両親が帰宅して、やっとホッと出来た。夕食の途中で、ふと会話が途切れた。美咲は思い切って庭のことを口に出した。
「あのね、庭のハクモクレンって、変じゃない?」
両親の動きがピタリと止まった。美咲の顔をじっと見る。まるで他所の家の子どもを見るような冷たい視線だ。
「なにも変じゃないぞ」
父が睨むような目で美咲を見た。父がこんなに怖い顔をしたことなどない。
「早く食べてしまえ」
母は目をそらし、美咲を無視する。もうそれ以上話すことが出来なくて、美咲は黙って食事を終えた。
この時以来、食卓から会話が消えた。
「帰って! 帰ってください!」
土曜日、リビングで宿題をしている美咲の耳に母の叫び声が飛び込んできた。なにごとかと廊下に出てみると、玄関に隣家の主婦が立っていた。
「な、なんですか。私は当然のことを言っているだけですよ」
「あの木を切れなんて、なんて酷いことを言うの!」
「別に酷くなんか……。お宅のハクモクレンの枝がうちの敷地内に入ってるのは何年も前から知ってるでしょう。本当ならうちが勝手に切ってもいいんですよ」
「そんなことさせない!」
母は女性に掴みかかっていく。美咲は驚いて母の側に駆け寄り、腕を引いて止めようとした。
「お母さん、やめて!」
恐ろしいほど母の力が強く、美咲では太刀打ちできない。騒ぎに気付いた父がやってきて、なんとか母を抑え込んだ。
女性は真っ青な顔で逃げていく。
「二度と来るな! 二度と来るな!」
母は何度も何度も叫び続ける。いつもの温和な母からは想像もできない。最近の母は、突然、狂ったように叫びだす。
「いい加減にしろ!」
優しい父が母の頬を打つ。声を荒らげることもない父が。
サワリは、もう始まっていたのだ。
美咲は図書館に走り、除霊の方法が載っている本を探した。怖がりの美咲が避け続けてきたコーナーだ。だが今はそんなことを言っている場合ではない。
本棚には心霊研究の専門書から、子ども向けの簡単な本まで、多種多様にある。
片っ端から棚から引き出してはページを捲る。恐ろしい心霊写真や難しい専門用語にめげそうになりながらも、いくつか美咲でも出来そうな除霊方法を見つけた。
有名だというお経と、呪文のような真言をノートに書き写す。塩と酒で場を浄める方法、怨霊から身を守る方法。必要な情報が次から次に見つかる。
こんなにあるのでは、どれを使えばいいのかわからない。片っ端から試すと言っても、もし、あれを怒らせるようなことになったら、サワリはますますひどくなるのではないだろうか。
無力感に肩を落としてノートをカバンにしまっていると、すぐ側に人が立った。
「日永さん!」
三鶴の姿に驚いて思わず大きな声が出た。周囲にいる人にじろじろ見られる。三鶴がふいっと歩き出す。
「出よう」
美咲はカバンを両手で抱えて足早に付いていった。
「日永さん、なんでここに?」
「縁に引かれた」
「縁って、断ち切らなきゃいけないっていう?」
三鶴は首を横に振る。
「縁もいろいろ。みつる、と、みさき。みが同じ。それだけでも縁が繋がる」
「もしかして、助けに来てくれたの?」
三鶴は答えず、断りもなく美咲のカバンに手を突っ込んだ。ノートを取り出し、ページを開く。
「これと、これ」
お経のページと、塩と酒の使い方の部分を指差す。
「安全だから」
それだけ言い残すと、三鶴はさっさと歩いていく。ついてきてはくれないらしい。一人でなんとかしなければ。美咲は怖い思いを飲み込もうと、ぎゅっと唇を噛んだ。
帰宅してそのまま庭に周った。あれがいる。がくりと垂れた首、どろんと腐ったような目。
出来るだけ見ないようにしながら少しずつ近づいていく。カバンを足許に置いてノートを取り出す。ページを開いてお経を読み上げようとしたとき、人の気配を感じた。隣家の主婦が塀越しに美咲を睨んでいた。カバンをそっと拾い上げ、女性の視線から逃げようと、そっとそっと歩いて家に入った。
除霊を始めるのは夜の方がいいだろう。隣家の住人だけではない。庭に面した道路を行く人の目もある。
あれを暗いところで見るなんて、恐ろしくて仕方ない。
なんとか回避出来ないだろうかと、リビングをうろうろ歩きながら考えていると、母が読んでいた本が目についた。
『毒草・毒キノコ図鑑』
なんでこんな本がうちにあるの? なんでお母さんはこんな本を読んでいるの?
夕飯はキノコ鍋と野草の天ぷらだった。美咲は白米にふりかけをかけたものだけを食べたが、両親ともなにも言わず、黙々とキノコと野草を食べ続けた。二人とも体に異変はないようだが、毒草、毒キノコではないと安心は出来ない。本当は毒だが、摂取量が少なかっただけかもしれない。母はどこで野草を手に入れたのか、なにも語らない。父も聞かない。食卓にいつもの会話はない。
急がなければ。
サワリがひどくなる前に。
「あのね、庭のハクモクレンって、変じゃない?」
両親の動きがピタリと止まった。美咲の顔をじっと見る。まるで他所の家の子どもを見るような冷たい視線だ。
「なにも変じゃないぞ」
父が睨むような目で美咲を見た。父がこんなに怖い顔をしたことなどない。
「早く食べてしまえ」
母は目をそらし、美咲を無視する。もうそれ以上話すことが出来なくて、美咲は黙って食事を終えた。
この時以来、食卓から会話が消えた。
「帰って! 帰ってください!」
土曜日、リビングで宿題をしている美咲の耳に母の叫び声が飛び込んできた。なにごとかと廊下に出てみると、玄関に隣家の主婦が立っていた。
「な、なんですか。私は当然のことを言っているだけですよ」
「あの木を切れなんて、なんて酷いことを言うの!」
「別に酷くなんか……。お宅のハクモクレンの枝がうちの敷地内に入ってるのは何年も前から知ってるでしょう。本当ならうちが勝手に切ってもいいんですよ」
「そんなことさせない!」
母は女性に掴みかかっていく。美咲は驚いて母の側に駆け寄り、腕を引いて止めようとした。
「お母さん、やめて!」
恐ろしいほど母の力が強く、美咲では太刀打ちできない。騒ぎに気付いた父がやってきて、なんとか母を抑え込んだ。
女性は真っ青な顔で逃げていく。
「二度と来るな! 二度と来るな!」
母は何度も何度も叫び続ける。いつもの温和な母からは想像もできない。最近の母は、突然、狂ったように叫びだす。
「いい加減にしろ!」
優しい父が母の頬を打つ。声を荒らげることもない父が。
サワリは、もう始まっていたのだ。
美咲は図書館に走り、除霊の方法が載っている本を探した。怖がりの美咲が避け続けてきたコーナーだ。だが今はそんなことを言っている場合ではない。
本棚には心霊研究の専門書から、子ども向けの簡単な本まで、多種多様にある。
片っ端から棚から引き出してはページを捲る。恐ろしい心霊写真や難しい専門用語にめげそうになりながらも、いくつか美咲でも出来そうな除霊方法を見つけた。
有名だというお経と、呪文のような真言をノートに書き写す。塩と酒で場を浄める方法、怨霊から身を守る方法。必要な情報が次から次に見つかる。
こんなにあるのでは、どれを使えばいいのかわからない。片っ端から試すと言っても、もし、あれを怒らせるようなことになったら、サワリはますますひどくなるのではないだろうか。
無力感に肩を落としてノートをカバンにしまっていると、すぐ側に人が立った。
「日永さん!」
三鶴の姿に驚いて思わず大きな声が出た。周囲にいる人にじろじろ見られる。三鶴がふいっと歩き出す。
「出よう」
美咲はカバンを両手で抱えて足早に付いていった。
「日永さん、なんでここに?」
「縁に引かれた」
「縁って、断ち切らなきゃいけないっていう?」
三鶴は首を横に振る。
「縁もいろいろ。みつる、と、みさき。みが同じ。それだけでも縁が繋がる」
「もしかして、助けに来てくれたの?」
三鶴は答えず、断りもなく美咲のカバンに手を突っ込んだ。ノートを取り出し、ページを開く。
「これと、これ」
お経のページと、塩と酒の使い方の部分を指差す。
「安全だから」
それだけ言い残すと、三鶴はさっさと歩いていく。ついてきてはくれないらしい。一人でなんとかしなければ。美咲は怖い思いを飲み込もうと、ぎゅっと唇を噛んだ。
帰宅してそのまま庭に周った。あれがいる。がくりと垂れた首、どろんと腐ったような目。
出来るだけ見ないようにしながら少しずつ近づいていく。カバンを足許に置いてノートを取り出す。ページを開いてお経を読み上げようとしたとき、人の気配を感じた。隣家の主婦が塀越しに美咲を睨んでいた。カバンをそっと拾い上げ、女性の視線から逃げようと、そっとそっと歩いて家に入った。
除霊を始めるのは夜の方がいいだろう。隣家の住人だけではない。庭に面した道路を行く人の目もある。
あれを暗いところで見るなんて、恐ろしくて仕方ない。
なんとか回避出来ないだろうかと、リビングをうろうろ歩きながら考えていると、母が読んでいた本が目についた。
『毒草・毒キノコ図鑑』
なんでこんな本がうちにあるの? なんでお母さんはこんな本を読んでいるの?
夕飯はキノコ鍋と野草の天ぷらだった。美咲は白米にふりかけをかけたものだけを食べたが、両親ともなにも言わず、黙々とキノコと野草を食べ続けた。二人とも体に異変はないようだが、毒草、毒キノコではないと安心は出来ない。本当は毒だが、摂取量が少なかっただけかもしれない。母はどこで野草を手に入れたのか、なにも語らない。父も聞かない。食卓にいつもの会話はない。
急がなければ。
サワリがひどくなる前に。