「えっ、でも……」
「だったら、真紅がおいで?」
黎明の吸血鬼は顔を背けたまま、瞳だけで私を見てきた。
「寒いから、ちゃんとあったかくして。俺のこと知りたいんだったら真紅が外に出ておいで。……危ない目には遭わせないから」
鍵を壊した。
自分を閉じ込めていた部屋の、鍵。
私が初めて見た外の世界は夜。銀色の輝きを背負って、優雅に立つ彼の場所。
そこに行きたいと、思った。
そこに、いきたいと。
そこで、生きたいと。
+
「ん。ちゃんと厚着してきたな」
彼は階段の下で私を待っていた。言われた通りにジャケットを着てマフラーを持ってきた。十月も終わりの今、常用するにはまだ微妙な時期だけど、帰りが遅くなったりするからもう出してあった。
「これ」
白と茶色のチェック模様に、幾筋かのピンク色のマフラー渡すと、黎明の吸血鬼は面食らっていた。
「男の人サイズの服はなくて……ないよりはマシかと」
言い訳をする私を見て、黎明の吸血鬼はまた軽く笑った。おかしそうに。
「ありがと。借りるよ」
受け取り、首に巻きつける。そのまま手を差し出して来た。
「近くに公園あったから、そこに行こうか。道端で話してるのも難だし」
「うん」
嬉しい。
どうしてか、黎明の吸血鬼の一挙手一投足が嬉しい。私は肯いてその手を取った。自分はどんな顔をしているのだろうか。黎明の吸血鬼にはどう見えているのだろうか。
笑っているの、かな?
「さっき起きる前にあったこと、ちゃんと憶えてるか?」
隣を歩く黎明の吸血鬼。背が高いなあ……。私は平均身長だから、その顔を見ようとすれば大分見上げる形になる。
「……私、あなたに助けられた、んだよね……?」
「俺の名前わかるか?」
「……黎。黎明の、れい」
憶えていた。知り合いにはいない名前。眠る前に聞いた名前。この人のものだった。
もう一度呼んだ。「黎?」と。
「あたり。ちゃんとわかってるな」
「黎さん?」
「呼び捨てでいい」
黎明の吸血鬼――黎は続けて説明した。
「俺が知ってることを簡単に言うと、マズい血を食わされて頭に来てたところにうまそうなにおいがして行ってみたら真紅が倒れてた。俺が行ったとき、既に意識は朦朧としてたな。そのときに血をくれって言ったら、約束してくれるならやるって言ったんだよ。で、俺も本当に最初は、血をいただいてそのまま送るつもりだったよ」
「……え?」
「最初は、死にたがってるんだったら死なせてやろうって思った。はっきり言って致死量くらいは流れてたし、俺が何もしなくても時間の問題だったよ」
「………」
「でも、いざ血をもらったら、お前が泣き声あげたんだよ」
「………?」
「指一本動かせなかったお前が、俺にしがみついて、音のない悲鳴あげた。『生きたい』、って」
「……………」
「そしたら何でかなー、死なせたくないって思った」
「………!」
「もしもだけど、俺の隣なら、生きてくれるかなって考えた。……つーか」
「……?」
「この子が生きているのを見たいって思ったんだよ」
「……!」
「あ、理由は訊くなよ? 俺も今んとこわかってないからな」
「あ、あの……ごめん、話が全部わからない……」
「んー、そうだなー。まあ要は」
「!」
黎が私の顎を捉えた。やや上向かされて心臓が跳ねる。
「真紅に生きていてほしい。叶うなら、俺の主となって」
「……えっと」
「言っとくけど、義務とか責任感じるなよ? 俺がお前を助けたのは俺の勝手だし。後悔しちゃいないけど、代わりに俺の言うこと聞こうとかいうのは筋違い。真紅の意思で、俺が近くにいるのを許してくれるんだったら、な」
「私の血でいいの?」
「ん? そこ?」
「いや、さっきマズい血って言ってたから。たぶん私の血はマズいと思うよ? 性格悪いし根性ねじ曲がってるし優しくないし」
「……それがお前の自己評価?」
「うん」
黎は顎から手を離して、私の頭をぽんぽんとした。
「はずれだな、それは。真紅はいいにおいがしてうまいよ」
……血の味の評価なんてされる人生、あるんだろうか。
「……黎がゲテ食いなんじゃなくて?」
「お前……自分のこと何て言い方すんだよ」
さすがに呆れた声を出された。
「つっても、俺は真紅のストーカーじゃねえし、真紅のことは何も知らない」
「知ってたら刑務所」
「俺は有罪確定なのか」
うん、拘置所ではない。
「まー、だから? 真紅のこと教えてくれないか?」
また、背中には銀の月。光を背にしたその姿が、微笑みかけてくる。
「……黎のことも教えてくれるなら」
「お前結構口上手いな」
「どうも」
「小埜黎。十九」
「二十代後半かと思った……」
「それはどういう意味?」
「黎さんが大人びているという意味です。それだけです」
年齢より年上……はっきり言って老けて見られるのは、俺はいつものことだった。けれど真紅に言われると……いじり甲斐がありそうだ。
「二十歳過ぎてたら承諾なしで婚姻届け出せたのになー」
「婚姻⁉ 黎、恋人いるの⁉」
あ、食いついてきた。予想外に反応が大きい。
「ちょ、何夜道ふらふらしてんの! 私彼女さんに申し訳ないことしてるじゃん!」
え。
「ちょっと、まこ
「駄目だよ彼女さんいるのに私にこんなことしたら、私顔向けできな
「落ち着けって真紅。彼女なんていねえし……」
真紅から離されようとした手を、摑み返す。震えていた。細く震えている。
申し訳ない? 顔向けできない? ……真紅に近づいたら、そんな風に思われるのか?
「……俺が真紅に浮気みたいな真似したから、申し訳ないって?」
「………」
真紅は首を横に振った。雫が飛んだ。泣いて……いるのか?
「黎に……彼女いる……いたら………私、……」
「うん。言ってみ?」
「彼女さんに、申し訳ない……」
「どうして?」
「こんな、優しくされたら………だめってわかっても………れいの、こと、………すきになっちゃうじゃん……」
「―――」
「だから、そういう人がいるんだったらもう私のこと……
「それって」
両手で真紅の頬を包む。上向いた真紅と視線が重なる。
「なりかけてくれているってこと?」
「………」
「逸らさないで。真紅。俺には彼女なんていない。それは本当」
「へ? でも、さっき結婚がどうのって……」
「うん、それはちょっと真紅をからかいたいと」
「そ、うなの?」
「うん。ごめん。ちょっと言葉が足りないと言うか……まさかそんな勘違いをされるとは思わなかった」
「……私の想像が過ぎた? 暴走だった?」
「過ぎた。暴走だった」
真紅は目を何度も瞬かせたあと、恥ずかしくなったのか俯いた。
「……黎さん、私はまだ十五なのでその対象に見られているとは思いませんでした」
「真紅、十五なの?」
「はい。高一です」
「彼氏は?」
「いないよ」
「そっか。ならいい」
「……黎?」
気を取り直して、進んでいた方を向く。
「自己紹介の続きだったな。俺は母親がイギリス人。父親が日本人。今は家を出て、昔から世話になってる知り合いのとこにいる。彼女はいないから、誰をすきになっても問題なし」
「イギリス人? ハーフ?」
「そう。寝る前に話したのと足せば、母親がイギリスの血を引いた純血の吸血鬼。父は日本の、こっちも半分くらい人間ではない一族の当主。簡単に言えば鬼と人の血が混じった鬼人って言われる類」
「それで……私の血? でも、助けてくれたんだよね?」
「うん。俺は完全な吸血鬼ではないから、いろいろ小手先が効く。俺の血を真紅に送った」
「黎の血を? え、じゃあ、今私――」
「真紅に流れてるのは、俺の血が混じってる」
「そんなことも出来るんだ。すごいなー」
「……それ以外にツッコむことないのか?」
「あ、っと。鬼の一族って言うのは、やっぱり日本には妖怪変化がいるの?」
……そこ?
「いるよ。人間ではないモノってのは、案外多い。姿かたちがよく似ているから、普通の人間には見分けがつかないんだろうな。鬼は人間より長命だったり、死ににくかったり、あとは個人にもよるけど突出する才の幅が大きい」
「へー」
「疑わないのか?」
「なにを?」
「俺のこととか、話していることとか。普通に聞いたらただのヤバい奴だろ」
「あ、確かに。……でも、助けられた、のは本当だし……」
すっと、真紅の首筋に指先を触れさせた。
「ごめんな」
「へ?」
「牙痕(がこん)。これだけは俺にも消せなくて……女の子なのに、傷つけて悪かった」
最初は、血を頂くつもりで噛み付いた。でも、生かしたいと思って、噛み付いた場所から自分の血を入れた。俺の血が人間に馴染むかは賭けだったけど……真紅は、目を覚ました。
「いや、本当に命を救われたのは私だから。だから……」
「どうした?」
「……ちょっと、頭の中こんがらがってて……考えるから、時間ちょうだい?」
頭の中? 何か不安なこと……真紅を襲ったモノのことだろうか。
「考えなくていい。今思ってることを言ってくれれば」
今、思っていることを。俺も、真紅と話す傍ら考えていた。あれは――
「全然、知らないから、不安」
? 知らない?
「何を?」
「黎のこと。私を助けてくれたとか、人間じゃないとか、わかったけど……全然知らない人を、すきになることって……あるのかな?」
見上げる真紅の瞳の色に、どきりとした。
色がある瞳。放つ光彩が、虹のように綺麗だ。
そして、音にされた言葉。
「……さあな」
誤魔化すしか、なかった。真紅は真っ直ぐに問うてくれたのに。
「そこは答えてくれなくちゃ」
「真紅の気持ちは真紅にしかわからんだろ」
「……そりゃそうだ。それがね、今ぐるぐるまわってて、整理がつかない」
「………」
真紅は、自分を襲って殺しかけたものを、怖いとか、そういう風には思っていないのか?
死にかけたことは理解しているようだ。でも、その犯人のことは、原因のことは、一度も口にしていない。……防衛本能が、口にすることを拒否しているのだろうか。
「……な。真紅は今、俺に反抗出来ないだろ?」
「へ?」
急に変わった話題にか、言葉にか、驚いたように振り仰いできた。俺は瞳を細める。
「俺の血を容れたから、それが完全に《真紅》のものになるまでは真紅に俺は必要なんだ。例えでも俺が死んだりしたら、一緒に俺の血も死ぬ。死なないために、俺がすることに、しようとすることに抵抗しない。例えば――」
真紅の肩を抱き寄せると、勢いのまま俺の肩口に真紅の額がぶつかった。
「いきなりこんなことされても、抵抗しようとか思わないだろ?」
「と言うか……今何が起きている? あれ? 黎どこにいんの? 目の前が真っ暗で……え? 私目ぇ瞑ってる?」
「……さらにお前は鈍くさいようだな」
「どういう意味だおい」
「勝気なとこは好みだ」
「………。私はどうすればいいの」
「嫌なことは嫌って言えばいい」
そっと、肩を押して体を離す。急に瞳に入って来た月明かりが眩しかったのか、真紅は目を細める。
「今――真紅が俺に抱(いだ)いているのが好意だったら、それは真紅の生存本能がそうさせているだけだ。俺はそれに乗じて真紅を――弄んでるだけかもな」
アパートを出てからずっと手や肩と、真紅に触れていた手が離れた。
「真紅が天命待って死ぬときに逢いに行く。それまで、ちゃんと生きろよ」
「れ――
「生きて恋して、生涯の伴侶を持って、子に恵まれて、俺が憧れるような生き方をしてくれ」
「え……黎、もう逢えないの……? さっき、一緒に生きるって……」
「最期のときには逢う。でも、真紅は俺みたいな奴とは近づかない方がいいんだよ。それが人間の生き方だ」
「でも、さっき――私の血だけって……」
「言ったけど、正直俺はあんま血ぃいらないんだよ。半分だけだからかな」
「でも、まずい血を飲まされてたって」
「俺を支配下に置くために、な。血を与える、それは俺にとって主みたいなモンになるから、そいつがそういう存在である限り、俺はそいつらに反旗を翻せない。そういう意味」
「……もう、逢えないの……?」
淋しいよ。真紅の唇は小さく動いた。
「……それは、今だけしか思わない。暁(あかつき)になれば消える。だからな、真紅。……少しだけ、楽しかったよ」
「れ
「最期のときに、また逢おう」
真紅の目の辺りに手をかざして、影を作る。
「俺はお前に憧れたよ。綺麗な子」
――ふっと、真紅は意識を失って俺の腕に倒れて来た。
半分だけの吸血鬼。
こんなに綺麗な血をした子は、こんなに綺麗な心は、知らなかった。真紅が小埜の一族の中にいればよかったのにと思う。そうしたら俺は迷わず真紅を主に選んで、一生を傍にいたのに。
でも、真紅は人間。徒人(ただびと)。血をもらうなんて、それは禁忌。殺してしまいかねない。俺は純血の母と違って混血だから、吸血した相手を吸血鬼にすることがない。ただの人間を主にして血を求めれば、いつか殺してしまうかもしれない。主にした相手が吸血鬼ならば、不死の能力を持つ吸血鬼ならば、問題は薄れてくるけど。
恋しい人は求めても飽き足りない。殺してしまうほど、愛するしかない吸血鬼。愛する人の血を。
……血を失えば、人間は死んでしまう。ならば真紅は死なせたくない。恋しいから。慕わしいから。……愛しいから。
すきになりかけているかもしれないと言われたときは、それこそ心臓が止まるかと思った。自分が真紅に惹かれている理由は、その血だけだと思っていたから。
吸血鬼が主を得るとき、対象に恋させることが手っ取り早い。体面上は主従関係になるが、恋した相手を死なせたくないと思うのも人の心というものだ。
だから、真紅が自分をすきになってくれるのなら、それを利用して真紅を生涯の主に出来るかもしれない。……そんな邪な思いが身の内を過って、しかし頭を振った。駄目だ。俺はこの子を失いたくない。失いたくないから、離れていなければ――離れなければ。
憧れた少女。生きて恋して、自分じゃない生涯の伴侶を持って、その人との子を授かって、憧れた生き方をしてくれ。そして最期の時だけ、俺のもの。
最期に手をつないでいるのは、俺だ。
……それだけの約束があれば、俺は生きていけると思うんだ。
もしも今、自分の中にある感情に名前がつくのなら。
感情に名前がつく前に、ここを去らなければ。
……結ばれない多くの恋の中に、今、沈もう。