『あれ』が、見ている。
「もう四年生なんだから、自分の部屋で寝なさい」
このやり取りも何回目だろう。母に背中を押されて、部屋まで連れて行かれた。美咲は真っ青になっていたが、母は気付いてはくれない。
美咲を部屋に押し込んでドアを閉める。まだ寝るには少し早い時刻だが、もう窓の外は真っ暗だ。庭のハクモクレンのつぼみが、ぼんやりと闇の中に浮かんでいる。美咲は窓に駆け寄って、カーテンを閉めた。
早春だというのに、台風のような強風が吹いている。ごおうと風の音がするたびに美咲は震え、窓に背を向けてずるずると座り込んだ。
美咲の部屋は庭に面していて四季折々の花が見える。母が丹精込めて作った庭だ。近所の人がわざわざ見に来ることもある。その庭を見たくなくて、美咲はカーテンを閉めたまま過ごす。朝は素早く身支度をして逃げるように部屋を出る。夜はいつまでも居間にいて、両親に叱られるまで部屋には戻らない。
いつもそうやって過ごしたが、美咲が自室を嫌がっていることを両親は理解してくれない。
早朝に部屋を出るので、登校も随分早い。校門をくぐるたびに、学校に誰もいないのではないかと思い、一人で怖がる。教室へ向かう廊下もしんとしている。静寂の中に、なにか聞いてはいけない声が聞こえてくるのではないかと震えた。
最近は、そんな思いをしないように、朝一番に職員室の近くに行く。教職員はかなりの人数が登校していて、職員室には活気がある。人声を聞いているだけでホッとする。美咲は壁にもたれて、始業時刻が来るまでぼうっと過ごした。
朝礼までまだ一時間という頃に、保護者に連れられて長い黒髪を垂らした女の子がやってきた。職員室に向かっている。美咲の前を通り過ぎるとき、女の子は睨むような視線を美咲に向けた。強いだけでなく、どこか泣いているようにも見える不思議な視線に美咲は圧倒され、思わずその場から逃げ出した。
「転入生の日永三鶴さんです」
朝礼の初めに担任が紹介したのは、先程行きあった少女だ。以前住んでいた場所や好きなことなど、無難な挨拶を済ませている。黒髪は腰まで伸びている。暗い雰囲気で、近寄りがたい。
「席は西原さんの隣です。教科書がまだ揃っていないから、見せてあげて」
最後列の美咲の隣に、新しい机が据えてあったので、少女が転入生なのだと分かってはいた。しかし、改めて間近で見ると、切れ長の目に迫力があって怖いくらいだ。
「よろしく」
挨拶したが、三鶴は美咲から視線をそらした。仲良くする気はないようだった。
それでもクラスの明るい子たちは、休憩時間になると三鶴の周りに押し寄せた。様々な質問を投げかけられても、三鶴は答えもせず表情も変えない。教室内はしんとして、三鶴は一気に扱いづらいキャラと認定された。
美咲は幼い頃から人に嫌われたくないという思いが強い。人を無視する三鶴の態度が不思議でしかたない。なにを考えているのだろうと思っていると、話しかけられた。
「怖い話、苦手でしょ」
突然、言い当てられて驚いたが、小さくうなずきを返すことが出来た。
「放課後、残っていて」
三鶴は返事も待たず、黒板に目を向けた。担任教師の言うとおりに教科書を見せようと机を寄せたが、三鶴は見向きもしなかった。
「身近に霊がいるでしょう」
放課後、なにをするでもなく座り続けていた三鶴が、他の生徒がいなくなった途端、口を開いた。『霊』という言葉に、美咲は震え上がった。
「な、なんで?」
「逃げ出したいくらい、怖いんでしょう」
三鶴はうつむいて机を見つめている。長い髪が顔を隠して表情が見えない。震えるような小さな声で喋るのが不気味だ。美咲は逃げたくてたまらなくなって、思わず立ち上がった。
「見えるの、私。いろいろなものが」
そっと顔を上げた三鶴は、にやにやと笑っていた。顔いっぱいに引き上げられた口が、にたりと動く。もう我慢できない。美咲は教室から飛び出して逃げた。
家まで走って帰る。両親はまだ仕事から帰らない時間だ。
庭の方を見ないようにして鍵を開ける。リビングに飛び込んで、テレビをつけた。人の声を大きな音で聞いて、少し気持ちが落ち着く。
『霊がいるでしょう』
三鶴は確かにそう言った。出来るだけ考えないようにしていたのに。あれがなにか知りたくはなかったのに。言葉にしてしまったら、取り返しがつかないことが起きるのではないかと、ずっと思っていたのに。
午後五時を知らせる町内放送が外から聞こえてくる。もうすぐ日暮れだ。暗い庭に脅えながら一人で過ごさなければならない。
あれは本当に、三鶴が言ったように霊なのだろうか。なにか別のものを、ずっと見間違え続けていたんじゃないだろうか。
テレビで繰り広げられているお笑い芸人のふざけすぎたグルメリポートを見ていると、自分ひとりで怖がっていることが悪い夢のように思えてきた。
そっと立ち上がると、自室に向かう。ドアの前に立って、大きく三回深呼吸をする。ドアを薄く開けて部屋に滑り込む。青いカーテンが外光を通して、薄暗いが室内を見渡せる。
シンプルな机と椅子、本がぎっしり並んだ本棚、クローゼットの扉。美咲は足音を立てないように進み、カーテンに手をかけた。少しずつ、少しずつ、カーテンを引いて、片目だけで外を見る。
ハクモクレンの根方、それはいた。
人間のような形をしている。だが人間ではあり得ない。首が九十度に曲がり、頭の一部が陥没していて、そこから大量の血が胸元まで広がっている。少年のような姿をしたそれは、真っ直ぐに腕を伸ばして、美咲の部屋を指さしていた。