テストも終わりすっかり日が落ちた大学には、人の姿はほとんどない。

いつも活動している体育館の裏。
石段に腰かけている人影が見える。

「・・・このかちゃん。」

困ったような顔で、今にも泣きだしそうな顔で、
真木さんは私の名前を呼ぶ。

「この前は本当にごめん。」
「私こそすいません。」

あ、また謝られてる。なんて思ってしまって思わず苦笑してしまう。
保健室であった時よりは顔色も良くて、目の下のクマも薄れていた。
少し安心して、息を吐きだす。

真木さん。
一度深呼吸をしてから、彼の名前を呼んだ。

「本当は、気づいてるんですよね。チヅさんの記憶喪失が嘘だって。」

『気づいてても、気づかないふりしたいでしょ。』

自嘲的に笑ったチヅさんの表情を思い出す。きっとその通りだ。
この話になる事は分かっていたのだろう。
真木さんは笑った。全てを諦めたかのように俯いたまま笑う。

「・・・だからこそ言えないだろ、だって律は俺に会いたくないってことだろう。」

律、と真木さんが初めてチヅさんの名前を呼んだ。

諦めたような笑顔とは反対に、真木さんのこぶしは強く握られていた。
親指を中に入れて、強く強く、何かを抑え込むように、力を込めている。

「こんなこと、私が言える立場じゃない事は分かってます。
私が踏み込む事じゃないって事もわかってます。」

でも、言わせてほしい。

息を、大きく吸い込んだ。

「真木さん、逃げないでください。」

まっすぐに真木さんの目を見つめる。
彼は戸惑ったように私から目を逸らした。

「さっきのも本音だと思います。でもきっと。自分が傷つくのも怖いんですよね。」
「・・・っ・・・」
「会わない言い訳を、きちんと話さな言い訳を、探してますよね。」

俯いたままの真木さんの表情は読めない。
けれどその手のひらは固く握られたままだ。

「・・・真木さん。私に19歳がどんな気持ちかって聞きましたよね。」

今年の夏。
まだ何も知らなかった私に、真木さんはそう尋ねた。

その時私は何も答えられなくて、
特に何も考えないで生きてるのかなあ、なんてぼんやりと思った。

けど、違った。

「今、私、生きてこうと思ってます。一番生きる事について考えてます。」

いままでの環境から抜け出して、新しい事を始める。
大学に入って、何を勉強して、どんな職業に就くのか。
これからの事を考えて、生きていく決意をする。

真木さんが、息をのんだのが分かった。

未来の事をいつよりも考えて、そのための道の一歩目を踏み出す。
怖くて、不安で、たくさんたくさん考えて、このままの自分じゃ駄目だと、きっとみんな強く思う。
これから先生きていくための指針を、見つけていく。

チヅさんもそうだったんだよ、それが欲しかったんだよ。
生きていくための、道しるべを探してた。

「もちろんその方法が正しかったとは言えないかもしれない。
でもそれがチヅさんなりの答えだったんだよ。たくさん考えて出した答えだったんだよきっと。」

真木さんの方が震える。
そんな彼の肩に手を添えて、彼の名前を呼んだ。

「真木さん。」

ゆっくりと顔を挙げた彼の目を真っすぐ見つめる。
少しだけ視線をさまよわせた後、彼も、私の瞳を捉えて。

「好きです。・・・チヅさんに、会いに行ってあげてください。」

まっすぐ私の目を見つめて、彼は何かを決意したように小さく頷いた。

ああ、やっと。やっと私が映っていた。
真木さんの瞳に、私が、佐久間このかが、映っていた。

「・・・ありがとう。」

そう言って立ち上がった真木さんは、
ゆっくりと私に背を向けて歩いていく。

一度だけ振り返った彼は、
眉毛をヘの字に曲げて、心配そうに困ったように笑って。
私を1人ここに置いていくことを躊躇っているのだろう。

大丈夫です、という意味を込めてゆっくりと頷く。

そのまま、真木さんは歩いて行った。
一度も振り返ることなく、真っすぐに。進んでいった。




「なに?家出?」
「どうして1人暮らしなのに家出するのよ。」

裏庭のベンチで1人座って居れば首元に温かいものが当てられる。
手渡されたそれはココア。

「なんでこういう時にまた会うかね。」
「さあ?運命じゃない?」

おどけたようにそう言う快くんを小突く真似をすれば、
痛いってーと大げさに笑う。

快くんが渡してくれたココアを一口飲めば、
思っていたよりも自分の体が冷えていた事に気づいた。

「で、どうしたの?」
「うーん。どうしたんだろう。」
「なにそれ。」
「なんか自分でもよく分からないんだよね。
・・・なんかすごい。遠回りして失恋した。」

なにそれ、ともう一度繰り返して快くんが呆れたように笑う。
そんなこと言われたって分からないものは分からない。

「失恋した割にはスッキリした顔してるね。」
「そう?」

同じくココアを一口飲んで隣に腰かけた快くんは、
私の顔を覗き込んで、笑う。

「まー、でも。」

一瞬だけ瞳を下へ向けて、
長い前髪の隙間から、私の目を捉えて。

「俺にしとけば?」

なんていって彼は悪戯っ子のように笑った。
・・・全くもう、この人は。

「またからかって。」
「本気だよ結構。」
「はいはい。」
「あ、信じてないなそれ。」

もしも、もし本気で言ってくれてたんだとしても。

「こういう時に無理に押したりはしないんでしょ?」
「え?」
「チャンスがあっても弱みには付け込めないタイプだもんね、快くんは。結局いい人だから。」

呆気にとられたように快くんは私の顔を見つめる。
少しの間抜け顔の後、ははっ、と笑って。

「かなわないねえこのかちゃんには。」
「ちゃんづけやめてよ気持ち悪い。」
「気持ち悪いは傷つくって。」
「ねえお腹すいた。焼き鳥食べたい。」
「お、いいね。パーッと一杯行っちゃいましょうか。」

サラリーマンみたいな事を言って、ベンチから立ち上がった。

冬の冷たいけれど澄んだ空気を目一杯吸い込む。
空を見上げれば視界一杯に星が輝いていて、しばらく空を見つめる。
うん、綺麗。目も、鼻も、口も、耳も、全部全部使って、世界を感じる。感じることが出来る。ああ、なんて、幸せだ。