家を飛び出してどこに行こうかなんて決めてなかった。
けれど足は勝手に動いていて。
無意識のうちにたどり着いたのは、いつもの橋の下。
喧嘩してからずっと行っていなかったから、すごく久しぶりでなんだか懐かしくなって。
・・・でも。
そこに、お姉さんはいなかった。
いつもお姉さんが座っていた場所は空っぽで、
橋全体がやけに寂しそうに僕の目に映る。
辺りはまだ少し明るくて、カラスの鳴き声が聞こえる。
その鳴き声すらなんか、悲しそうだ。
空っぽの場所を見つめる。お姉さんの寂しそうな横顔が、風に揺れるスカートが
僕の頭に浮かんだ。
・・・あそこに行けば、お姉さんの寂しさが分かるのかなあ。
自然と足が進んでいた。
一歩、二歩、三歩。
僕の足は不安定な場所へと近づいていく。
もう、何だっていいや。
あと少し、あと少しで・・・。
「にゃあ。」
不意に聞こえてきた猫の声に、足が止まる。
振り返ればそこには小さな三毛猫がいた。
子猫は僕と目が合うと、すぐに草むらの中に隠れてしまう。
急に、現実に戻った気がした。
足元を見ればあと一歩で鉄骨に渡れる距離。平均台くらいの幅に、僕は足を乗せかけていた。
怖くなって元いた場所へと戻って。いつもの石段に、腰かけた。
『噓つきは泥棒の始まり、なんて、そんなの嘘だよ。』
そう言ったお姉さんを思い出す。
『つかなきゃいけない嘘だってあるし、人を助ける嘘もある。
別に嘘をつくことは悪い事じゃないんだよ。』
『少年。自分の気持ちに、嘘をついちゃいけません。』
自分の気持ち。
僕はお母さんに、何を伝えたかったんだろう。
友達の悪口を言われたのが悔しくて、
僕のことを見てくれないのが悲しくて。
でも決してお母さんを傷つけたかったわけじゃない。
お母さんは僕のためを思ってない、全部自分のためだと言った。
僕は本当にそう思ってるの?
お姉さんとのお弁当の話を思い出した。
僕のお弁当はいつもカラフルで、大好きな甘い卵焼きが少し多めに入っていて。
僕が運動会でかけっこに出た時、
お母さんはいつも大きな声で応援してくれる。
最下位で落ち込んでいる僕の首に冷たいタオルをかけてくれて、
頑張ったから、と炭酸ジュースを渡してくれる。
押し入れの中に入っているアルバムには、
僕の写真がびっしりで。
付箋でお母さんの手書きの文字が入っているんだ。
・・・ああ、何か。
「かえろう。」
誰にいう訳ではなく、1人で呟いた。
そうだよ、さっきも思ったじゃないか。
僕は、僕はただ。
家に帰れば僕を見るなりお母さんは泣き出して、
ぎゅっと僕の事を抱きしめる。
「ごめんね、ごめんね直・・・」
お母さんと抱き合うなんていつぶりなんだろう。
きっと記憶にないくらい小さい時以来だ。
「お母さんね、自分が勉強させてもらえなくて苦労したから、直にはそういう思いしてほしくなかったの。」
「・・お母さん。」
「友達の事悪く言うなんて最低よね。そんなことうんと小さい子だってわかってるのにね。お母さんいつからそんなこと言っちゃってたんだろう。」
「お母さん、僕こそごめんね。僕ね、ただね。」
大きく、息を吸い込んだ、
「ただ褒めて欲しかっただけなんだ。お母さんの笑顔が見たかったの。
だって、お母さんの事が大好きだから。」
これが僕の気持ち。
嘘偽りない、僕の本当の気持ち。
お母さんに伝えたかった事。
僕の言葉にお母さんは何回も頷いて、
そして僕を抱きしめる腕に力を込める。
ああやっと、本当の事が言えた。
嘘つきな僕と、さよならが出来たかな。
次の日、僕は学校帰りに橋の下に行くことにした。
お姉さんにごめんねと、そしてありがとうを言いたくて。
昨日はたまたまいなかったんだろうな、なんて深く考えてなくて。
でもそこに、お姉さんはいなかった。
その次の日も、その次の次の日も。
橋の下は空っぽのままだ。
僕に怒ってしまったのだろうか、別の事で忙しくなってしまったのだろうか。
いくら考えたって答えは分かるはずもなくて。
お姉さんに聞いてもらいたい事がたくさんあるのに。
お母さんに国語を教えてもらった話、リフティングが3回出来るようになった話、
井上の家に行ってチャーハンを食べた話、まだまだたくさん。
お姉さんを見つける手掛かりもなくて、僕は毎日橋の下に行った。
お姉さんのいない空っぽの鉄骨を見つめて、暗くなる前に帰る。
僕にはそんなことしか出来なくて。
そんなある日。
いつも通り橋の下に寄ってから家に向かっていれば、
向かい側から歩いてくる女の人に目を奪われた。
高いヒールの音が響いて、茶色い髪が風になびく。
その顔は、お姉さんによく似ていて。
交差点で見かけたあの日を、思い出した。
あれはお姉さんのお母さんだ。そう分かったけれど、声が出ない。
立ち止まってしまった僕を不審そうに横目で見つつ、
お姉さんのお母さんは僕の横を通り過ぎていく。
早く声をかけないと。
お姉さんがどこにいるのか知りたいんだ。
待って、
待って、
「待って!!」
思ったより大きな声が出てしまって自分でも驚く。
ジロリと僕を睨み、気味悪そうにしながらも、
お姉さんのお母さんは立ち止まってくれた。
「あのっ・・・」
「なに?」
「・・・お、お姉さんは、どこにいますか。」
我ながら間抜けな質問をしてしまった。
けど仕方ない、僕はお姉さんの名前すら知らないんだから。
案の定お姉さんのお母さんもますます不審そうな顔をして、
僕の顔をじっと見つめる。
「なに?由利か菫の知り合い?」
ゆり、すみれ。
きっとお姉さんと、お姉さんのお姉さんの名前だ。
何と説明すればいいか分からなくて、
でもどうしてもお姉さんの居場所を聞きたくて。
つっかえながらも、お姉さんの事を話した。おでこにしわは寄ったままだけど、
お姉さんのお母さんは最後まで話を聞いてくれた。聞き終えて、ああ、と頷いて。
「じゃあ由利の事ね。」
ゆり。
初めて知った、お姉さんの名前。
「お姉さ・・・ゆりさんは、元気ですか?」
僕の質問にお姉さんのお母さんははあ、とため息をつく。
その人を馬鹿にするような表情に、僕は悲しくなった。
「さあねえ。最近高校もサボりがちらしくて。
普段から全然話さない子だし。可愛くないよねえ、ほんとに。」
その言葉に何とも言えない気持ちが体中を駆け巡って、苦しくなる。
でもここで僕が泣いちゃだめだと、ぎゅっとこぶしを握り締めた。
「まあ菫とは結局出来が違うのよねえ。」
出来が違う、お姉さんも自分でそう言っていた。
きっと何回もこの人に言われてきたのだろう。
「菫は昔から勉強出来てさ。ああ、菫って由利のお姉ちゃんね。
でも由利はあんまり出来なくて。」
ふっ、と鼻で笑う。
「高校も頑張っていい所入ったけど、結局菫と比べたら、ねえ。
結局今みたいにサボっちゃうわけだし。」
元々人と話すことは好きなのか、お姉さんのお母さんは僕が何か言わずとも話し続けた。
「なんでか分からないけど高校も理数科に進学したのよね。
昔っから数学出来ないくせに。」
「りすうか?」
「ああごめんね、算数とか理科を勉強する所よ。」
算数とか、理科。
その言葉を聞いて、お姉さんの声が頭の中に流れる。
『小さい頃にね、一回だけお母さんに褒めてもらったことがあるの。』
お母さんに褒めて欲しくて、笑いかけて欲しくて。
たくさん勉強をして、算数のテストで一番の点数を取った話。
その話をしているときのお姉さんは、本当に嬉しそうだった。
「お母さんにほめられたから。」
「・・え?」
「お姉さんが算数を頑張る所に行ったのは、お母さんに褒められたことがあるからだと思います。」
「・・・なにそれ。」
僕の言葉にお姉さんのお母さんは首をかしげて、
お姉さんから聞いた話を、そのままお母さんに話す。
「・・なにそれ。」
もう一度そう繰り返して、お姉さんのお母さんはまたバカにしたように笑う。
笑ったけど、さっきとは少し違って、困ったように眉が下がっていた。
あ、この顔。・・・お姉さんの泣きそうな笑顔に、よく似ている。
「その話をしてる時、お姉さん・・じゃなくてゆりさん本当に嬉しそうで。」
「・・・」
「その時ゆりさん言ってました。私でも褒めてもらえるんだなって思ったって。」
「っ・・・そんな事覚えてたのあの子。それで理数科に?数学嫌いなのに?」
ばっかじゃないの、そう言った声は震えていて。
「なに菫と勝手に張り合ってんのよ。わたしは別に、あの子が勉強嫌いなの知ってたから・・・そんなの別に・・・」
大人はきっとそんなに大人じゃない。僕は知っている。
お母さんだってお父さんだって、辛い事があるし悲しい事があるし怒るし泣く。
家族だから何でもわかるわけじゃないし許されるわけじゃないし、僕はこの人のことはやっぱり好きになれない。
でも、お姉さんのお母さんは世界でたった1人のこの人だけだ。どこを探しても、この人しかいないんだ。
それがどんなに大切な事か、説明できないけど、でも、僕にだって分かる。
その日の夜、ベットをこっそりと抜け出した僕はバレないように靴を履いて玄関を出る。
向かう先は、決まっていた。
お姉さんはそこに居た。
やっぱり鉄骨に座って、足をぶらぶらさせて、
そして僕を見つけて、悲しそうに笑った。
「少年、久しぶり。」
なんとなく、ここに居る気がした。
ひらひらと手を振るお姉さんは、いつもと同じようで少し違う。
「死んじゃうの?」
僕の問いにお姉さんは少し驚いて、そして諦めたようにケラケラ笑う。
お姉さんがどこを見ているのかは分からなかった。僕の方を見ているようで見ていなかった。
暗くて見えないけど、でもきっと、お姉さんは今どんな人よりも暗い目をしている。
「・・本当に、死ぬつもりなの?」
その問いかけには何も答えてくれない。
代わりに、いつもみたいに悲しそうに笑っただけだ。
でも、別にいい。
「・・ふーん、じゃあ。」
「僕も一緒に死ぬ。」
お姉さんは幽霊でも見たかのような顔をして僕を見た。
その視線に気付いていながら気付かないふりをして、鉄骨の方へと歩き出す。
「何言ってんの。高い所怖いでしょ。来ないでよ。」
僕は止まらない。
絶対に止まってやらないと決めた。
「ねえちょっと・・・駄目だってば!!」
平均台くらいの幅に、足をかける。
・・怖い。
こんな不安定な所に、お姉さんはいつもいたんだ。
自然と足が震えるけど、
もうどうにでもなれ、と鉄骨の上を渡り始める。
「だめって言ってるでしょ!」
お姉さんは必死に叫ぶ。
けどやっぱり僕は止まらない。決めたんだ。
震える足に力を込めて、ゆっくり進んで、そして。
お姉さんの前に、立つ。
「なんで・・っ・・」
遠目からじゃ分からなかったけど、お姉さんは泣いていた。
ポロポロと両目から大粒の涙を零していた。
「・・・だって宿題は多いし井上はいつも僕がサッカー下手なの馬鹿にするし、給食はピーマンが出る確率が高いし、もう嫌になっちゃった。」
そんな理由あるか、心の中で自分でつっこんだ。
お姉さんは何も言わない。
「だからお姉さんと一緒に死ぬよ。
だって1人は寂しいでしょう?」
悲しいのか、怒っているのか。どっちもなのか。
苦しそうに涙を流しながら僕の顔を見て、そして俯く。
「・・駄目だよ。」
「何が?」
「駄目なものは駄目だよ・・。」
それ以上お姉さんは何も言わない。
またそれだ。お姉さんはいつもそうやって僕を心の中へは入れてくれない。
また、心が痛かった。どうして、どうしてそうやっていつも。
「お姉さんが言ったんだよ!!」
気がついたら僕は叫んでいた。
お姉さんも驚いて顔を上げる。
「自分の気持ちに嘘ついちゃいけません!!僕に何回もそう言ったじゃないか!!」
なんだか分からないけど涙がこぼれた。
そのまま涙は止まらずに川の中へと吸い込まれていく。
「お姉さんが言ったんじゃん!!
なのに何で嘘つくの!?自分に嘘ついちゃダメなんでしょ!!」
その言葉に僕は救われた。
カッコつけたことばかり言って本心から逃げていた。傷つくことが怖い僕の弱虫な心を、
お姉さんが開いてくれた。
お姉さんが、僕を変えたんだ。
「本当のこと、言ってよ。」
涙が止まらなくて、前がよく見えない。
こんなこと初めてで、でも止め方も分からなくて必死に歯を食いしばった。
不意にお姉さんが手を伸ばして、ゆっくりと僕の涙を拭う。
よく見れば、お姉さんの手は傷だらけだった。
「・・もういいやって思って、ここに来た」
ポツリ、お姉さんの口から本音が漏れる。
「お母さんに褒めてもらいたくて、頑張って頭のいい高校に入った。でも結局駄目だったの。結局はお姉ちゃんに勝てなくてお母さんは私に無関心なまま。お母さんの仕事が忙しいから私が家事をしてて、一回ね、どうしてそんなに一生懸命働くの?って、お母さんに聞いた事があるの。そしたらさ、」
「『お姉ちゃんの学費のために決まってるじゃない』って。不思議そうな顔で。なんでそんなこと聞くの?って顔で。」
ポキッと、
その一言でお姉さんの心が折れてしまった。
「ああもういいやって思った。もう何でもいいやって。・・でも私やっぱり弱いから、お母さんに何か感じて欲しいって思っちゃったの。だから、お姉ちゃんの制服を着たの。嫌がらせみたいなもんだよ。」
お姉さんがずっと来ていた制服。無くなったはずの高校の制服。
それを着ることが、それを着てここに来ることが、どれだけ苦しかっただろう。
「私が見つかったときに、この格好ならお母さんが何か思ってくれるかなって。馬鹿みたいでしょ。」
誰に語るわけでもなく、ただただ心の中の塊を吐き出すように、
お姉さんは口を開く。
「全部終わらせようと思ってここに来た。もう何でもいいやって、疲れ切って嫌になってここに立つのに、それなのにね、」
お姉さんの声色が震えて、その目からはまた涙がこぼれた。
お願い、本当の事を言って。
僕はお姉さんの本音が聞きたいんだ。
「わたし、わたしね。」
「・・生きたいの。・・本当はまだ、生きていたいっ・・」
その言葉だけで十分だった。
それだけ聞ければ、それはもう、僕たちが生きる理由になる。
涙と共に溢れ出したその言葉は、
暗闇の中に吸い込まれていく。
「生きたいのに死にたくなったら僕が何回も邪魔しに来るよ。絶対、お姉さんの事邪魔するよ。」
ねえ、だからさ。
「なんとなくでいいから、一緒に生きよう。」
僕がそういえばお姉さんは一瞬驚いた顔をして、そして、泣きながら笑った。
小学生が生意気だよ、なんて言いながらも、自分も泣いているくせに僕の涙を拭ってくれようとする。
「・・少年に邪魔されるのは2回目だよ。
だからきっと、3回目も少年だね。」
真っ赤な目をしてお姉さんは、ゆっくりと微笑んだ。
僕も笑ってお姉さんの隣に腰掛ける。
そして真似をして足をぶらぶらさせようとしたが、怖くて流石にできない。
その日、僕達は橋の下で長い間月を眺めた。
途中で我に返っていた僕は怖すぎて月なんて落ち着いて見ていられなかったが、
お姉さんが楽しそうだったから、まあ、それで、よかった。
「あ、少年」
学校からの帰り道。
いつもの橋の下。
そう言って手をひらひらと振ったお姉さん。
けれどその足元は、もう不安定じゃない。
「そこ、僕の場所なんだけど」
「まあまあいいじゃん。先輩優先。」
「・・・。」
僕が呆れて睨めば、お姉さんは声を上げて楽しそうに笑う。
もう悲しさの影は、ない。
前まで僕が僕がランドセルを下ろして座っていた石段には、いつもお姉さんが座っていて。
僕の日々の抵抗も虚しく、結局いつも地べたに座り込むことになる。
「どう?サッカーは上達した?」
「全然。井上の教え方が下手なんだよ」
「そうやってすぐ人のせいにするのがだめなんだよな〜」
ジトッと、横目で睨めばくすくすと笑う。
風が吹いて、お姉さんの髪と灰色のスカートを揺らした。
前よりも少し独特なデザインの制服にお姉さんは文句を言っていたけど、それもよくお姉さんに似合っていた。
胸に光るマークも、前とは違う。本当の、お姉さんのいる場所だ。
お父さんとお母さんは相変わらず仲が悪い。お姉さんもお母さんと仲がいいとはやっぱり言えないし、学校でも色々大変そうだ。僕もこれから中学受験をしなきゃいけない。嫌な事もある、悲しい事もある、でも今日はサッカーで綺麗なパスを出すことが出来たし、小テストでいい点数が取れたし、夜ご飯はハンバーグの予定だ。それだけで僕は、まあいっか、なんて思える。
なんとなく、なんとなくでいいんだ。
どうしようもない事ばかりだけど、
僕らはそれでも、
この世界で生きていく。