不思議なほどに、心が落ち着いていた。あれほどうるさかった動悸もおさまり、今はもう焦りも不安もない。
 空っぽだ。心が痛くなるような静寂。叩けば響くような空洞。自分の中にそれがあるのではなく、自分がそうなってしまったような感覚。
 奇妙なそれに捕らわれていた身体が、ふいに騒がしい音を拾った。畳を踏みしめて立ち上がり、襖を開け、キッチンの電話台に向かう。相手も確かめずに受話器を取った。
「もしもし」緊張した声。「あの、榎本凛といいます」
 翔太が返事をしないでいると、彼女は迷いながらも「翔太くん、いますか」と続ける。
「いるよ」
 間抜けた返事に、ぱっと彼女の声のトーンが上がった。
「遅くにごめんね。今、電話大丈夫?」
「うん」
「最近、すごく調子悪いみたいだから、心配で……。学校でもなかなか会えないし、ボタンも、その、拾ってくれてなかったから……」
「ごめん、大したことじゃないんだ」丘の下を確認する余裕など、最近の翔太には存在しなかった。
「ううん。それならいいの。五十川くんも心配してて、翔太が教室でも様子がおかしいって」
 暗い部屋の中、ディスプレイがぼうっと光っている。それを見下ろしながら、翔太はただ、凛の声を聞く。
「それで、もしかして……その、お姉さんと何かあったのかなって」
「お姉さんって、凛の」
「そう。友加里さんが、このまえ翔太と会ったって言ってたの。だけど、話した内容とか教えてくれなくって……気になるんなら、自分で聞けって。番号教えてくれて」
 翔太は思わず小さく笑った。そう来たか、と思った。
「凛と別れろって言われた」
 彼女が電話の向こうで黙り込む。驚く様子がないことから、彼女もそれは想定していたらしい。
「もちろん、嫌だって言ったよ。俺は凛が好きなんだから」
「そう……」
 ほっとした様子が伝わってくる。翔太は「だけど」と続ける。
「これで、よかったのかな」
「どういう意味」
「あの人、義理でも凛の姉だろ。気強そうだし、凛が家でもっといじめられることにならないかって、心配なんだ」
「そんなの……」掠れた声だったので、凛は言い直す。「そんなの、大丈夫だよ」
「それがずっと、不安だったんだ」
 翔太は、嘘をついた。彼女の立場は確かに心配だが、不安の大本はもっと別のところにある。
「そうだったんだ」凛は心底安堵している。「翔太は、優しいね。私のことなんか、なにも気にしなくていいのに」
「そういうわけにはいかない」
 凛は、あの事件についてどう思っているのだろう。この前美沙子に聞かされた全容からも、彼女はある程度悟っているに違いない。翔太が、自分の父親が起こした事件の被害者である可能性に、気付いていないわけがない。あれから学校を休んだ体調不良は、そのショックに起因するものだったのだろう。
「翔太……」
 彼女はきっと、一縷の望みにかけている。翔太がほんの少し前まで願っていたのと同じように、よく似た全く別の事件である可能性を願っている。そうでなければ、学校で翔太と顔を合わせられるわけがない。
「翔太、どうしたの」
 ひどい話だな。なにも自分たちでなくてもいいのに。そう思い、翔太は声を出さないまま表情だけで笑った。やっと互いに素直になれたのに、希望を見出し始めたのに、ここまでして引き裂こうとするだなんて。
「ねえ、翔太」
 ようやく翔太は、凛が何度も自分を呼んでいたことに気が付いた。
「なに」
「やっぱり、なにかあるの」
「なにかって」
「それは……秘密にしてること」
 凛だって、この不安を秘密にしてるじゃないか。あの時「翔太の」って言いかけたのは、「翔太の前の名字は何」って聞きたかったんだろ。だけど俺の答えを聞くのが怖くて、先延ばしにしてるんだ。お互い様じゃないか。
「それは、俺の台詞だよ」
「え?」
「俺は、凛のことが心配で、誰よりも大切だ。その気持ちに嘘はない。だけどごめん、今は頭がいっぱいなんだ。また、俺から連絡するよ」
 そう言うと、凛の返事も待たずに翔太は受話器を置いた。もう誤魔化すことにへとへとに疲れてしまった。これ以上会話を続ければ、凛に対して嫌な台詞を吐いてしまう。大好きな彼女にそんな真似はしたくないし、後で猛烈に後悔するだろう。
 ディスプレイの灯りが消え去るのを見届け、翔太は壁に背を当ててしゃがみ込んだ。電気も点いていない静まり返った部屋の中、空っぽだけが音を立てるのを聞いた。それはまるで、泣いているようだった。