それからの事は、あまり記憶にない。

気付けば私はあったかい部屋の中にいて、
おばあちゃんに抱きしめられていた。

真っ白い部屋の中で眠るのは、
小さな男の子。その顔は恐ろしいほど白くて、冷たくて。


__ああ。
私が、殺した。

その言葉はすっと私の胸の中に入り込んできた。

涙は出なかった。
その代わり、その時に初めての息苦しさを感じた。
胸が苦しくて息がうまくできない。雨の中にいるみたいで、景色がゆがむ。

大好きだった雨の中に、水たまりの中に、
閉じ込められて溺れているようだった。

あの日から私は雨が駄目になって、
雨の日に1人で歩くことが難しくなった。

私を蝕む息苦しさは薄れるどころか増して、
気づけば、ただ笑い続ける事でしか息苦しさから逃げられなくなっていた。

はるかは私のすべてを知って、
そしてずっとそばにいてくれた。

雨が降っていれば何も言わず家まで一緒に歩いてくれて、息苦しい私の背中に、優しく手を添えてくれる。

・・私は、どこまで人の重荷になれば気が済むんだ。

「・・・馬鹿みたい。」

はっ、と自分で自分を笑う。
降り続く雨に私の制服はもう重たくて。

このまま溺れてしまうのではないか。
雨の中に、あの日の水たまりの中に、閉じ込められてしまうのではないか。
苦しい、苦しい、苦しい。

どこからか車のタイヤが水を飛ばす音がする。
徐に立ち上がって、その音を、体が探す。

いっそのこと溺れてしまえば楽になれるのだろうか。
もうあの宙に舞った水色の傘を、地面に裏返ったピンク色の傘を、

思い出さずに、済むのかな。

エンジンの音が近づく。
近づいて、私の傍を通る、その前に。


雨が、やんだ。


誰かが傘をさしてくれているんだと分かった。
その誰かは私の目線に屈んで、私の肩をつかむ。

「ねえ、水野さん。」

その手は、温かくて。


「俺やっぱ、雨が好きだよ。」


その言葉に思わず顔を上げれば、
目の前には橘くんの顔があった。

彼は見たこともないくらい真剣な顔をしていて。

「・・俺、雨が好きだよ。」

そしてもう1度そう繰り返して、
私の体をゆっくりと包み込んだ。

ビックリして、けれど少し息苦しさが緩む。

「雨の音とかなんか落ち着くし、匂いとかも好きだし。」

耳元で橘くんの声が聞こえる。

「それに雨が降ったから、俺は水野さんと話すようになって、一緒に帰るようになって。」

そこまでいって橘くんは私の肩を掴んで、
真剣な目で、私の目を射抜いた。


「水野さんは雨が嫌い。でも、俺は雨が好き。いいじゃんそれで。足して2で割ればちょうどいい、一緒にいれば嫌なものも怖いものもないよ。」

水の中から手を引っ張られる。
ぐるぐると回っていた世界がピタリと動きを止めた。

さすがに暴論か、と彼は自分の言葉に呆れたように笑ったけれど、その瞳は優しくて。

「溺れそうになった俺が何回だって助けに行くよ。息苦しかったらずっとそばで背中をさすってあげる。」

瞳からこぼれた雫は、
雨と一緒に流れていく。

「だから大丈夫。
雨の日は一緒に歩こう。」


歪んでいた世界がゆっくりと形を作り始め、
そして、溺れそうな私の手は、
橘くんがしっかりと掴んでくれていた。