体勢を変えて彼女はベッドから下りる。「寝てないと」と言う翔太に、「大丈夫」と返事をして本棚のそばに寄る。
「この本、次に貸そうと思ってたの。読んだことある?」
 彼女が取り出した一冊を見て、翔太は「ない」と首を振る。「タイトルは聞いたことあるけど、そういえば読んだことはない」
「前の家に住んでた頃にお母さんから貰って。私、この本好きなんだ。だから翔太にも読んでみて欲しいの」
 「夢十夜」という本だった。「夏目漱石」の文字を見て、翔太は意表を突かれる。
「前の家って、何歳の時に読んでたの」
「貰ったのは小学校低学年だけど、ちゃんと読んだのはもうちょっと大きくなってからだよ」
「すごいな」
 素直に感心しながら、本をぱらぱらとめくる。彼女の言った通り、背表紙には名前が書いてあり、その苗字をシールが隠している。榎本家に引き取られる前から読んでいた証拠だ。
「ありがとう」翔太は本を鞄にしまった。
「ごめんね、休んでること知らせられなくって」
「そんなの、謝らなくていいよ。悪いことじゃないし、一番しんどいのは凛なんだから」
 帰る素振りを見せると、凛は玄関で見送ると言ってついてこようとする。
「いいよ、寝てて」
「だいぶ良くなったから。それぐらい、大丈夫」
「そんなこと言っても、すごく顔色悪いよ。学校休むぐらいなんだから、少しでも寝てないと」
 言ってから、翔太は凛が自分をじっと見つめていることに気が付いた。とても不安そうな、悲しそうな、思いつめた目をしている。いつも元気で笑っている彼女に似つかわしくない表情には、見覚えがあった。八月の夏の海岸で栞を渡したとき、大喜びした後に見せた、悲しい過去に囚われている顔。あの時のものによく似ている。
「……翔太」
 心細い声。けれど彼女は、弱々しくも笑ってみせた。
「今日は、来てくれてありがとう。会いたかった」
 その一言で、普段あまり笑顔を見せない翔太も、思わず笑ってしまう。もしかしたら会いたくないのかも、なんていうのは全部杞憂だった。ほっとすると共に、少しでも彼女を疑った自分が嫌になる。だがその「嫌」という感情よりも今は嬉しさが勝り、見舞いに来てよかったと心の底から思う。
「じゃあ、また」
「うん。またね」
 彼女がベッドに腰を下ろしたのを見届けて、翔太は部屋を出た。
 階段を下りると物音を聞きつけたのか、奥に続くドアが開いて友加里が姿を現した。
「帰ります。お邪魔しました」
 彼女にそう挨拶して、翔太は玄関で靴を履く。「ねえ」友加里の声に顔を上げ、彼女を見上げた。三和土にいる翔太の方が視線を上げる形になったのだ。
「あんた、今日何できたの」
 意味が解らないでいると、「サプライズ?」と彼女はいつもの不機嫌な表情で言った。
「あの子、あんたが来るの知らなかったみたいじゃん。すごく驚いてたんだけど」
「あの、僕、自分用の連絡手段持ってなくて……学校から直接来たから、家に帰って電話とか出来なかったんです」
「スマホ持ってないの」
「持ってないです。……急に来て、すみませんでした」
 もしかしたら予期せぬ訪問が気に入らなかったのかもしれない。そう思い、翔太は謝る。
「だから、その、凛さんが体調不良でずっと休んでたってのも知らなくって。今日初めて知ったんです」
「ふーん」彼女は納得しきらない表情で鼻を鳴らす。「じゃあさ、あんたの家の電話番号教えてよ」
 唐突な台詞に、翔太は「どうしてですか」と返す。
「今度あの子が休んだ時、教えたげるから」
「いえ、わざわざそんなことしなくても、クラスの誰かに聞いたらわかるから……」
「遠慮しないでよ。もし病気や怪我で入院とかになったらあんたも心配でしょ。学校行くより早くあんたに教えてあげるから」
 翔太は眉根を寄せた。凛に対する不幸の仮説を、軽々しく立ててほしくなかった。だが彼女は義理であっても凛の姉だ。あからさまな拒絶はできない。
「彼氏なんでしょ。そんなら彼女の家族に番号ぐらい教えてもいいじゃん」
 渋々、翔太は暗記している番号を友加里に教えた。彼女はポケットから出したスマートフォンにそのまま番号を打ち込んでいく。
「じゃ、なんかあったら教えるから」
 その「なんか」など永遠に来なければいい。そう思いながら、翔太は部屋を後にした。