榎本凛は、よつば食堂にさえすぐに馴染んだ。仕事上がりの男たちとも挨拶をし、悦子のことを悦っちゃんと呼ぶようになった。特別な美人というよりも、可愛らしい愛嬌がある。大きな瞳をくるくると動かし、よく笑う、明るい性格の持ち主だった。
 五月の連休も翔太は食堂に向かったが、その日は先に来ていた凛が食堂の外で手招きをした。隣には悦子もいる。
「……いぬ?」
 二人の足元にあるのは一つの木箱。中には一匹の子犬。
「そうなんよ」悦子は頬に片手を当ててため息をついた。「今朝見たらねえ、うちの前に捨てられてたんよ。ここならご飯もらえる思たんかもしれんね」
 凛が犬を抱き上げた。まだ生まれて一か月程度だろう。恐らく柴犬の子犬だ。まだ鼻の頭がほの黒く、耳は垂れていて実に可愛らしい。
「ひどいよね。こんなに小さな子を捨てるんだから」そうして子犬の頭に額を当てる。人懐こい犬は短い尻尾をぶんぶんと振った。
「どうするの、この犬」
 翔太の質問に、悦子は至極困った顔をする。
「どうしょうかねえ。保健所に連れてくなんて、そんな可哀想なことでけへんし」
「番犬になるかも」
 しかし、彼女の表情は苦いままだ。
「言うてもねえ。子犬の世話できるような余裕、うちにはのうてねえ」
「世話、私がする」凛は子犬を抱きしめて首を傾けた。「……っていうのは、駄目?」
 悦子は彼女に微笑んだ。「そりゃあ、世話してもろたらありがたいけど。でもね、犬っていうんは十何年も生きるんよ。凛ちゃんもすぐ高校生になって、大学にも行くかもしれへんやろ。ずっとここに居て、毎日毎日世話するんは、ちょっと無茶やと思うわ」
 彼女の言うことは正しい。だから凛は口を閉ざして項垂れてしまった。そんな彼女の唇を、犬の濡れた鼻先がつつく。
「じゃあ、新しく飼い主探すっていうのは」
 翔太の提案に凛は弾かれたように顔を上げ、悦子は「せやね」と浮かない顔で頷く。
「それしかないやろけど、なかなかそんな時間がのうて。そのうちに大きゅうなってしまいそうや」
「じゃあ、私たちがやる!」嬉しそうな顔をする凛は、「ね」と翔太を見た。
「……え?」
「お願い、翔太くん。私一人だったら自信がないから。……ほら、君もお願いって」
 子犬の前足を揃えて、「おねがい」のポーズを取らせる。子犬は翔太を見上げる眠たげな瞳をぱちぱちとさせた。
「いや、俺はそういうの」
「この子の一生がかかってるの。大きくなったら貰ってもらえないかもしれない。二人でやれば、きっとすぐに見つかるから」
「翔ちゃん、頼むわ」悦子まで手を合わせる。
 う、と躊躇う翔太。こんな面倒なこと、絶対に関わりたくない、というのが本心だ。しかしまだ顔見知り程度の凛はともかく、いつも世話になっている悦子にまで頼まれれば無下にはできない。
 それに、子犬の行く先がちらりと心配になった。飢えはせずとも、ここでは決して歓迎はされない。飼い犬として受け入れてくれる家に行くのが一番だろう。
 不承不承で頷いた。「ありがとう!」と満面の笑みを見せる凛との里親探しが始まった。

 翌日から、食堂のテーブルを借りてポスターを作ることにした。
 店のプリンターで印刷した犬の写真を貼り、家族になってくださいと上部に書く。下には、いかに人懐こいか、大きさや体重はどれくらいか。また、悦子と行った動物病院での検査結果を書き、店の電話番号を入れた。
 連休明け、翔太は重い気分で学校に向かった。凛と共に教師に事情を説明し、ポスターのコピーを取り、他のクラスにも配ってもらう。授業後のホームルームで、嫌々ながら教室の教卓前に立った。
 あちこちから、配られたプリントを目にした生徒の「かわいー」という声が上がる。それ以上の人数から興味津々の視線を注がれ、翔太はつい逃げ出したくなる。里親探しの事情を語る凛の横でポスターを黒板に貼った。凛ひとりでいいじゃないかと言ったのだが、流石に転校したての自分が出過ぎた真似をするのは、と凛は渋った。それもそうかもしれないと思ったから、せめて隣で手伝いの形をとる。
「相談だけでもいいので、もし興味がある人がいたら、私か雨宮くんに言ってください」
 クラスメイトは転校生の凛の行動力よりも、全く目立たない雨宮翔太が登壇していることに驚いていた。授業中の挙手さえ滅多にしない彼が、犬の里親を探しているだなんて。
 帰る頃には想像通り「おまえと榎本、どういう関係?」などとクラスメイトに小突かれる羽目になり、「うるさい」とそいつらを追い払うのは些か大変だった。凛はそういった相手にも家が近所だときちんと説明していたから、釈明は彼女に任せることにした。