風呂から上がり着替えて歯を磨いていた時、玄関のドアが開いた。あと十秒も遅ければ部屋に引っ込んで知らんふりができたのに。そう思ったが、今日は伝えておくことがあったから、丁度よかった。
 うがいをして脱衣所から顔を出し「おかえり」と呟いたが、そこにいるのは勝也だけだった。靴を脱ぎ散らかし廊下を通り過ぎる臭いで、彼がだいぶ酒を飲んでいることを知る。最近は随分と入り浸るようになった。週の半分以上はこの部屋に居る。深夜に騒ぐのはいい加減に止めて欲しいが、翔太にはそんな台詞を吐く度胸はなかった。近所にも勝也の存在は知れ渡っている。そのガラの悪さも周知の事実だから、誰一人注意にやってこない。翔太にとって、それは有難いが心苦しくて恥ずかしい。
「美沙子さんは」
 キッチンの椅子に腰かける背中に尋ねると「コンビニや」と返ってきた。よくこれだけ酒を買う金があるなと思うが、そこは美沙子が工面してやっているのかもしれない。
「翔太、湯沸かせや」煙草に火を点けながら、勝也が言う。
 それぐらい自分でしろと、翔太は思うだけで黙って流しの前に立つ。カップ麺一つ、この男は自分で作らないのだ。
「受かったよ」
やかんに水を入れながら呟いた。
「なにがや」
「高校」
 ふん、と勝也が鼻を鳴らした。手元のスマートフォンで麻雀ゲームを始める。
「どこや」
「青南高校」やかんをコンロに移し、火をつける。チチチチ、音が鳴る。
「ほう」声と共に男は煙を吐いた。「まあまあのとこやな」
 ラックからカップ麺を二つ取り出して考えていると「右や」と勝也が言った。大人しく、左手のカップ麺をしまい、右手のカレー味のビニールを剥ぐ。
「辞めんなよ」一萬を捨てながら吐き捨てるのに「わかってる」とだけ返した。
 蓋を半分開け、沸かした湯を隙間から入れる。規定の量に達すると蓋を閉め、箸を取り出す。三分でスタートしたタイマーと共に黙ってテーブルに置いた。
 そのまま部屋に向かう翔太に「おう」と勝也が声をかける。
「なに」
「愛想のないガキやな。ちょっとは相手せえや」
「もう寝ないと。明日、卒業式の練習だから」
「そんなん行かんでもええやろ」
「行きたい」
 翔太は勝也を睨む。こんな家で時間を潰すぐらいなら、さっさと寝て明日を迎えて、学校に行きたい。友人とも話したいし、凛にも会いたい。担任にも合格を自分の口で伝えたい。だがその気持ちが、勝也には微塵も理解できないらしい。
「そんな態度とってええんか」
「どういう意味」
「わしら、家族になるんやで」
 突然の言葉に、全く理解が追い付かなかった。眉を顰める翔太に、スマートフォンを置いた勝也は可笑しそうな顔をする。
「なんやおまえ、高校受かったっちゅうても、やっぱあほなんやないか」煙草を灰皿でもみ消した。「わしと美沙子な、籍入れるんや」
 目を見開いた顔が更に面白かったらしい。「なんやその顔」と勝也はいっそう下品な笑い声をあげる。
「それ、ほんと……」
「ほんまに決まっとるやろが。おまえにこんな嘘ついて、わしになんの得があるっちゅうんや」
 翔太は、勝也が大嫌いだった。酒と煙草の臭いを染みつかせ、まともに働く素振りもなく、賭け事で金をするこの男を軽蔑した。よその子どもを顎で使う暴君ぶりに辟易した。自分を嫌う伯母の美沙子が、この男の前だと機嫌を取るために一層いじめてくるのも嫌だった。
 そんな男が、家族になる。
「嫌そうな顔すんなや、翔太」鳴りだしたタイマーを止め、勝也は箸を手に取り、カップ麺を食べ始める。それを見ながら、翔太は絶望的な気分に陥った。だがなんとか「そう」と素っ気ない声を絞り出す。
「俺には、関係ないから」
「冷たいやつやな」
「それは二人の問題だから、俺には関係ない」
「よう言うやないか」細い麺を咀嚼しながら、勝也はにやにやと笑う。「そんなら出ていけや」
 ぐっと言葉を呑みこむ。
「関係あらへんのやったら、ここにいる必要もないやろが。おら、さっさと出てけや」
 勝也が立ち上がる。
 悔しくてたまらない。自分が軽蔑する大人にも敵わないだなんて。
 乱暴に肩口を掴まれ、翔太はようやく「ごめんなさい」と小声で囁いた。
「聞こえへんのや。ちゃんと喋れや!」
「ごめんなさい!」
 惨めだ。手を離されながら、無力さに奥歯を噛み締める。今後は、この男の気分ひとつで、自分の生活すら危うくされるのだ。
 だが、まだ高校に行けるという希望があるだけよかった。翔太はそう考えた。凛が誘ってくれないまま卒業後に働くという選択をしていれば、更に辛い気分になっていたかもしれない。彼女のおかげで、より良い道を選ぶことが出来た。
 雨宮翔太を高校見学に誘う。彼女はそうした夢を見たのだろうか。そんなことを考えた。