ミズホは恋をしている。想い人の名前は月ヶ瀬。下の名前は知らない。なぜなら、ミズホはまだ一度も彼と会話をしたことがないからだ。名前を知っているのは、彼がいつも持っているスクールバッグに『月ヶ瀬』という刺繍がされているから。そうでなければ名字の一つさえ知ることができなかっただろう。つまり、ミズホと彼の間に接点は何もない。しかし、それでもミズホは月ヶ瀬のことが好きだった。

ミズホが月ヶ瀬のことを知ったのは、桜が咲き誇る四月のことだった。その日、ミズホが川沿いの道を歩いていると、しゃくりあげるような泣き声が耳に入ってきた。顔を上げて見ると、泣き声の主は随分と背が小さく、背負っている紺色のランドセルは日を浴びてぴかぴかと輝いている。入学したばかりの一年生だろうな、とミズホは思った。怪我をしたのか、道に迷ったのか──理由は定かではないが、彼が困っていることだけは確かだ。助けてあげなければ、と強く思う。しかし、ミズホはなかなか彼に声をかけることができなかった。幼い子どもに対する接し方が分からなかったのである。
男の子の少し後ろを行ったり来たりしながら狼狽えていると、突如上から声が降ってきた。
「どうかした?」
それこそが後にミズホが恋に落ちる男子高校生──月ヶ瀬だったのである。
月ヶ瀬は慣れた様子で男の子の前にしゃがみ込むと、優しい声音で問いかけた。
「怪我でもした?」
違う、と言うように男の子がふるふると首を横に振る。
「じゃあ迷子かな?」
それにもまた首を振った。
「家のカギ、おとしちゃった……」
やっと涙が落ち着いてきたのか、男の子はそう言って川の方を指差す。
「川のなかにとんでっちゃったから、もうおうち入れない……」
「うーん、そっか……。お家の人はいないの?」
彼はこくりと頷くと、大きな瞳に再びじわりと涙を滲ませる。
「おかーさんもおとーさんもお仕事だから……」
両親が帰ってくるまでどこかで時間を潰す、ということもこの年齢ではできないだろう。月ヶ瀬も同じことを思ったのか、「じゃあお兄さんが探してあげよう」と言ってブレザーの裾を捲り上げた。
「川のなか、はいるの……?」
「うん。この辺は流れも速くないしね」
でも、足をとられたら危ないから君はここで待っててね。そう告げると月ヶ瀬はローファーと靴下を脱ぎ、それらを揃えて道の端に置く。そして、スラックスを捲りあげて躊躇いなく川の中へと足を踏み入れた。
「どの辺に落としたかわかるー?」
川の中ほどまで進んだ月ヶ瀬が声を張り上げながら問いかける。すると、男の子は、泣き出しそうな声で「わかんない……」と答えた。
「カギをふり回してたらとんでっちゃって……。だから、もしかしたら遠くにいっちゃったかも……」
「あー、なるほどね。俺も昔よくやったなぁ……」
月ヶ瀬にも覚えがあるのか、彼は昔を懐かしむような目でそう呟く。ミズホには鍵を持ち歩く習慣がないので分からないが、どうやら振り回した結果鍵をなくす、というのは幼い頃のあるあるらしい。
「振り回してたってことは、鍵には紐か何かがついてたの?」
再び声を張り上げながら月ヶ瀬が問いかけると、男の子はこくりと頷く。
「うん。首にかけれるように、みどり色のひもがついてる」
それなら、もしかしたら石や草に引っかかっているのではないか。そう考え、ミズホはじっと水面を見つめた──否、見つめようとした。けれど、ミズホよりも月ヶ瀬の方が行動が速かった。月ヶ瀬は、男の子の言葉を聞くや否や水に顔をつけて捜索を始めたのだ。
これには男の子も驚いたようで、「お兄さん……?」と戸惑うような声を上げている。
確かに川底にある石に引っかかっているのだとしたらそうするほかにないのだが、それにしたって行動に躊躇いがなさすぎる。ミズホはこの行動の速さに感動を覚えた。見ず知らずの男子小学生のためにここまでできる人はなかなかいないだろう。
鍵は見つかるだろうか。月ヶ瀬の制服は濡れていないだろうか。そんな不安を抱えつつ捜索を見守っていると、やがて月ヶ瀬がパッと顔を上げた。
「おーい!見つかったよ!」
そう声を上げる月ヶ瀬の手の中には、確かに鈍色に光る何かが握られている。きっとあれが男の子の鍵なのだろう。
見つかったことに安心したのか、男の子は月ヶ瀬から鍵を受け取るとボロボロと涙を溢し始めた。
「よかったぁ……」
男の子の安堵の表情を目にして、月ヶ瀬がふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
「もうなくさないようにしなよ」
それは、ミズホが恋に落ちるには十分すぎるくらいの出来事だった。

強い風が吹く。途端、ざあっと音を立てて落ち葉が飛んでいった。月ヶ瀬を好きになってから、ミズホは一度も彼に声をかけることができていない。そんな簡単なことさえできぬまま、半年以上の月日が流れているのだ。
──いくらなんでも、今のままじゃだめだ。そう思い、ミズホはぎゅっと手に力を込める。
今日この道を月ヶ瀬が通ったら、今度こそ話しかけよう。そう決意してじっと月ヶ瀬の通学路を睨みつけた。
暫くそうしていると、やがて月ヶ瀬の足音が近付いてくる。ピンと耳を澄ますと、どうやら足音は二人分であるらしいことが分かった。つまり、月ヶ瀬は一人ではなく誰かと一緒に下校しているのだ。どうして今日に限って誰かと帰ってきているのだろう。そうは思ったけれど、ミズホはもう止まれない。月ヶ瀬が目の前を通る、というタイミングで、ぴょんと道路へ飛び出した。
「うわっ!」
ミズホにぶつかりそうになった月ヶ瀬が、驚いたような声と共に足を止める。
見上げると、月ヶ瀬の隣には綺麗な黒髪の女子生徒がいた。
「きゃっ!びっくりしたあ……」
ミズホの勢いには彼女も驚いたようで、目を丸くしてミズホを見下ろしている。
「なにこの子、悠真の知り合い?」
月ヶ瀬の名前が"ゆうま"というのだということを、ミズホはそこで初めて知った。
「あー……知り合いっていうか、半年くらい前から懐かれてるっぽい」
月ヶ瀬のその言葉に、今度はミズホが驚く。まさか月ヶ瀬に存在を認知されているとは思わなかったのだ。
「ふーん……。急に飛び出してくるからびっくりしたけど、結構可愛いじゃん」
彼女はミズホのことを気に入ったらしい。こちらに向かって手を伸ばしてきたので、ミズホは慌てて後ろに飛び退いた。
「あれ、私警戒されてる?」
「そりゃそうでしょ。猫って警戒心強いらしいし」
「え〜?悠真には懐いてるのに?」
「ね、ほんと何でだろ。俺猫苦手なんだけどなぁ……」
月ヶ瀬の口から溢れ落ちた衝撃的な言葉に、ミズホは大きく目を見開いた。
「にゃあ……」
せっかく覚悟を決めたのに、これでは失恋確定だ。どこか怯えた様子でこちらを見下ろす月ヶ瀬を見ながら、ミズホは心の中で涙を流すのだった。