十一月にしては、随分と部屋は冷え込んでいた。翔太は窓を閉め、効きの悪い電気ストーブをつけ、温かな紅茶を入れたカップを凛に渡した。礼を言う彼女は、いつものように嬉しそうに笑ってくれる。
「この本、ありがとう」
学習机に乗せていた文庫本を彼女に差し出す。「夢十夜」を受け取った凛が裏表紙を見るのに、翔太は居心地が悪くなる。
「ごめん。名前、勝手に見て」
「ううん、いいの。そっか、ここで分かっちゃったんだ」細い人差し指で名前をなぞる彼女は、「こんな夢を見た」と言う。
「引っ越した先の知らない町。交差点を左に曲がると、ある食堂の暖簾が目に入った。お腹を空かせた私は、吸い寄せられるように暖簾をくぐる」
「それ、凛の夢の話か」
「うん。だから私は、あの日よつば食堂に行ったの」彼女は照れくさそうにはにかむ。「大当たりだった。皆と知り合えたし、翔太にも出会えた。本当に、あの夢を見てよかった」
「全部、夢のおかげだったんだな」彼女がそんな夢を見なければ、今こうして一緒にいることもなかったかもしれない。「いつから、そういう夢を見てたんだ」
翔太が尋ねると、彼女は遠い記憶を呼び覚ましながらカップの縁を指でなぞる。
「いつからだろう……。お父さんが捕まって、お母さんがいなくなって……叔父さんのところに預けられてしばらくした頃かな。私、子どもらしくない子どもだったの」
一口紅茶を飲み、彼女はほっと息をつく。
「いつも、幸せになりたいって思ってた。毎日寂しくて、悲しくて。私なんか駄目だって思ってるくせに、心の奥ではやっぱり幸せが欲しかったの。少しでも良い方を選ぶのに必死になってた。子どもなのに、可愛くないよね」恥ずかしそうに笑う。「そのうち、次に起こることの夢を見るようになって、その通りにしたら不思議と良いことが起こって。ジュースが当たるようなちょっとしたことが多かったんだけど、私にはそれが救いになったの。なんでこんな夢を見るのかは、今でもわからないんだけど」
「俺、神様とか信じないけどさ」翔太は凛に笑いかけた。「もしいるんだったら、凛の夢はきっと特別に与えられたものなんだよ。凛が少しでも幸せになるために、見せてくれてるんだ」工事現場の事故を思い出す。彼女が自分の無事を幸せだと思ってくれていたから、今こうして生きているのだ。
「凛の夢なら信じるよ」
「ありがとう。信じていて」
嬉しくて幸せで、二人は顔を見合わせて笑った。
次第に部屋が温まり、散々眠ったにもかかわらず、翔太は再び眠くなってしまう。凛と並んで壁にもたれると、頭の中がとろんと蕩けた様な虚脱感に襲われる。そうして、今までずっと緊張していたことに気が付く。
「これから、どうするの」
「どうしよう」凛の囁くような声に、眠たげな声で返事をした。「学校、行けないし。ここにももう、居られないし」
大きく息をつく。「あんなに勉強したのになあ」嘆息すると、凛が不安そうに尋ねた。
「後悔、してる?」
「後悔って、どうして」
「これなら入らなきゃよかったって。そんなこと思ったりする?」
「そんなわけないよ」笑って翔太は否定した。「この半年、本当に楽しかったよ。友だちも出来たし、凛とも付き合えたし。海を見に行った日も、昨日のことみたいに覚えてる。後悔なんてするわけない。そりゃあ三年間通いたかったけど、俺はこの時間があったこと、絶対に忘れない。一生の自慢だよ」
翔太の本心を聞いた彼女は、「そうだよね」と頷いた。
「私も、本当に楽しかった。あと二年、通いたかったなあ」
「何言ってんだよ。凛は学校辞めたりしないだろ」
翔太の台詞に、凛は悲しそうな顔で笑ったまま、ゆっくりと首を横に振った。
「私、転校するんだって」
目を丸くする翔太に、「また、引っ越すの」と凛は言う。
「ここは不便だって叔父さんも叔母さんも言ってて、来年の三月で友加里さんも短大卒業するから、タイミングが丁度いいって。だから私も、学校辞めないといけないんだ」
「なんだよそれ……タイミングって、凛には全然よくないじゃんか」
「仕方ないよ。私は、住まわせてもらってるんだもん」
「一人暮らしして通うとか出来ないのか」
「私もそう言ったの。アルバイトするから、ここに居たいって。だけど、私を一人にしたら何するかわからないって、許してくれなかった。信用ないよね」
「そんな。凛が人の迷惑になるようなこと、するわけないだろ」
「仕方ないの。信用なんて、初めからないから。ちゃんと勉強して、進学して、いい会社に入って、外に出て恥ずかしくない人間になれって。ただでさえ私は、親戚の恥なんだから……」
凛のどこが「恥」だって? 翔太にはふつふつと怒りがこみ上げてきた。こんなに一生懸命生きている彼女を、何故信用しないんだ。どうして苦しい思いばかりさせるんだ。
「叔父さんが、転入先の学校も決めちゃったの。有名な女子高だって」
目を伏せる彼女は辛うじて笑っているが、その顔は今にも泣き出しそうに見えた。たくさんのものを乗り切ってきた笑顔だ。そこに隠された涙に、彼女の家の人間は気づかないのだろう。気づいても、見て見ぬふりをするのだろう。
「無理するなよ」
翔太が言うと、彼女はその笑顔を上げた。必死に自分を押し殺し、周囲を騙すための顔。
その孤独に、ぴしりとヒビが入った。「私……」彼女の声が震える。
「……辞めたくない」彼女は潤む目元を拭う。「今まで通りの毎日がいい。翔太がいる学校に通いたい」
翔太は、彼女の肩を抱く。彼女は力なく彼にもたれかかり、濡れた声で言う。
「でも、翔太も辞めちゃうんだよね」
「うん」
「この部屋も、出て行っちゃうんだよね」
「うん」
「……一緒にいたいよ」
彼女の頭に額をくっつけ、翔太は考えた。望まないことだらけだ。足掻いてもがいて必死に手を繋いでいるのに、まだ世界は意地悪をする。どうしようもない運命ばかり課してくる。
「……凛」
それなら、もっと足掻こう。もがき続けよう。世界が諦めてしまうまで、手を離さないでいよう。
「一緒に、遠くに行こう」
彼女の目を見つめる。
「誰も知らない場所に行こう。どこまでも、一緒に逃げよう」
手を握ると、凛も強くその手を握り返す。
「……うん!」
生きる理由が、見つかった。
「この本、ありがとう」
学習机に乗せていた文庫本を彼女に差し出す。「夢十夜」を受け取った凛が裏表紙を見るのに、翔太は居心地が悪くなる。
「ごめん。名前、勝手に見て」
「ううん、いいの。そっか、ここで分かっちゃったんだ」細い人差し指で名前をなぞる彼女は、「こんな夢を見た」と言う。
「引っ越した先の知らない町。交差点を左に曲がると、ある食堂の暖簾が目に入った。お腹を空かせた私は、吸い寄せられるように暖簾をくぐる」
「それ、凛の夢の話か」
「うん。だから私は、あの日よつば食堂に行ったの」彼女は照れくさそうにはにかむ。「大当たりだった。皆と知り合えたし、翔太にも出会えた。本当に、あの夢を見てよかった」
「全部、夢のおかげだったんだな」彼女がそんな夢を見なければ、今こうして一緒にいることもなかったかもしれない。「いつから、そういう夢を見てたんだ」
翔太が尋ねると、彼女は遠い記憶を呼び覚ましながらカップの縁を指でなぞる。
「いつからだろう……。お父さんが捕まって、お母さんがいなくなって……叔父さんのところに預けられてしばらくした頃かな。私、子どもらしくない子どもだったの」
一口紅茶を飲み、彼女はほっと息をつく。
「いつも、幸せになりたいって思ってた。毎日寂しくて、悲しくて。私なんか駄目だって思ってるくせに、心の奥ではやっぱり幸せが欲しかったの。少しでも良い方を選ぶのに必死になってた。子どもなのに、可愛くないよね」恥ずかしそうに笑う。「そのうち、次に起こることの夢を見るようになって、その通りにしたら不思議と良いことが起こって。ジュースが当たるようなちょっとしたことが多かったんだけど、私にはそれが救いになったの。なんでこんな夢を見るのかは、今でもわからないんだけど」
「俺、神様とか信じないけどさ」翔太は凛に笑いかけた。「もしいるんだったら、凛の夢はきっと特別に与えられたものなんだよ。凛が少しでも幸せになるために、見せてくれてるんだ」工事現場の事故を思い出す。彼女が自分の無事を幸せだと思ってくれていたから、今こうして生きているのだ。
「凛の夢なら信じるよ」
「ありがとう。信じていて」
嬉しくて幸せで、二人は顔を見合わせて笑った。
次第に部屋が温まり、散々眠ったにもかかわらず、翔太は再び眠くなってしまう。凛と並んで壁にもたれると、頭の中がとろんと蕩けた様な虚脱感に襲われる。そうして、今までずっと緊張していたことに気が付く。
「これから、どうするの」
「どうしよう」凛の囁くような声に、眠たげな声で返事をした。「学校、行けないし。ここにももう、居られないし」
大きく息をつく。「あんなに勉強したのになあ」嘆息すると、凛が不安そうに尋ねた。
「後悔、してる?」
「後悔って、どうして」
「これなら入らなきゃよかったって。そんなこと思ったりする?」
「そんなわけないよ」笑って翔太は否定した。「この半年、本当に楽しかったよ。友だちも出来たし、凛とも付き合えたし。海を見に行った日も、昨日のことみたいに覚えてる。後悔なんてするわけない。そりゃあ三年間通いたかったけど、俺はこの時間があったこと、絶対に忘れない。一生の自慢だよ」
翔太の本心を聞いた彼女は、「そうだよね」と頷いた。
「私も、本当に楽しかった。あと二年、通いたかったなあ」
「何言ってんだよ。凛は学校辞めたりしないだろ」
翔太の台詞に、凛は悲しそうな顔で笑ったまま、ゆっくりと首を横に振った。
「私、転校するんだって」
目を丸くする翔太に、「また、引っ越すの」と凛は言う。
「ここは不便だって叔父さんも叔母さんも言ってて、来年の三月で友加里さんも短大卒業するから、タイミングが丁度いいって。だから私も、学校辞めないといけないんだ」
「なんだよそれ……タイミングって、凛には全然よくないじゃんか」
「仕方ないよ。私は、住まわせてもらってるんだもん」
「一人暮らしして通うとか出来ないのか」
「私もそう言ったの。アルバイトするから、ここに居たいって。だけど、私を一人にしたら何するかわからないって、許してくれなかった。信用ないよね」
「そんな。凛が人の迷惑になるようなこと、するわけないだろ」
「仕方ないの。信用なんて、初めからないから。ちゃんと勉強して、進学して、いい会社に入って、外に出て恥ずかしくない人間になれって。ただでさえ私は、親戚の恥なんだから……」
凛のどこが「恥」だって? 翔太にはふつふつと怒りがこみ上げてきた。こんなに一生懸命生きている彼女を、何故信用しないんだ。どうして苦しい思いばかりさせるんだ。
「叔父さんが、転入先の学校も決めちゃったの。有名な女子高だって」
目を伏せる彼女は辛うじて笑っているが、その顔は今にも泣き出しそうに見えた。たくさんのものを乗り切ってきた笑顔だ。そこに隠された涙に、彼女の家の人間は気づかないのだろう。気づいても、見て見ぬふりをするのだろう。
「無理するなよ」
翔太が言うと、彼女はその笑顔を上げた。必死に自分を押し殺し、周囲を騙すための顔。
その孤独に、ぴしりとヒビが入った。「私……」彼女の声が震える。
「……辞めたくない」彼女は潤む目元を拭う。「今まで通りの毎日がいい。翔太がいる学校に通いたい」
翔太は、彼女の肩を抱く。彼女は力なく彼にもたれかかり、濡れた声で言う。
「でも、翔太も辞めちゃうんだよね」
「うん」
「この部屋も、出て行っちゃうんだよね」
「うん」
「……一緒にいたいよ」
彼女の頭に額をくっつけ、翔太は考えた。望まないことだらけだ。足掻いてもがいて必死に手を繋いでいるのに、まだ世界は意地悪をする。どうしようもない運命ばかり課してくる。
「……凛」
それなら、もっと足掻こう。もがき続けよう。世界が諦めてしまうまで、手を離さないでいよう。
「一緒に、遠くに行こう」
彼女の目を見つめる。
「誰も知らない場所に行こう。どこまでも、一緒に逃げよう」
手を握ると、凛も強くその手を握り返す。
「……うん!」
生きる理由が、見つかった。