僕らはそれでも

その日の夜、ベットをこっそりと抜け出した僕はバレないように靴を履いて玄関を出る。
向かう先は、決まっていた。

お姉さんはそこに居た。
やっぱり鉄骨に座って、足をぶらぶらさせて、
そして僕を見つけて、悲しそうに笑った。

「少年、久しぶり。」

なんとなく、ここに居る気がした。
ひらひらと手を振るお姉さんは、いつもと同じようで少し違う。


「死んじゃうの?」

僕の問いにお姉さんは少し驚いて、そして諦めたようにケラケラ笑う。
お姉さんがどこを見ているのかは分からなかった。僕の方を見ているようで見ていなかった。
暗くて見えないけど、でもきっと、お姉さんは今どんな人よりも暗い目をしている。

「・・本当に、死ぬつもりなの?」

その問いかけには何も答えてくれない。
代わりに、いつもみたいに悲しそうに笑っただけだ。

でも、別にいい。

「・・ふーん、じゃあ。」



「僕も一緒に死ぬ。」


お姉さんは幽霊でも見たかのような顔をして僕を見た。
その視線に気付いていながら気付かないふりをして、鉄骨の方へと歩き出す。

「何言ってんの。高い所怖いでしょ。来ないでよ。」

僕は止まらない。
絶対に止まってやらないと決めた。

「ねえちょっと・・・駄目だってば!!」

平均台くらいの幅に、足をかける。

・・怖い。
こんな不安定な所に、お姉さんはいつもいたんだ。

自然と足が震えるけど、
もうどうにでもなれ、と鉄骨の上を渡り始める。

「だめって言ってるでしょ!」

お姉さんは必死に叫ぶ。
けどやっぱり僕は止まらない。決めたんだ。

震える足に力を込めて、ゆっくり進んで、そして。
お姉さんの前に、立つ。

「なんで・・っ・・」

遠目からじゃ分からなかったけど、お姉さんは泣いていた。

ポロポロと両目から大粒の涙を零していた。

「・・・だって宿題は多いし井上はいつも僕がサッカー下手なの馬鹿にするし、給食はピーマンが出る確率が高いし、もう嫌になっちゃった。」

そんな理由あるか、心の中で自分でつっこんだ。
お姉さんは何も言わない。

「だからお姉さんと一緒に死ぬよ。
だって1人は寂しいでしょう?」

悲しいのか、怒っているのか。どっちもなのか。
苦しそうに涙を流しながら僕の顔を見て、そして俯く。


「・・駄目だよ。」
「何が?」
「駄目なものは駄目だよ・・。」

それ以上お姉さんは何も言わない。

またそれだ。お姉さんはいつもそうやって僕を心の中へは入れてくれない。
また、心が痛かった。どうして、どうしてそうやっていつも。

「お姉さんが言ったんだよ!!」

気がついたら僕は叫んでいた。
お姉さんも驚いて顔を上げる。

「自分の気持ちに嘘ついちゃいけません!!僕に何回もそう言ったじゃないか!!」

なんだか分からないけど涙がこぼれた。
そのまま涙は止まらずに川の中へと吸い込まれていく。

「お姉さんが言ったんじゃん!!
なのに何で嘘つくの!?自分に嘘ついちゃダメなんでしょ!!」

その言葉に僕は救われた。
カッコつけたことばかり言って本心から逃げていた。傷つくことが怖い僕の弱虫な心を、
お姉さんが開いてくれた。

お姉さんが、僕を変えたんだ。


「本当のこと、言ってよ。」

涙が止まらなくて、前がよく見えない。
こんなこと初めてで、でも止め方も分からなくて必死に歯を食いしばった。

不意にお姉さんが手を伸ばして、ゆっくりと僕の涙を拭う。
よく見れば、お姉さんの手は傷だらけだった。

「・・もういいやって思って、ここに来た」

ポツリ、お姉さんの口から本音が漏れる。

「お母さんに褒めてもらいたくて、頑張って頭のいい高校に入った。でも結局駄目だったの。結局はお姉ちゃんに勝てなくてお母さんは私に無関心なまま。お母さんの仕事が忙しいから私が家事をしてて、一回ね、どうしてそんなに一生懸命働くの?って、お母さんに聞いた事があるの。そしたらさ、」

「『お姉ちゃんの学費のために決まってるじゃない』って。不思議そうな顔で。なんでそんなこと聞くの?って顔で。」

ポキッと、
その一言でお姉さんの心が折れてしまった。

「ああもういいやって思った。もう何でもいいやって。・・でも私やっぱり弱いから、お母さんに何か感じて欲しいって思っちゃったの。だから、お姉ちゃんの制服を着たの。嫌がらせみたいなもんだよ。」

お姉さんがずっと来ていた制服。無くなったはずの高校の制服。
それを着ることが、それを着てここに来ることが、どれだけ苦しかっただろう。

「私が見つかったときに、この格好ならお母さんが何か思ってくれるかなって。馬鹿みたいでしょ。」

誰に語るわけでもなく、ただただ心の中の塊を吐き出すように、
お姉さんは口を開く。

「全部終わらせようと思ってここに来た。もう何でもいいやって、疲れ切って嫌になってここに立つのに、それなのにね、」

お姉さんの声色が震えて、その目からはまた涙がこぼれた。

お願い、本当の事を言って。
僕はお姉さんの本音が聞きたいんだ。


「わたし、わたしね。」


「・・生きたいの。・・本当はまだ、生きていたいっ・・」


その言葉だけで十分だった。
それだけ聞ければ、それはもう、僕たちが生きる理由になる。

涙と共に溢れ出したその言葉は、
暗闇の中に吸い込まれていく。


「生きたいのに死にたくなったら僕が何回も邪魔しに来るよ。絶対、お姉さんの事邪魔するよ。」

 ねえ、だからさ。

「なんとなくでいいから、一緒に生きよう。」

僕がそういえばお姉さんは一瞬驚いた顔をして、そして、泣きながら笑った。
小学生が生意気だよ、なんて言いながらも、自分も泣いているくせに僕の涙を拭ってくれようとする。

「・・少年に邪魔されるのは2回目だよ。
だからきっと、3回目も少年だね。」

真っ赤な目をしてお姉さんは、ゆっくりと微笑んだ。

僕も笑ってお姉さんの隣に腰掛ける。
そして真似をして足をぶらぶらさせようとしたが、怖くて流石にできない。


その日、僕達は橋の下で長い間月を眺めた。

途中で我に返っていた僕は怖すぎて月なんて落ち着いて見ていられなかったが、
お姉さんが楽しそうだったから、まあ、それで、よかった。