虹の向こうには、天使たちの楽園がある。
常春の水晶宮の中では、勤勉な天使たちが元気よく行き来する。
「まずお互い、頭を冷やしましょう」
その一室にて、大理石の机につっぷしたままある天使が力説をふるっていた。
「いいとか悪いとかの問題じゃないんです。かの大天使様、コスモス様も仰っていました。共に暮らしていくには寛容が何より大切だと。寛容というのは許し合う心、すなわち」
周囲には羊皮紙の束が山と積まれて、手には羽ペンを握ったまま眠っていた。
「ううう。うまく言えませんが、悪魔さんもちょっと歩み寄ってみませんか?」
ふいにぺちっとその額が弾かれた。
「きゃ!」
その天使は額を押さえて顔を上げる。
「おはよう、ガイア」
ガイアと呼ばれた天使は、まだ十歳くらいの子どもだった。くっきりとした眉、生まれたての赤ん坊のように澄んだ瞳をしている。
ガイアの机の前に、優雅な青年天使が腰に手を当てて立っていた。
「眠りながらも説得をするあなたは仲立官《ちゅうりつかん》の鑑ですね」
青年天使は、黄金の稲穂を思わせる豊かな巻き毛を垂らし、瞳は深い湖面のようで、天使とはかくあらんという形を姿にしたようだった。
「まあそのような仲立ちで心を入れ替える悪魔などいないと思いますけど」
ただし手厳しいガイアの上司、彼の名をコスモスという。
「あなたも仲立官になって一年。そろそろ一つくらい天使と悪魔の喧嘩をおさめてみてほしいのですが」
大天使コスモスはのんびりと羊皮紙の束の間を歩く。
「とはいっても、この間まで戦争していたような間柄ですからねぇ……」
肩をすくめて、コスモスはふいに部屋を歩む足を止めた。
「時に、ガイア。今日が何の日か知っていますか?」
「もちろんです!」
ガイアは元気よく返事をして言う。
「聖大天使ミシェーラ様の生誕祭です。天使たちがミシェーラ様のお祝いのために天界に帰ってくる日ですね!」
「つまり天使の里がえり。ですから」
コスモスは振り向いて、ぽんとガイアの肩を叩いた。
「あなたも実家に里がえりしなさい。どうせあなたは仲立ちの一つもできないでしょう」
コスモスの手が光る。転移の魔法が始まったのを見て、ガイアは慌てる。
「そんな! 待ってください、コスモス様! 必ず今度こそは……!」
「問答無用。よい里がえりを」
にっこりとコスモスが笑ったのを見たのが最後。
ガイアの魂は光になって、窓の外へと勢いよく飛ばされていった。
ガイアが目覚めたら、そこはこじんまりした部屋だった。
木造りの天井と壁、それに刺繍のされたカーテンと動物たちの置物が花を添える。
「帰ってきてしまいました……」
おひさまの匂いのするベッドから起き上がって、ガイアははっと気づく。
焦げ臭い匂いが鼻をかすめる。ガイアは慌ててベッドから抜け出すと、階段を駆け下りる。
「ケイオス!」
階下で鍋を混ぜていた人影が、ガイアの声に振り向く。
背が高くて、長すぎる前髪でよく顔の見えない青年だった。けれどその前髪の下で、子犬のような瞳がぱぁっと輝く。
「ガイア。お腹はすいてる?」
「火を止めてください! 焦げてます!」
「うん?」
青年はきょとんとして鍋を火から下ろすと、素手で火をひとなでする。
火は跡形もなく消えて、焦げた鍋だけが残された。
ガイアは腰に手を当てて言う。
「もう! いくら魔法で直せると言っても、鍋を焦がすのは何度目ですか?」
「ケーキを作ってみようと思ったんだ。せっかくガイアが帰ってきたんだし」
「鍋でケーキは焼けません!」
ガイアがふくれつらで怒ると、ケイオスは近づいてきてその顔をのぞきこむ。
ふにふにとガイアの頬をつついて、ケイオスは頬を赤らめた。
「かわいい。なんてかわいいんだろう、うちの子は」
「かわいくないです! もう、鍋のことはいいですから。朝ごはんにしますよ!」
ガイアはケイオスをテーブルの方に押しやって、自分で朝食を作り始めた。
豆のスープとヤギの乳、それとパンを切り分けて、ケイオスの向かいの席に座る。
ガイアは胸からペンダントを外す。ロケットを開くと、ガイアに似た面差しの黒髪の女性が描かれた、小さなポートレートが現れた。
ガイアはペンダントをテーブルに置いて、その前にパンを半分割って差し出す。
「ただいま、お母さん」
目を閉じて祈りを捧げる。ガイアが目を開くと、ケイオスもまた祈りを終えたところだった。
「おかえり」
ケイオスは懐かしむようにポートレートに目を細めてから、ガイアを見て笑った。
人間たちが住む地界の森の中、人里離れた山小屋にケイオスは一人で暮らしている。
ガイアが三歳で天界の学園に入るまで暮らした実家だ。その頃はまだ天使と悪魔の停戦協定が結ばれたばかりで、両者の間に生まれたガイアは難しい立場だった。
「ふふ」
「何ですか、ケイオス」
「だって嬉しいんだ。ガイアの顔を見るのは一年ぶりだもの」
ケイオスは頬杖をついて笑み崩れる。
ケイオスは生まれてまもなく両親をなくしたガイアを引き取って、この家で育ててくれた。かわいくて仕方がない、そういう暑苦しいほどの愛情にくるんで。
ガイアは照れくさくなって部屋を見渡す。染みのついた壁も、焦げついた鍋も何も変わらない。
ガイアが昔描いたケイオスの似顔絵がそのまま飾ってあって、ガイアは照れ隠しに早口で言う。
「ぼくがいなくて、ちゃんと生活できてるんですか? 散らかり放題じゃないですか。あの窓、いつ拭きました? 風も通してます?」
「大丈夫。俺はこの方が落ち着くんだよ」
文句をつけながら、ガイアもわかっている。ガイアの部屋だけは塵一つ落ちていなくて、布団も干してあった。ケイオスは自分のことは全然構う気がないのに、ガイアの部屋だけはいつ里帰りしてもきちんと整えてくれている。
「ん?」
ところで、ケイオスは生粋の悪魔だ。
にこにことガイアをみつめる子犬の瞳からは信じられないが、長らく神に反旗を翻していた魔王サルドニクスの長子で、「猛将」と恐れられた大悪魔らしい。
「……本当かなぁ」
「何が?」
ただガイアは一度もそんなケイオスを見たことがないので、何かのまちがいのような気がしている。
「何でもないです。食べ終わったら掃除です。片っ端からやりますよ」
「はいはい」
放っておいたらいつまでもガイアをみつめていそうなケイオスをせっついて、ガイアは朝食に目を戻した。
掃除を終えた頃には、昼近くになっていた。
天気は快晴だった。家を囲む森は風の音も優しく、時折野うさぎがひょっこり顔を覗かせる。
「平和だなぁ……」
天界は至高神がおわすところ、きらびやかで気品に満ちている。でも地界生まれのガイアはここに来ると、帰ってきたという気になる。
「ガイアー。洗濯物干し終わったよー」
「ありがとうございます。こっちももう終わりです」
ケイオスがやって来て、困った顔をする。
「おつかれさま。ごめんね、帰ってきてまで掃除をさせてしまって」
「いいんです」
ガイアは晴れやかに笑って天を仰ぐ。
「この季節はお天気もいいですし。朝ごはんを食べて、掃除をして、それでいつもみたいに外でのんびりお茶を……」
言いかけて、ガイアはかっと目を見開く。
「……何だあれ!」
いつもの光景とはまるで違う風景がそこに広がっていた。
紫色に発光しながら、渦巻くように塔が伸びている。のどかな森の中に忽然と立つそれは、違和感この上ない。
ケイオスはああと天気の話をするように言った。
「バベルだね。悪魔たちが集まってるんだ」
「悪徳の塔バベル! なんでそんなものがここに?」
「さあ。気分かな?」
能天気なケイオスに、ガイアは返す言葉もない。
悪魔たちの溜り場バベル。地界にある日突然作られるものではあるが、いきなり目の前に現れたのは初めてだ。
「行ってみようよ」
「ええっ!」
「ガイアは天使と悪魔の喧嘩を収める仕事をしてるんだろう? 天使のことはよく知ってるだろうけど、悪魔のことも知っておくといいよ」
「それはまあ、そうなんですが」
まだ一件も喧嘩を解決できていません。その言葉をごくりと飲みこむ。
「行きます。行かせてください!」
拳を握りしめたガイアに、ケイオスは気楽に笑った。
「そんな肩肘張らなくても。ちょっと悪いことをしてるだけだから」
悪いことって何だろう。ガイアは胸が不穏な音を立てたことに気づきながら、歩き出したケイオスに続いた。
塔のふもとに到着して、ガイアは圧倒される。
お隣の村が全部入ってしまいそうな大きさだった。高さは天まで届くほどで、たびたび神の怒りに触れたというのもうなずける。
「ぼくのようなひよっ子が立ち入ってはいけないんじゃ……ケイオス?」
つい気弱になったガイアは、隣にケイオスがいないことに気づく。
「こっちこっち」
ガイアはまたかっと目を見開く。塔に穴が開いていた。
ケイオスは塔の壁に魔法で穴を空けたらしかった。ガイアはびっくりして駆け寄る。
「と、扉から入らないんですか?」
「扉はないよ。入口なんて作ったら、天使が入って来て怒られちゃう」
「怒られるようなことしなきゃいいじゃないですか」
「でも楽しいことだからなぁ」
ケイオスは上機嫌だった。虫も殺せないような顔をしているが、彼は大悪魔だという。ガイアは今さらながら思い出す。
「それより、ほら。見てごらんよ」
言われるままに塔の中をのぞきこんで、ガイアは言葉をなくした。
そこは極彩色の楽園だった。天高く噴き出す青い水を浴びてグラスを片手に談笑する女性たち、金の賭博台を囲んでチップを積む男性たち、それに輝く銀のフロアで真っ赤なドレスを翻して踊る男女がいる。
「あわわ……」
塔の中に立ち込めるさざ波のような笑い声に、ガイアは真っ赤になった。ぎゅっとケイオスの服の裾を握りしめる。
勉強しようと思って来たものの、ガイアはむせかえるような大人の空気にあてられて、顔も上げられない。
そんなガイアの顔をケイオスがのぞきこむ。
「大丈夫。天使に比べるとだいぶ違うかもしれないけど、みんな休暇を楽しんでるだけだから。怖いことはしてこないよ」
長すぎる前髪の下から、優しい眼差しでガイアをみつめてくる。
「話をしてみればわかる。一緒に行こう」
ガイアの手を取って、ケイオスは歩き出す。
「やあ。最近どう?」
ケイオスが足を止めて声をかけたのは、プールサイドでワインを飲む女性だった。
豊かな胸と腰元をわずかな黒い布で隠しただけの彼女は、妖艶にほほえんで返す。
「あら、見かけない顔ね。そちらはお子さん?」
「そんな感じ。初めてバベルに連れて来たんだ」
「まあかわいい。緊張しちゃって」
くすくすと笑って、女性は口元を押さえる。
「あ、あの!」
ガイアは裏返った声を上げた。
「天使と悪魔の停戦協定発効後、七年が経ったことをどう思われますか!」
女性は目を丸くして、ケイオスを見やる。ケイオスは屈託のない笑顔を浮かべた。
「いい子だろう? 休みの間も勉強熱心なんだ」
「はぁ、そうなの……」
納得したわけではなさそうな顔で、女性は頬杖をつく。
「どう思うって。今でも天使のことは大嫌いだし、講和はポーズだけってこともわかってるからね」
「ええっ!」
身を乗り出したガイアに、女性は口をとがらせる。
「だって天使って口うるさいじゃない。あれもだめ、これもだめ。私たちはただ楽しく生きたいだけよ。自由は秩序より尊いの」
ガイアは目を白黒させる。ガイアが天界で習ったのは、「秩序は自由より尊い」だ。
ガイアはうなって、そっと問いかける。
「でもそれなら、どうして停戦が今も続いてるんでしょうね?」
ガイアの素朴な問いに、女性は秘めやかに笑い返した。
「……それは、愛のせい」
「愛?」
「悪魔は愛に弱いの。そうじゃない? 大悪魔ケイオス閣下のそっくりさん?」
彼女は悪戯っぽいまなざしをケイオスに送る。
ケイオスはくすっと笑い返す。そのまま何も言うことなく、ケイオスはガイアの手を引いてその場を離れた。
「天使は大嫌い。でも停戦する。それは愛のため……?」
ぶつぶつとつぶやきながらメモを取って、ガイアはケイオスを見上げる。
「難しいです、ケイオス。ぼくがおばかなんでしょうか」
「あはは」
ケイオスは笑って、ガイアの頭を叩く。
「ガイアが馬鹿なわけないじゃないか。馬鹿なのは俺の方」
「どういうことですか?」
「全部愛のせいってこと」
ガイアは首を傾げたが、ケイオスはほほえむだけだった。
悪魔たちに声をかけながら、ガイアとケイオスは空飛ぶ輝石に乗って塔の中を行き来する。ガイアははじめこそおろおろしていたが、少しずつ目を輝かせ始めた。
悪魔たちは浴びるように酒を飲んだり賭け事をしたりはしているものの、ケイオスの言う通り、思い思いに休暇を楽しんでいる。それは見ているガイアも浮き立つ気持ちにさせてくれた。
「今日って何かいいことでもあるんでしょうか?」
ガイアが弾んだ声で言うと、ケイオスも首を傾げる。
「なんだったかなぁ。何かあったような気がするんだけど……」
ケイオスは小部屋の扉を開けて、立ち入ろうとして足を止めた。
「……思い出した」
ケイオスはぱたんと扉を閉める。ケイオスはガイアの手を引いて後退して、何事もなかったように通り過ぎようとした。
ガイアは不思議そうにケイオスを見上げる。
「入らないんですか、ケイオス?」
「見ちゃだめ。子孫繁栄のお祭りの最中だから」
「子孫繁栄?」
ガイアは澄んだ目をまたたかせる。
「あ、そういえば。悪魔さんたちが一番好きな行いは子孫を残すことでしたね」
「う……うん」
「ケイオスも行って来たらどうですか?」
「ガイア!」
ケイオスはぎょっとした顔をしてガイアを見下ろす。
「そうです! 森の中で一人暮らしなんて寂しいじゃないですか。いっぱい子どもを作って一緒に暮らしたらきっと毎日楽しいですよ!」
ガイアは嬉々として顔を輝かせる。
ケイオスが子煩悩なことはガイアが一番よくわかっている。だからケイオスは子どもに囲まれて暮らしたら楽しいに違いない。
「あ、あのね、ガイア?」
そういう純粋な思いからの言葉だったが、ケイオスは気まずそうだった。
「子作りには相手が要るだろう? 体力も必要で、大変なことでね」
「大丈夫ですよ。ケイオスは優しいし、昔はえらい悪魔だったみたいだし、一緒に子孫を残してくれる方がたくさんいますよ!」
「いや、俺はここに来てる子たちより二桁くらい年上のおじいちゃんだから……」
「じゃあぼくが相手になりますよ」
ケイオスは絶句して、カチンと凍りついた。
青くなって、赤くなって、首を横に振る。
「待って、待って。ガイアにはこれからきっといい相手がいくらでも」
「ところで産むのはケイオスですか?」
「……は?」
目が点になったケイオスの前で、ガイアはうなる。
「ケイオスの能力を継承させるなら、ケイオスの分身を作らないと。……あれ、そもそも分身を作るのに相手なんて要りましたっけ?」
考え込んでしまったガイアに、ケイオスはほほえんだ。
「そうだった。天使は一人で分身を作ることが子作りだね」
「ええ、もちろんです。どうしてそんなほのぼのした目で見るんです?」
「うちの天使はかわいいなぁと思って」
かわいくないです!とガイアはむくれる。
かわいいと、ケイオスは笑み崩れた。ガイアがぽこぽことその胸を叩いても、やっぱりかわいいと繰り返す。
「ごめんごめん。クリームチーズのケーキを買ってあげるから」
「もう! ぼくはもう仕事もしてる大人なんですよ! そういつまでも……」
言いかけて、ガイアはさっと体を引きつらせた。
大気に満ちる魔力の流れが変わったのを感じた。
「……これは」
強烈な光と共に、胃がねじれるような猛獣の声が塔に響き渡る。
「ベヒーモス!」
ガイアは白い翼を出して飛び立った。
「待って!」
ケイオスが止めるのも聞かず、ガイアは猛獣の声の方に向かって全力で飛ぶ。
魔法生物ベヒーモスは天使や悪魔の従者として作られる生き物だが、一旦その支配から脱すると制御不能の破壊獣になる。
ガイアの両親の命を奪ったのも、戦で制御不能になったベヒーモスだった。
一番下のフロアに、それはいた。血のような赤いたてがみを振り乱し、銀の牙をむきだしにして走る。要塞のような巨体で、逃げ惑う悪魔たちを追う。
ガイアはフロアに降り立って叫んだ。
「皆さん、下がって! 無力化します!」
両手を前に伸ばして組むと、ガイアは大急ぎで魔法の術式を作る。ガイアの立っている場所から円形に魔法陣が広がって、白い光があふれ始めた。
ベヒーモスが異変に気づいてガイアを振り向く。そして猛然と向かってきた。
つ、とガイアのこめかみを冷たい汗が流れる。
怖い。でも自分と同じ悲しみを誰にも抱かせたくない。
だから自分は仲立官となって、誰かを守ると決めたのだから。
ベヒーモスの牙がガイアに届く、その寸前だった。
「なぜ天使がこんなところにいる?」
ベヒーモスの赤いたてがみは長い赤髪に、牙は長剣に変わる。ガイアをフロアに押し倒して低く問いかけたのは、半月刀のような目の青年だった。
「俺たち悪魔は天使が嫌いなことくらい知ってるだろう」
ガイアを射抜くその目に映る不信感に、ガイアの体が自然と竦む。
震えながら、ガイアはぽつりと答えた。
「……知りませんでした」
「なんだと?」
「まだまだ知っていこうと思います」
ガイアは喉元に刃を突きつけられたまま青年の後ろを見て言う。
「大好きな悪魔さんと一緒にいたいから」
ちょうどそこにケイオスが着地したところだった。
青年は半月刀の目を細めて、ガイアを見下ろす。
「生意気な坊主……うわ!」
言葉が終わるか終わらないかの内に、青年はケイオスが放った魔力の波動で吹き飛ばされた。
「よくもガイアを……」
天使の象徴が白い翼なら、悪魔の象徴は黒い翼だ。ケイオスは大気を黒く濁らす魔力を放ちながら、空を覆うほどの黒い翼を広げる。
ケイオスの長い前髪が揺れて、その下から真っ赤な双眸が現れる。そして轟くような怒声を響かせた。
「こんな可愛い娘をつかまえて、坊主はないだろう!」
しんと場が静まり返った。
微妙な間に耐えられなくて、ガイアは慌てて体を起こす。
ガイアは真っ赤になりながら言う。
「ケイオス! 怒るところはそこなんですか!」
「それ以上に大事なことなんてない!」
今にも天地をひっくり返しそうな波動を放ちながら、ケイオスは顔を歪める。
「ひどい! ガイアはちょっと中性的なだけなのに。最近の若い者はレディの扱いを知らない。ここはひとつ」
「いいです! もうそれはいいですから!」
ガイアは無理やり会話を打ち切って、立ち上がった青年を見上げる。
「ベヒーモスはあなたが変化していたんですね? 人騒がせなことをしないでください。責められるべきはそこですよ」
「何がだ? 生誕祭では典型的な出し物だろう?」
青年は不思議そうな顔をして言う。
「魔王サルドニクス陛下の生誕祭といえば、彼の君のお姿の一つであるベヒーモスに変化して馬鹿騒ぎ。ほら、皆やっている」
「……あ」
言われてみれば、塔の中はベヒーモスの唸り声でいっぱいだった。至るところで、ぎゃあぎゃあ笑いながら悪魔たちが逃げ回っている。
ケイオスが慌てなかったのも、ただの遊びだとわかっていたからなのだろう。ガイアはため息をついて、額に指を当てた。
「やっぱり悪魔さんとの相互理解は遠い道のりですね……」
ガイアは徒労感にがっくりと肩を落としたが、それ以上に安心で力が抜ける。
その横で、青年はケイオスに向かって綺麗に一礼した。
「それより、お久しぶりですね。兄上」
ケイオスは急にそっけなく答えた。
「人違いだよ」
「そうでした。猛将ケイオスは地位も戦争もかなぐり捨てて子育てに専念すると言ったそうですから」
「傍迷惑な男だと言われているのは知っているよ」
「いえいえ」
彼は顔を上げて、にやっと笑った。
「愛には寛容であれ。サルドニクス陛下の御言葉です。……さて」
青年悪魔は床を杖でとんと叩いて、そこに巨大な魔法陣を描いた。陣から伸びた光がケイオスを取り巻く。
ケイオスの黒髪は撫でつけられて、涼やかな双眸が露わになる。地味な麻の上下は黒い絹の長衣とマントに変わって、長身痩躯を飾った。
「祭典を楽しんでください。そっくりさん」
青年は踵を返してガイアの頭にキスを落とす。
「小さなレディも」
光がこぼれたかと思うと、ガイアはレースがふんだんに使われた白いドレス姿に変わった。
ケイオスはガイアの髪をほどいて手で梳くと、自分の胸ポケットに挿してあった白薔薇を挿した。
銀のフロアは、いつの間にかきらびやかなドレス姿の男女たちであふれていた。
ケイオスは一礼して、ガイアに手を差し伸べる。ダンスの誘いだ。
ガイアは貴公子然としたケイオスに戸惑って、自分の格好にも落ち着かない。
けれどケイオスがいつものように優しくほほえんだから。ガイアは一つうなずいて、その手に自分の手を重ねた。
真夜中、天界へ続く虹の橋の前でガイアとケイオスは立ち止まった。
「今年は帰ってくるのを迷いました」
ガイアはぽつりとつぶやく。
「仕事がうまくいかなくて、コスモス様に帰されてしまったくらいです。ぼく、悪魔さんたちのことがちっともわかってなくて」
ケイオスは心配そうにガイアを見下ろす。ガイアは決然と顔を上げた。
「でも! まだまだがんばります。ケイオスががんばってくれたおかげで、今のぼくがあるんだから」
ぽろりとケイオスの目から涙があふれた。
「……うん、うん」
ケイオスは子どものように繰り返しうなずきながら、ガイアをきつく抱きしめる。
ガイアが悪魔の子としてコスモスに初めて天界に招かれたときも、ケイオスはここまで来た。泣きながら、ガイアをよこすくらいなら殺されてもいいから自分が行くと言った。
悪魔の猛将ケイオスは、親友にその娘を託されて別人になったという。
天使と悪魔の間に生まれたその子が平穏に生きられる世にするために、死にものぐるいで両者の停戦までこぎつけた。そしてそれが果たされた途端、二度と戻らないと言い捨てて地界に隠れ住んだ。
涙を拭って、ケイオスはガイアの頬を両手でくるんで言った。
「愛しているよ、ガイア。おまえを取り巻く世界が優しいものであるよう、いつも見守っている」
ガイアは力いっぱいケイオスを抱きしめ返して、虹の橋を渡り始める。
途中で振り向いて、ガイアは大きく手を振る。
「ケイオス! ぼく、弟がほしいです! 来年までに考えておいてください!」
ケイオスは一度噴き出すように咳をした。
それから困ったように手を振って、笑った。
常春の水晶宮の中では、勤勉な天使たちが元気よく行き来する。
「まずお互い、頭を冷やしましょう」
その一室にて、大理石の机につっぷしたままある天使が力説をふるっていた。
「いいとか悪いとかの問題じゃないんです。かの大天使様、コスモス様も仰っていました。共に暮らしていくには寛容が何より大切だと。寛容というのは許し合う心、すなわち」
周囲には羊皮紙の束が山と積まれて、手には羽ペンを握ったまま眠っていた。
「ううう。うまく言えませんが、悪魔さんもちょっと歩み寄ってみませんか?」
ふいにぺちっとその額が弾かれた。
「きゃ!」
その天使は額を押さえて顔を上げる。
「おはよう、ガイア」
ガイアと呼ばれた天使は、まだ十歳くらいの子どもだった。くっきりとした眉、生まれたての赤ん坊のように澄んだ瞳をしている。
ガイアの机の前に、優雅な青年天使が腰に手を当てて立っていた。
「眠りながらも説得をするあなたは仲立官《ちゅうりつかん》の鑑ですね」
青年天使は、黄金の稲穂を思わせる豊かな巻き毛を垂らし、瞳は深い湖面のようで、天使とはかくあらんという形を姿にしたようだった。
「まあそのような仲立ちで心を入れ替える悪魔などいないと思いますけど」
ただし手厳しいガイアの上司、彼の名をコスモスという。
「あなたも仲立官になって一年。そろそろ一つくらい天使と悪魔の喧嘩をおさめてみてほしいのですが」
大天使コスモスはのんびりと羊皮紙の束の間を歩く。
「とはいっても、この間まで戦争していたような間柄ですからねぇ……」
肩をすくめて、コスモスはふいに部屋を歩む足を止めた。
「時に、ガイア。今日が何の日か知っていますか?」
「もちろんです!」
ガイアは元気よく返事をして言う。
「聖大天使ミシェーラ様の生誕祭です。天使たちがミシェーラ様のお祝いのために天界に帰ってくる日ですね!」
「つまり天使の里がえり。ですから」
コスモスは振り向いて、ぽんとガイアの肩を叩いた。
「あなたも実家に里がえりしなさい。どうせあなたは仲立ちの一つもできないでしょう」
コスモスの手が光る。転移の魔法が始まったのを見て、ガイアは慌てる。
「そんな! 待ってください、コスモス様! 必ず今度こそは……!」
「問答無用。よい里がえりを」
にっこりとコスモスが笑ったのを見たのが最後。
ガイアの魂は光になって、窓の外へと勢いよく飛ばされていった。
ガイアが目覚めたら、そこはこじんまりした部屋だった。
木造りの天井と壁、それに刺繍のされたカーテンと動物たちの置物が花を添える。
「帰ってきてしまいました……」
おひさまの匂いのするベッドから起き上がって、ガイアははっと気づく。
焦げ臭い匂いが鼻をかすめる。ガイアは慌ててベッドから抜け出すと、階段を駆け下りる。
「ケイオス!」
階下で鍋を混ぜていた人影が、ガイアの声に振り向く。
背が高くて、長すぎる前髪でよく顔の見えない青年だった。けれどその前髪の下で、子犬のような瞳がぱぁっと輝く。
「ガイア。お腹はすいてる?」
「火を止めてください! 焦げてます!」
「うん?」
青年はきょとんとして鍋を火から下ろすと、素手で火をひとなでする。
火は跡形もなく消えて、焦げた鍋だけが残された。
ガイアは腰に手を当てて言う。
「もう! いくら魔法で直せると言っても、鍋を焦がすのは何度目ですか?」
「ケーキを作ってみようと思ったんだ。せっかくガイアが帰ってきたんだし」
「鍋でケーキは焼けません!」
ガイアがふくれつらで怒ると、ケイオスは近づいてきてその顔をのぞきこむ。
ふにふにとガイアの頬をつついて、ケイオスは頬を赤らめた。
「かわいい。なんてかわいいんだろう、うちの子は」
「かわいくないです! もう、鍋のことはいいですから。朝ごはんにしますよ!」
ガイアはケイオスをテーブルの方に押しやって、自分で朝食を作り始めた。
豆のスープとヤギの乳、それとパンを切り分けて、ケイオスの向かいの席に座る。
ガイアは胸からペンダントを外す。ロケットを開くと、ガイアに似た面差しの黒髪の女性が描かれた、小さなポートレートが現れた。
ガイアはペンダントをテーブルに置いて、その前にパンを半分割って差し出す。
「ただいま、お母さん」
目を閉じて祈りを捧げる。ガイアが目を開くと、ケイオスもまた祈りを終えたところだった。
「おかえり」
ケイオスは懐かしむようにポートレートに目を細めてから、ガイアを見て笑った。
人間たちが住む地界の森の中、人里離れた山小屋にケイオスは一人で暮らしている。
ガイアが三歳で天界の学園に入るまで暮らした実家だ。その頃はまだ天使と悪魔の停戦協定が結ばれたばかりで、両者の間に生まれたガイアは難しい立場だった。
「ふふ」
「何ですか、ケイオス」
「だって嬉しいんだ。ガイアの顔を見るのは一年ぶりだもの」
ケイオスは頬杖をついて笑み崩れる。
ケイオスは生まれてまもなく両親をなくしたガイアを引き取って、この家で育ててくれた。かわいくて仕方がない、そういう暑苦しいほどの愛情にくるんで。
ガイアは照れくさくなって部屋を見渡す。染みのついた壁も、焦げついた鍋も何も変わらない。
ガイアが昔描いたケイオスの似顔絵がそのまま飾ってあって、ガイアは照れ隠しに早口で言う。
「ぼくがいなくて、ちゃんと生活できてるんですか? 散らかり放題じゃないですか。あの窓、いつ拭きました? 風も通してます?」
「大丈夫。俺はこの方が落ち着くんだよ」
文句をつけながら、ガイアもわかっている。ガイアの部屋だけは塵一つ落ちていなくて、布団も干してあった。ケイオスは自分のことは全然構う気がないのに、ガイアの部屋だけはいつ里帰りしてもきちんと整えてくれている。
「ん?」
ところで、ケイオスは生粋の悪魔だ。
にこにことガイアをみつめる子犬の瞳からは信じられないが、長らく神に反旗を翻していた魔王サルドニクスの長子で、「猛将」と恐れられた大悪魔らしい。
「……本当かなぁ」
「何が?」
ただガイアは一度もそんなケイオスを見たことがないので、何かのまちがいのような気がしている。
「何でもないです。食べ終わったら掃除です。片っ端からやりますよ」
「はいはい」
放っておいたらいつまでもガイアをみつめていそうなケイオスをせっついて、ガイアは朝食に目を戻した。
掃除を終えた頃には、昼近くになっていた。
天気は快晴だった。家を囲む森は風の音も優しく、時折野うさぎがひょっこり顔を覗かせる。
「平和だなぁ……」
天界は至高神がおわすところ、きらびやかで気品に満ちている。でも地界生まれのガイアはここに来ると、帰ってきたという気になる。
「ガイアー。洗濯物干し終わったよー」
「ありがとうございます。こっちももう終わりです」
ケイオスがやって来て、困った顔をする。
「おつかれさま。ごめんね、帰ってきてまで掃除をさせてしまって」
「いいんです」
ガイアは晴れやかに笑って天を仰ぐ。
「この季節はお天気もいいですし。朝ごはんを食べて、掃除をして、それでいつもみたいに外でのんびりお茶を……」
言いかけて、ガイアはかっと目を見開く。
「……何だあれ!」
いつもの光景とはまるで違う風景がそこに広がっていた。
紫色に発光しながら、渦巻くように塔が伸びている。のどかな森の中に忽然と立つそれは、違和感この上ない。
ケイオスはああと天気の話をするように言った。
「バベルだね。悪魔たちが集まってるんだ」
「悪徳の塔バベル! なんでそんなものがここに?」
「さあ。気分かな?」
能天気なケイオスに、ガイアは返す言葉もない。
悪魔たちの溜り場バベル。地界にある日突然作られるものではあるが、いきなり目の前に現れたのは初めてだ。
「行ってみようよ」
「ええっ!」
「ガイアは天使と悪魔の喧嘩を収める仕事をしてるんだろう? 天使のことはよく知ってるだろうけど、悪魔のことも知っておくといいよ」
「それはまあ、そうなんですが」
まだ一件も喧嘩を解決できていません。その言葉をごくりと飲みこむ。
「行きます。行かせてください!」
拳を握りしめたガイアに、ケイオスは気楽に笑った。
「そんな肩肘張らなくても。ちょっと悪いことをしてるだけだから」
悪いことって何だろう。ガイアは胸が不穏な音を立てたことに気づきながら、歩き出したケイオスに続いた。
塔のふもとに到着して、ガイアは圧倒される。
お隣の村が全部入ってしまいそうな大きさだった。高さは天まで届くほどで、たびたび神の怒りに触れたというのもうなずける。
「ぼくのようなひよっ子が立ち入ってはいけないんじゃ……ケイオス?」
つい気弱になったガイアは、隣にケイオスがいないことに気づく。
「こっちこっち」
ガイアはまたかっと目を見開く。塔に穴が開いていた。
ケイオスは塔の壁に魔法で穴を空けたらしかった。ガイアはびっくりして駆け寄る。
「と、扉から入らないんですか?」
「扉はないよ。入口なんて作ったら、天使が入って来て怒られちゃう」
「怒られるようなことしなきゃいいじゃないですか」
「でも楽しいことだからなぁ」
ケイオスは上機嫌だった。虫も殺せないような顔をしているが、彼は大悪魔だという。ガイアは今さらながら思い出す。
「それより、ほら。見てごらんよ」
言われるままに塔の中をのぞきこんで、ガイアは言葉をなくした。
そこは極彩色の楽園だった。天高く噴き出す青い水を浴びてグラスを片手に談笑する女性たち、金の賭博台を囲んでチップを積む男性たち、それに輝く銀のフロアで真っ赤なドレスを翻して踊る男女がいる。
「あわわ……」
塔の中に立ち込めるさざ波のような笑い声に、ガイアは真っ赤になった。ぎゅっとケイオスの服の裾を握りしめる。
勉強しようと思って来たものの、ガイアはむせかえるような大人の空気にあてられて、顔も上げられない。
そんなガイアの顔をケイオスがのぞきこむ。
「大丈夫。天使に比べるとだいぶ違うかもしれないけど、みんな休暇を楽しんでるだけだから。怖いことはしてこないよ」
長すぎる前髪の下から、優しい眼差しでガイアをみつめてくる。
「話をしてみればわかる。一緒に行こう」
ガイアの手を取って、ケイオスは歩き出す。
「やあ。最近どう?」
ケイオスが足を止めて声をかけたのは、プールサイドでワインを飲む女性だった。
豊かな胸と腰元をわずかな黒い布で隠しただけの彼女は、妖艶にほほえんで返す。
「あら、見かけない顔ね。そちらはお子さん?」
「そんな感じ。初めてバベルに連れて来たんだ」
「まあかわいい。緊張しちゃって」
くすくすと笑って、女性は口元を押さえる。
「あ、あの!」
ガイアは裏返った声を上げた。
「天使と悪魔の停戦協定発効後、七年が経ったことをどう思われますか!」
女性は目を丸くして、ケイオスを見やる。ケイオスは屈託のない笑顔を浮かべた。
「いい子だろう? 休みの間も勉強熱心なんだ」
「はぁ、そうなの……」
納得したわけではなさそうな顔で、女性は頬杖をつく。
「どう思うって。今でも天使のことは大嫌いだし、講和はポーズだけってこともわかってるからね」
「ええっ!」
身を乗り出したガイアに、女性は口をとがらせる。
「だって天使って口うるさいじゃない。あれもだめ、これもだめ。私たちはただ楽しく生きたいだけよ。自由は秩序より尊いの」
ガイアは目を白黒させる。ガイアが天界で習ったのは、「秩序は自由より尊い」だ。
ガイアはうなって、そっと問いかける。
「でもそれなら、どうして停戦が今も続いてるんでしょうね?」
ガイアの素朴な問いに、女性は秘めやかに笑い返した。
「……それは、愛のせい」
「愛?」
「悪魔は愛に弱いの。そうじゃない? 大悪魔ケイオス閣下のそっくりさん?」
彼女は悪戯っぽいまなざしをケイオスに送る。
ケイオスはくすっと笑い返す。そのまま何も言うことなく、ケイオスはガイアの手を引いてその場を離れた。
「天使は大嫌い。でも停戦する。それは愛のため……?」
ぶつぶつとつぶやきながらメモを取って、ガイアはケイオスを見上げる。
「難しいです、ケイオス。ぼくがおばかなんでしょうか」
「あはは」
ケイオスは笑って、ガイアの頭を叩く。
「ガイアが馬鹿なわけないじゃないか。馬鹿なのは俺の方」
「どういうことですか?」
「全部愛のせいってこと」
ガイアは首を傾げたが、ケイオスはほほえむだけだった。
悪魔たちに声をかけながら、ガイアとケイオスは空飛ぶ輝石に乗って塔の中を行き来する。ガイアははじめこそおろおろしていたが、少しずつ目を輝かせ始めた。
悪魔たちは浴びるように酒を飲んだり賭け事をしたりはしているものの、ケイオスの言う通り、思い思いに休暇を楽しんでいる。それは見ているガイアも浮き立つ気持ちにさせてくれた。
「今日って何かいいことでもあるんでしょうか?」
ガイアが弾んだ声で言うと、ケイオスも首を傾げる。
「なんだったかなぁ。何かあったような気がするんだけど……」
ケイオスは小部屋の扉を開けて、立ち入ろうとして足を止めた。
「……思い出した」
ケイオスはぱたんと扉を閉める。ケイオスはガイアの手を引いて後退して、何事もなかったように通り過ぎようとした。
ガイアは不思議そうにケイオスを見上げる。
「入らないんですか、ケイオス?」
「見ちゃだめ。子孫繁栄のお祭りの最中だから」
「子孫繁栄?」
ガイアは澄んだ目をまたたかせる。
「あ、そういえば。悪魔さんたちが一番好きな行いは子孫を残すことでしたね」
「う……うん」
「ケイオスも行って来たらどうですか?」
「ガイア!」
ケイオスはぎょっとした顔をしてガイアを見下ろす。
「そうです! 森の中で一人暮らしなんて寂しいじゃないですか。いっぱい子どもを作って一緒に暮らしたらきっと毎日楽しいですよ!」
ガイアは嬉々として顔を輝かせる。
ケイオスが子煩悩なことはガイアが一番よくわかっている。だからケイオスは子どもに囲まれて暮らしたら楽しいに違いない。
「あ、あのね、ガイア?」
そういう純粋な思いからの言葉だったが、ケイオスは気まずそうだった。
「子作りには相手が要るだろう? 体力も必要で、大変なことでね」
「大丈夫ですよ。ケイオスは優しいし、昔はえらい悪魔だったみたいだし、一緒に子孫を残してくれる方がたくさんいますよ!」
「いや、俺はここに来てる子たちより二桁くらい年上のおじいちゃんだから……」
「じゃあぼくが相手になりますよ」
ケイオスは絶句して、カチンと凍りついた。
青くなって、赤くなって、首を横に振る。
「待って、待って。ガイアにはこれからきっといい相手がいくらでも」
「ところで産むのはケイオスですか?」
「……は?」
目が点になったケイオスの前で、ガイアはうなる。
「ケイオスの能力を継承させるなら、ケイオスの分身を作らないと。……あれ、そもそも分身を作るのに相手なんて要りましたっけ?」
考え込んでしまったガイアに、ケイオスはほほえんだ。
「そうだった。天使は一人で分身を作ることが子作りだね」
「ええ、もちろんです。どうしてそんなほのぼのした目で見るんです?」
「うちの天使はかわいいなぁと思って」
かわいくないです!とガイアはむくれる。
かわいいと、ケイオスは笑み崩れた。ガイアがぽこぽことその胸を叩いても、やっぱりかわいいと繰り返す。
「ごめんごめん。クリームチーズのケーキを買ってあげるから」
「もう! ぼくはもう仕事もしてる大人なんですよ! そういつまでも……」
言いかけて、ガイアはさっと体を引きつらせた。
大気に満ちる魔力の流れが変わったのを感じた。
「……これは」
強烈な光と共に、胃がねじれるような猛獣の声が塔に響き渡る。
「ベヒーモス!」
ガイアは白い翼を出して飛び立った。
「待って!」
ケイオスが止めるのも聞かず、ガイアは猛獣の声の方に向かって全力で飛ぶ。
魔法生物ベヒーモスは天使や悪魔の従者として作られる生き物だが、一旦その支配から脱すると制御不能の破壊獣になる。
ガイアの両親の命を奪ったのも、戦で制御不能になったベヒーモスだった。
一番下のフロアに、それはいた。血のような赤いたてがみを振り乱し、銀の牙をむきだしにして走る。要塞のような巨体で、逃げ惑う悪魔たちを追う。
ガイアはフロアに降り立って叫んだ。
「皆さん、下がって! 無力化します!」
両手を前に伸ばして組むと、ガイアは大急ぎで魔法の術式を作る。ガイアの立っている場所から円形に魔法陣が広がって、白い光があふれ始めた。
ベヒーモスが異変に気づいてガイアを振り向く。そして猛然と向かってきた。
つ、とガイアのこめかみを冷たい汗が流れる。
怖い。でも自分と同じ悲しみを誰にも抱かせたくない。
だから自分は仲立官となって、誰かを守ると決めたのだから。
ベヒーモスの牙がガイアに届く、その寸前だった。
「なぜ天使がこんなところにいる?」
ベヒーモスの赤いたてがみは長い赤髪に、牙は長剣に変わる。ガイアをフロアに押し倒して低く問いかけたのは、半月刀のような目の青年だった。
「俺たち悪魔は天使が嫌いなことくらい知ってるだろう」
ガイアを射抜くその目に映る不信感に、ガイアの体が自然と竦む。
震えながら、ガイアはぽつりと答えた。
「……知りませんでした」
「なんだと?」
「まだまだ知っていこうと思います」
ガイアは喉元に刃を突きつけられたまま青年の後ろを見て言う。
「大好きな悪魔さんと一緒にいたいから」
ちょうどそこにケイオスが着地したところだった。
青年は半月刀の目を細めて、ガイアを見下ろす。
「生意気な坊主……うわ!」
言葉が終わるか終わらないかの内に、青年はケイオスが放った魔力の波動で吹き飛ばされた。
「よくもガイアを……」
天使の象徴が白い翼なら、悪魔の象徴は黒い翼だ。ケイオスは大気を黒く濁らす魔力を放ちながら、空を覆うほどの黒い翼を広げる。
ケイオスの長い前髪が揺れて、その下から真っ赤な双眸が現れる。そして轟くような怒声を響かせた。
「こんな可愛い娘をつかまえて、坊主はないだろう!」
しんと場が静まり返った。
微妙な間に耐えられなくて、ガイアは慌てて体を起こす。
ガイアは真っ赤になりながら言う。
「ケイオス! 怒るところはそこなんですか!」
「それ以上に大事なことなんてない!」
今にも天地をひっくり返しそうな波動を放ちながら、ケイオスは顔を歪める。
「ひどい! ガイアはちょっと中性的なだけなのに。最近の若い者はレディの扱いを知らない。ここはひとつ」
「いいです! もうそれはいいですから!」
ガイアは無理やり会話を打ち切って、立ち上がった青年を見上げる。
「ベヒーモスはあなたが変化していたんですね? 人騒がせなことをしないでください。責められるべきはそこですよ」
「何がだ? 生誕祭では典型的な出し物だろう?」
青年は不思議そうな顔をして言う。
「魔王サルドニクス陛下の生誕祭といえば、彼の君のお姿の一つであるベヒーモスに変化して馬鹿騒ぎ。ほら、皆やっている」
「……あ」
言われてみれば、塔の中はベヒーモスの唸り声でいっぱいだった。至るところで、ぎゃあぎゃあ笑いながら悪魔たちが逃げ回っている。
ケイオスが慌てなかったのも、ただの遊びだとわかっていたからなのだろう。ガイアはため息をついて、額に指を当てた。
「やっぱり悪魔さんとの相互理解は遠い道のりですね……」
ガイアは徒労感にがっくりと肩を落としたが、それ以上に安心で力が抜ける。
その横で、青年はケイオスに向かって綺麗に一礼した。
「それより、お久しぶりですね。兄上」
ケイオスは急にそっけなく答えた。
「人違いだよ」
「そうでした。猛将ケイオスは地位も戦争もかなぐり捨てて子育てに専念すると言ったそうですから」
「傍迷惑な男だと言われているのは知っているよ」
「いえいえ」
彼は顔を上げて、にやっと笑った。
「愛には寛容であれ。サルドニクス陛下の御言葉です。……さて」
青年悪魔は床を杖でとんと叩いて、そこに巨大な魔法陣を描いた。陣から伸びた光がケイオスを取り巻く。
ケイオスの黒髪は撫でつけられて、涼やかな双眸が露わになる。地味な麻の上下は黒い絹の長衣とマントに変わって、長身痩躯を飾った。
「祭典を楽しんでください。そっくりさん」
青年は踵を返してガイアの頭にキスを落とす。
「小さなレディも」
光がこぼれたかと思うと、ガイアはレースがふんだんに使われた白いドレス姿に変わった。
ケイオスはガイアの髪をほどいて手で梳くと、自分の胸ポケットに挿してあった白薔薇を挿した。
銀のフロアは、いつの間にかきらびやかなドレス姿の男女たちであふれていた。
ケイオスは一礼して、ガイアに手を差し伸べる。ダンスの誘いだ。
ガイアは貴公子然としたケイオスに戸惑って、自分の格好にも落ち着かない。
けれどケイオスがいつものように優しくほほえんだから。ガイアは一つうなずいて、その手に自分の手を重ねた。
真夜中、天界へ続く虹の橋の前でガイアとケイオスは立ち止まった。
「今年は帰ってくるのを迷いました」
ガイアはぽつりとつぶやく。
「仕事がうまくいかなくて、コスモス様に帰されてしまったくらいです。ぼく、悪魔さんたちのことがちっともわかってなくて」
ケイオスは心配そうにガイアを見下ろす。ガイアは決然と顔を上げた。
「でも! まだまだがんばります。ケイオスががんばってくれたおかげで、今のぼくがあるんだから」
ぽろりとケイオスの目から涙があふれた。
「……うん、うん」
ケイオスは子どものように繰り返しうなずきながら、ガイアをきつく抱きしめる。
ガイアが悪魔の子としてコスモスに初めて天界に招かれたときも、ケイオスはここまで来た。泣きながら、ガイアをよこすくらいなら殺されてもいいから自分が行くと言った。
悪魔の猛将ケイオスは、親友にその娘を託されて別人になったという。
天使と悪魔の間に生まれたその子が平穏に生きられる世にするために、死にものぐるいで両者の停戦までこぎつけた。そしてそれが果たされた途端、二度と戻らないと言い捨てて地界に隠れ住んだ。
涙を拭って、ケイオスはガイアの頬を両手でくるんで言った。
「愛しているよ、ガイア。おまえを取り巻く世界が優しいものであるよう、いつも見守っている」
ガイアは力いっぱいケイオスを抱きしめ返して、虹の橋を渡り始める。
途中で振り向いて、ガイアは大きく手を振る。
「ケイオス! ぼく、弟がほしいです! 来年までに考えておいてください!」
ケイオスは一度噴き出すように咳をした。
それから困ったように手を振って、笑った。