アルバイトが始まり、まだこの学校に居られるとほっと息をついてから、はやひと月が経った。生活リズムが安定した頃、翔太は凛の提案を実行してみることにした。登校時に、公園の丘への上り口、階段の脇に置いたアルミ容器にビー玉を一つ転がしておく。昨年の五月に子犬のエサ入れとして使っていた容器だ。
 その日、下校途中に立ち寄ってみると、果たして容器の中からビー玉は姿を消していた。今日は一日学校でも顔を合わせなかったが、凛は確かに自分の合図を目にして反応してくれている。不思議な繋がり方に、つい心が浮つくのを感じた。
 こうして二人だけの合図を互いに送り合うようになったある日、翔太は凛のおはじきを受け取った。クラスの全員がすっかり半袖に制服を移行した七月。夏の始まりを感じるある夜、翔太はバイト終わりに急いで丘に向かった。
 何度見ても、丘の上からの景色は綺麗だ。それに見とれる凛の背中に声をかける。
「ごめん、遅くなった」
 翔太は思わず息を呑む。振り向く彼女の瞳の煌めき、その美しさに思わず言葉を失ったのだ。
「ううん。今きたところだよ」
 どうやらそれらは、星や街灯りの反射だったらしい。だがその瞳は光が零れ落ちそうなほど澄んでいて、見惚れる翔太はぼんやりと立ち尽くしてしまった。
「どうしたの。疲れてる?」
 心配そうな声にはっとして、慌てて首を横に振る。「なんでもない」そばのベンチに座ると、凛も横に腰を下ろした。
「今日のバイト、どうだった?」
「少しは覚えてきたと思う。怒られることは減ったよ」
「よかった」
「凛は部活どうだったの。最近何してるんだ」
「色々なもの教えてもらってるよ。特にね、ぬいぐるみ作ろうかなあって考えてる」
 他愛のない話の中、「そうだ」と凛が肩に下げていたトートバッグを探った。変哲のないクリーム色のバッグだが、すみに刺繍された猫の柄が可愛らしい。それも彼女が自分で入れた刺繍だった。
「今日も、ご飯食べる時間なかったでしょ」
 彼女が取り出したのは、小さな弁当箱だった。開けて見せる中には、海苔を巻いた三角おにぎりが二つ詰まっている。
「よかったら、どうぞ。おにぎりしかないけど」
 驚いて翔太は小さく身を引いた。
「いや、悪いよ」
「いいの。学校から帰って、すぐお店まで行って、ここに来たんでしょ。呼び出したのは私なんだし、これぐらいさせて」
 以前ここで会った時、翔太の腹が鳴ったことを凛は覚えていたらしい。ここまで気を遣わせて、翔太は情けないやら申し訳ないやら複雑な気持ちになる。しかし、彼女の厚意が嬉しいことに変わりはない。
 礼を言って箸を受け取り、おにぎりを齧る。梅干しのおにぎり。ほんのりとした酸っぱさ。
 美味しいと言うと、彼女は目に見えて嬉しそうな顔をした。「ほんとに?」と問うのに「ほんと」と返し、二つともすぐさま平らげた。実は腹が減っていたが、空腹は慣れているので放っていたのだ。そんな痩せ我慢も彼女は許してくれないらしい。