「はい。じゃあテストを返しまーす。」

やってしまった。
帰ってきた算数のテストを見て、冷や汗が流れる。

「原田~、今日はドッジボールしようぜ。」
「・・・。」
「おい、聞いてる?」

井上が僕に声をかけてくれるけど、
その声は耳をすり抜けていって。

固まったまま動かない僕を不思議に思ってか、
近づいてきた井上は僕の答案用紙を握りしめる。

「うわ!88点!お前やっぱすげーな。」
「・・・どうしよう。」
「なにが?」
「お母さんに怒られちゃう。」
「はあ?何言ってんの?自慢かよ!」

88点で怒られるわけないじゃん、なんて井上は笑うけど、
笑い返さない僕を見て井上も真面目な顔になる。

「・・ほんとに怒られんの?」
「うん。」
「まじかよ。」
「俺がこんな点数取ったら夜ご飯が手巻き寿司になるぜ。」

一番得意な算数で88点。
一番苦手な国語は65点。
いつも通り、文章題が間違っていて。

「・・ごめん井上、今日は遊ぶのやめとく。」
「ん、分かった。」

答案用紙をランドセルに入れて、
ボール片手に教室を出ていく同級生に手を振る。

「原田。」
「ん?」
「あんま気にすんなよ。」
「・・うん、ありがとう。」
「今度うちに手巻き寿司食べに来いよ。」
「それは次のテストで88点取るってこと?」
「・・任せとけ。」

全然任せられない表情で親指を立てるから、おかしくなって吹き出してしまう。
そんな僕に井上も笑って、ああ本当にいいやつだな、なんて思った。



「・・・ちゃんと勉強したの?」

いつも通り答案の隅から隅まで目を通したお母さんは、ため息をついた。

「したよ。」
「したのにこんな点数なの?」

心臓がどくっと嫌な音を立てて。
とても息苦しい。溺れてしまいそうだ。

はあ、とお母さんはもう一度大きなため息をつく。

「最近遊んでばっかいるからじゃない?」
「・・え?」
「友達と遊ぶのはいい事だけどね、スポーツできてもそれは将来役には立たないのよ。」

今日はサッカーをしたよ、バスケをしたよ。
そういう話を聞くお母さんの顔は、あんまり嬉しそうじゃない。
気づいていた、気づいていたけど。

「それにゲームもやり始めてるでしょ。」
「でもちゃんと1日30分だけにしてるよ。」

ずっとやっていなかったゲームも、
クラスメイトがお勧めのカセットを貸してくれたからまたやるようになった。

でもしっかり1日30分の決まりを守っているし、
もちろん宿題もやっている。

「ゲームなんてやってるから頭悪くなるのよ。」
「でもお母さんが30分だけならやっていいって、」
「よく周り見てみなさい。たくさんゲームやってる子は勉強出来ない子が多いでしょう。」
「わかんないよそんなの」

お母さんの声が徐々に大きくなる。

今日、お母さんの機嫌は元々あまり良くなかった。
理由は僕にも分かってる。

昨日の夜、大きな声が目が覚めて静かにリビングを覗けば、
お父さんとお母さんが喧嘩をしていて。

別に珍しい事ではない。だからそんなに驚かなかった。
けどやっぱり心臓がきゅっとなってしまう。
お父さんと喧嘩した次の日は、お母さんは決まって機嫌が悪いのだ。

「いい?いい大学に入らなきゃいい仕事に就けないの。
いい仕事に就けないと幸せになれないのよ?」

今まで何十回も言われてきた言葉を繰り返す。
ああ、きっと続きはこう。

「お母さんは直のためを思って言ってるの。」

僕のためを思って。

分かってる、分かってるけど。
息苦しくて、もやもやが胸の奥にたまって。

黙り込んでしまった僕を見てお母さんはまたため息をつく。

「えりちゃんのお母さんも言ってたけど、やっぱり友達に影響されちゃうものなのね。」
「・・・」
「ほら、幼稚園一緒だった。えりちゃんもあんまり頭の良くないお友達と
遊ぶようになってから成績落ちたって。」
「・・・っ」

なに、それ。
その言い方じゃまるで。

「ゲームばっかやってるような子と遊ぶからこんな点数取るのよ。ほら、よく遊んでる井上くん。」

心臓が誰かに掴まれたように跳ねた。

「あの家シングルマザーだからお母さん忙しくてね。いつも自由にゲームさせてるらしくて。」

「ゲームさせれば子供が静かになるのは分かるけどやっぱ良くないわよねえ。
ほら、1人で大変なのは分かるけど」

分かってない。

「それに確か高校までしか出てないんじゃなかったかしら?井上くんもいい子なのかもしれないけど、でもほら、ちょっと乱暴な子じゃない?」

お母さんは何も、分かってない。

サッカーやろうぜ、そう言って毎日僕を誘い続けてくれた、
何かあるとすげーって本気で褒めてくれて、
確かに口調は乱暴かもしれないけど、そんなこと関係ないくらいに優しい。

「お母さん直がいじめられたりしてないか心配で心配で・・・」

がしゃん。
僕の中で、何かが壊れた音がした。

「・・何もわかってない。」
「・・・直?」
「お母さん何もわかってないよ!!」

急に大きい声を出した僕を、
お母さんは驚いたように見つめる。

「どうして僕の点数が悪かったことが井上に関係あるの!?」

お父さんがいない事は知っていた。
小さい頃に離婚したって。井上は何でもない事のようにしゃべって。
お母さん料理があんまり得意じゃないんだけど、チャーハンなんかめっちゃ味濃いんだけど。でもな。
俺、そのチャーハンが大好物なんだ。

そう言って少し照れながら笑う井上が、僕はすごく素敵だと思った。

「どうしてそういう言い方ばっかりするの!?」

溢れ出した言葉は止まらない。

「テストだって!お母さん僕が100点取ったって褒めてくれないよね!
頑張ったって全然褒めてくれない!!
勉強出来なかったら悪い子なの!?僕が勉強出来なくなったらもう僕の事いらないの!?」
「っ!何言ってるの!」
「だってそうじゃん!僕のためっていうけどお母さん僕の事全然見てない!!」

これ以上言ったらお母さんの事を傷つけてしまう。
分かってるけど、もう自分では止められなかった。

「お母さんは僕の事嘘つきだと思ってるんでしょ!?信じてくれてないんでしょ!?」

「僕のためじゃないんでしょ、全部お母さんのためなんでしょ!!」

別に料理上手じゃなくてもいい。
大学を出ていても出ていなくてもいい。
周りに羨ましがられるお母さんじゃ無くてもいい。

僕は、
僕はただ。

「どうして褒めてくれないの!?ちゃんと僕の事見てくれないの!?」

ただ褒めて欲しかった、笑いかけて欲しかった、ぎゅっとしてほしかった。
だって。

お母さんの事が大好きだから。


「ちょっと!直!?」

もうどうしようもなくなって、家を飛び出した。

後ろからお母さんの声が聞こえるけど、
僕は振り返らなかった。