食堂が閉まるぎりぎりの九時に出て、翔太は団地の三階に帰った。夜はいっそう暗く静かで、不気味な団地だ。空っぽな生き物をいつも想像する。巨大生物の骸に、自分たちは帰って眠る。まるで中にいる人間まで、死骸になるようだ。
 鍵を開けた部屋に入り玄関の靴を見て、死骸とは無縁の男がいることを知った。ため息を堪え、靴を脱ぐ。
 ダイニングキッチンに、あとは和室が二部屋のみ。そのキッチンの椅子には、女と男が一人ずついた。この男が来てから、伯母の美沙子(みさこ)の化粧は一層濃くなった。四十半ばの美沙子は今もその顔で、品のない近所迷惑な笑い声をあげている。
 男は、佐々木(ささき)勝也(かつや)。髪の色は明るく、三十五にしてはやけに若い顔立ちをしている。派遣の工員として点々としていることを、翔太は知っていた。美沙子にとって何人目の男かは知らない。最近やけに入り浸り、それを美沙子も気に入っているようだった。
 少し温まっていた心の中が、急速に冷えていく気がした。
「おう、翔太」
缶ビールをあおる勝也が赤ら顔で言う。こんばんは、と翔太は小声で呟いた。
「なんや、相変わらず暗いガキやな」
「疫病神みたいなもんだからね、こいつは」勝也の言葉を持ち上げるように美沙子が言う。
「まあええわ」勝也が煙草を咥え、美沙子が手元のライターで火をつけた。「おまえ、ちょっと走って買うてこい」煙を吐く。
「……なにを」
「これやこれ。コンビニまで行ってこいや。五分やぞ」卓上の缶を指先で弾く。
「無理だよ」
「金ならやる言うてんねん」
「売ってくれない。俺、未成年だから」
 言った途端、ガタンと音がした。気づいたときには、椅子を蹴倒し煙草を吐き捨てた勝也に胸ぐらを掴まれていた。
「どうにかせえっちゅうとんやろが! おまえ脳みそ空っぽなんか、ああ?」
 殴られる。咄嗟に思い、腕で顔をかばう。
「勝っちゃん、ちょっと待ってよ。買わなくてもまだあるから」
 何ごとか喚く勝也の声に、美沙子の台詞が混ざった。「そいつ殴ったってなんにも出てこないよ」
 美沙子が自分の心配をしているわけではないことぐらい、翔太は知っていた。痣を作って学校に行けば、問題になる。そうした厄介事を伯母は嫌っているのだ。
 そして勝也も、その厄介事に巻き込まれたくはないらしい。舌打ちをして手を離す。
 咳き込みながら、翔太はその場を退散した。ここを通らなければ自分が寝る部屋に辿り着けないことが、ひどく恨めしい。
「なにええ子ぶっとんや」
 今更そんな悪態、どうということもない。ただ彼は、翔太の心を抉る言葉を知っていた。
「この親殺しが」
 唇を噛み締め、襖を開けた。