「・・・何、してるの?」
そのお姉さんは、橋の下にちょこんと座っていた。
その橋はこの町を流れる川をまたいでいて、下を見ればゴツゴツした岩が遠くに見える。
僕からしたら覗き込むのだって怖いのに、お姉さんは平気な顔で足をプラプラと揺らしていた。
「・・なにしてるの?」
返事がなかったためもう一度そう問いかける。
橋の裏にある入り組んだ鉄骨の一つに、お姉さんは腰掛けている。
その幅は広いとは言えなくて、少しでもバランスを崩せば川の中に真っ逆さま。
この高さだ。落ちたら命はないだろう。
2回目の呼びかけでゆっくりと顔を上げたお姉さんは、
一瞬とても驚いた顔をした。
「・・なにもしてないよ。」
けれどすぐに表情を戻したお姉さんは、そう答えて微笑んだ。
何もしてないわけはないだろうけど、気になる事はたくさんあったけど、
初対面の人にズカズカと質問する勇気は僕にはない。
曖昧に「ふーん。」と頷いておいた。
「君こそ、こんな所でなにしてるの?」
「・・ねこ探してた。」
「猫?」
「うん。鳴き声がしたんだ。でももう聞こえない」
「そっか。」と僕の言葉にお姉さんはまた笑う。
学校の帰り道、普段寄らない橋に寄り道をしたのは、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきたから。
遠くから聞こえた声を頼りに進めば、そこにいたのは不思議なお姉さんだけで。
「猫、好きなの?」
「・・・別に。」
僕の返答にお姉さんはまた微笑む。
・・・なんだか不思議な笑顔だなと思った。クラスメイトとも、先生とも、お母さんとも違う。
笑ってるのに、泣いてるみたいだ。
じっと見てしまっていたのか、
お姉さんから「どうした?」と声をかけられて、はっと我に返った。
「何でもない。」
「そっか。猫、見つかるといいね。」
「・・どうも。」
ばいばーい、と手を振るお姉さん。
その日、交わした言葉はそのくらいだったけれど。
そのお姉さんの事が、家に帰っても頭から離れないままだった。
翌日。なんとなく、また橋に行ってみようと思った。
いてもいなくてもいいかな、なんて思っていれば
お姉さんはまたそこに座っていて。
僕を見つけるとお姉さんは手をプラプラと振る。
片手を離せば体制はさらに不安定になって、見ていてとても危ない。
「少年、昨日ぶり。」
そう言って笑ったお姉さんに僕も手を振る。
「・・何してるの?」
そして昨日と同じ質問をすればお姉さんは首を振って、
「なにもしてないよ。」と微笑む。
僕もまた「ふーん。」と答えてランドセルを傍に下ろした。
そして横の石段に腰をかける。
するとお姉さんは少し驚いた表情をして、
今度はおどけたように笑った。
「なに、話し相手になってくれるの?」
「いいよ、僕暇だし。」
「友達は?」
「失礼な、いるよ。」
ムッとなって言い返せば「冗談、怒んないでって」と
僕の方を見て笑う。
「お姉さん、高い所好きなの?」
「うーん、好きでも嫌いでもないかなあ。」
「じゃあなんでそこに座ってるの?」
「・・・なんでだろう。」
変なの、と僕が言えばお姉さんもそうだね、変だね、と笑う。
温かい風がお姉さんの紺色のスカートと黒髪を揺らす。
その横顔は何となく寂しそうで。
「少年は高い所は好き?」
「・・別に。好きでも嫌いでもない。」
「そっか。一緒だね。」
その後も他愛ない話をしていれば、
気づけば辺りは暗くなっていた。
急いで帰り支度を始めた僕に、
お姉さんは腰かけたまま「ばいばい」と手を振った。
「原田、一緒にサッカーしようぜ。」
「・・いい、本読むから。」
「せっかく誘ってやったのに。」「いいよ校庭いこうぜ。」なんて後ろで誰かがボヤくのが聞こえる。
でも、別にいい。
同級生と遊んでもつまらないだけだ。
本を読んでいた方が、絶対楽しい。
休み時間、僕は基本的に席に座ったままだ。
学校はいつもつまらない。授業は退屈だしクラスメイトとは話が合わないし、
何より僕は笑うことが苦手だ。別に怒っているわけじゃないのに怖がられてしまったり、誤解されてしまったり。
別にそれでいいとも思っている。
その方が人にも話しかけられなくて楽なのだ。
「みんなで仲良くしましょう」なんて先生は言うけど、そんなのは絶対に無理だ。
きっと先生も分かってる、けれどそう言わなければいけない。
だから大人は嫌だな、と思う。
きっと僕たちよりもずっと生きづらい世界で生きているのだろう。
なんて想像すると嫌になって、首を振って考えるのをやめた。
「・・ねん、少年?」
「・・・ボーッとしてた。」
大丈夫?と心配そうに僕の顔を見るお姉さん。
「具合悪いの?」
「ううん。本当にちょっとボーッとしてただけ。」
僕がもう一度そう言えば、そっか、とお姉さんは頷いて
「具合悪かったらすぐ言うんだよ~」と一言。
「何その言い方。赤ちゃんなだめてるみたい。」
「拗ねるなって。」
僕が少しいじければ、
お姉さんは楽しそうに笑う。
あの日から、学校の帰り道にお姉さんの所へ行くのが習慣になっていた。
僕が行くとお姉さんはやっぱりそこに座っていて、決して降りてこようとはしない。
僕はランドセルをそばに下ろして、定位置となった石段に腰掛ける。
お姉さんとするのはくだらない話ばかり。
「今日もいい天気だね〜」
「そうだね、でもそのせいで今日の体育はマラソンだった。」
「いいじゃん。体力つくし。」
「長距離は苦手なんだ。」
僕がそう答えればお姉さんは「貧弱〜」と笑う。
・・貧弱の意味が分からなかったけど後で調べることにする。
「・・お姉さんはいつもここにいるの?」
「んー、少年と出会った日からはね、毎日。」
「そっか。」
お姉さんはいつも学校の制服を着ていて、でもどこの制服なのかは分からない。
背格好からしてなんとなく高校生なのかな、そう勝手に思っているくらいだった。
自分の事は何も教えてくれないし、僕のこともあまり聞かない。
だけど僕たちはこうしてどうでもいい話をしたり、話をしなくてもただボーっと川を眺めていたりする。
変な関係だけど、不思議と心地よかった。
「・・次、原田くん。」
先生に名前を呼ばれて、教室の前までテストを受け取りに行く。
僕の算数の答案用紙を満足そうに眺めた先生は、
「さすがね。」と笑って花丸のついたテストを僕に渡した。
曖昧に頷いてから席に戻る。
「・・毎日遊ばないで勉強ばっかしてるもんな。」
「ちげーよ、遊ばないんじゃなくて遊ぶ友達がいないんだろ。」
僕の100点、と書かれた答案用紙を覗き込んで
後ろからそんな話し声が聞こえてきたけど、無視。
勉強は嫌いじゃない。
分かることが増えていくのは楽しいし、やったらやった分出来るようになるから。
特に算数は答えが一つしかないから好きだ。
逆に国語は少し苦手で、5点満点の問題で3点をつけられた時の
あの何とも表せない気持ちを感じるのが苦手だ。
「・・ただいま。」
「おかえり。」
玄関を開ければお肉を焼いている匂いがして、
今日の夕食はハンバーグかな、なんて予想をする。
「すぐ夕食出来るから、それまで宿題やっちゃいなさい。」
「・・うん。」
お母さんに言われるがまま、手洗いうがいをしてすぐに勉強机についた。
宿題を半分やり終えたところで、夕食作りに区切りがついたのだろう、
お母さんが僕のもとへ来て目の前の椅子に座る。
「今日テスト返しだったでしょ。出して。」
「・・はい。」
ランドセルからテストを出して、お母さんに手渡す。
帰ってきたテストは、数学と、理科と、国語。
3枚のテストをお母さんはじっくりと、隅から隅まで確認する。その瞳はとがっていて。
・・・ああ、この時間、本当に嫌。
自分が隅っこへと追いやられていくのを感じる。
とても息苦しくて、目が回りそう。
テストを確認し終わったお母さんは、
はあ、と一度ため息をついた。それでまた僕の心臓は激しく音を立てる。
「・・・国語。」
「はい。」
「もっと頑張りなさい、この前も同じような所間違えてたじゃない。」
「・・・・。」
算数は、100点。理科は96点。漢字を間違えてしまった。
国語は、80点。漢字は全部出来ていたけれど、文章題が何問か間違っていて。
「授業ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ。」
「だったら出来るはずじゃない。」
でも、お母さん。平均点は60点だったんだよ。
なんて言葉は僕の胸の中で消化される。
言葉には出せない、何も話せなくなってしまうのだ。
「まあ、数学と理科はよく出来たわね。」
「・・・。」
「次も、頑張りなさい。テストお疲れさま。」
さあ、ご飯にしましょうか。そう言ってお母さんは
もう用済み、とでもいうようにテストを机の上に置いていく。
胸のざわざわが収まらない。
でも気にしない、そのうち無くなる。いつもの事だ。
「おいしい?」
「うん。」
「よかった。ハンバーグにしようか生姜焼きにしようか迷ったのよ。
でもどうせなら好物にしてあげようと思って。」
そう言ってお母さんは優しく笑う。
どう反応するのが正しいのか分からず曖昧に頷く。
ありがとう、が正しいのだろうか、分からない。
夕飯は予想通りハンバーグだった。
僕のお母さんはとても料理が上手だと周りの人はよく言うし、僕もそう思う。
仕事が忙しいお父さんと夕食を一緒に食べる事はほとんどなくて、
普段からご飯を食べるのはお母さんと2人きりだ。
時計を見れば午後6時を少し回った頃で、この時間、最近周りではやっているアニメが放送されている。
けれど僕はそのアニメを見たことがない。ご飯を食べながらテレビを見る事をお母さんは許さないのだ。
ゲームも1日30分の決まりがある。前まではゲームもやっていたけれど、
一度時間を破ってしまい怒った母さんにセーブしていないまま電源を切られて、それからやめた。
時間を忘れて一生懸命倒したあの怪人の名前ももう忘れてしまった。
外食もほとんどしない。お菓子もお母さんの許可がないと食べてはいけない。
僕の家には、そういうルールがたくさんある。
僕のためを思って。それがお母さんの口癖だし、本心なのだろうと思う。
別に不満もない。怒られることもあるけど、毎日美味しいご飯を作ってくれるし、
「原田くんのお母さん、綺麗だね。うちのママとは大違い。」なんて同級生に羨ましがられることもある。
僕はきっと幸せなのだ。素敵なお母さんだ、不満なんてない。
・・・ただ、時々すごく、息苦しくなるだけで。
「少年、また来たの。」
お姉さんは今日も足をプラプラと泳がせて、僕に手を振る。
「うん」と頷いて石段へ腰かければ、
「今日は涼しいね〜」と笑った。
「毎日、ここへきて退屈じゃない?」
「全然。」
「そっか。放課後、友達と遊んだりしないの?」
「・・しない。」
退屈じゃないのは本当だった。
むしろ放課後行く場所が出来て、前よりも毎日が明るくなった気がする。
学校にいたって、家にいたって、
僕の毎日は薄暗くてつまらないのだ。
ふーん、とお姉さんは僕の目を見る。
なんとなく目が逸らせなくて、僕もお姉さんも見つめ返す。
「・・学校、楽しい?」
急にそう聞かれて言葉に詰まる。
簡単な質問なのに、すぐに答えられなかった。
「・・楽しいよ。」
「絶対嘘だ〜。」
「・・・嘘じゃないし。」
本当は嘘だ。学校を楽しいと思ったことなんて、1度もない。
友達と呼べる友達もいない。
・・・僕はいつだって嘘つきだ。
心の中はぐちゃぐちゃなのに、
思ってもない事がスラスラ出てくる。
小さい時、お母さんのお気に入りのマグカップを割ってしまった事がある。
その時お母さんは風邪をひいていて、寝込んでいるお母さんに飲み物を持って行ってあげようと思ったのだ。
椅子に立って食器棚に手を伸ばす。
背伸びをしても少し届かない。あともうちょっと、もうちょっと。
あ、届いた。そう思った瞬間、食器棚から滑り落ちたマグカップは派手な音を立てて割れた。
お母さんが急いで駆け寄ってきて、僕の心臓はもうバクバクで。
『お菓子をとろうとしたんでしょ!』
お母さんは、そう言って僕を怒った。
食器棚の奥にはお菓子が入っているカゴがあって、それは僕も知っていた。
知っていた、けれど。
『違うよ!僕は・・』
『言い訳しないの!』
『本当に違うんだよ!』
そうだ、あの時はちゃんと自分の言葉で話せた気がする。
思ったことがそのまま口に出せたんだ。
『聞いてよ、お母さん。僕はね・・』
「言い訳は聞きたくないわ!お母さんは嘘つきは嫌いよ!」
嘘つき、その言葉が胸にグサリ、と刺さった。
「お母さん具合悪いの知ってるでしょ!どうしてこういう事するの・・・」
お母さんははあ、とため息をついて、
フラフラしながらマグカップの破片を拾い集める。
違うんだよ、お母さん。
お菓子なんてとろうとしてないよ、マグカップをとろうとしたんだよ。
お母さんに、お茶を持って行ってあげようと思ったんだよ。
そんな言葉は、もう、僕の心の中で消えた。
結局、僕は嘘つきになってしまった。
昔から嘘つきだったのかもしれない、あの時だって、
本当はお菓子をとろうとしてたのかもしれない。もうよく覚えていない。
覚えていないけど、今僕が嘘つきなことは確かだ。
誰の前でもそうなのだ。
上手く自分の気持ちを話せない、本当の事が言えない。
だから、僕は僕が嫌いだ。
「・・本当に、嘘じゃないよ。」
違う、嘘だ。これも全部全部、嘘。
お姉さんは僕の瞳をじっと覗き込む。
その瞳があまりにも真っすぐで、息が詰まった。
しばらくの沈黙の後、
お姉さんは少し目を伏せて、ふわりと笑う。
「少年。」
「噓つきは泥棒の始まり、なんて、そんなの嘘だよ。」
頭の中を覗き込まれたようでドキッとする。
そんな僕に気づいているのかいないのか、お姉さんは言葉を続けて。
「つかなきゃいけない嘘だってあるし、人を助ける嘘もある。
別に嘘をつくことは悪い事じゃないんだよ。」
「嘘から泥棒に繋がるなんて、誰が考えたんだろうね。」
「でも、あえて言わせて。」
「少年。自分の気持ちに、嘘をついちゃいけません。」
小さな子供なだめるように、
叱り口調だけれど、でもとても優しい声で、やさしい顔で、お姉さんは笑う。
「・・なに、それ」
絞り出した言葉はそんな返事で。
お姉さんはまたふっと笑って、
「覚えときなよ」とひらひらと僕に手を振った。
「原田。」
学校での休み時間。
廊下で急に同級生に声をかけられた。
「なに?」
そう返事をして振り返れば、そこにいたのはいつも何かと僕に文句をつけてくる奴。
そのまま何も言い出さない彼をじーっと見ていたら、気まずそうに口を開く。
「・・どうしても読書感想文を書かなくちゃいけなくて。俺普段全然本読まないから何書いていいかわからないし。」
僕の小学校では毎年、
この時期にクラスから2人ずつ選ばれて読書感想文をかかされる。
そういえば、この前の学活の時間にくじびきで見事当たっていたっけ。
「だから、おすすめの本とか、読書感想文の書き方とか・・教えて欲しいんだけど!」
「・・別にいいけど。」
僕がそう答えれば彼__井上は目を輝かやかせて屈託のない笑顔を見せる。
「うそ!まじでいいの!サンキュー!」
そしてさっきまでの気まずそうな感じはどこへやら。
僕の肩をバシバシとたたく。痛い。
面倒なことを引き受けてしまったなとも思ったが、別に対して断る理由もないので、
しばらくの間井上の読書感想文作りを手伝うこととなるのだった。
「読書感想文かあ、懐かしいな。」
「お姉さんは本読むの好きだった?」
「好きだよ、今も好き。少年も好きそうな顔してる。」
「なにそれ、どんな顔してるの僕。」
ははっ、と笑ったお姉さんは、少し黙って遠くを見つめた。
風で紺色のスカートと黒髪が揺れる。
お姉さんの目には世界はどう映っているんだろう、なんて急に思った。
「そういばさ、少年は、」
「ん?」
「お弁当はすき?」
唐突にそんな質問をされ、少し答えに詰まる。
・・・お弁当。
「好き、かなあ。」
お母さんのお弁当はいつもカラフルで、そして美味しくて。
僕の大好きな甘い卵焼きが、他の具材よりも少し多めに入っているんだ。
普段は給食だけど、遠足の日とか、運動会の日とか。
なんだか特別な感じがして、お弁当の蓋を開く瞬間はすごくわくわくする。
「・・そっか。」
僕の答えを聞いて、お姉さんは少し寂しそうに笑った。
「私はね、好きじゃないんだ。」
「なんで?」
お弁当嫌いな人なんているんだ、そんな事を思ってしまった僕の心を
読んだかのようにお姉さんはふっと笑う。
「だってさ、お弁当って蓋を開ける時のわくわくが醍醐味じゃん?」
「・・・だいごみ?」
「あーごめん。えっと、ふたを開ける時にさ、
何が入ってるかな~ってわくわくするでしょ?」
「うん。」
「でも私はいつもわくわくしないの」
「どうして?」
「だって中に入ってるもの、全部わかっちゃうんだもん。」
どういう事かすぐには理解できなくて、
そして理解する前にまた話が変わる。
「少年は兄妹とかいるの?」
「ううん。一人っ子だよ。」
「そっか。」
「お姉さんは?」
「私はね、お姉ちゃんがいるよ。」
「えー、いいなあ。」
僕の言葉にほんと?と笑う。
兄妹がいるという事はとてもうやらましい。
お姉ちゃんに勉強を教えてもらったとか、弟と買い物に行ったとか。
ときたま耳に入ってくるクラスメイトの話に、いいな~なんて思う事もある。
・・・ああでも、それだけじゃなくて。
「兄妹欲しかったの?」
「だってなんか楽しそうだし。
・・・・それに。」
「うん。」
「もし僕にお兄ちゃんとかがいれば、勉強出来なくても怒られなかったかなって。」
もし勉強のできるお兄ちゃんがいたならば。
おかあさんは僕に何も言わないでいてくれるのかな。
逆にもし勉強のできないお兄ちゃんがいれば、
少しでもいい点取れたら褒めてくれたのかな、なんて。
僕の言葉の後に訪れた沈黙に、
あ、しまったと思った。
こんなこと言うつもりなかったのに。
少し怖くなって俯いていれば、
無意識のうちに口からこぼれた僕の言葉を
おねえさんは優しくすくう。
「少年。」
「いつも頑張ってて、えらいねえ。」
顔を挙げれば、
そこにあるのはおねえさんの笑顔。
「・・なに、それ。子ども扱いしないでよ。」
「だって子供でしょ?」
「うるさいなあ。」
照れてそんな事を言えば、
耳真っ赤だよ、なんておねえさんは僕をからかう。
その後も少し話をして、暗くなる前に帰らないと親に叱られてしまうので、
薄暗くなってきた所でランドセルを背負って立ち上がった。
「ばいばい、少年。」
「ばいばい。」
お姉さんが僕より早く帰るところは見たことがない。
一晩中ずっとあそこに居るなんてことはないだろうけど、暗くなっても座ってるのかな、なんて思ったら、
暗くなっても座っているお姉さんの後ろ姿を想像したら、急に、切なくなった。
「直、これつくえに持っていってくれない?」
「はーい。」
今日の夜ご飯はオムライス。いい香りにお腹がぐーっと音を立てる。
お母さんと向かい合わせで座って、せーので頂きますをして。
時刻は午後6時頃。
外はまだ少し明るくて、高校生だろうか。
制服姿の人たちが固まって歩いている。
「にぎやかねえ。」
開けた窓から聞こえてくる声に、
お母さんは少し微笑んで。
・・・そういえば、お姉さんはどこの高校なんだろう。
そもそも本当に高校生かどうかすらお姉さんの口から聞いた事もない。
制服の違いなんて僕にはわからないし、ああ、でも。
いつも風に揺れているお姉さんの制服のすそを思い出す。
胸のあたりに、学校のマークのようなものがついていたなあ。
「お母さん。」
「ん?」
「高校の制服ってさ、胸の所にマークが入っているものなの?」
「そうねえ。そういう所も多いんじゃないかしら。校章って言うのよ。」
その言葉を聞いて、僕はなんだかワクワクしてしまった。
探偵が大事なヒントに気づいた時みたいな、そんな気持ち。
だってそのマークは高校のしるしって事だ。そのマークさえわかれば、お姉さんの通っている場所が分かるんだ。
もう一度お姉さんの制服姿を思い浮かべて、
お母さんに伝えてみた。お母さんは僕の説明を聞いて自分の左手を指でなぞりながら、ポンっと手を叩く。
「ああ、笠波高校じゃない?」
「かさなみ?」
「そう、かさなみ。女子高なんだけどね、すごく頭がいいのよ。」
「そうなんだ。」
お姉さん、頭がいいんだなあ。でも確かにそんな感じもする。
「卒業した生徒も、大学もみんなすごく頭のいい所に行っててね。」
「へえ・・。」
「本当にもったいないわよねえ。」
「もったいない?」
「もう何年か前に、廃校になっちゃったの。」
「・・・ほんとに?」
嘘ついてどうするのよ、とお母さんは笑う。
僕もあいまいに笑い返して、でも頭の中は混乱していた。
お姉さんはなんでもうないはずの学校の制服を着ているんだろう。
じゃあ何歳なんだろう、本当は高校生じゃないのかな、いやそれも全部僕が勝手に思ってただけか。
なんだかよく分からなくなってしまって、気づけばご飯を食べる手が止まってしまっていたのか、
「早く食べちゃいなさい。」とお母さんを不機嫌にさせてしまった。