チヅさんと真木さんは小学生からの幼馴染だった。

「最初はほんとに男かと思ってた。」

当時の事を思い出したのか、真木さんは懐かしむようにふっと笑う。
出会ったころのチヅさんは男の子みたいなショートカットで、よく笑って活発で運動が得意で
男子と一緒に校庭を駆け回っているような女の子だったそう。
その明るい性格と人懐っこさですぐクラスにも馴染んだ。

チヅさんは4年生の時に真木さんが通う小学校に転入し、
引っ越してきた理由は両親の再婚だった。
母親の再婚相手には彼女より3つ年上の姉がいて、
その再婚相手と、急にできた姉と、チヅさんは仲良くなれなかった。

ただのクラスメイトだったチヅさんと真木さんが仲良くなったのは学校から一番近い公園だった。
当時サッカークラブに通っていた真木さんの帰宅時間は暗くなってしまう事が多く、
防犯ブザーを握り締めて怖さを吹き飛ばすために大きな声で歌いながら歩いていた。
その日も真木さんは暗くなった道を歩いていて、不意に、少女の吹き出したような笑い声が聞こえた。
お化けかと驚いたしまった真木さんの目に映ったのは、一人ブランコに揺られる少女で。

『いっつも同じ歌うたってるね。』

そう言って笑った彼女は、
いつまでたってもブランコから降りようとしなかった。
帰らないの、と尋ねれば、なんだか大人のような笑い方をする。

「家の中にいると邪魔だから、って。律、笑ってたんだ。」

再婚相手の父はあまり優しくなかった。
姉にばかり話しかけて、褒めて、おもちゃを買ってあげて。
暴力を振られるわけじゃない、暴言を吐かれるわけではない。ただ何もしてくれないだけだ。本当に、何も。
まるでチヅさんの事なんて見えていないかのように。

学校ではずっと明るくよく話す彼女が、
家に帰ると何も話せなくなると言った。息苦しくて、言葉が出ないと。

その日がきっかけで、よく練習終わりに公園で話すようになった。
勝手にサッカーの練習を休んでずっと話してたこともあったな、なんて真木さんは笑う。

2人とも中学生になって、でも、彼女の家庭は変わらなかった。
父も、姉も、そして母も。やっぱりチヅさんの事なんて見えていないみたいだった。
入学式も卒業式も彼女は一人だった。授業参観も文化祭も、彼女の傍に駆け寄る大人はいなかった。

大丈夫、となんでもない事のように笑うけどその顔には疲れが見えていて。
伸びていく身長と反比例して、細身になっていく。

何もできない自分が情けなくて、もどかしくて苦しくて。

けれど中学を卒業する少し前、両親は離婚することが決まった。
チヅさんは母方の実家に戻ることになって、祖父母と母と共に暮らし始めた。
真木さんはサッカーのために少し遠くの高校に進学し、チヅさんは実家から通える高校進学し、
距離離れてしまったけれど、よく連絡はとっていた。

祖父母と暮らすようになってからの生活は安定したみたいで、元気に楽しく暮らしているように思えた。
実際、真木さんはチヅさんの祖父母に何度も会った事があるし、
チヅさんのお母さんも真木さんの子供の頃の時の記憶とは別人のようで、よく笑ってよく話して、温かくて。

そのまま連絡をとりつつ、お互い大学に進学した。
幼い頃はチヅさんがどうにかなってしまうのではないかと不安で仕方なかったけど、
その頃にはそんな心配も無くなっていた。
真木さんが耳を怪我した辛い時にも支えてくれ、
彼女昔の傷は徐々に癒えているものだと、そう思っていたのだ。

勝手に、そう思ってしまっていたのだ。

ある日、チヅさんの母から電話が来た。
その声は、震えていて。

彼女は、19歳で突然の自殺未遂をした。

使われていない廃工場の屋上から飛び降りて、
植木に落ちたことから一命は取り留めた。
生きている、そう聞いた時は本当に嬉しくて、足が震えて、涙が止まらなくて。
早く会いたかった。話を聞きたかった。どうして、そんなことを。

けれど、会う事はかなわなかったのだ。

病院で目覚めた後、チヅさんには少しの記憶障害がみられた。
落下の衝撃からからだろう。時間と共に戻る。との医師の判断通り徐々に記憶は戻ったのだが。

そこに真木先輩との記憶は1つも残っていなかった。

名前も、関係も、何一つ思い出すことは無かった。顔さえ見れば、直接話せば、そう思ったけれど
真木さんが会えたのは母親だけだった。まだ不安定な彼女の心理的負担になるからと会わせてすらくれなかった。
ごめんね、と泣きながら繰り返すばかりで、真木さんは泣く事すらできなかった。

襲ってきたのは黒くてドロドロした罪悪感の塊だった。
もう大丈夫なんて誰が決めた?誰が言った?俺は何で気づけなかった?
ネットで調べた。記憶が消えてしまうはその本人が覚えていたくないからだと。忘れたいから、辛いから嫌だから記憶を閉ざすのだと。自己防衛だと。そんなの、そんなの。

「俺の存在が、律をどこかで苦しめてしまってたんだって思った。」

一緒にいると小さい頃の辛かった時の事を思い出してしまう?なにか無自覚に気に障る事を言ってしまっていた?彼女の父親にどこか顔が似ている?分からない、何も分からない。
でもきっと自分がチヅさんを苦しめていたのだと、そう思った。

だから彼も忘れる事にしたのだ。忘れる努力をしようとしたのだ。
結局彼女が退院したと風の噂で聞いても、連絡をとる事はしなかった。
そして、連絡が来ることも無かった。

話し終えた真木さんの手は、小さく震えていた。
その手を取ってあげたくて、でも、私にそんなこと、出来るのだろうか。

分からない。私も分からない。
チヅさんが何を考えていたのか、どうしてそのタイミングだったのか。
本当に真木さんの存在が彼女を苦しめていたのか。

掴もうと伸ばしかけた手は、真木さんに届くことは無くて、
静かに嗚咽を漏らす真木さんの傍に、ただいる事しかできなかった。