佐々木勝也は、事件の起きた火曜日以降、無断欠勤を続け一度も職場に姿を見せていない。自宅にも帰っていない。また、彼はひと月前、被害者宅の家の修繕に派遣されていた。家の間取りや住人について知るにはもってこいの機会。そのうえ捜査の結果、これまで窃盗被害に遭っていた住宅は、彼が派遣社員として勤める会社にリフォームや修繕を依頼していた。そして実際に派遣された作業員に含まれていたのが、勝也だった。
「でも……」翔太は震えそうな声を飲み込む。「でも、まだ、犯人だって決まったわけじゃないですよね」
「ええ、決まってはいません。ですが、重要参考人として話を聞く必要はあります」手帳を開いて説明をしていた渡邊は、それを手の甲でパンと叩いた。「何の落ち度もない被害者が、未だに生死の境をさまよっているんです」
 翔太にも分かっていた。ここまでの事実があるのだ、指紋という証拠がある時点で犯人候補から勝也を外すことは不可能だ。
 まさか勝也が、事件の犯人として疑われているなんて。それも、人の生き死にが関係する罪状だなんて。
「月曜日は、仕事は休みだったそうです。つまり判明している時点で、最後に佐々木勝也と行動を共にしたのは、あなたです」
 唐突過ぎる事態に、翔太の頭は混乱する。あり得ないと思う反面、勝也の暴力的な面を思い出し、あり得るかもしれない、などと思ってしまう。
「佐々木が目撃された寿司屋の待合名簿に、「雨宮」の苗字が残されていました。佐々木が幾度もこちらを訪れていたことも、近隣の方々が証言されました。そこで、翔太くんに辿り着いたのです」
 確かにあの時、名簿に自分の名字を書いたことを、翔太は思い出す。
「なんでも構いません。佐々木の行方に繋がるかもしれないのです。話したことを教えてください」
「そんなこと、言っても……」恐怖のあまり血の気が引く。
「どんなことでもヒントになり得るのです。佐々木は何を話していましたか」
 大人たちに睨まれ、なんとか翔太は乾いた声を出した。
「入学、祝いだって……高校行ってよかっただろって」勝也のことは大嫌いなのに。あんな乱暴者、どうなっても構わないはずなのに、いざとなれば庇うような言葉を吐いてしまう。だが翔太にはわかっていた。それは勝也への情ではない。長い間近くにいたのに、犯罪者である可能性に微塵も気づけなかった自分を庇っているのだ。
「部活入るのかって言われて、それで、野球やってたって話になって。僕は右目が見えないから、今まで興味もなかったんだけど、ルールとか教えてくれて」
 窃盗犯が同一だとすれば。あの時も、その前も、ずっとずっと、勝也は犯罪者だった。
 ああ、と翔太は呻いた。「羽振りの良い仕事を見つけたんだって、言ってました」あれは、そういうことだったのだ。
「羽振りの良い、ねえ」高橋がメモを取りながら苦々しく言った。
 気づいていれば、勝也を止められただろうか。
 無理だろうな、と翔太は思う。一発殴られたら、通報する勇気さえ出ないかもしれない。知らぬが仏、だったのだろうか。俺も本当に、小心で嫌な人間だ。
「……焦っていたみたいでした」
 それならせめて、全て話そう。気づけなかった自分の罪をこれで晴らそう。
「焦っていたとは、何に」
「うちに、他に人が来ていないか確認されました」頭の奥が、じんと痺れている。「伯母さんが浮気してないか、疑ってたみたいです」
 途端に、「はあ?」と美沙子が大声を上げた。その表情にみるみる怒りがこみ上げる。
「なに適当なこと言ってんだ!」
「本当だよ……」力なく翔太は視線をやる。「今までの男の人のこととか……色々聞かれた。逃げられないか、疑ってるみたいだった」
 俺、許せねえよ――。鈴木の言葉を思い出す。トラウマを負った同級生。あれも全部、勝也のせい。
「ふざけんな!」
 気づいたときには美沙子に突き飛ばされ、翔太は廊下に倒れていた。
「おまえが何か言ったんだろ!」
 馬乗りになった美沙子に力いっぱい頬をぶたれる。「やめなさい!」男の大声が重なる。引きはがされながら、なおも彼女は叫ぶ。「おまえが勝っちゃんをそそのかしたんだろ!」
 許せねえよ。許せねえよ。眠れなくなった同級生。
 刺されてしまった、何の罪もない若葉町の人。
 自分を心配して涙目になっていた、榎本凛。
「高校行きたいだのわがまま言って金がないアピールしやがったから、こんなことになったんだ! 翔太!」

 許せねえよ。許せねえよ。許せねえよ――。

 転がったまま右手で腹をおさえて、翔太はえずいた。胃がひっくり返る。逆流する。左手で口元を覆ったが、指の隙間からぽたぽたと吐瀉物が零れてくる。床に跪いて丸める背が、痙攣する。

 あの時食べさせてもらったものは、誰かを傷つけて得た金で買ったものだったんだ。

 他人にトラウマを負わせて、泣かせて、生死の境をさ迷うほど傷つけて。そんな罪の果てで得た金に奢られていた。今はもう遅すぎる、あの時のものはもう残っていない。それでも身体は懸命に拒絶するから、翔太は泣きながら吐いた。それなのに思い出すのは、自分を怒鳴りつけるのではなく、野球を思い出して語る男の横顔だけだった。