地獄だった、と翔太は思い返す。日下部雄吾に殴られた後、病院で目覚めた時には全てを失っていた。父も、母も。愛していたはずの親戚には、手のひらを返された。彼らは家を奪い、土地を奪い、両親の持っていた全てを当然の顔をして奪っていった。残ったのは、殴られた後遺症で、永遠に右目の見えなくなった身体だけ。たった一晩で、幸せだった生活は地獄に落ちた。その後の伯母との毎日は暴言と暴力に塗り潰され、枕を涙で濡らした回数はもう数えきれない。引っ越した先で通い始めた食堂で、優しい人たちに出会わなければ、本当に心が壊れていたと確信している。彼らには感謝してもしきれない。
 だからといって、日下部を許す気は毛の先ほども存在しない。日下部は事件の後、血まみれのバットを握ったまま彷徨っていたところを通報され、逮捕された。あいつは、全てを認めていたという。後に初犯だとか精神異常だとか情状酌量だとか、そうしたものが積み重なり、やがては極刑を免れた。
 当然、奴も死ぬものだと思っていた。だってそうだ、人を二人も殺したのだ。悪いことなど何一つしていない夫婦を、撲殺したのだ。それも妻には長く苦しみを与えるよう、あちこちの骨を砕いてからとどめを刺した。
 人を殺せば死刑になる。そう信じていたのに、日下部は死ななかった。苦悶に満ちた母の顔を思い出し、父の無念を思えば涙が出た。右目の見えない不自由を感じるたびに、何故あいつは五体満足でまだ生きているのかと、憎くて憎くて堪らなく思った。
 だが、奴を殺しに行かずに済んだのは、その侵入経路について知ったからだった。
 日下部は、勝手口から家の中に入った。その夜、玄関のドアはきっちり閉まっていたのに、裏のドアは鍵が開いていた。だから入ることが出来たのだという。
 それを聞いたとき、目の前が真っ暗になった。
 夏休みの宿題のため、裏庭で向日葵を育てていた。朝に観察した時に筆箱を置いたまま忘れていたことに気付き、寝る前に取りに行ったのだ。母が鍵をかけておくようにと、いつも言っていたのを思い出す。それなのに、あの夜はすっかりそれを忘れてしまっていた。
 自分がきちんと鍵をかけていれば、日下部は家に入ってこなかった。
 つまり、両親の死のきっかけは――。
 いつか刑務所に乗り込んであいつを殺す。そうした幼い計画は破滅した。代わりに懺悔の涙に明け暮れた。後悔を抱えきれず、ふとした拍子からよつば食堂で皆に打ち明けた時に号泣した。
 抱きしめてくれる悦子は、「翔ちゃんはいい子」と何度も繰り返した。アルバイトの大学生が水を持ってきてくれて、元さんの仲間はずっと背を撫でてくれた。泣き疲れてうとうとしていると、元さんが負ぶって家まで連れて帰ってくれた。
「翔太は、何も悪くない」帰り道、大きな背中にしがみついたまま聞いた。「翔太の父ちゃんも母ちゃんも、わしらもみんな、おまえが幸せになることを願っとるからな」
 日下部は憎い。殺せるなら、今すぐ殺したい。
 だがそうすれば、幸せを願ってくれる大切な人たちを悲しませてしまう。それは嫌だ。あいつにそこまでの価値はない。
 そう思えたから、途方もない後悔を抱えながらも、罪を犯さず生き延びられたのだ。