前回のあらすじ
ファンタジー世界の森を歩き、ファンタジー世界の生き物に驚き、それを喜んで食べる少女にまた驚き、順調に異世界観光を続ける閠。
少女の後を付け回し少女に餌付けするという事案を重ねながら、閠はどこへ進むのか。
もしかしたら気付かれているのかもしれない。
その思いが強くなったのは、少女が野営の準備を始める頃だった。その間のんきに後をつけてのんきにファンタジー世界を満喫していたのだから私も大概鈍いというか図太いというか。
いつもの通りに少女が荷物を下ろし、おもむろに穴を掘りだしたので散歩にでも出ようかと思ったら、少女の方が何やら気づいたように振り向くので、つられて私も振り向いたけれど、特に何もない。何だろうと思って少女の方を見やると、なにやらしばらく悶絶していたかと思うと、猛然と穴を掘りだした。訳が分からない。
少女の排泄する姿を眺めて興奮するような趣味はないのでそそくさと散歩に出たのだけれど、うごうごとうごめくアケビのような果物が生っているのを観察している時にふと気づいたのである。もしかして、あれは見られていることに気づいて悶絶していたのではなかろうかと。
確認するために戻ろうかとも思ったけれど、タイミングよく、或いは悪くスーパーおしょんしょんタイムに鉢合わせてはまずいし、もしこれがスーパーおしょんしょんタイムだけではなく、インペリアルビッグベンタイムだった場合には互いの精神的ダメージが計り知れないものになりかねないので、般若心経を心の中で唱えながら、ぱくりぱくりと開いたり閉じたりするアケビもどきを無心に眺めて時間をつぶし、十分に間を開けたと確信を持ってから更に五分ほど待って野営地に戻った。
幸い今日も健康に手早く済んだらしく、澄ました顔でカモノハシもどきをさばいている。穴を掘っていた場所はかなり丁寧に埋め立てられていたけれど、それいつもはゴミ捨て場にもしてたよね。いま埋めていいの。
かなり怪しく思いながら観察してみたけれど、少女の方はもう気持ちを切り替えたらしく、熱心に調理にいそしんでいてこちらに気をかける様子もない。
今日は鍋にお湯を沸かして、白アスパラみたいのと野草をさっと茹でて、カモノハシもどきは炙り焼きにして食べるようだ。カモノハシもどきの脂がぽたぽたと火に落ちると何とも言えず香ばしい香りが漂って、お腹は空かないまでも口の中に涎が出てくるのを感じる。
美味しそうだなんて思うのは何年ぶりだろう。食欲というものがここしばらくはすっかり脳神経から欠損していた。お腹は減るから補給はした。筋肉が疲れるからたんぱく質を摂ろうと思ってプロテインは飲んだ。足りない栄養素を思ってサプリメントを飲んだ。でも、思えば、食事というものをしてこなかったかもしれない。何かを食べたいとは、思わなかったかもしれない。
少女はすっかりカモノハシもどきを焼き上げてしまうと、まな板代わりで皿代わりの革袋の上に山菜と一緒に並べて、例の味噌みたいなものを取り出した。
また、何かの缶を大事そうに取り出して、乾いた葉のようなものを鍋の湯に落とした。
少しすると葉が広がり、お湯が茶色に近い濃い赤色に染まる。それを金属のコップに注いで、ふうふうと冷ましながら飲んでいる。ふわりと漂う香りは爽やかで何かのハーブティーのようなものなのかもしれない。
味噌みたいなものは、山菜につけて食べるために用意したらしい。
白アスパラみたいのの先にちょっとつけて、はむりと食べては頬を綻ばせ、野草にぺたりとつけて頬張ってはむふむふと笑っている。
お待ちかね、と言わんばかりの笑顔でカモノハシもどきの腿肉を取ってかぶりつき、その溢れる肉汁に指先を濡らしながら、実に幸せそうに食べる。脂でてかてかと光る唇がまた子供っぽくておかしい。兎鳥より身が少ないけれど、ジューシーそうでずっと美味しそうだ。
そんな幸せそうな姿を見ていると、なんだかくらくらしてきた。血糖値が下がった感じだ。燃料切れを感じる。なんでだろう。いままでお腹なんて減らなかったのに。空腹という当たり前の生理現象は、しかし私にとっては体調不良と同義だ。エネルギー補給がうまくいっていない。でもこの体にそんな機能があったのならば、もっと早くこうなっているはずなのに。
私は少し考えて、もしかしてと思いついた。
美味しそうだと思ったから、だろうか。
思えば、最初に《隠身》が発動した時も、休もうと思ったときだった。いつもゲームで休憩して《HP》と《SP》を回復させるために使っていた《技能》だから、休もうという私の意志に反応して発動したのではないだろうか。《隠蓑》に関しては、私が使おうとそう意識したから、使えるようになったのではないだろうか。
身体能力もそうだ。無意識に使っていた時より、ゲームのキャラクターの体だと意識してからの方が、よりそれらしく振舞うようになった。
だとすれば、私が人の食事する様を見て、食べるということを思い出してしまったから、意識してしまったから、私の体はまっとうな人間のようにお腹が空いてものを食べたいと訴え始めたのではないだろうか。これは面倒な事だった。無補給でいられるならその方が便利だった。一度意識してしまえば、忘れることは難しい。
頭がくらくらして、湯気を上げるお肉から目を離せずにいると、少女はいつものように半分程食べて、それから少し考えて、革袋で軽く包んで、ほんの少し私の方に押し遣って、黙って毛布にくるまって向こうを向いてしまった。
これは、気づいているのだろうか。私の存在に気づいているのだろうか。わからない。怖い。私が見えているのだろうか。それで私の反応をうかがっているのだろうか。いやだ。怖い。わからない。
しかし混乱と不安は、直近の生理的欲求にだんだんと押し負けていった。
私は息を殺して近寄り、革袋を開いてまだ暖かいカモノハシもどきの腿肉を手に取った。
恐る恐る匂いをかぎ、その香ばしい香りにまたくらりときて、私は小さく齧ってみた。すると、少し硬い感触とともにじわりとたっぷりの脂がこぼれてきて、私は慌ててこぼさないように手皿を作って、大きく齧りついた。
その瞬間の感動と言ったら、まるで爆発だった。
舌先から喉の奥まで、じゅわっとあふれ出た肉汁と脂が通り過ぎるだけで、私のさび付いた神経回路に許容限界以上の電気信号が津波のように駆け抜けていった。
堪え切れずもう一口、また一口と重ねる度に、舌が、顎が、噛み締める歯さえも、言語に変換できない無数の信号を生み出しては流し込んできた。
気づけば私はちゅうちゅうと残った骨をしゃぶって貪欲に味を求めていた。そんなみっともない様に気づいて慌てて骨を吐き出し、どうしようかと迷って、少女が重ねた骨にそっと重ねておいた。
もうこうなると我慢はできそうになかった。白アスパラガスみたいなものにそっと味噌のようなものをつけて口にしてみると、しゃきくりゅと不思議な触感とともに甘みが口の中に広がった。味噌のように見えたものは、想像よりもずっと甘さの強いものだった。でもくどい甘さではない。ピーナッツバターのようでもある。
野草も食べてみた。こちらは辛味が強いもののようだ。少しの苦味と、すっと広がる辛味、それに味噌みたいなもののコクと甘味が合わさって、口の中で鮮烈な香りとともに広がる。
あまりの信号量の多さに、脳がピリピリするような心地さえ覚える。
長らく使っていなかった部分が活発に活動して、熱さえ持っているような気がする。気づけば私はほろほろと涙をこぼしながら、少女の残した夕餉をあらかた食べつくしてしまった。過失というには、骨にこびりついた肉片まで丁寧にしゃぶりつくしてしまって言い訳のしようもない状態である。
もうこうなれば毒を食らわば皿までの精神というか、居直り強盗のような心地でコップを拝借してお茶もいただいた。甘みの強いもので、軽い渋みが食後の口を程よく洗い流してくれる。
ゆっくりとお茶を頂いて心を落ち着ける間に涙も止まり、暴走していた食欲も収まったので、はい、反省会である。
やっちまったのは仕方ないけれどどうしたものだろうか。少女の朝ご飯になる予定の食事を平らげてしまった。こちらに気づいて寄越してくれたのだというのは私の勝手な希望的観測であって、寝ている時に蹴飛ばさないようによけただけかもしれないのだ。
私は少し悩んで、ポーチから昨日の《濃縮林檎》を一つ、《SP》回復アイテムである《凝縮葡萄》を一房、それから最大《HP》量を少しだけ増やしてくれる効果のある《コウジュベリー》を一房、代わりに置いておいた。
焚火を挟んで向かい側に移動して腰を下ろすと、一応はやるだけやったという安堵感と、空腹が満たされた満足感と、そして焚火の暖かさにだろうか、今まで感じなかった眠気が瞼にのしかかり、気づけば私はかくりと視界が落ちたのを最後に、深い眠りに落ちていったのだった。
眩しさにはっと目が覚めた時の私の慌てようがわかるだろうか。
目が覚めた時には朝日が差し込んでおり、すでに少女は目を覚ましているようだった。私の置いておいた果物を、朝ご飯として実に幸せそうに食べている。
うまく回らない寝起きの頭でしばらく観察していて思ったのだけれど、もしかしたらこの娘はそれなりに良いところの子供なのかもしれない。装備を新調してもらえているし、それに食事の仕方が汚くない。
食べ方が綺麗だというのは、これは完全に教養だ。表情豊かに食べる様はお高く留まったところがまるでないのだけれど、食べ方自体は実に行儀が良い。
早く多くの人間がいて、文化程度がわかる町などに出られるといいのだけれど。
少女の食べっぷりを見て胃袋が文句を言い始めたので、私もポーチから《濃縮林檎》を取り出して食べることにした。
しゃくりとした心地よい歯応えに、口当たりの良い甘酸っぱさ。成程これは少女が夢中になるわけだ。私は手早く食べ終えて、それから残った芯をどうしようかと迷って、結局少女のまとめたゴミに紛れさせた。どうせ埋めてしまえばわかるまい。
ポーチの中のアイテム残数を思って、私はため息を吐いた。まだまだ余裕はあるとはいえ、この後の生活を思えば、現地での採取を考えなければ。
前途は多難で、幸先は不安で、しかし。
「おいひぃ……!」
何にも考えていなさそうな、幸せそうに《濃縮林檎》をかじる少女の姿に、私は深く考えるのを止めた。
なんとかなるさ。
なんとかなるさ、だ。
用語解説
・少女の排泄する姿を眺めて興奮するような趣味
現代社会ではあまり一般的ではないが一定の層が存在するらしい人間の業の深さを思わせる性癖。
まだ軽い方らしい。
・スーパーおしょんしょんタイム
腎臓において血液から老廃物や有害な代謝産物を濾過してつくられた尿は、腎盂から尿管の蠕動によって膀胱へ送られる。膀胱内に尿が充満すると尿意を生じ、尿は尿道を経て体外に排出される。これを排尿という。この排尿を直接的でなくかつ誰にでもわかるようにした表現。
・インペリアルビッグベンタイム
消化し吸収した食物の残りを肛門より体外に排泄することを排便という。この排便を婉曲的にした表現。消化し吸収した食物の残りを大便と呼ぶが、この大便の大を英訳しビッグ、便をそのまま発音しベン、繋げてビッグベンとし、イギリスはロンドンに実在するウェストミンスター宮殿に付属する時計台の大時鐘の愛称ビッグ・ベンとかけ、大英帝国をイメージさせるインペリアルを冠している。グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国を不当に貶める意図は全くない。
・般若心経
正式には般若波羅蜜多心経。
大乗仏教における空性、般若思想に関して記述された経典。
複数の宗派で広く用いられ、現代日本でも耳にしたことがある者が多いと思われる。
素数と並んで雑念を払う目的で唱えられることが多いが、本来の用途ではない。
・《凝縮葡萄》
《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。高レベル帯の植物系Mobからドロップする。
《SP》を最大値の三割ほど回復させる。加工することで重量値が低く、五割回復の効果を持つ《凝縮葡萄ジュース》が作成できる。
『一房の葡萄。一粒の果実。これは私の血である。これは私の肉である。味わいたければもぎ取ればいい。できるものなら』
・《コウジュベリー》
《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。森林など一部地域で特定の木々などを調べると確率でドロップする。《HP》の最大値を25ポイント増やす効果がある。低レベルの内は恩恵が大きいが、高レベルになるとあまり意味がない上、効果に回数制限がある。
『深き森の民が皆おどろくほど長生きなのは、この不思議な果実を常食しているからだという。この森で長生きすることが果たして幸せかどうかは私の知るところではないのだが』
・ハクナ・マタタ
スワヒリ語でどうにかなる、くよくよするなの意。
ファンタジー世界の森を歩き、ファンタジー世界の生き物に驚き、それを喜んで食べる少女にまた驚き、順調に異世界観光を続ける閠。
少女の後を付け回し少女に餌付けするという事案を重ねながら、閠はどこへ進むのか。
もしかしたら気付かれているのかもしれない。
その思いが強くなったのは、少女が野営の準備を始める頃だった。その間のんきに後をつけてのんきにファンタジー世界を満喫していたのだから私も大概鈍いというか図太いというか。
いつもの通りに少女が荷物を下ろし、おもむろに穴を掘りだしたので散歩にでも出ようかと思ったら、少女の方が何やら気づいたように振り向くので、つられて私も振り向いたけれど、特に何もない。何だろうと思って少女の方を見やると、なにやらしばらく悶絶していたかと思うと、猛然と穴を掘りだした。訳が分からない。
少女の排泄する姿を眺めて興奮するような趣味はないのでそそくさと散歩に出たのだけれど、うごうごとうごめくアケビのような果物が生っているのを観察している時にふと気づいたのである。もしかして、あれは見られていることに気づいて悶絶していたのではなかろうかと。
確認するために戻ろうかとも思ったけれど、タイミングよく、或いは悪くスーパーおしょんしょんタイムに鉢合わせてはまずいし、もしこれがスーパーおしょんしょんタイムだけではなく、インペリアルビッグベンタイムだった場合には互いの精神的ダメージが計り知れないものになりかねないので、般若心経を心の中で唱えながら、ぱくりぱくりと開いたり閉じたりするアケビもどきを無心に眺めて時間をつぶし、十分に間を開けたと確信を持ってから更に五分ほど待って野営地に戻った。
幸い今日も健康に手早く済んだらしく、澄ました顔でカモノハシもどきをさばいている。穴を掘っていた場所はかなり丁寧に埋め立てられていたけれど、それいつもはゴミ捨て場にもしてたよね。いま埋めていいの。
かなり怪しく思いながら観察してみたけれど、少女の方はもう気持ちを切り替えたらしく、熱心に調理にいそしんでいてこちらに気をかける様子もない。
今日は鍋にお湯を沸かして、白アスパラみたいのと野草をさっと茹でて、カモノハシもどきは炙り焼きにして食べるようだ。カモノハシもどきの脂がぽたぽたと火に落ちると何とも言えず香ばしい香りが漂って、お腹は空かないまでも口の中に涎が出てくるのを感じる。
美味しそうだなんて思うのは何年ぶりだろう。食欲というものがここしばらくはすっかり脳神経から欠損していた。お腹は減るから補給はした。筋肉が疲れるからたんぱく質を摂ろうと思ってプロテインは飲んだ。足りない栄養素を思ってサプリメントを飲んだ。でも、思えば、食事というものをしてこなかったかもしれない。何かを食べたいとは、思わなかったかもしれない。
少女はすっかりカモノハシもどきを焼き上げてしまうと、まな板代わりで皿代わりの革袋の上に山菜と一緒に並べて、例の味噌みたいなものを取り出した。
また、何かの缶を大事そうに取り出して、乾いた葉のようなものを鍋の湯に落とした。
少しすると葉が広がり、お湯が茶色に近い濃い赤色に染まる。それを金属のコップに注いで、ふうふうと冷ましながら飲んでいる。ふわりと漂う香りは爽やかで何かのハーブティーのようなものなのかもしれない。
味噌みたいなものは、山菜につけて食べるために用意したらしい。
白アスパラみたいのの先にちょっとつけて、はむりと食べては頬を綻ばせ、野草にぺたりとつけて頬張ってはむふむふと笑っている。
お待ちかね、と言わんばかりの笑顔でカモノハシもどきの腿肉を取ってかぶりつき、その溢れる肉汁に指先を濡らしながら、実に幸せそうに食べる。脂でてかてかと光る唇がまた子供っぽくておかしい。兎鳥より身が少ないけれど、ジューシーそうでずっと美味しそうだ。
そんな幸せそうな姿を見ていると、なんだかくらくらしてきた。血糖値が下がった感じだ。燃料切れを感じる。なんでだろう。いままでお腹なんて減らなかったのに。空腹という当たり前の生理現象は、しかし私にとっては体調不良と同義だ。エネルギー補給がうまくいっていない。でもこの体にそんな機能があったのならば、もっと早くこうなっているはずなのに。
私は少し考えて、もしかしてと思いついた。
美味しそうだと思ったから、だろうか。
思えば、最初に《隠身》が発動した時も、休もうと思ったときだった。いつもゲームで休憩して《HP》と《SP》を回復させるために使っていた《技能》だから、休もうという私の意志に反応して発動したのではないだろうか。《隠蓑》に関しては、私が使おうとそう意識したから、使えるようになったのではないだろうか。
身体能力もそうだ。無意識に使っていた時より、ゲームのキャラクターの体だと意識してからの方が、よりそれらしく振舞うようになった。
だとすれば、私が人の食事する様を見て、食べるということを思い出してしまったから、意識してしまったから、私の体はまっとうな人間のようにお腹が空いてものを食べたいと訴え始めたのではないだろうか。これは面倒な事だった。無補給でいられるならその方が便利だった。一度意識してしまえば、忘れることは難しい。
頭がくらくらして、湯気を上げるお肉から目を離せずにいると、少女はいつものように半分程食べて、それから少し考えて、革袋で軽く包んで、ほんの少し私の方に押し遣って、黙って毛布にくるまって向こうを向いてしまった。
これは、気づいているのだろうか。私の存在に気づいているのだろうか。わからない。怖い。私が見えているのだろうか。それで私の反応をうかがっているのだろうか。いやだ。怖い。わからない。
しかし混乱と不安は、直近の生理的欲求にだんだんと押し負けていった。
私は息を殺して近寄り、革袋を開いてまだ暖かいカモノハシもどきの腿肉を手に取った。
恐る恐る匂いをかぎ、その香ばしい香りにまたくらりときて、私は小さく齧ってみた。すると、少し硬い感触とともにじわりとたっぷりの脂がこぼれてきて、私は慌ててこぼさないように手皿を作って、大きく齧りついた。
その瞬間の感動と言ったら、まるで爆発だった。
舌先から喉の奥まで、じゅわっとあふれ出た肉汁と脂が通り過ぎるだけで、私のさび付いた神経回路に許容限界以上の電気信号が津波のように駆け抜けていった。
堪え切れずもう一口、また一口と重ねる度に、舌が、顎が、噛み締める歯さえも、言語に変換できない無数の信号を生み出しては流し込んできた。
気づけば私はちゅうちゅうと残った骨をしゃぶって貪欲に味を求めていた。そんなみっともない様に気づいて慌てて骨を吐き出し、どうしようかと迷って、少女が重ねた骨にそっと重ねておいた。
もうこうなると我慢はできそうになかった。白アスパラガスみたいなものにそっと味噌のようなものをつけて口にしてみると、しゃきくりゅと不思議な触感とともに甘みが口の中に広がった。味噌のように見えたものは、想像よりもずっと甘さの強いものだった。でもくどい甘さではない。ピーナッツバターのようでもある。
野草も食べてみた。こちらは辛味が強いもののようだ。少しの苦味と、すっと広がる辛味、それに味噌みたいなもののコクと甘味が合わさって、口の中で鮮烈な香りとともに広がる。
あまりの信号量の多さに、脳がピリピリするような心地さえ覚える。
長らく使っていなかった部分が活発に活動して、熱さえ持っているような気がする。気づけば私はほろほろと涙をこぼしながら、少女の残した夕餉をあらかた食べつくしてしまった。過失というには、骨にこびりついた肉片まで丁寧にしゃぶりつくしてしまって言い訳のしようもない状態である。
もうこうなれば毒を食らわば皿までの精神というか、居直り強盗のような心地でコップを拝借してお茶もいただいた。甘みの強いもので、軽い渋みが食後の口を程よく洗い流してくれる。
ゆっくりとお茶を頂いて心を落ち着ける間に涙も止まり、暴走していた食欲も収まったので、はい、反省会である。
やっちまったのは仕方ないけれどどうしたものだろうか。少女の朝ご飯になる予定の食事を平らげてしまった。こちらに気づいて寄越してくれたのだというのは私の勝手な希望的観測であって、寝ている時に蹴飛ばさないようによけただけかもしれないのだ。
私は少し悩んで、ポーチから昨日の《濃縮林檎》を一つ、《SP》回復アイテムである《凝縮葡萄》を一房、それから最大《HP》量を少しだけ増やしてくれる効果のある《コウジュベリー》を一房、代わりに置いておいた。
焚火を挟んで向かい側に移動して腰を下ろすと、一応はやるだけやったという安堵感と、空腹が満たされた満足感と、そして焚火の暖かさにだろうか、今まで感じなかった眠気が瞼にのしかかり、気づけば私はかくりと視界が落ちたのを最後に、深い眠りに落ちていったのだった。
眩しさにはっと目が覚めた時の私の慌てようがわかるだろうか。
目が覚めた時には朝日が差し込んでおり、すでに少女は目を覚ましているようだった。私の置いておいた果物を、朝ご飯として実に幸せそうに食べている。
うまく回らない寝起きの頭でしばらく観察していて思ったのだけれど、もしかしたらこの娘はそれなりに良いところの子供なのかもしれない。装備を新調してもらえているし、それに食事の仕方が汚くない。
食べ方が綺麗だというのは、これは完全に教養だ。表情豊かに食べる様はお高く留まったところがまるでないのだけれど、食べ方自体は実に行儀が良い。
早く多くの人間がいて、文化程度がわかる町などに出られるといいのだけれど。
少女の食べっぷりを見て胃袋が文句を言い始めたので、私もポーチから《濃縮林檎》を取り出して食べることにした。
しゃくりとした心地よい歯応えに、口当たりの良い甘酸っぱさ。成程これは少女が夢中になるわけだ。私は手早く食べ終えて、それから残った芯をどうしようかと迷って、結局少女のまとめたゴミに紛れさせた。どうせ埋めてしまえばわかるまい。
ポーチの中のアイテム残数を思って、私はため息を吐いた。まだまだ余裕はあるとはいえ、この後の生活を思えば、現地での採取を考えなければ。
前途は多難で、幸先は不安で、しかし。
「おいひぃ……!」
何にも考えていなさそうな、幸せそうに《濃縮林檎》をかじる少女の姿に、私は深く考えるのを止めた。
なんとかなるさ。
なんとかなるさ、だ。
用語解説
・少女の排泄する姿を眺めて興奮するような趣味
現代社会ではあまり一般的ではないが一定の層が存在するらしい人間の業の深さを思わせる性癖。
まだ軽い方らしい。
・スーパーおしょんしょんタイム
腎臓において血液から老廃物や有害な代謝産物を濾過してつくられた尿は、腎盂から尿管の蠕動によって膀胱へ送られる。膀胱内に尿が充満すると尿意を生じ、尿は尿道を経て体外に排出される。これを排尿という。この排尿を直接的でなくかつ誰にでもわかるようにした表現。
・インペリアルビッグベンタイム
消化し吸収した食物の残りを肛門より体外に排泄することを排便という。この排便を婉曲的にした表現。消化し吸収した食物の残りを大便と呼ぶが、この大便の大を英訳しビッグ、便をそのまま発音しベン、繋げてビッグベンとし、イギリスはロンドンに実在するウェストミンスター宮殿に付属する時計台の大時鐘の愛称ビッグ・ベンとかけ、大英帝国をイメージさせるインペリアルを冠している。グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国を不当に貶める意図は全くない。
・般若心経
正式には般若波羅蜜多心経。
大乗仏教における空性、般若思想に関して記述された経典。
複数の宗派で広く用いられ、現代日本でも耳にしたことがある者が多いと思われる。
素数と並んで雑念を払う目的で唱えられることが多いが、本来の用途ではない。
・《凝縮葡萄》
《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。高レベル帯の植物系Mobからドロップする。
《SP》を最大値の三割ほど回復させる。加工することで重量値が低く、五割回復の効果を持つ《凝縮葡萄ジュース》が作成できる。
『一房の葡萄。一粒の果実。これは私の血である。これは私の肉である。味わいたければもぎ取ればいい。できるものなら』
・《コウジュベリー》
《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。森林など一部地域で特定の木々などを調べると確率でドロップする。《HP》の最大値を25ポイント増やす効果がある。低レベルの内は恩恵が大きいが、高レベルになるとあまり意味がない上、効果に回数制限がある。
『深き森の民が皆おどろくほど長生きなのは、この不思議な果実を常食しているからだという。この森で長生きすることが果たして幸せかどうかは私の知るところではないのだが』
・ハクナ・マタタ
スワヒリ語でどうにかなる、くよくよするなの意。