しばらくして音が止んだ頃、翔太は起き上がって部屋を出た。テーブルに皿を置く悦子が「あら」と顔を上げた。キッチンは綺麗に片付けられていた。カップ麺の容器はきちんと洗ってシンクに重ねられている。
「今呼ぼうと思ったんやけど。寝られんかった?」
「身体が、痛くて……」
折りたたんだ毛布を身体に巻きつけ呟く翔太に、悦子は椅子を引いて座らせる。
用意してくれたのは、サツマイモの入ったおかゆだった。
「本当に、食べてもいいの」
「駄目やなんて言うわけないやない。翔ちゃんの為のおかゆなんやから。ただでさえ痩せとんやから、食べれるなら食べて」笑いかけ、悦子は向かいの席に腰掛けた。
いただきますと呟いて、翔太はスプーンで一口、口にする。ほんのりとした塩味。サツマイモの甘味。
「味、濃くないやろか」
うんと頷く。「おいしい」と言うと、悦子は安心した顔を見せた。実際に、それは随分と美味しかった。味付けは濃すぎず薄すぎず、温かな米がゆっくりと胃に落ち着くのを感じる。
「食べれるなら、よかったわ。何も食べへんのって、余計に身体に悪いからね」
温かい緑茶を注いでくれる。それを飲むだけで、いくらか頭の靄が晴れる気がする。
「あの、悦子さん」湯呑を手にしたまま、翔太は気になっていたことを口にした。
「どうして、うちの住所知ってたの」
「元さんが教えてくれたんよ。昔、送ってもらったことあったやろ」
ああ、と納得した。小学生の頃、一度だけ元さんに負ぶわれて帰ったことがあった。
「みんな心配してるんよ。元さんも凛ちゃんも、みんな。アルバイトの子もね、翔太くん最近来ないけど、大丈夫かなって。おかゆも、うちの旦那が翔ちゃんにって作りはったんを持ってきたんよ」
驚いて翔太は食べる手を止めた。「そんなに」と思わず呟いた。
「仕方ないわ。翔ちゃんはええ子やから。みんな大好きなんよ」
考えて、しかしかぶりを振る。
「それは、みんながいい人なんだよ。……俺、そんなにいいやつじゃないし」心に巣食う卑屈は、自分でも嫌になる。「さっきだって、もう死ぬかもって思ってたし……」
彼女が言うほどに「いい子」なら、きっと美沙子や勝也といった人間にも心配してもらえるに違いない。
「翔ちゃんはな、ええ子やけど、「都合のええ子」じゃないんよ」しかし悦子はそう言った。「そんなんなる必要ないんやから。大きゅうなって大人になっても、今のままでおってな」
立ち上がった彼女は、鍋に残ったおかゆを別の皿に移し始める。翔太も手を動かし、少しずつ残りを口に運んだ。
食べ終わるまでに、彼女は蒸しタオルを作ってくれた。「お風呂は疲れるから、これで身体拭いて着替えとき」
言われるままに、翔太は部屋に戻って身体を拭いて別のパジャマに着替える。その間に食器を洗う音が聞こえる。
「風邪やろかおもて、途中に薬局あるやろ、そこで買うてきたんよ。取り合えずこれだけ飲んどいてな」
キッチンに戻り席につき、水の入ったコップと共に渡された解熱鎮痛剤を飲む。他にも頭痛やのどの痛みに効く薬を数種類テーブルに並べてくれる。更に額には、解熱用のシートを貼ってくれた。
「あまった分と、これ、タッパーに入れて持ってきた分、お腹空いたらあっためて食べてな。りんごすりおろしたんもあるから。少しはもつと思うけど、悪なったら捨てるんよ。無理して食べてお腹壊したら、元も子もないからね」
冷蔵庫にしまわれた食料の説明を聞く。翔太は何度も頷いて、わかったと返事をした。
「さ、そしたらもう寝とき。ご飯食べて、お薬飲んで、ちゃんと寝てたらきっとすぐにようなるわ」向かいの席で彼女は言い、襖の開いた部屋の向こうを見た。窓の外の狭いベランダでは物干し竿でタオルが揺れている。「洗濯物、干しっぱなしの畳んどくから。家の鍵、あれでええんかな」
冷蔵庫に張り付いている小さなフックのマグネットを振り返るのに、翔太は頷く。
「帰る時、鍵かけて郵便受け入れとくわ。最近、空き巣がどうのって物騒やからね。翔ちゃんも気いつけるんよ」
「ほんとに、よかったの。忙しいのに」
壁掛け時計を振り返る。悦子がやって来たのは十時過ぎ。今はもう十一時だ。家事をする時間を考えると、帰るのは更に遅くなってしまう。
「俺、送っていこうか……」
「何言うてんの」悦子は笑った。「こんなえらい風邪引いてしもとんのに、そんなんしたら肺炎になってしまうわ。本末転倒やない。そんな気にせんでええんよ、旦那に迎え頼んでもええんやから」それより、と彼女は玄関の方を見やった。誰も帰ってくる気配はない。
「翔ちゃんの方が心配やわ。もし悪なるようやったら、救急車でもなんでも呼ぶんよ。うちの電話番号知っとるよね、いつでも助けてって言うてかまへんのやから」
躊躇う翔太は、なんとか小さく頷いた。
「約束してや。翔ちゃんが、死ぬかもしれんなんて一人で苦しんでるって思ただけで、辛うてかなわんわ」悦子は真剣な表情で、じっと翔太を見つめる。だがその目には厳しさではなく、懐かしい優しさがある。まるで家族みたいだ。熱のせいか、翔太は頷きながらぼんやりと思う。
「本当に、今日は、ありがとうございました」深々と翔太は頭を下げた。
「そんな改まらんとってや」悦子は言うが、翔太は首を横に振る。
「来てくれなかったら、もっとひどいことになってたから……」
「ほんまにええ子やなあ」悦子が立ち上がり、つられて翔太も席を立つ。
「うちらはみんな、翔ちゃんのこと家族みたいに思っとるから。いつでも声かけはってかまんのよ。辛い時はもちろんやけど、楽しい時でも、なんもない時でも。ただいま言うてくれたら、おかえりて、いつでも迎えるからね」
「うん」
そして悦子は、優しく背を撫でた。
「じゃあ、おやすみ。あとはなんも心配いらんからね」
ありがとう、と翔太はもう一度言った。
「おやすみなさい」
部屋に戻り、布団にもぐる。腹がくちたおかげか、薬が効いてきたのか、水に沈むような眠気に微睡む。
家事をする足音が、ゆったりとした波のように意識を出たり入ったりする。
夢うつつの中で、やがて小さな金属音を聞いた。ドアの郵便受けに鍵が落ちる音。それを境に、意識は途切れていった。
「今呼ぼうと思ったんやけど。寝られんかった?」
「身体が、痛くて……」
折りたたんだ毛布を身体に巻きつけ呟く翔太に、悦子は椅子を引いて座らせる。
用意してくれたのは、サツマイモの入ったおかゆだった。
「本当に、食べてもいいの」
「駄目やなんて言うわけないやない。翔ちゃんの為のおかゆなんやから。ただでさえ痩せとんやから、食べれるなら食べて」笑いかけ、悦子は向かいの席に腰掛けた。
いただきますと呟いて、翔太はスプーンで一口、口にする。ほんのりとした塩味。サツマイモの甘味。
「味、濃くないやろか」
うんと頷く。「おいしい」と言うと、悦子は安心した顔を見せた。実際に、それは随分と美味しかった。味付けは濃すぎず薄すぎず、温かな米がゆっくりと胃に落ち着くのを感じる。
「食べれるなら、よかったわ。何も食べへんのって、余計に身体に悪いからね」
温かい緑茶を注いでくれる。それを飲むだけで、いくらか頭の靄が晴れる気がする。
「あの、悦子さん」湯呑を手にしたまま、翔太は気になっていたことを口にした。
「どうして、うちの住所知ってたの」
「元さんが教えてくれたんよ。昔、送ってもらったことあったやろ」
ああ、と納得した。小学生の頃、一度だけ元さんに負ぶわれて帰ったことがあった。
「みんな心配してるんよ。元さんも凛ちゃんも、みんな。アルバイトの子もね、翔太くん最近来ないけど、大丈夫かなって。おかゆも、うちの旦那が翔ちゃんにって作りはったんを持ってきたんよ」
驚いて翔太は食べる手を止めた。「そんなに」と思わず呟いた。
「仕方ないわ。翔ちゃんはええ子やから。みんな大好きなんよ」
考えて、しかしかぶりを振る。
「それは、みんながいい人なんだよ。……俺、そんなにいいやつじゃないし」心に巣食う卑屈は、自分でも嫌になる。「さっきだって、もう死ぬかもって思ってたし……」
彼女が言うほどに「いい子」なら、きっと美沙子や勝也といった人間にも心配してもらえるに違いない。
「翔ちゃんはな、ええ子やけど、「都合のええ子」じゃないんよ」しかし悦子はそう言った。「そんなんなる必要ないんやから。大きゅうなって大人になっても、今のままでおってな」
立ち上がった彼女は、鍋に残ったおかゆを別の皿に移し始める。翔太も手を動かし、少しずつ残りを口に運んだ。
食べ終わるまでに、彼女は蒸しタオルを作ってくれた。「お風呂は疲れるから、これで身体拭いて着替えとき」
言われるままに、翔太は部屋に戻って身体を拭いて別のパジャマに着替える。その間に食器を洗う音が聞こえる。
「風邪やろかおもて、途中に薬局あるやろ、そこで買うてきたんよ。取り合えずこれだけ飲んどいてな」
キッチンに戻り席につき、水の入ったコップと共に渡された解熱鎮痛剤を飲む。他にも頭痛やのどの痛みに効く薬を数種類テーブルに並べてくれる。更に額には、解熱用のシートを貼ってくれた。
「あまった分と、これ、タッパーに入れて持ってきた分、お腹空いたらあっためて食べてな。りんごすりおろしたんもあるから。少しはもつと思うけど、悪なったら捨てるんよ。無理して食べてお腹壊したら、元も子もないからね」
冷蔵庫にしまわれた食料の説明を聞く。翔太は何度も頷いて、わかったと返事をした。
「さ、そしたらもう寝とき。ご飯食べて、お薬飲んで、ちゃんと寝てたらきっとすぐにようなるわ」向かいの席で彼女は言い、襖の開いた部屋の向こうを見た。窓の外の狭いベランダでは物干し竿でタオルが揺れている。「洗濯物、干しっぱなしの畳んどくから。家の鍵、あれでええんかな」
冷蔵庫に張り付いている小さなフックのマグネットを振り返るのに、翔太は頷く。
「帰る時、鍵かけて郵便受け入れとくわ。最近、空き巣がどうのって物騒やからね。翔ちゃんも気いつけるんよ」
「ほんとに、よかったの。忙しいのに」
壁掛け時計を振り返る。悦子がやって来たのは十時過ぎ。今はもう十一時だ。家事をする時間を考えると、帰るのは更に遅くなってしまう。
「俺、送っていこうか……」
「何言うてんの」悦子は笑った。「こんなえらい風邪引いてしもとんのに、そんなんしたら肺炎になってしまうわ。本末転倒やない。そんな気にせんでええんよ、旦那に迎え頼んでもええんやから」それより、と彼女は玄関の方を見やった。誰も帰ってくる気配はない。
「翔ちゃんの方が心配やわ。もし悪なるようやったら、救急車でもなんでも呼ぶんよ。うちの電話番号知っとるよね、いつでも助けてって言うてかまへんのやから」
躊躇う翔太は、なんとか小さく頷いた。
「約束してや。翔ちゃんが、死ぬかもしれんなんて一人で苦しんでるって思ただけで、辛うてかなわんわ」悦子は真剣な表情で、じっと翔太を見つめる。だがその目には厳しさではなく、懐かしい優しさがある。まるで家族みたいだ。熱のせいか、翔太は頷きながらぼんやりと思う。
「本当に、今日は、ありがとうございました」深々と翔太は頭を下げた。
「そんな改まらんとってや」悦子は言うが、翔太は首を横に振る。
「来てくれなかったら、もっとひどいことになってたから……」
「ほんまにええ子やなあ」悦子が立ち上がり、つられて翔太も席を立つ。
「うちらはみんな、翔ちゃんのこと家族みたいに思っとるから。いつでも声かけはってかまんのよ。辛い時はもちろんやけど、楽しい時でも、なんもない時でも。ただいま言うてくれたら、おかえりて、いつでも迎えるからね」
「うん」
そして悦子は、優しく背を撫でた。
「じゃあ、おやすみ。あとはなんも心配いらんからね」
ありがとう、と翔太はもう一度言った。
「おやすみなさい」
部屋に戻り、布団にもぐる。腹がくちたおかげか、薬が効いてきたのか、水に沈むような眠気に微睡む。
家事をする足音が、ゆったりとした波のように意識を出たり入ったりする。
夢うつつの中で、やがて小さな金属音を聞いた。ドアの郵便受けに鍵が落ちる音。それを境に、意識は途切れていった。