皇帝が蓬莱(ほうらい)に送った何度目かの使者の帰還を、容妃(ようひ)は床で聞いていた。
 容妃は十五のとき、後宮に衣を売りに来て皇帝に見染められた。皇帝に後宮に引き留められ、妃となった彼女の待遇は娘たちの憧れだったが、容妃自身の心とは違う。
 そのとき容妃には恋人がいて、二人で将来の商いに胸を熱くしていた矢先のことだった。侍女たちによってお気に入りの衣を剥がされ、ほとんど無理やりに皇帝の伽を受け入れさせられた、そんな初めての夜など望んではいなかった。
 今度こそは仙の者に会えたのか、人を超えた者たちの果実を得られたのか、侍女たちが噂する声を遠くに聞きながら、容妃はたゆたう古い記憶の中で目を閉じる。
 後宮入りしてまもなくして容妃は御子を授かった。皇帝は急いでいたように思う。皇帝は当時の正妃の一族に長年政治を支配され、正妃が産んだ皇子もじきに成人しようとしていた。容妃が産んだ最初の皇子は、首も座らないうちに親皇帝派の妃の元に養子に出されていった。
 鐘の音がどこかで聞こえる。使者の帰還を喜ぶ澄んだ栄光の音色が、容妃には晩鐘に聞こえた。
 容妃はそれからも五人の皇子と三人の姫を産んだ。皇帝の寵の深さをうらやむ声の下に、皇帝が行き詰っていた時期に現れて付け込んだ女狐と蔑む声が重なって聞こえた。
 隠れて泣いた夜も、今度こそは御子を授からないようにと、伽の前に薬を飲んだときもある。けれど妃たちに従順を教える老師たちの言葉を借りれば、人は天命に抗うことはできない。
「容妃さま、陛下からの薬湯を……」
「静かに。お休みのときはよいと、陛下も……」
 今は容妃の中にあった怒りや哀しみはあきらめに変わり、皇帝も権力への渇望を収めるようになってくれた。皇帝の飢えをぶつけるようだった伽も次第に優しいものに変わり、皮肉にもその変化が始まった頃から容妃は床につくようになった。
 皇帝は多くの名医を呼び寄せて容妃の治療に当たらせ、決まりかかっていた末姫の政略結婚を取りやめることもしたが、容妃が起きていられる時間はその身と同じくらいにやせ細っていった。
 不思議と今日、体はつらくなかった。霞がかった意識の中で、容妃は夢を見ていた。
 まだ十五歳の自分は忙しく働き、夕暮れ時にわずかにできた時間を、恋人と川面を見ながら並んで歩いていた。風を感じて、鳥の声を聞いて、日が暮れるのを見送った。それが年老いるまで続いていくのがせいいっぱいの願いだった。
 彼に自分のことを許してほしいとは思わない。産み落とした子どもたちには愛情がある。帰りたい場所は、もうない。
 ただ涙は勝手に頬をつたって、それが冷えて乾いた頃に目を覚ました。
 目を開く前から、枕元に皇帝が座っているのを知っていた。彼は落ち着きのない少年のように、寝台の紗をたぐり寄せてはそろそろと離す癖があった。初めて容妃を抱いた日の朝もそうしていて、この人は何をしているのだろうと思ったものだが、それは彼が気まずいときに取る癖なのだと後で知った。
 そのような不格好なことをするくらいなら、床を共にした妃の背の一つでも撫でればいいものを、彼はそんな色男の仕草はできない性質なのだった。
 また果実は得られなかったのだ。容妃は訊ねなくともわかっていた。
 なりふり構わず権力のために多くを犠牲にしてきた皇帝が、ここ数年蓬莱で求めているのは容妃の病に効く果実だけだった。
 押し黙っている皇帝に、容妃は彼をみつめながら思う。
 自分は長くないのかもしれない。だからこんな思いになるのかもしれないが、今は少しだけ彼が愛おしい。
「……何か食べさせてくれますか」
 小さな渇望が喉をついて、皇帝は情けないような顔でうなずいた。
 慌てて枕元の果物に手を伸ばす皇帝を見て、容妃は霞の中から戻ってきた自分を感じていた。