 笑いながら両手で自分の肩を叩く。
「言われてみれば、確かに水泳体型だ。晶、すらっとしていて気づかなかった」
「こいつ、胸の辺りもすらっとだろ?」
 将太が横から茶々を入れた。あんた、本当に一言余計だよ。
「羨ましいな、晶の体形」
「あはは、香代。知り合ったばかりで喧嘩売ってる?」
「だって、邪魔だもん。私、中三の初めごろから急に大きくなってきて、全然タイムが伸びなくなった」
 香代は真顔でつぶやいて、胸の辺りをさすっている。確かに私の二倍はふくよかだ。小柄で可愛く、巨乳の天然。無双だね。きっと男子が放っておかない。実際、将太は息を飲み、じっと香代を見つめてる。私はちょっと苛立った。

「で、どうする? 香代は水泳続けるの?」
「そのつもりでプールのある七瀬高校を志望した。でも、迷ってる」
「やろうよ。私は入部する」
「晶、速そうだね」
「ちっとも。去年の夏の市民大会、中学の部で七位どまり」
「私も出た。会場ですれ違ってたかもしれないね。種目は?」
平泳ぎ(ブレスト)。香代は?」
「私は背泳(バック)。市民大会、二位だった」
「なんだ、十分すごいじゃん。背泳ならそんなにおっぱい影響ないでしょ?」
「スタートと、ターンでね、抵抗あるんだ」
「大丈夫だよ。やろうやろう」
「晶がそう言ってくれるんだったら……」
 そこで将太がしゃしゃり出る。
「俺も陸上辞めて、水泳部にしようかな」
 あんたは馬鹿だ。いきなり高校から始めてどうにかなるほど、水泳は甘くない。知っているでしょ、私が小一からスイミングに通っていたこと。

「将太くんも泳げるの?」
「こいつは無理。巨乳少女の競泳水着が見たいだけ」
「なっ……! 晶、お前さっき、『恋しなよ』と言ってただろう」
「へぇ。初対面で告るとは、いい度胸だね」
「告ってねえよ。ただ……まあ、男と女、なにがあるかわからねえだろ」
 迂闊(うかつ)な自分の一言に、今さら気づき、将太が真っ赤になっている。
「聞き流してね、香代」
「うん、なにを? 水泳部におっぱいの大きな子がいるの?」
 さすが天然。将太の失言を華麗にスルーしている。
「香代のことだよ、巨乳って」
「いやだ。確かに邪魔だと感じてるけど、全然違うよ。巨乳じゃない」
 そう言って、手を振りながら苦笑している。「だって、ただのEだよ?」
 ……私はBだ。香代、あんたやっぱり、私に喧嘩売ってるね?

 結局、私と香代は水泳部、将太は陸上部に入部した。高校のプールは屋外だ。泳げるのは六月からになる。それまでは校庭で、筋トレやストレッチ、持久走をして体をつくる。
 水泳部は二年生が四人、三年生が三人の小所帯だった。新入部員も私たち二人だけ。そもそもあまり気合が入っていない。拍子抜けしたが、強豪校でもない限り、高校の水泳部ならどこも大差はないだろう。基本的にタイムがすべての個人技だ。本当に速く、上を目指すスイマーは、スイミングで鍛えている。大会には高校枠でしか出られないから、便宜的に水泳部に籍を置いているだけだ。私も香代も、そこまでの選手じゃない。

 桜の散ったグラウンドを、黙々と走る将太が見える。長距離を選んだと言っていた。ジャージ姿で前後に大きく腕を振り、前へ前へと進んでいく。遠目にも、荒い息が感じられた。それでも足を緩めずに、走り続ける。
「将太くん、頑張っているね」
 ストレッチを小休止し、香代が言った。
「努力馬鹿なのよ、昔から」
「どういう意味?」
「『俺には大した才能がない。だから、ただがむしゃらに頑張るだけだ』って。小さい頃からずっとそんなふうに生きてきた。不器用なのよ、将太」
「そうなんだ。……なんか、格好いいね」
「幼なじみとしては、もう少し器用になってほしいと思う。多分、ああいう生き方は、ちょっとしんどい。普段はあんなにチャラいくせに、運動も、勉強も、ひたむきすぎる」
「恋愛は?」
「……どうだろう。中学時代、何人かに告られてたけど、断ってた。これまで、つきあった相手はいないと思う」
「晶とはどうなの?」
「だから、私は本当に単なる幼なじみだよ」
「ふうん……」
 ジャージの土ぼこりを払いながら、香代は少しはにかんだ。

 中学時代、あいつが常に見つめていたのは、私じゃなくて、別の子だ。

 再び将太に目を向ける。フィールドで立ち止まり、ぼんやりと、体育館の出入り口を眺めていた。その視線を追いかける。練習を終えた女子バスケ部員の一群が、部室に向かって歩いていた。高校でも、やっぱり彼女はひときわ目立つ。
 バスケットウェアから長い手足が伸びている。白い肌、豊かなバスト、ポニーテールの黒い髪。背丈があと五センチ高ければ、モデルと言っても誰も疑わないだろう。有坂葉月。我が三中の元女子バスケ部長。付け加えれば、男子バスケ部長だった将太を、二年半も片想いさせていた美少女だ。

 私と将太と香代は、週に三日は並んで帰るようになっていた。水泳部も陸上部も体育会で、部活の終わり時間がほぼ重なる。四月末の香代の誕生日には、駅前のカフェでお祝いした。私と同じく、香代も自転車通学だ。
「晶とおそろいだけど、香代も好きだと聞いたから、はいこれ」
 将太は少し照れながら、猫のキャラクターのキーホルダーを手渡した。
「ありがとう。嬉しい。晶は青だったよね?」
「うん。――ね、将太、香代には赤なんだ」
「なんとなく、俺のイメージ。男勝りでサバサバしているお前は青。女の子らしい香代は赤」
「今どきそんなこと言ってると、フェミニストから突き上げられるよ」
「そうなのか? 晶、昔からお気に入りは青だっただろ。ランドセルも空色だったし」
「……まあ、そうだけど」
 そのやり取りを眺めながら、香代が「いいな……」とつぶやいた。

「え、なにが?」
「晶と将太くんの関係性。お互いのことをなんでもわかりあっている。なんか、恋人以上って感じがして、羨ましい」
「香代、それは大きな誤解だぞ。異性と意識していないからこそ、晶とはざっくばらんに話せるんだ。あと、きょうだいみたいに十六年も一緒にいれば、お互い嫌でも大抵のことは知れちまう。なあ?」
 フラペチーノのカップを握り、将太が私の顔を見る。それぞれの自宅までは徒歩五分。同じ産院で生を受けた。産前産後の健診で、母親同士が仲良くなり、そのうち家族ぐるみになった。二人とも一人っ子だから、将太は兄や弟みたいな存在だった。あいつにとっても、私は姉か妹だろう。
「面と向かって『異性と意識していない』と言われるのは、女子としてちょっと(しゃく)だけど、まあ実際、そんな感じだよ。それに、こいつ、身の程知らずで、私みたいなボーイッシュよりフェミニンな子がタイプなんだ」
 ふうんと、言って、香代が唇をすぼめてみせる。そういう仕草は私にできない。
 将太が無言で目配せした。「それ以上、俺の色恋沙汰を口にするな」のサインだ。わかってる。葉月のことは言わないよ。私は黙ってうなずいた。

 将太の誕生祝いを兼ねて、五月の連休には電車で海まで足を延ばした。帰りに立ち寄ったカラオケボックスで、香代は手作りのクッキーを将太に贈った。頬を染め、「美味しくなかったら、捨てていいから……」と言葉を添えた。どう見ても、マズいとは思えない。私がプレゼントしたバスケ漫画の最新刊をソファーに放り、「マジ? めちゃめちゃ嬉しい!」と将太が喜ぶ。「大事に食うよ。ありがとう」。そう言って、香代の頭をぽんぽん叩いた。二人の姿を眺めながら、私は初めて、胸に小さな痛みを感じていた。
 将太、この前も校庭から葉月を見つめていたでしょう。ちゃんと諦めきれてないのなら、香代に粉をかけちゃ駄目じゃない。

 六月からはプールでの練習が始まった。競泳水着の香代の肢体は、想像以上に成熟していた。胸元はふっくらと盛り上がり、お尻にも過不足なく肉がついている。だから、なおさら腰のくびれが強調される。葉月にまったく引けを取らない体型だ。
「いやだ、晶。そんなにまじまじと見られたら、恥ずかしい」
「香代、本当にスタイルいいね」
「なに言ってるの。長身でやせ型の、晶の体こそ羨ましいよ」
「それ、巨乳ちゃんが口にすると、嫌味に聞こえる」
「全然違う。言ったじゃない、ただのEだって」
「あのさ、私はBなんだけど」
「競泳にはそれぐらいが一番だよ。それに……」
 そこで香代は言葉を濁し、視線をそらして囁いた。
「……将太くん、晶のそんなの、全然気にしてないでしょう?」

 夏は水泳部の「かきいれどき」だ。六、七月と、私はひたすら泳いでいた。総体予選の標準記録には届かない。大会はどうでもよかった。水に潜り、かきわけている時だけ、無心でいられる。
 夏休みに入ってからも、毎日プールで泳ぎ続けた。陸上部の練習で、将太も登校している。葉月もだ。
 時間が合えば、将太と香代と一緒に帰った。喫茶店でかき氷を食べ、他愛のない馬鹿話をして「また明日」と手を振り別れる。表面上は何一つとして変わらない。

 将太が葉月を見つめる時間が増えたこと。
 将太に向いた香代の瞳が潤んでいること。

 二つの静かな変化を除いては――。

 秋の文化祭が迫って来た。私たちのクラスは「焼きそばメイド喫茶」をやることになっている。夏休み直後のホームルームで、文化祭委員が選ばれた。
「自薦、誰かいないか?」
 担任の呼びかけに、将太が真っすぐ手を挙げた。どういう風の吹き回しよ、と一瞬驚き、翌日には謎が解けた。夏休み前、葉月のクラスはすでに委員を決めていた。あいつはそれを知っていたのだ。もちろん、委員は葉月。そして、我が組の将太のパートナーには、香代が名乗りを上げていた。
 生徒会が主催して、何度かクラス委員の会議があった。衛生上の注意点、金券の取り扱い、当日のスケジュール……。そんなことが議題になったらしい。文化祭が終わった後も、出納(すいとう)の報告でクラス委員が招集された。
 香代はそのたび、部活を休んだ。グラウンドには将太もいない。見つめる先の葉月も同じだ。
 秋口のプールは冷たい。それでも私は無心に泳ぎ続けた。

「晶。お前この後、時間あるか?」
 クリスマスにカラオケを二時間楽しんで、香代と別れた帰り道、将太に言われた。右手に包みを抱えている。香代からもらったTシャツだ。私は何も贈らなかった。
「いいよ。寒いから近所のマックに行こう。お母さんに一本電話しておく。将太もおばさんに連絡しておきなよ。私とならば、多少遅くても、平気でしょう?」
「ああ、そうする」
 互いにスマホを取り出して、私は通話で、将太はLINEで事情を伝えた。
 コーヒー二つとポテトのLを注文し、二階席で将太と向き合う。そういやこの店、高校受験でよく来たな。将太と二人、飲み物とポテトで随分粘った。まったく迷惑な客だった。あれはまだ、一年前のことなんだ。
 
「気づいていると思うけど……」
 コーヒーを一口すすり、沈黙していた将太が口を開く。
「俺、やっぱり葉月を好きだ」
 そっちの子の話なんだ。そう思ったけれど、口に出さない。
「なんで私に言うのよ? 葉月とはあまり接点ないから取り持てないよ」
「わかっている。俺なりのけじめだ。ごめん」
「なんだそれ」
 私はくすっと笑った。いかにも将太らしい。謝る理由もわかっている。将太は私に「借り」があるのだ。それを返せないことを申し訳ないと感じている。

 去年の夏、中学最後の市民大会。三中の男子バスケ部は準決勝で敗退した。翌週に同じ運動公園内の屋内プールで、水泳の大会が控えていた。下見ついでに体育館に立ち寄った。
 試合はすでに終盤だった。部長の将太は「背番号四」を着けている。司令塔のポイントガードだ。私はスタンド席に腰掛ける。一進一退の攻防だが、わずかに三中が押されていた。
 残り一分。スリーポイントエリアの将太に奇跡のようなパスが通った。これを決めれば三点入って逆転だ。隙を突かれた相手チームのディフェンスが、慌てて将太に駆け寄った。狙いを定め、将太が両手でボールを放る。ゆるやかな放物線を描いた球は、けれど、わずかにゴールに嫌われて、コートに落ちた。ホイッスルが響き渡る。私はそっと席を立った。
 葉月が率いる女子バスケ部は、同じ日に、決勝まで勝ち上がり、強豪校に競り負けた。将太と葉月の夏は終わった。

 その日の夜、将太がうちにやって来た。風呂上りのパーカー姿で、近所の公園に連れ出される。
「負けたよ。俺の責任だ。もうチームプレーはやりたくない」
 並んでベンチに座ったまま、将太は声をたてずに泣いていた。黙ってペットボトルのポカリを手渡す。出がけに二本、冷蔵庫から持ち出した。体育館で見ていたことは、伝えなかった。うだるような暑い夏の夜だった。
「まあ、飲め、将太。あんたはよく頑張った」
 軽く背中を二回叩き、ペットボトルのキャップをひねる。将太は黙って私にならった。喉が渇いていたのだろう。一気に半分近くを飲み干して、ふぅ、と大きなため息をついた。
 
「……もう一つ、負けちゃった」
「うん、なにに?」
「葉月に振られた」
 私は思わず絶句する。将太が葉月に惹かれているのは気づいていた。中二の終わり、軽い気持ちで茶化したら、「俺の純愛を馬鹿にするな」と珍しく気色(けしき)ばまれた。「純愛」とはずいぶん大きく出たもんだ――。そう言いかけて、言葉を飲み込む。将太は本気のようだった。本気だけれど、打ち明けない。高嶺の花だとわかっているから。それで無理やり「純愛」だと自分自身に言い聞かせたのだろう。
「あんた、告っちゃったんだ」
「試合後で、気持ちが高揚していた。これで全部おしまいだ。コートで葉月を見られなくなる――。そんなふうに感じていた。葉月も負けて泣いていた。慰めながら、『ずっと葉月が好きだった』って、打ち明けた」
「答えは?」
「『そんなふうに将太を見たこと、一度もない』だって」
 葉月らしい物言いだ。自覚した美少女だけの特権だ。何だか無性に腹が立った。ねえ、葉月。こいつはちょっとヘタレだけれど、それでも私の大事な大事な幼なじみなんだ。

「……晶」
「うん」
「葉月のことは諦める」
「うん」
「なあ、晶」
「うん」
「……お前にしか頼めないことがある」
「うん」
「……キスしていいか?」
「うん」
 ぎこちなく、私たちの唇は重なった。お互いに、ファーストキスだった。自分にできる精一杯の慰めがキスならば、それでいいやと感じていた。そしてその時、私は大事なことに気づかされる。

「やっぱ返して」
 マックで将太に右手を差し出した。
「なにをだよ?」
「決まってるでしょ、ファーストキス」
「おい、声でかい!」
 焦った将太が私の口に手を伸ばす。ブレザーの胸のリボンの辺りでその手をひねり、将太に顔を近づけた。
「私はね、あんたが『葉月を諦める』って言ったから、ファーストキスをあげたんだ。それがなに? まだ一年半も経ってないのに『やっぱり好きだ』? 純愛が聞いて呆れるわ」
「……すまん。ファーストキスは返しようがない」
「まあいいよ。そういう一直線なところも、馬鹿馬鹿しくてあんたらしい。飽きるまで、ずっと葉月を好きでいなさい。でもね、私の慰め、二度目はないよ」
「なんだよ。玉砕前提かよ」
「当たり前でしょ。大会後に振られてから、何か好材料があったかしら?」
「……一つもねえ」
「アホらしいからもう帰る。クリスマスの楽しいカラオケが台無しだ。いい、私はちゃんと警告したよ? それから、この話、絶対に香代にしちゃ駄目だからね」
「なんでそこで香代が出てくるんだよ」
「香代がくれたそのTシャツを拝みながら、独りでよく考えなさい」
「もったいつけるな」
「香代を傷つけたら、たとえあんたであっても、許さない」
 私はコートを握り締め、出口に向かって歩き始める。
「晶、ちょっと待て。一緒に帰ろうぜ」
 そこで一度立ち止まり、将太に振り向く。
「私も前言撤回する。『借り』はもう返さなくても構わない。私も十分、将太に『借り』た。おあいこだ」
「え? 意味わからん。俺、何かお前に貸したっけ?」
「そっちは考えなくていい。――じゃあね」

 今度こそ、振り返らず、私は店を後にした。
 真冬の寒い帰り道、自転車を押しながら、悔しさのあまり泣けてきた。
 そう、私は将太に「借り」がある。
 私たち三人は、いつまでもこのままではいられない。
 しばらく前から、気づいていた。
 さっきは呆れてみせたけど、将太のがむしゃらな愛情には、ある意味、敬服せざるを得ない。
 私もそろそろ、腹をくくれていいはずだ――。

 年が明けた。冬休みも重なって、将太とはしばらく口をきいていない。オフシーズンの水泳部も開店休業状態だ。将太とも香代とも、なんだか微妙な距離ができている。
「なあ、将太と香代ちゃんって、つきあってるの?」
 一月半ば、クラスの男子にこっそり聞かれた。大晦日、連れ添う二人が七瀬神社で目撃されたらしい。
「噂では、香代ちゃんが将太を誘ったことになっている。あの子、天然ゆるふわ美少女だから、結構人気があるんだよ。でもさ、相手があの憎めない将太だろ? 何人もの男子が真偽をめぐり、悶々としている」
「『香代の巨乳が奪われた』って、下品な嘆きを私も聞いた。初詣で見られたんだ、あの二人」
「晶ちゃんも知っているのか。そうだよな。幼なじみだし、香代ちゃんとは同じ部活だし。――で、真相はどうなんだよ?」
「知らない。興味もない」
「え、そうなの? ……ひょっとして、晶ちゃん、『寝取られた本妻』の役回り?」
「悪いけど、私まだ、誰とも結婚していない」
 睨みつけると、男子はきまり悪そうな笑いを浮かべ、立ち去った。
 
 二月、久しぶりに屋内プールで部活があった。部室に一度集合し、顧問と部員で運動公園行きのバスに乗る。高校のプールは晩秋から初夏まで使えない。だからこの間、月に数回、水泳部員は屋内プールに「遠征」する。この日は一時間で三キロ泳いで解散した。運動公園には三系統のバス路線が通じている。「川田駅行き」に乗り込んだのは、私と香代の二人だった。
 平日の遅い時間のバスは空いていた。最後列に並んで座る。目的地までの三十分、私たちは喋らなかった。泳いだせいか、体が気怠(けだる)い。シートにもたれ、窓からずっと冬の景色を眺めていた。

「晶、お茶していこうよ」
 終点の川田駅で降りる直前、香代がようやく口を開いた。うん、とうなずく。
 駅前にあるチェーンのカフェで、私と香代は向き合った。
「――将太くんにバレンタインのチョコを渡そうと思っている」
 赤い猫のキーホルダーを大切そうに握り締め、アイスティーを一口含み、香代は静かに切り出した。
「将太くん、葉月ちゃんを好きなんだよね」
「本人から聞いたんだ」
 そこで香代はクスっとはにかみ、「聞いてないけど、バレバレだよ。あの人、面白いほどわかりやすい」。
「あの人」か。なんだか胸が苦しくなる。いつの間にか、そこまで距離を縮めたんだね。
「それでも香代はチョコを渡すの?」
「うん。決めた。もう黙っているの、しんどいや。それに、将太くんの一途さに、感動している。あの人、中学の時、一度葉月ちゃんに振られてるんだよね」
「それも知っているんだ」
「バスケ部の友だちから聞いた。葉月ちゃん、部の女子会で恋愛遍歴尋ねられ、うっかり喋っちゃったみたい」
「怖いね、女子は。同性だけど」
「本当だよね。――私も告って失敗したら、みんなの噂になるのかな」
 小さく笑ってそうつぶやき、けれども香代はいつになく、凛としていた。もう決心は揺らがない。そう見えた。「天然ゆるふわ美少女」だけど、一本筋が通っている。将太、あんたは幸せ者だ。滅多にいないぞ、こんな子は。

「ねえ、香代。なんで私に、打ち明けるって話をしたの?」
「晶は大事な友だちだから。大好きな男の子の幼なじみだから」
「出会った日、私たちがつきあってると、誤解したよね? 今はそんなふうに思わないの?」
「うん。恋人以上の関係だって、()いたこともあったけど、『以上』であって、『恋人』じゃないんだな、と理解することにした。悔しいけれど、仕方ないよ。二人が十六年かかって紡ぎあげたものだもん。この先、誰にも割り込めない。私にも、もちろん、葉月ちゃんにも」
 香代は健気だ。何より強い。
 あのキスに覚えた強烈な違和感で、将太は私に私のこと(・・・・)を教えてくれた。大きな「借り」を、いつになったら返せるのだろう。
 もう一度、香代が微笑む。そのすべてが愛おしい。
「あのさ、晶にも、好きな相手ができるといいね」
 ずっといるよ、目の前に。

(了)