その日は、日曜日だった。
 よつば食堂の定休日は、日曜日と祝日だ。だから昼に作ったカレーの残りを夜にも食べていると、例によって勝也がやってきた。「飯でも行こうや」などと珍しく自分から口にするのに、美沙子は喜んでついて行った。当然頭数に入っていない翔太は、黙々とカレーを食べ終え食器を片付けると、少しだけ勉強をして家を出る。今日は翔太も凛に誘われていた。
 息抜きをしたいから一緒に夜散歩をしようと、彼女は三日も前に言い出した。夜は冷えるし、それなら遠回りをして一緒に下校しようと翔太は提案したが、彼女は渋った。三日後の夜に公園を散歩したいと、珍しくわがままを言ったのだ。
 不思議ではあったが、そういう気分なのかもしれない。夜の九時に、待ち合わせていた公園の時計台の下で、二人は落ち合った。
 出かけていたのか、ショルダーバッグを斜めにかけた凛と、他愛のない話をする。冬の誰もいない公園。時折吹く風に、思わず身をすくめてしまう。
「翔太くん、寒くないの」
「寒くない」
 うそつき、と凛が心配そうに言う。彼女は薄い橙のマフラーを首に巻いている。
「まだマシだよ。雪が降ってないから」翔太の台詞が白く空気を染め、隣で凛も細く白い息を吐いた。
「ねえ、丘、上ってもいい?」
 遠慮がちに彼女が言う。「別にいいけど」と答える翔太は、彼女が躊躇う理由に気付いた。それに気が付かないふりをして、急な階段の方へ歩く。
 ただでさえ凹凸の分かり辛い視力を、彼女は心配しているのだ。翔太が足を踏み外して怪我をしてしまう可能性を危惧している。
 だが、あまり女の子を不安にさせるのもかっこ悪い。そんな問題ではないと分かっているが、何も言わずに翔太は段に足をかけた。ぽつぽつと点在する街灯の灯りを頼りに目を凝らし、手すりを掴み、危なそうなところでは前の段に手をかけてただ上る。少し後ろを、凛も慎重についてくる。
 そうして丘の上から見える街並みは、冬の景色も美しかった。
 澄んだ冬の空には、きらきらとたくさんの星が輝いている。頬を切り裂くような風が、階段を上って少し火照った身体に心地よい。
「やっぱり、綺麗だね」
 隣に立つ彼女は、そう言って笑う。
 うん、と頷いて振り返り、翔太は既視感を抱いた。すぐにその理由に気が付く。きらきらと輝く凛の瞳。それは目に反射する星灯りと街灯り。だがそれだけではない、彼女自身が持つ期待や希望といった、美しいものたちが溢れ出している。夏の高校見学の時に目にした、未来を見る彼女の光だ。
 何故だか分からない。今は悲しくない、寂しくも辛くもないのに、苦しくなる。もう何年も泣いていないのに、無性に泣きたくなってくる。
 こんなもの、見ないようにしていたのに。絶対に自分から近づいたり、触れたりなんてしないよう生きてきたのに。だって、自分が余計に惨めで情けない生き物に思えてしまうから。期待も希望も未来も何もかもやっと諦められたのに、そんな弱い自分が嫌になってしまうから。
 だから、これ以上近づいてはいけない。こんな卑屈でいじけた自分は、彼女のように何かを成すことは出来ないのだ。陽がさせばあっという間に消える影のように、街の隅っこでなんとか生きているだけなんだ。
 だからもう。
 そんな目で、こっちを見ないでくれ。
「ねえ、翔太くん」
 凛はその目を瞬かせ、楽しげに言った。
「目、つむって。少しだけ」
「どうして」
「どうしても」
 思いとは裏腹に、まるで操られるように、翔太は瞼を閉じた。
「いいって言うまで、開けたら駄目だよ」
 薄着の肩に、冷たく小さな手のひらが触れた。
 もう、離れなきゃ。そう思うのに。
「翔太くん」
 こんなことするから。
「いいよ」
 離れたくない。
「……どうしたの、これ」
 首に巻かれた紺色のマフラーに手をやり、翔太は呟いた。
「作ったの」
 隅には、SとAのアルファベットが白い糸で編み込まれている。
「大変だったんだよ。勉強の休憩時間に、ちょっとずつ」凛の頬が、僅かに赤らんでいる。
「買ったんじゃなくて」
「それぐらいの出来栄えなら、よかった。自信はあったけどね」いたずらっぽく言う彼女は、翔太の困惑ぶりに小首を傾げた。「ねえ、今日が何の日か、わからないの」
「今日?」もしかして、大事な何かを忘れていただろうか。「クリスマス?」
「まだだよ。ほんとにわからないの」
「わからない」
「今日は、何日?」
 呆れを滲ませる彼女に、焦りさえ覚えながら翔太は日にちを頭で辿った。二日前の金曜日、確か黒板には十九日と書かれていた。
「十二月二十一日」
 そこまで答えて、あっと声を出す。
「びっくりしちゃった。もしかして、間違えたかと思った」
「何で知ってるの、俺の誕生日」
「学校で聞いたの。翔太くんと同じ小学校だった人を探して」
 付き合いの長い友人なら、覚えている誰かがいるかもしれない。凛はその誰かさんをわざわざ探していたらしい。
 彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
「誕生日おめでとう、翔太くん」
 すぐには返事ができなかった。
「……どうして」
 なんとか呻くと、凛ははにかんで笑う。
「いつも寒そうだったから。プレゼント、何にしようかずっと考えてたんだけど」
「どうして、そこまでしてくれるの」
「さあ、どうしてかなあ」彼女は翔太から視線を外し、短い下草を軽くつま先で蹴った。「教えない。考えといて」
 目を伏せて、翔太は毛糸のマフラーにそっと触れた。深い紺色。温かい。誕生日にプレゼントを貰うことなど、両親が殺されてから初めてだ。そのうち自分でも誕生日の存在など忘れ去っていた。どうでもよくなった。ろうそくなんて何年も吹いていない。何がめでたいのかちっともわからない。
 それなのに、凛はここまでしてくれる。ただでさえ受験で忙しいのに、わざわざ日にちを調べ、こうして手間をかけてプレゼントまで用意してくれた。
「……えっと、翔太くん……」
 黙り込んでしまった彼に、凛は不安げな顔をした。
「その、もし、いらなかったら……無理になんて」
「ありがとう、榎本さん」翔太は顔を上げて礼を言った。「こんなの初めてだから、なんて言ったらいいかわからないんだけど。でもすごく嬉しい」
 みるみるうちに、凛の顔が真っ赤になった。もぐもぐと動かす口を自分のマフラーの中に隠し、彼を覗うよう上目遣いに視線をやる。
「その……翔太くんさえよかったらね……」珍しく彼女は口ごもる。「苗字じゃなくて、名前で呼んでくれないかな」
「名前で?」
「うん。そうしてくれたら、いいなって……」
「……凛ちゃんって?」
「ちゃんなんて、付けなくっていいよ」
「でも」と、今度は翔太が迷ってしまう。凛はずっと自分のことを「翔太くん」と呼んでくれる。それならせめて、ちゃん付けで呼ぶべきだと思うのだが、何故だか彼女はそれを望んでいないらしい。
 流石に翔太も恥ずかしい。が、こうして距離を詰めてくれる彼女に返せるものなど何もない。呼び名ひとつでお返しになるのなら。
「じゃあ、俺のことも呼び捨てで呼んでよ。くん付けしなくていいから」
 弾かれたように顔を上げた彼女は、躊躇いながらもそれが対等だと思ったらしい。小さく、本当に小さく頷いた。
「誕生日なんて、もう一生必要ないって思ってた」
「そんな、そんなわけないよ」
「だから、それだけ感謝してるよ。今日が大事な日だって、思い出させてくれて」いつの間にか、笑顔は自然に見せられるようになっていた。「ありがとう。凛」
 凛の顔が、歪んだ。彼女が泣き出したのかと思って翔太は驚いたが、彼女は一度腕で目元を拭うと、いつものように明るく笑ってみせた。
「これからは、忘れないでね。翔太くん……翔太の、大切な日なんだから」
 頷くと、凛が声を出して楽しそうに笑った。
 ああ、やっぱり、離れたくない。その笑顔を見て、翔太は確かに思った。彼女の言葉には頷きたい。与えてくれるものは、きちんと受け取りたい。そして、同じものを渡したい。
 もし神様がいるのなら、もう少しだけ許して欲しい。今までたくさん奪ったんだから、彼女が隣で笑っている、そんな日常だけ、夢を見させて欲しい。
「あっ、流れ星!」凛が天を指さす。
 まるで返事をするように、ひとつだけ星が流れていった。