きっかけは、特別じゃなかった。

「この子、俺送ってくから。」


友人に誘われて入ったフットサルサークルの新入生歓迎会。
終盤は先輩達にはかなりお酒が入っていて。

「このかちゃんて可愛いよね。」
「いやいや、そんな事ないです」
「俺と付き合っちゃう?」
「ま、またまた~」

途中から私の隣に座った男の先輩(名前覚えてないですいません)に絡まれ続ける事はや数十分。
まだ19歳でお酒が飲めない私は、上手くあしらえず困り果てていた。

「おーい、二次会行くやつそろそろ出るぞー!」

サークル長の青柳さんの声がして、
周りの人たちもゾロゾロと立ち上がる。

「このかちゃんも行くよね?」
「あ、すいません。ちょっと今日はここで・・」
「えー!二次会いこうよー!」

立ち上がろうとするも先輩はガッチリと私の腕をつかんで離してくれなくて。
どうしよう、なんて少し泣きそうになってしまって。

そんな時、だった。

「・・・へ?」
「さ、帰ろう。」

急に現れたその人はさらっと私の手を掴む。



「おいー、俺この子の事狙ってんだけど~」
「知るかばーか。お前は飲みすぎだ。」

そう言ってその人は駄々をこねる先輩に軽くデコピンをお見舞いして、私をお店の外へと連れ出してくれた。


「あの、ありがとうございます。」
「いえいえ。ごめんね、あいついい奴なんだけどお酒がめちゃくちゃ弱くてさ。」

家こっから近いの?そう聞かれて頷けば、
送るよ、と私に歩幅を合わせてくれる。

2年生、だろうか。それとも3年生?
入ったばっかりのサークルのため、まだ顔も名前も全く覚えていない。

私より20㎝近く高いであろう身長、顔立ちも整っていて。

「あれ、1年生だよね?」
「そうです。」
「今日お酒飲んだ?」
「いや、飲んでないです。」
「えらいな~。」

そう言ってその人はハハッと笑った。

笑うと目じりが下がって、
クシャっと効果音がつきそうなほど無邪気に笑う。
初対面の先輩なのに、可愛いな、なんて思った。

「フットサルやったことあるの?」
「いや・・初心者です。」
「そっか。部活とかは?何やってたの?」
「バスケットボールやってました。」
「ああ、何か分かる。」

何か分かるってなんですか、思わずそう突っ込めば、何か分かるんだよ、なんか。と同じ答えを繰り返す。
思わず笑ってしまった私に先輩は満足げに頷いた。

「やっぱ女の子は笑顔が一番だよ。」

「・・っ・・」
「あ、なんか俺きもいな。」

そういって先輩は照れたように笑う。

そのあと話しながらまた少し歩いて、
先輩とは家の近くのコンビニで別れた。
早く2次会に来い、という最速の電話が先輩へかかってきたからだ。

「じゃあ、気を付けてね。」
「はい。ありがとうございました!」

ひらひら、と手を振って先輩は私から背を向ける。
あ、名前を聞いてない、それに気づいたのはそのすぐ後で。

先輩との距離はかなり離れてしまっていて。
普段だったら、絶対あきらめちゃうけど。

「あの!!」

私の精一杯の大声に、
先輩はくるっと振り向く。

「な、名前聞いてもいいですか!」

私の言葉に先輩はああ、と笑って。

真木雄太(まきゆうた)。よろしくね、このかちゃん。」

このかちゃん、
そう呼ばれた事にドキッとして、でもそれに気づかれたくなくて、
ゆっくりとお辞儀してから先輩に背を向けた。

それが、私と真木さんとの出会いだった。
キュッ、と靴がこすれる音が体育館に響く。

笑い声が絶えない体育館の中で、フットサルは行われていた。

壁にもたれかかって座る私の目は、ずっとクシャクシャの笑顔でプレーするその人に釘付けだ。

「こーのーか!」
「わっ!びっくりした~」
「なになに、また真木さんみてるのー?」

突然声をかけられて驚けば、
横にいたのは同じ学部で友人の夏未(なつみ)

私が何も言い返せずどもってしまうのを見て、
ニヤニヤ、と私の肩を小突く。

「なにその反応、かわいいな~」
「うるっさい!」
「ほら顔真っ赤だよ?」
「からかうな!!」

バシバシ、と夏未を叩くが知らん顔。

ボールを追いかける先輩たちを見て、
ふーむ、と腕を組む。

「確かにかっこいいけどなあ。私は断然青柳さん派だね。」
「かっこいいよね、それも分かる。」
「だよね!?ていうかかっこいい先輩多くない!?」

目の保養だわ、としみじみとつぶやく夏未。
・・・それは私も思う。

とてもゆるいサークルであるため全体の人数は多いが、普段活動に来るのはその中の数十人。

フットサルを楽しむ者、それ以外のスポーツをする者、おしゃべりを楽しむ者、周りは様々だ。


「あっち~・・」

ゲームが終わったのだろう。
時間終了を告げるブザーが鳴って、皆がゾロゾロと座り込む。


「あ、ずっとサボってた2人組だ。」

頭上から声が降ってきて、
顔を上げればそこにいたのは真木さん。

「サボってないですよ、休憩です休憩。」
「なんの休憩だよ。」
「・・・たくさん動いたんで?」
「立ち上がってすらないだろ。」

あちゃー、バレてたか、とおどけて笑えば、
私を小突くふりをして真木さんも笑う。


「あれ、真木さんって高校の時サッカー部だったんですっけ?」
「そう。途中までだけどね。」

夏未の質問に先輩が頷く。

「夏未ちゃんは?何かやってたんだっけ?」
「私はバスケやってました。このかと一緒!」

まあレベルは全然違いますけどね、と夏未が私の肩を小突く。

「何言ってんの。」
「だってインハイ一歩手前の強豪校でしょ。しかもスタメンだったじゃん。」
「え、そんなに強かったの!?」

驚いたように真木さんが私の方を見る。
なんとなく照れ臭くなって俯けば、その頭の上に誰かの手が置かれる。

「しかも鬼の部長でしたよ。もう怖くて怖くて。」
「いたたた!ちょっと快くん!つぶさないで!」

そのまま私の頭をグリグリと押したそいつは、
悪い悪い、と笑いながら私の隣に座る。
・・こいつ絶対悪いと思ってない。

「しかも部長だったんだ。このかちゃんが怖いの想像できないけどな~・・」
「いやもうバシバシ怒鳴ってましたもん。」

怖かった~、とおどける快を横目で睨めば、
またにやにやと笑う。

中谷快(なかたにかい)。同い年で、実は出身高校も一緒。私はバスケ部で快くんはサッカー部だったが、クラスが一緒で仲が良かった。

同じ大学を受験することはお互いに知らなくて、
サークルの見学でたまたま会いとても驚いたのが最近の話。
「でも真木さんの高校、相当な強豪校だったんだぜ」
「そうなの!?」

驚いて声が大きくなってしまった私の頭を快がベシっと叩く。
・・女の子をはたく強さじゃないぞこれ。許さん。

「確かそん中でもスタメンに選ばれてた気がするなあ。」
「へ~・・どうして辞めちゃったんだろう。」

夏未の質問に、さあ、詳しくは俺も知らない。と快くんは両手を広げる。

確かにフットサルをやっている真木さんを見てると、ど素人の私にも他の人より上手であることは分かる。

学生時代、
ユニフォームで走り回ってる真木さん、かあ。

「・・見たかったなあ。」
「え?なにを?」

まずい、どうやら口に出していたらしい。
上手い言い訳が咄嗟に浮かばず口をつぐめば、勘のいい夏未はははん、と意地の悪い笑みを浮かべる。

「なに、真木さんがらみの妄想でもしてたの?」
「ちがっ・・妄想なんかしてないわ!!」
「うーわ、まじかよ佐久間(さくま)。」
「だからしてないって!!」

私の反応を見て夏未と快くんはケラケラと笑う。
こいつら・・と思いつつ2人を睨めば、ごめんごめん、とまた笑って。


「あ、ごめん、ちょっと電話。」

そんな中不意になったのは夏未の携帯。
電話をとった彼女の声は一瞬で変化して。そそくさとその場から立ち去る。・・・さては彼氏だな。

サークルの先輩たちがイケメンだと騒ぎつつ、
彼女には先輩たちをもしのぐイケメンの彼氏がいる。
直接会ったことは無いけれど、話を聞く限り性格もイケメンらしい。
・・そんな人間がこの世に存在して良いのだろうか。

「・・ま、佐久間。」
「ん?」
「何ボーッとしてんの?」

気付けば先ほど夏未が座っていた位置には快くんが座っていていて、私の顔を覗き込む。

「さっきからかった事怒ってんの?」
「・・快くんが私をおもちゃにしてくるのなんて日常茶飯事だったじゃん。」
「え?そうだっけ?」

おどけたようにそういう快くんを軽く叩けば、また楽しそうに笑う。

高校時代、今のように快くんと2人で話すことも多く、なにかとちょっかいを出されからかわれていた。

「だって佐久間いちいち反応が面白いんだもん。」
「それ馬鹿にしてるよね」
「・・・ははは。」
「乾いた笑いやめろ。」

うそうそ、してないよ。そう言って快くんは首を振ったけど、その顔はやっぱり笑っていて。

「あーあ、新歓俺も参加したかったなあ。」
「バイトがあったんだっけ?」
「そう、新歓の事なんて思いっきり忘れてた。」

はあ、と快くんはため息をつく。

「出てれば佐久間と真木さんの運命的な出会い(笑)が見れたかもしれないのに。」
「・・殴られたいの?」
「とんでもございません。」

こぶしを握り締めたところで快くんがそれを阻止しようと私の手を掴む。

「ていうか!!運命的な出会いなんてわたし一言も言ってない!!」
「知ってる。夏未ちゃんが言ってた。」
「・・許さん。」

端っこでスマホを耳に当てる夏未をじとっとにらめば、何かを察したのか舌を出して笑う。

「はい次1年生試合~やりたい人おいで~」

サークル長の青柳さんの声がして、はいはーいと快くんが立ち上がるから、わたしも!と一緒に立ち上がって体育館の中心へと向かった。
「このかー、今日買い物行こうよ」
「いいけど。何買うの?」
「新しい水着買いたくて」

もうすぐサークルの夏合宿じゃん、と夏未。

フットサルサークルの恒例であるらしい夏合宿は、もう来週に迫っていた。今年は一泊二日で海に行くらしい。

「え、このかも買うでしょ?」
「わたしは別に・・・そんなにがっつり入る気ないしなあ。」

泳ぐのもそんなに得意じゃないし、
着替えたりするの面倒だし、なんて思ってしまう。

そんな私に夏未ははあ、とため息をついて。

「あのねえ、真木さんもいるんだよ?」
「っ!別にそこ関係なくない!?」
「あるわよ!ここで攻めなくてどうするの!
あんたスタイルいいんだから!」

変なことを急に夏未が言うから
自分の顔が赤くなってしまうのが分かる。

水着?
真木さんの前で?
いや無理無理無理。

「無理に決まってるじゃん。」

水着なんて水泳の授業でしか着たことないし、
部活で鍛えられた太ももとふくらはぎはたくましくて。いや、絶対無理。

無理を連呼する私に夏未はため息をついて。

いい?と私を見つめる。

「無理とかじゃないの。着るの。」
「いやだから・・」
「これ強制」
「そんなこと言ったって、」
「分かったよね?」
「・・・姐さんこわいっす・・・」

いいから行くよ!夏未はカバンを持ち上げて。
仕方なく私も立ち上がった。




「車酔いする人いる?大丈夫?」
「あっ、このかがします!」

え?と私が声を出す間もなく、夏未に前へと押し出される。

「そっか。じゃあ助手席はこのかちゃんにしよっか。」

真木さんは自然な素振りでドアを開けて、私を助手席に促してくれるから、私も頷いて乗り込む。

後ろを見れば夏未がグッと親指を立てていた。
グッジョブ夏未、出来すぎる友人よ。

合宿当日は快晴だった。
上級生が車を出してくれるようで、
数台に分けて海へと向かう事になっていた。

あみだくじで決めた車の班は、なんと運がいい事に真木さんと夏未とも一緒。それだけでうれしいのに夏未のアシストにより助手席に座れることになってしまった。
うう、心臓がバクバクだ。

「このかちゃんはよく海とか行くの?」
「そうですね。高校生くらいまでは毎年家族で行ってたかなあ。」
「へー、いいなあ。」

真木さんと他愛のない話をしながら、目的地までの距離は近づいていく。
後部座席はババ抜きで盛り上がっていて。

窓から入ってくる風が心地よくて、
皆の楽しそうな声が気持ちを盛り上げて、
運転する真木さんの横顔が素敵で。

・・・楽しい旅行になりそうだなあ、なんて。
数時間のドライブののち到着した砂浜は、
家族連れ、カップル、友人同士、多くの人賑わっていた。

空には雲一つなくて、絶好の海日和だ。

「このか!早く早く!」

数人は着くなりすぐに海へと飛び込んでいって、
私達も水着に着替えて海辺へと近づく。

「えいっ!」
「わっ、ちょっと!急に何するんですか!」

先輩に水をかけられて、負けじと私も水をかけ返す。気付けば数人で水かけ合戦になっていた。

海で本気で泳ぐ人、ビーチバレーを始める人、
パラソルの下でアイスを食べながら涼む人に、
砂に埋まっている人。皆それぞれに楽しんでいる。

あんなに恥ずかしかった水着姿が
気にならないくらい私も楽しくて。

「このかちゃんビーチバレー混ざろうよ!」
「混ざります!・・あ、でもその前に水分補給してこようかな。」

夢中になって遊んでいた私は、
自分がすごくのどが渇いている事に気がついた。

一度海から引き揚げて、
ビーチパラソルの下に向かう。

キンキンに冷えた炭酸を取り出して、
一気にのどに流し込む。
・・・ああ、なんて幸せ。

少し一息をついて海を見つめていれば、
先輩たちが浮き輪で遊んでいるのが見えて、
あっと胸が高鳴った。

その中にいる真木さんは楽しそうにはしゃいでいて、少し濡れている前髪がなんか色っぽくて。

「っ・・て何考えてんだ私。」

気付けばじーっと真木さんを見つめてしまっていて、やばいやばい、と首を振る。

けれど時間が経てばまた見てしまって。
・・・だってかっこいいんだもん。

なんてことを繰り返していたから、私の馬鹿。

「っ・・!」

バッチリと真木さんと目が合ってしまった。
反射的に逸らしてしまって更に後悔。
ああもう私の意気地なし、なんて思っていれば。

「おーい!!」

真木さんの声が聞こえて、
また反射的に顔を挙げる。

「おいでよ!」

なんてクシャッとした笑顔で言うから。
ああ、もう、罪な男だ!(なにそれ)

「楽しんでる?」
「はい!とっても!!」

よかった、と真木さんは笑う。

「泳ぐのは得意?」
「あんまり。・・というか全然。」
「そうなんだね。」
「泳いでるつもりなのに、溺れてるの?って何度聞かれた事か。」

私の話に真木さんが吹き出す。

「ほんとに苦手なんだね。」
「どうしてこんなに泳げないのか知りたいくらいです。」
「・・深い所行ってみる?」
「私の話聞いてました?」

私のツッコミにまた笑って、
他の先輩から浮き輪を奪い取ってそれを私に渡してくれる。

「浮き輪あれば大丈夫?」
「余裕です。」
「よし。じゃあちょっと置く行ってみよ・・って!うわ!」

バシャン、と私と真木さんに水がかかる。

何事かと驚けば、犯人は2先生の先輩だった。

「おい何いちゃついてんだよ~!これでもくらえ!!」
「わっ・・ちょっ!」

なんて言いながら今度は水鉄砲。
私も真木さんも応戦して、始まった水合戦。

気付けばまた髪の毛もびちょびちょで、
でもすごく楽しくて。

「そろそろバーベキューの準備するよ~」

気付けば時間が過ぎていて、青柳さんがみんなに集合をかける。

お腹すいた~、という声と共に砂浜に戻っていく人々。私も浮き輪を片手に砂浜へ歩き出せば、
少し後ろで真木さんが頭を傾けていた。

「どうしました?」
「・・・」
「・・・真木さん?」
「わあ!びっくりした!」

彼の顔を覗き込んでそう聞けば、私が近づいてきていることに気づいていなかったのか、予想外の驚き方をされた。そんなに私気配無かったですか?と悲しくなるくらいの驚き方だ。
少し困ったように彼がごめんごめん、と笑う。

「耳に、水入っちゃったみたいで」

トントン、と右耳を下にして真木さんが頭を叩く。

「大丈夫ですか?抜けそうですか?」
「うーん、どうだろう。」

しかめっ面をして真木さんは首を傾けて、
けれどバーベーキューの準備が始まった事に気づいて、一緒に浜辺へと戻っていった。
男の子たちが火や重たいものを準備している傍らで
私含む女子たちは食材の準備をする。

野菜を切りながら始まったのはやはり恋バナ。
誰々がかっこいいだの、誰と誰が付き合っているだの。いくつになっても楽しいものだ。

ひときしり話し終えて、野菜も切り終えて。
男子の方に目を向ければ、どうしても真木さんが視界に入ってきてしまう。

こらこら、と自分をあしらいつつも、無意識に視界にとらえてしまうのだ。

本能にあらがえずしばらく見ていれば(おい)、あれ?と感じた違和感。

砂浜で、真木さんはサークルの女の子たちに囲まれていた。いやその光景自体に違和感はないんだけど、まあそれも自分で言って悲しくなったけど。

楽しそうに話しかける女の子たちに、
少し困ったように曖昧に笑う真木さん。

さっき水が入ったという耳をしきりに触っているように見えた。首を傾げて、必死に声を聞き取ろうとしているように見えた。その姿が、自分の経験と不意に重なった。

「真木さん!」

気付いてしまったその瞬間、思い込みである可能性なんて考えないで真木さんの名前を呼ぶ。

「っ青柳さんが、呼んでます。」

驚いて振り返った真木先輩に少し大きめの声でそう言えば、真木さんは心なしかほっとしたようにうなずく。

そのまま青柳さんの方へと向かって行った真木さんと、残されたのは怖い顔の女の子たちと私。
・・・視線が痛いのでそそくさと退散しましょう、ええ。



繰り返し聞こえる波の音と、感じる磯の匂い。
生ぬるい風が髪の毛を揺らして、とても、心地がいい。

バーベキューも終わり皆で花火をして、
今晩泊まる海の家まで移動した私達。

散々お酒を飲んで騒いだ先輩達や一部の同級生は、
既に部屋の中で寝息を立てていて、
起きている人たちは恋愛話に花を咲かせていて。

少しだけ夜の海を見たかった私は夏未に声をかけて、海辺へと戻ってきていた。

・・・気持ちいいなあ。

「お姉さん、こんな夜遅くになにしてるんですか。」

急に聞こえてきた低い声と頬にあたる冷たい感触に思わず悲鳴を上げかけた私。
それが冷たい缶ジュースだと気づいた時には、
クスクスと笑ったその人は私の隣に腰かけていて。

「はい、あげる。」
「びっ・・・くりさせないで下さいよ!」

ごめんごめん、と笑った真木さんは、
そのまま私に缶ジュースを手渡す。

ありがたく受け取って缶を開けば、
プシュッ、という音さえ心地よく聞こえる。
一口飲めば思っていたよりも自分がのどが渇いていた事に気づいて、半分ほど一気に流し込んでしまった。

いい飲みっぷり、と真木さんがからかうように言うから、
少し恥ずかしくなって俯いてしまう。

「お肉はたくさん食べれた?」
「食べれました!すっごい美味しかったです!」
「おいしかったね~。やっぱりみんなで食べると美味しさ倍増だよね。」
でもたくさん食べれたならよかった。」
「・・・真木さん、妹います?」
「え、なんでわかったの?」

真木さんの4個下で、私と年が近いらしい。
だからか。もう私に話しかける口調が妹へのそれだ。
サークルの時にも節々から面倒見の良さを感じて、
下に弟妹がいるのかな、なんて勝手に思っていた。

まだ高校生なのに最近妹の化粧が濃くなっただの、
真木さんのお兄さんらしい心配話を聞いて、
私の家族の話もしたりして。

ひときしり盛り上がった後。

「バーベキューの前さ、」

少しの沈黙が訪れて、再び口を開いた真木さんの声色は、先ほどとは違っていて。

「青柳の所行ったら、お前の事なんてよんでねーよって。」

それだけじゃなくて早く女子の方にもどれホイホイが、なんていうんだよ?
ひどくない?ひどいよね、なんて言って真木さんがおどけたように笑う。

言いそう。そう言う青柳さんだって十分ホイホイなんだけどなあ。無自覚なのか。

そのまま黙り込む先輩。また少し無言の時間が続いて、沈黙を破ったのは真木さん。

「俺、片耳あんまり良く聞こえなくて。」

その言葉に驚かない私を見て、
気付いて助けてくれたんだね、と真木さんは笑う。
気付いていた、というほどではない。
もしかしたらという憶測だけでさっきは動いてしまった。

耳に水が入ったと言った真木さんは、すごく不安げで。いつも飄々と笑っている真木さんのそんな顔は珍しかったから、すごく気になったのだ。

女の子たちと話す真木さんは、曖昧に笑って頷きながら、ずっと耳を触っていた。そして、しきりに俯いて首を振っていた。

「気づいてたってほどじゃなくて。本当にもしかしたらって感じて・・」

そう思ったのには、1つ明確な理由がある。

「私のおばあちゃん、耳がよく聞こえないんです。」

数年前に体調を崩し、入退院を繰り返している私のおばあちゃん。老化と病気で聴力が大分落ちてしまっていて、いまは補聴器を利用している。

聴力が落ち始めた時、まだ補聴器を利用していない時。上手く聞き取れず少し不安げな表情を浮かべるおばあちゃんの顔が、今でも頭の中に残っていて。
その表情が、真木さんとリンクしたのだ。顔を伏せて頭を振って、耳に神経を集中させるような動作も、おばあちゃんがよくやっていた。

「高校生の時さ。サッカーの試合中に、ボールぶつかっちゃって。」

完全に聞こえない訳ではないんだけどさ、聞こえづらくなっちゃったんだ。
少しの沈黙の後、真木さんはそうゆっくりと話し始めた。

強豪校でプレーしていて、本気でプロを目指していた事。けれど試合中に鼓膜を傷つけてしまったこと。

「バレたくないっていうか、なんか心配されたくなくて。」

そう言って少し困ったように笑う。
・・・ああ、この笑顔。真木さんがよく見せる笑顔。

「言いませんよ、誰にも。」

真木さんが何か言いだす前に口を開けば、
彼は少し驚いたようにこちらを見る。

「私が勝手にベラベラしゃべる事でもないですしね。あ、でも私は全然何も思わなかったけど。真木さんは真木さんだし、それで困っているのは本人だし、私が変わってあげられるわけでもないし。」

心配は時に重荷になる。
同情は時に足かせになる。
私は、それを知っている。

勝手に心配してその人の海に飛び込んだら、一緒におぼれてしまうのだ。
手を差し伸べて、待っているしかないのだ。

俯いて砂をいじりながらそう言えば、
真木さんから返事が返ってこなくて。

あれ、私今すごく失礼なこと言っちゃった・・・?

顔を挙げれば真木さんはポカン、と私を見つめていて。

「あ、いや、もちろん心配は普通にしますよ!?でもただなんていうか・・・」

焦って話し始めれば、不意に真木さんが吹き出して、波の音に真木さんの笑い声が混ざる。

いつもニコニコしている真木さんだけど、
こうやって大声で笑って居るのは珍しくて。

「・・・似てるなあ、なんか。」
「誰にですか?」

真木さんがポツンとつぶやいた言葉。
拾ってしまって反射でそう尋ねれば、真木さんは苦笑いをして。

「ああ、ごめん。幼馴染似てるんだよねこのかちゃん。」
「へー・・・。相当落ち着きのない人なんですね。」
「やめてよ否定も肯定も出来ない。」
「そこは否定してください。」

思わず突っ込んでしまった私にクスクスと笑う真木さん。
はあ、と小さく息をついた彼を見ていたら、
思わず言葉が口を次いで。

「大丈夫ですよ。」

何が大丈夫なのだろう。
自分でも分からないけど、急に真木さんが凄く不安定に見えた。

何かを思い出している真木さんは、
そのままどこかへ消えてしまいそうで。

「ありがとう。」

そう言って真木さんは立ち上がって、戻ろっか、とズボンに就いた砂を払う。
私も無言のまま頷いて、真木さんの後を追った。