静かに笑い合う二人の耳に、夜半には近所迷惑な話し声が聞こえてきた。それは、翔太には随分聞き覚えのあるものだった。
 咄嗟に黙り込む彼の様子に、凛は小首を傾げる。「どうしたの」という台詞が、派手な笑い声にかき消えた。
 ここで彼女に鉢合わせなければ、もしかすると全てが違っていたかもしれない。翔太はそう思い返すことがある。その度、これは決められたものなのだと自分を戒める。避けられない運命だとか、業だとか、きっとそういうものなのだと。
 左手に伸びる道から歩いてきたのは、美沙子だった。
「あれ、あんた」
 翔太の横顔に声をかける彼女の隣には、スーツを着た中年の男がいる。
 驚くほど早く、美沙子は次の相手を見つけた。事件からひと月も経たないうちに全てを忘れたかのような顔をして、この城戸(きど)という男を部屋に呼んだ。最初、翔太は驚いたが、もしかしたらと思い直す。美沙子は以前から他の男とも何かしらの関係を持っていて、勝也の狡猾な嗅覚は、それを嗅ぎつけていたのではないだろうか。だからあの寿司屋で彼女を探るようにと言った彼の目は、妙に確信めいていたのだ。
 今となっては、もうどうでもよいことだが。
「なにぶらぶらほっつき歩いてんだよ」
 途端に表情を曇らせ目を伏せる翔太の姿に、凛は隣で戸惑う。翔太から一瞬で笑顔が消え失せた。そのことに不安を隠せない彼女を目にした美沙子は、愉快そうな顔をする。
「なんだよおまえ。それ誰だよ」
 聡い凛は、翔太と美沙子の関係を瞬時に理解した。彼女の口の悪さにたじろぎながら、それでも律儀に頭を下げる。
「あの、青南高校の、榎本凛といいます」
「おいおいおい」
 スーツの城戸が、からかう声を上げる。彼と美沙子はすっかり酔っていて、顔は赤い。
「まさかデート中? 翔太くん、きみ、彼女もちだったわけ?」
 そんなわけあるかと、城戸と美沙子は顔を見合わせて大声で笑う。あの暗い翔太に、そんなものいるわけがない。馬鹿にしての笑い声。
 だが、凛と翔太が何も言わないことを、段々と不審に思ったようだ。「マジで?」と目を丸くする男に翔太は黙っていたが、それが何よりの肯定だった。
「おまえ、いつの間に彼女なんて作ったんだよ」美沙子が吐き捨てた。
「へえー。なかなかやるじゃん。しかも可愛いし」
 思わず翔太は城戸を睨みつけた。そんな目で凛を見られたくなかったのだ。
「なんだよその目」彼の敵意を察知した美沙子が声を荒げる。「彼女できたからって調子乗ってんのかよ」
「別に、そんなつもりじゃ……」
「生意気なんだよおまえ」
 つかつかと歩み寄ってくるのに、翔太は自転車のハンドルを握る手に力を込めた。
「高校入ったからって、いっちょ前の顔しやがって。偉ぶってんじゃねえよ」美沙子は自転車の前輪を蹴飛ばす。「バイトまでしやがって、金がないって当てつけのつもりか?」
 違う、と翔太は呻いた。
「何が違うってんだよ、あたしに金がないってアピールしてんのと同じことだろ!」
「そうじゃない……」声が潰れてしまう。「学校、行きたいだけ」
「おまえに学力なんか必要ないって言ってんだよ。せめて許してやってんのに、なにへらへら笑ってんだよ」
 翔太にはわけがわからなかったが、美沙子はどうしようもない嫉妬を抱いていた。それなりの偏差値の高校に通い、苦もなく友人を作り、アルバイトに精を出し、おまけに彼女という存在がいる彼の青春が妬ましかったのだ。近所の食堂の人間にも可愛がられ、風邪をひけば多くの人に心配される彼を憎くも思った。そうして自分が憎む相手がまだ年端もいかない甥であるという現実に対し、やり場のない憤りを覚えた。自分と住む部屋では一切見せない笑顔に、どうしようもなくムカついた。翔太のくせに。ほんの一年前までは、いつだって暗い顔をして下を向いて歩いていたくせに。
「謝れ」彼女はもう一度自転車を蹴った。「謝れよ!」
「謝るって、どうして」
「口答えすんな!」
 口汚く怒鳴り散らす美沙子を、翔太は毅然と見返した。口をぎゅっと引き結び、今は決して俯かず。
「反抗期かあ?」城戸という男がにやにやしながら言う。「まあ、彼女の前だしなあ」
「ふざけんなよ翔太!」
 怒鳴り散らす女と、それをただ見つめる少年。どちらが大人か、分かったものではない。
 だが、彼女の台詞に翔太ははっとした。
「イキってんじゃねえよ、この親殺しが!」
 流しきれない言葉に、隣で困った表情をしている凛も思わず「え」と声を漏らす。たちまち表情を引きつらせる翔太と、勝ち誇った顔をする美沙子。二人を慌てて交互に見やる。「翔太……」呟くが、彼は黙って目を伏せる。
「違う」乾いた喉で彼は絞り出す。「俺は……違う」
「何が違うんだよ。おまえのせいだろ」美沙子がせせら笑う。
「なに? どういうこと……」
 狼狽する凛を見る彼女は実に愉快そうだった。
「おまえ、彼女なんか作ってるくせに言ってないのかよ」
「言ってないって、なにが、ですか」
 不安に満ちた凛の声に、美沙子の声のトーンは高くなる。
「こいつの親、殺されたんだよ」
 尋常でない台詞に、凛は絶句する。それを面白がるように、美沙子の言葉は続く。
「野球のバットでぶん殴って、撲殺だってよ。そん時にこいつも殴られてさ、そんで片目潰れたんだって」
「そんな……」凛の声が震える。彼女はみるみる顔面蒼白になっていく。
「頭のおかしいおっさんが夜中に入ってきて、無差別ってやつ?」
 翔太はもう何も言えず、項垂れていた。
「翔太が鍵を締め忘れたせいで、入って来れたんだってよ」
 美沙子の言葉は、どこまでも残酷だった。