その日にシフトは入っていなかったが、学校から急いで店の事務室に向かう。些か緊張しながら部屋に入ると、難しい顔をした楠が、相変わらず書類で溢れるデスクに向かっていた。
「雨宮くん」翔太に椅子を勧めると、彼は早速切り出す。「僕らに隠してることがあるよね」
「隠してること?」
 もしかして、レジのお金でもなくなって、それを疑われているのだろうか。まるで分からないという顔をする翔太に、楠はさらに尋ねる。
「君はどうして、家のある若葉町からわざわざここまで遠出してきてるのかな。もっと近いバイト先もあるよね」
「それは、その……受からなくって」
 正直に翔太は言ったが、彼は眉間に皺を寄せたままだ。
「なんで受からなかったのかわかる?」
「えっと……」嫌な予感が急激に高まり、翔太は言い淀んだ。
「雨宮くんは、真面目だよ。物覚えもいいし、遅刻もしない。そこらの大学生より、ずっとしっかりしてる。正直、何でほかの店に受からなかったのか疑問だったんだ」
 黙り込んだ彼に、楠はため息をついた。
「正直に言って欲しかったな」
「もしかして、佐々木さんのことですか」
「あのね、客商売っていうのは信頼が大事なんだよ。あんな事件起こした犯人の身内なんてね……」
「僕は身内なんかじゃない」半年前に何度も繰り返した文句を口にするのは、まるで悪夢のようだった。
「君はそう思うかもしれないよ。けど、伯母さんの婚約者だったんだろう」
「それは、二人の話です。僕にとってあの人は、家族でもなんでもない。他人です」
「詳細はそうかもしれない。でもね、いちいち周りの人はそこまで考えてくれないよ。だから君は若葉町の店に受からなかったんだよね」
 黙り込んだ翔太に、楠はため息をついた。
「何で言ってくれなかったの」
「言う必要がないと思ったからです」
「困るなあ。僕もね、ショックだったんだよ。まさか君が、僕らを騙してたなんて」
「騙してなんか……」
「信頼してほしければね、君も人を信頼しないといけないよ」楠は、まるで小さな子に言い聞かせるようだ。
「言っていれば、採用してましたか」
「それはねえ……」痛いところを突かれ、楠は話を逸らす。「雨宮くん、少なくともこんなやり方は駄目だよ。嘘はいつかバレるんだから」
 嘘なんてついてない。そう叫びたくなるのを、翔太は必死に堪えた。
「これ、今月分」引き出しから封筒を取り出してデスクに置く。「あとエプロンとか、私物持って帰っといてね。処分してほしかったら置いておいてもいいから」
「そんな、いきなり……」絶句した翔太に、楠は申し訳なさそうな顔をする。
「僕らもね、こんなやり方はしたくなかったよ。けれどね、教えてくれたのはお客さんなんだ。あの子、そうなんじゃないかって。噂っていうのはあっという間に広まるからね……早めに手を打たないといけないんだ」
「だからって……」青ざめながら翔太は必死に続ける。「僕、ここ以外にお金をもらえる当てがないんです。授業料払える手立てが何もなくって……学校、辞めないといけなくなる」
「それは気の毒だけどね。……まあ、働きながら夜間に行くとか、大検取るって方法もあるから」
 そんな問題じゃないと、翔太は弱く首を振った。自分は今のまま青南高校に通いたいのだ。凛が笑ってくれて、クラスに五十川がいて、最近友だちも増えてきた学校が好きなのだ。第一、働く場所をすぐに見つけられるなら、今こんな話をしていない。今まで貯めた分でしばらくの授業料は賄えるが、その後はどうしようもない。
「せめて、少し待ってください。次のバイト先探すので、それまで」
「それを待ってたらいつになるか、それこそ分からないよ。こんな言い方したくないけど、君のことは店だけじゃなくて、働いてる他の人にも迷惑になるんだ。わかるかな。お客さんが減ったら、みんなの働き先がなくなるんだ。それって後味悪いだろう」
 なんてずるい言い方だろう。翔太は呆然と思った。これではまるで、今まで仲良く一緒に働いていた人たちが、声を合わせて追い出そうとしているみたいじゃないか。
「君はまだ高校生だから」取りなすように楠は言った。「方法はいくらでもあるよ」
 これ以上は何と言っても取り合ってくれないようだった。楠は翔太の手に封筒を押し付けると立ち上がるように促し、デスクに向かってしまった。
 翔太は何か抜け道がないかと懸命に頭を働かせていたが、更衣室に入ってすぐに諦めた。先日まで並んでいた自分のタイムカードだけ無くなっていたからだ。ぽっかりと空いたその空間を見た途端、全ての気力が削ぎ落ちていった。
 エプロンとポケットに入っているボールペン。それに小さな手帳。中には教えられた仕事内容がびっしりと書かれている。そのページを捲っていると、力が抜けて膝をついてしまいそうになった。手帳とボールペンをエプロンでくるくるとまとめ、隅のごみ箱に叩き込んだ。