五十川は、凛を連れて自分の教室を訪れた。先日終業式を迎え、もう席につく予定のない教室の扉を開けた。
「確かに、榎本さんはよく来てたよな」
 凛は翔太に会うため、しょっちゅうこの教室まで足を運んでいた。凛の席を作った方がいいんじゃないかと、翔太がクラスメイトにからかわれるほどだった。
 その話を聞いて、凛は少し恥ずかしそうに笑う。
「私、よっぽど来てたんだね」
「そんだけ好きだったってことだよ」彼は廊下側から三列目、後ろから二番目の席を指さした。「あそこ、翔太の席だよ」
 彼の席は彼がいなくなっても、この年度だけはと残されていた。基本的に真面目な翔太は、席に勉強道具を置きっぱなしにすることもなかったから、机の中は空っぽだ。落書きも見当たらない。
 松葉杖をつきながら凛は席に赴く。じっと机を見つめていたが、やがて教卓のそばにいる彼に「五十川くん」と振り向いた。
「私、こんな感じだったのかな」
 彼が意味を問いかける前に、彼女は明るい笑顔で席の方を向いた。
「ねえ、翔太。今日一緒に帰ろうよ!」
 張り上げた元気な声が、教室の壁に吸い込まれていく。
「部活お休みだから、駅まで一緒に行こう!」
 胸が潰れてしまう前に、凛は喉を震わせる。「私さ……」大きく息を吸う。
「私、ちょっと怪我しちゃった」松葉杖を握りしめる。「でも、心配しなくていいよ。普通に歩けるぐらいには回復するって、お医者さんも言ってたから」
 きっと、続くならこんな毎日。また二人が通えるようになるならば、これは日常の風景。
「大丈夫だってば!」
 一緒に中庭で弁当を食べて、一緒に図書室で勉強をして、一緒に駅まで歩いて帰って。
「心配、しないで」
 毎日笑顔で、楽しくて、幸せで。
「私は、大丈夫、だから……」
 ずっとずっと、そばにいて。
「……翔太も、笑って……」
 泣き崩れる凛の肩を支えるのは、慌てて駆け寄る五十川の両手だった。
「榎本さん……」彼にもわかった。彼女の描く日常では、翔太は今、とても不安そうな顔をしている。彼女の怪我を心配して、迎えは来るのかとか、体育はどうしてるとか、そういったことを聞いている。
 そして凛は、そんな日々が永遠に訪れないことを深く理解している。だからこうして彼の名を呼び、彼のいた空間で子どものように声をあげて泣いている。
「ばかやろう……」五十川は呻いた。幸せにしろって言ったのに。わかったって、言ったくせに。
 翔太の返事の代わりに、彼を呼ぶ凛の泣き声だけが教室に響いていた。