前回のあらすじ
唐突に始まった飯レポに次ぐ飯レポ。
話が一切進まないまま飯の描写だけが積み上げられていくこの物語は何を目指しているのか。
腹ペコ娘の旅は続く。
何か揺れるような感じがあって、すわ地揺れかと驚いて目が覚めた時には、朝日がもうすっかり顔を出していました。
あの不思議な果実を食べてすっかり心も満たされお腹も満たされ、ぐっすりと寝入ってしまったようです。焚火の火が絶えていないあたり、ちゃんと夜中に薪を足してはいたのでしょうけれど、まったく覚えていません。無意識の内にできるようになったといえば凄いようにも感じますけれど、夢遊病のようで怖いです。
なんにせよ、少しお寝坊してしまいました。私はあわてて荷物をまとめ、朝食を手早く済ませて後始末をし、昨夜鍋を煮込んでいる間に仕掛けておいた簡単な罠を確認しました。仕掛けないよりは、という気持ちで、期待はしていなかったのですけれど、運のいいことに鼠鴨がかかっていました。この時期のものにしては大振りで、なかなか食いでがありそうです。その場で絞めて、今夜のおかずにすることにしました。
そうして移動を再開したのですけれど、この日の移動は、なんだか少し妙でした。
それというのも、不思議と体が軽いのでした。
兄から聞いたところによれば、旅をしている時は体調が万全であることなど滅多にあるものではなく、そもそも旅自体が体に負担をかけるのだから、常にどこかしらに問題を抱えながら、誤魔化し誤魔化し進んでいくようなものだということでした。どうしても生きている限り疲れるしお腹も空くけれど、そこをなんとか自然に癒える度合いと疲れる度合いと収支が合うように、できれば癒える方が少し多いくらいにして、それで何とか旅というものは成立するそうです。
だから私も旅の間は疲れるものだと思っていますし、その疲れた状態で剣を振るうことを昔から教えられてきました。万全な状態で戦えることなどまずないのですから、本当の本当に疲れた時にどれだけのことができるかということが肝要なのだと父も言っていました。
そういうことですからこの日も私は気を付けながら進もうと思っていたのですけれど、なんだか不思議に体が軽いのでした。日を経るごとに重しを重ねていくようだった手足は、うららかな春の午後を散策するように軽やかですし、肩に食い込んで痛いばかりだった鞄も今日は程よい重さにさえ感じられます。息はまるで上がらず、じわりとにじむ汗も、昨日までのような辛さや疲れからくる嫌な汗では全くなく、程よい運動と初夏の陽気からくる心地よいものでした。
よく眠ったおかげなのでしょうか、それともあの不思議な果実を食べて、久しぶりの甘味に心が満たされたからなのでしょうか。
不思議で、妙ではありましたけれど、しかし足取りは軽く思っていたよりも随分と早く進めそうで、私は森の精霊の加護だろうかと無邪気に喜びました。調子が良いときほど油断して大怪我をするものだと父にはよくよく言われてはいましたけれど、母には優しげな微笑とともに、調子が良いときにしかできないこともあるのだから隙を見て攻めなさいとも教えられていましたので、間を取って程々に調子に乗りたいと思います。
眠気も全くなく、目はさえて、活力に満ち満ちていますと、これまで以上に森のいろんなものに目が行き、流れる風を肌に感じ、また鼻に流れ込む匂いの数々に様々な違いがあることを知りました。ここ何日かですっかり見知ったと思っていた森の様子は、まったくの上っ面だけだったようで、こうして本当に体の調子が良いときにしかわからないようなささやかな違いが私を楽しませ、なお足取りを軽やかにしてくれるのでした。
例えばただただ足を取って邪魔だと思っていた下生にも、背の高いもの、低いもの、花をつけるもの、葉の広いもの、細いもの、様々なものがありました。中には見知った香草の類も紛れていて、時々摘んでいくだけでも結構な量になりそうでした。
足元にばかり気を取られていたいままでよりも余裕ができ、見上げれば木々の上にもまた暮らしがあることを知りました。枝を伝ってするすると向こうを行くのは猿猫でしょうか。チッツー、ツッツーと高く歌う声が聞こえてくるのは、川熊蝉の求愛の歌でしょうか。枝や蔦に紛れて蛇の姿が見えたこともありますし、また逆に蛇かと身構えたら木の枝だったということもありました。
ただ元気があるというだけでここまでの違いが出てくるものかと私はつくづく人間の体のつくりの妙に感心させられました。疲れやつらさは感覚を鈍らせ、体を重くします。そしてそれはきっと、余計な事を抱え込まないことで消費を減らそうという仕組みなのだとそう考えたのでした。なにしろ余裕のある今は、木々の葉の一枚一枚さえよく見えるほど感覚が広がり、自分でも少し不安に思うほど意識が散漫になりそうなのでした。
しかしそうしてあちらこちらに意識を向ける余裕ができたことで、今日のご飯は豪華になりそうでした。というのも、今まではきっと気付かなかっただろう木苺を茂みの中に見つけられましたし、地面に膨らみを見つけてもしやと思い掘ってみると、素晴らしいことに白い松葉独活を見つけることができました。また、小川に出たので手ぬぐいを絞り汗を拭ってさっぱりとしたついでに、葶藶をいくつか摘んできました。
私がもう少し詳しければ、お金になりそうな薬草や、素材になりそうな類を見つけて集め、路銀の足しにもできたのでしょうけれど、簡単なものはいざ知らず、そこまで詳しくはありません。それに一人旅ですとやっぱり荷物には限界がありますので、角猪(コルナプロ)の角のように換金額の多いものはともかく、薬草のようにかさばるものは持っていけません。
ご飯の材料は別腹というか別勘定なのでせっせと摘んでいきますけれど、これは結局私のお腹に入ってしまって荷物にはなりませんので構いませんったら構いません。亡くなった母もよく私に色々食べさせては、リリオのお腹は魔法のお腹ね、いつもたくさん食べてくれるから嬉しいわと優しく微笑んでくれたものです。貰ったはいいけれど多すぎて食べきれないし捨てるわけにもいかない貰い物の処理をさせられていたと知ったのは後になってからでしたけれど、お陰様で大抵のものを食べてもお腹を壊さない丈夫な子に育ちました。その割に背は伸びませんでしたけれど。
さてさて、こうして順調すぎるほどに順調に進めるという実に妙な体験をしているのですけれど、この妙な旅路にはもう一つ妙なことが起きていました。
私がそれに気づいたのは、さらさらと流れる小川で顔を拭い、水筒の水を補充し、葶藶をつみながら少しの休息をとっていた時のことでした。
今日の晩御飯を思って鼻歌など歌いながらのんきに過ごしていたのですけれど、不意に気配を感じて、私は腰の剣に手を伸ばしました。
鼻歌をゆっくりと止め、気配を殺してそっと振り向くと、木立の向こう側にまだ若く角の色の薄い鹿雉が若葉を食んでいるのを見つけました。背中から尾に近づくにつれて色を薄くしていく緑の羽は乱れもなく美しく整っており、目の周りの赤いコブは見事な発色で、傷や欠けもなく、若いながらに強く優れた雄であることを思わせました。
鹿雉の肉はこりこりと筋の感じられる歯応えの強いもので、味は淡白ながら滋味深く、新鮮な肝臓などは猟師たちだけが食べられる御馳走と言っていいほどのお宝です。また角には薬効があり、年経たものは肉が固くなる代わりに、角の薬効はぐんと強くなると聞きます。
私が驚いたのはこの鹿雉が実に美しいことや、縄張りに敏感なこの獣に気付かぬままこんなに近づけたことなど、ではありませんでした。
美しい鹿雉よりもいくらか手前、木立の中にひっそりと混ざるようにその影は佇んでいました。
はじめ私は、鹿雉に目を引かれていたので、その陰のことは木立が作り出す陰影の一つだと思っていました。しかし一度それが目に入ると、それはもう木立などではなくくっきりと私の目の中に移りこみました。
それは人影、のように見えました。というのも、その人影は向こうの木立が透けて見えていたのです。夜の闇のような黒い外套を頭からすっぽりとかぶったその人影は、頭巾の下からわずかに目をのぞかせてこちらをじっと見つめているのでした。もしも目を閉じたら、衣擦れどころか呼吸の音すら聞こえないほどにまるで生きた気配の感じられない人影が、ただそこに佇んでじっとこちらを見つめている姿は、鹿雉のことがすっかり頭の中から消えてしまうほどの衝撃でした。
私がごくりと息をのんでその不思議な人影を見つめていると、不意にばしばしと何かを打ち付けるような音がして、ケーン、と鋭い鳴き声が響きました。見れば、私の緊張に気配を察したらしい鹿雉が、片足を持ち上げて胴に足羽を打ち付ける母衣打ちをして、こちらを威嚇してきているではありませんか。
鹿雉は狩猟の対象ではありますけれど、決して安全な相手ではありません。気づかれていない時ならまだしも、こうして真正面から相手取るには厳しい相手です。縄張り意識の強い鹿雉は、時に自分より大きな角猪にさえ角を振るうくらい気性が荒いのです。
両前足を上げて本格的に母衣打ちを始める前に、私は目を背けないままそっと後ずさって距離を取り、静かに縄張りから出ていく意思を見せました。
しばらく鹿雉はこちらを威嚇していましたけれど、私が十分に距離を取ると、角を大きく一つ振るって、また若葉を食み始めました。
ほっと息をついて、掴んだままだった葶藶を革袋に押し込んでいると、視界の端にあの人影が佇んでいることに気づきました。私は迂闊に動かないように、野草を見繕っているふりをしながらその影に意識を向けました。
影はひどく背が高く、まるで覗き込むようにしてこちらを見つめていました。相変わらずその人影は向こうの景色を透かしていて、どうやら私の目の錯覚や気のせいではなさそうでした。
私が歩き出すと、その影もまた私の後をついてくるようでした。音もなく気配もなく、ただ、周りを見回すふりをしてちらりと目をやると、一定の距離を保ったままするするとついてくるのでした。
しばらくの間、私はこの謎の人影に警戒しながら歩いていましたけれど、次の休憩の間までにこれと言って害もなく、さして問題もなさそうだったのであまり気にしないことにしました。父からはよく大雑把だとか呆れられたものですけれど、私は物事の切り替えが割と早いようです。気にしなくていいことを気にしていたら疲れますし、何もないなら何も気にしなくていいと思うのですけれど。
そうして心の余裕が出てくると、私はのんびり景色を眺めるふりをしてこの人影を目の端で観察することができるようになりました。
最初は何事かと思いましたけれど、何もしてこないのならばそれほど怖いものではありません。何もしてこないふりをして悪意をちらちらと隠している人間のほうが余程怖いです。その点、この影はただただ私を眺めているだけで、ともすれば動きのない私の休憩中はうろうろしたりあちこち眺めたりと余程面白いです。
向こう側が透けて見えることや、まるで気配がしないこと、それにちらりと見えた目がなんだか物寂しそうに見えるような気がしないでもないことを思うと、これは噂に聞いた亡霊かもしれないと私は考えました。
亡霊というのは死んだ人が未練を遺したり強い思いを遺したりすると、その魂だけがこの世に残って彷徨うというものなのです。
生きている人を羨んで悪さをするという話も聞きますけれど、巷説に広く伝わるのは物悲しい悲恋のお話であったり、人情ものであったりします。そういったお話を思い出すと、この亡霊も何かしらの事情があったのだろうかとしんみりして、付いてきたいなら付いてくるがよかろうと、私はひそかな旅の道連れとしてそっと歓迎するのでした。
用語解説
・鼠鴨
四足の羽獣。幅広の嘴をもち、水辺や湿地帯に棲む。雑食。動きが素早く、よく動くためよく食べる。皮下の脂はうま味にあふれ、美味。
・猿猫
樹上生活をする毛獣。肉食を主とし、果実なども食べる。非常に身軽で、生涯木から降りないこともざら。
・川熊蝉
川辺に棲む蟲獣。成蟲は翡翠のように美しい翅をもち、装飾具にもされる。雄の鳴き声は求婚の歌であり、季語にもなっている。成蟲の胴は鳴き声を響かせるためのつくりで殆ど空洞になっており、実は少ない。幼蟲は土中で育ち、とろっとしたクリームのような身をしているが、やや土っぽい。
・木苺
鈴なりに甘酸っぱい実をつける植物の総称。またその実。ベリー類。
・松葉独活
うろこ状の葉を持つ山菜。土中から顔を出す直前のものは日に当たっておらず色が白く、柔らかい。
・葶藶
水辺に生える山菜。独特の辛みを持つ。肉類などの付け合わせにされたり、おひたしなどにされる。
・亡霊
幽霊。亡霊。未練や強い思いを遺した魂がこの世を彷徨っているとされる。
前回のあらすじ
ストーキング・ゴーストの存在に気づいた少女リリオ。気付かれたことに気づいていない閠。
何もしてこないならいいかなと無防備な姿をさらすリリオ。それを付け回す閠。
すさまじい犯罪臭に本人たちだけが気付いていないのだった。
森歩きなど一度もしたことがない私でも全く困ることのないこの体の身体能力は非常に助かった。
というのも、私がストーキング対象もとい観察対象に決めたこの冒険者見習いみたいな少女は、見かけよりずいぶんと体力があったからだ。
革鎧に傷もなく、鞄も新しいものに見えるし、それほど旅慣れているような感じではないのだけれども、足取りには迷いがないし、小さな体でずんずんと進んでいく。
この少女が特に体力に秀でているのか、この世界での平均値が高いのかは比較対象がないのでわからないけれど、少なくとも元の世界の同じ年ごろの子供と比べればかなり身体能力が高そうだ。運動の必要性が少ない現代社会の子供と、あまり文明程度が高くなさそうな世界の子供だから当然と言えば当然だけれど、食糧事情から言えば現代社会の子供の方が発育もよさそうだし、単純に比べるのは難しい。
ただ、私が信じられないくらいの怪力や素早さを発揮したように、この世界の住人も何かしらステータスに補正が入っている可能性は否めない。私一人が特殊と考えるより、この世界には魔法や魔力といった概念が存在していると考えた方が自然だ。私の存在的にも、よくあるこの手の物語のご都合主義的にも。
少女は旅慣れていないからなのか、単にまじめだからなのか、非常に規則正しく足を進めていた。時計がないので体感でざっくり判断しているけれど、大体一時間かそこら歩いて、十分ちょっとくらい休憩というのを繰り返している。
ただ、まじめなばかりではないというのは観察を始めてすぐにわかった。
少女が進んでいった先から血の匂いがして、あ、そういえばと思いだした時には、少女が警戒したように足を止めた。
そこは私が、あのでかい角猪を出会い頭にごっめーんとばかりに首を跳ね飛ばした現場だった。横たわった胴体はすでにすっかり弛緩し、血の流れもほとんど止まっているけれど、ほかほかと湯気が上がっていて、まだ温かそうだ。
時間が経ったからか、私の心がいくらか落ち着いたからか、先程のように強烈な忌避感や汚らしさは感じない。やはりちょっと腰が引けるけれど、二度目でもあるし、まだ落ち着いてみることができる。
少女はこの殺戮現場に、また恐らくはこの殺戮を引き起こした存在に警戒してかしばらくあたりをうかがっていた。こんな大きな猪を一発で仕留められるような存在は、どうやらこの世界の価値観でもあまり普通ではないようだ。まじめに警戒しているようで好感が持てる。そういう駆け出し冒険者みたいな感じいいね。
と思っていたらおもむろにナイフを取り出して猪の死体に近づいた。なるほど、危険な存在は警戒しても、こうして素材の塊が落ちていたら回収はしておきたいだろう。私には価値がわからないけれど、毛皮は売れるだろうし、なにかこう、ファンタジー的素材があるのかもしれない。
と思ってのぞき込んだら、かなり強引にお腹のあたりの肉だけ抉り取っていた。
顔。顔つき。それ年頃の女の子がしていいような顔じゃないぞ。涎を隠せ。
どうやら食欲ゆえの葛藤で、食欲ゆえの採取行動であったらしい。
一応素材になりそうな角も回収していたのでそこら辺の勘定もできるようだけれど、危険を冒してでもまず考えたのが食欲というあたり不安だ。
抉り取った肉と、折り取った角は、それぞれ別の革袋に納めていた。多分、素材を手に入れた時に入れるための革袋をいくつも持っているのだろう。小分けにしないと困るような素材もあるだろうしね。
少女は荷物を整えると、その場に跪いて、手の指を内側に組む、なんかちょっと痛そうな手つきをして、囁くようになにがしかを唱えた。
私がしっかり聞き取れたのならば、それはこんな具合だった。
「かけまくもかしこきさかえあわいのおほかみぷるぷらもろもろのおほみめぐみみえにしをたふとみゐやまひかしこみかしこみもまをす」
多分これは、こんな風に直せる。
「掛巻も畏き境、間の大神プルプラ、諸々の大御恵、御縁を尊み敬ひ恐み恐みも白す」
ざっくり言えば、名前に出すのも恐れ多い境界の神様プルプラよ、いろんなお恵みとご縁を与えてくださってありがとうございます、という感じになると思う。
もしも音が似てるだけで全然違うことを言っているのだとしたらともかく、この通りに言っているのだとすればどうやら異世界ものにありがちな自動翻訳機能はちゃんと働いているようだ。もし会話全てがこの調子だったら私がさらに現代語訳しなければならないという面倒くさいことになりそうだけれど、多分これは神様へのお祈りの定型文みたいな感じだろう。手慣れた感じだったしね。
連れがいれば会話からもっといろいろわかるんだけど、何しろ一人だから何にも喋らないんだよね。
少女はしばらく歩いて、少し開けた場所に出たところで、どうやら野営の準備を始めるようだった。まだ明るいとは思うけれど、人間が歩き続けられる時間は限られているし、薄暗い森の中で一人で野営の準備をするとなると時間もかかるだろう。
少女は手慣れた様子で竈を組んで火をつけたのだけれど、ここで何やらファンタジーグッズが登場した。
火打石でも使うのかと思っていたら、何か小さな箱のようなものを取り出して、竈の薪に近づけた。そして小さく蓋を開いたかと思うと、その隙間から小さな火が上がり、ぱちぱちと枯れ枝に燃えついたのだ。
ライターのようにも見えるこの箱の中には、小さな蜥蜴のようなものが見えた。それが本物なのか作り物なのかまではわからなかったけれど、ガスやオイルを燃やしているわけではなさそうだ。
少女は先程手に入れた猪肉を鍋で調理したり、装備の点検をしたりと、なんとも冒険者然としていて、いい。実にファンタジーな光景だ。しかもあんまりさりげなく使うから気付かなかったけれど、多分水筒も魔法の品だ。ナイフを洗ったり鍋に水を注いだりしていたのだけれど、どう考えても革袋のサイズと出てくる水の量が釣り合わない。先程水をくんでいたし無制限に汲めるわけではなさそうだけれど、かなり大量の水を収められるようだ。
薪を拾ったりそこら辺の草をつんできたりうろちょろしながら少女は料理を続け、全てが終わった頃にはすっかり日が暮れていた。なるほど一人で旅をするというのは大変そうだ。私には無理だな。まずなにをしたらいいのかわからない。
少女は鍋に直接匙を入れて猪肉を食べ始めたのだけれど、これがまた、とてつもなく美味しそうだった。
鍋自体も美味しそうは美味しそうなのだけれど、なにより実に幸せそうにものを食べるのだった。それこそ神様にでも祈りだしそうな感謝を込めて一口一口を噛み締めている。俯いてため息ばかりの現代社会で見かけたら、ヤクでもやってんのかと思うレベルでにっこにこ笑いながら食べている。何か危ないものでも入ってるんじゃないだろうなこの鍋。
やがて半分程食べ終えると、少女は鍋をもう一度沸かして、火からおろすと蓋を閉めて、厚手の布でくるんでしまった。どうするのかと思えばそのまま置いて、自分は毛布にくるまって寝る準備をしてしまう。
何だろうと思ってしばらく考えてみたが、多分保温効果を高めているのだろう。スロー・クッカーと同じことだ。じっくりと熱を加えることで肉は柔らかくなる。それを朝ごはんにしようというのだろう。なるほど、考えている。
木に背中を預けて寝入ってしまった少女を眺めて、さてどうしようかと私は悩んだ。
私も眠ってしまおうかとも思ったけれど、なにしろ安物とはいえベッドに慣れた現代人だ。毛布もなしに地べたで寝れるほど丈夫ではない。いや、多分この体は岩の上だろうと何だろうと平気なんだろうけれど、気持ちとしては別だろう。
それに何より眠気というものがまるでなかったのだ。
興奮して目が冴えている、という感じではない。そもそも体調や精神状態がずっとフラットで落ち着いている。多分これは、ゲーム時代睡眠というものがバッドステータス以外で存在しなかったからではないだろうかと思う。一応宿屋というものもあったけれど費用対効果を考えたらアイテム使うか移動がてら自然回復させた方がよほどましだったし、私は使ったことがない。ゲームを基準としたこの体は眠りが必要ないのかもしれない。
また、一日歩いたけれど疲労感もない。スタミナシステムはなかったからだろうか。見たり聞いたりの感覚はあるのに、そういった眠気や疲労などの一切がないというのは地に足がついていないようで落ち着かない。まるで幽霊だ。名乗ってはいるけれど、体感するとなんだか気持ち悪い。
眠気が来ないとなると、夜は恐ろしく長かった。話し相手もいないのだ。
ちょっとあたりをうろついてみたり、鍋の中身を拝借してみたりしたが、時間は全然過ぎない。なお、鍋は結構濃い味だった。味噌のようなものを入れていたけれど、炒ったナッツのような香ばしい感じがして、かなりコクがある。そして肉は、硬い。
早く起きておくれよと頬をつついたり、焚火に薪をくべたりしてぼうっと過ごす夜は、はじめ全く落ち着かなかった。何もしていない時間というのは、いったいいつぶりだろうか。
朝は六時に起きて、歯を磨いて顔を洗って化粧水はたいて手早く化粧を済ませて、着替えを済ませたらすぐ出勤だ。朝ご飯は通勤途中のコンビニでゼリータイプの補給食品を一気に絞って瞬間チャージ。会社に着いたらもくもくと仕事して、同僚がきゃいきゃい下らない会話してるのを聞き流しながらブロックタイプの栄養食品とミネラルウォーターでお昼ご飯。済んだらクソどうでもいい会議のチラ見されて終わりの資料をコピーして手作業でホチキスで止めて、上司のクソどうでもいい思い付きで訂正された資料をコピーしなおしてまたホチキスで止めて、結局会議で大して使われもしないまま回収してホチキス針を外して裏紙を再利用箱に放り込んで、給湯室で陰口大会の若い社員を尻目にテンプレート書類を仕上げて印刷して発送してとか言うメールでいいだろうという仕事を終わらせて、さあ定時で上がろうと思えばサービス残業のお時間だ。タイムカード切れってお前労働基準法違反だからな。十分もあれば終わるだろう仕事を、テンプレートと書式と要らん工程のせいで一時間以上に膨らまされて、さっさと終わらせて提出しようとしたら上司は本日早退につきまた明日ってお前これ今日じゃなくてよかっただろう。帰り道にコンビニに寄って栄養食品とミネラルウォーターを買って帰宅。パソコンを起動させてゲームのアップデート。その間にもそもそ晩御飯を済ませてレクサプロ飲んで、ああ、そろそろ眠剤切れるんだったでも次休みいつだっけ、ぼんやり考えながらゲームに没入して、切りが良ければベッドで寝て、悪けりゃ気付けば寝落ちしてる。それで、アラームに起こされてまた出勤。休日は診療所にいって毎度変わらずのお話をして、お薬貰って帰って一日寝る。
そんな生活をずっと送っていたから、なんにもしない時間というものが落ち着かない。いわゆる世間の一般人はどういう毎日を送ってるんだろう。全然想像できない。なんでみんななんにもないのにウェーイって笑ってられるんだろう。脳器質の構造そのものが違うんじゃなかろうか。
そんなことをしばらくの間考えていたけれど、くうくうと静かな寝息を聞きながら焚火の火を眺めていると、頭の中をかけずり巡っていた文字列はだんだんと減っていって、映像情報や曖昧な感覚にとってかわられ、それもやがてふわふわとした形容しがたい、色も形もないものになった。きっとそれが、ぼんやりするということなんだと思う。いま私は、ぼんやりしているのだ。
ほとんど機械的に薪をくべているうちに朝日が差し始めたのだった。
用語解説
・ストーキング
同一の対象に付きまといなどを反復して行うこと。犯罪行為。事案。
・異世界ものにありがちな自動翻訳機能
何故か成り立ちもすべて異なる異世界で日本語が通じる現象。そのくせネット用語や俗語は通じなかったりする。言葉が通じない設定にすると転生して一から言葉を学びなおす場合はともかく、転移して身振り手振りでコミュニケーションをとらなければならないとどうしてもテンポが悪くなるので、「そのとき不思議なことが起こった」くらいの勢いで言葉が通じるパターンが多い。そしてそのまま全世界規模で言語が統一されていたりする。
・スロー・クッカー
長時間決まった温度で調理する加熱器具。高い保温機能で長時間熱を保てるものの他、自動で温度調節するものなどがある。
・バッドステータス
ゲーム用語。体がしびれて動かない麻痺や、一定時間ごとにダメージを受ける毒、行動不能になる睡眠や魔法の詠唱ができなくなる沈黙など、プレイヤーに不利なステータス異常。薬や魔法などで回復させなければ治らない場合や、時間経過で自動で治る場合がある。
・スタミナシステム
ゲーム用語。攻撃したり、走り続けたすることに対して、個別に設定されたスタミナを消費するシステム。スタミナを使い切ると走ったりの行動ができなくなったり、疲労して動きが鈍くなったりする。
・ゼリータイプの補給食品
忙しい社会人の味方と謳う、現代社会で手軽にお目にかかれるディストピア食品。あくまで補助するものであって食事はちゃんととった方が良い。これは主食ではない。
・ブロックタイプの栄養食品
栄養管理が楽なカロリー数が計算しやすい例のアレ。これも主食ではない。ライプポイントも回復しない。
前回のあらすじ
仕事してない時は何をしたらいいのかわからないという現代人の闇のような精神を持て余す閠。
その闇が少女を付け回すという事案を発生させてしまったのだろうか。
その闇が少女の寝顔を眺めて夜を過ごすという事案を発生させてしまったのだろうか。
闇は、あまりにも深い。
さて、夜が明けると、少女は慌てて起き出して、手早く鍋の中身をかきこんで、あの大容量の水筒の水で洗い、荷物をまとめて旅を再開した。
あの猪肉をたっぷりと食べたせいか、心なし足取りが軽そうだ。私にはいささか硬すぎる肉だったけれど、この娘は実に満足そうにぎゅむぎゅむと噛み締めていたし、気力も十分回復していることだろう。朝ご飯もしっかり摂ったことだし。
一方の私だけれど、一晩寝ずに過ごしても、やはり眠気は訪れなかった。また昨夜鍋の中身を少しつついただけだけれども、空腹感も別に感じない。もともとそんなに空腹を感じないというか、食事への欲求があまりなかったけれど、本格的に何も感じない。腹が満ちているわけでもなく、空いているわけでもない。意識しないとお腹のことなどまるで意識にも上らないくらいだ。
まあ、便利ではある。食事に煩わされるのは時間の無駄だ。ああ、いや、時間の使い方には困っているんだった。
とはいえ、一晩ぼんやりするという私史上かなりショッキングな出来事があったためか、少し頭が切り替わったようにも思う。少女の後ろを歩いている時も、特に急かされるような気持ちも急かしたい気持ちも起こらないし、周囲の景色を眺めていろいろと発見をすることもあった。
例えば何気なく通り過ぎていく木々なのだけれど、よくよく見ると葉の形や枝ぶりが、見たことのないものが多い。まあ私もそんなにいろいろ植物を見たことがあるわけではないけれど、以前図鑑でざっと見た感じとは明らかに違うものがちらほらとみられたりする。少なくとも私は自分の力ではい回る蔦とかは見たことがない。
少女は採集をしながら歩いているようで、不意に屈みこんだと思ったら木に生えているキノコを採り始めたり、私には雑草にしか見えない草を摘んだりしていた。まあこのくらいなら山菜取りのおばあちゃんとかもしていそうだけれど、ぎょっと目を見張るようなものもあった。
例えば、まっすぐ伸びた太い茎からひらひらと布状の花びらを螺旋状に広げた花が咲いていたのだけれど、その傍をひらひらと舞う蝶々に少女が目を付けた。少し大きめの革袋を取り出すと、花に止まって蜜を吸い始めた蝶々の上にえいやッとかぶせたのだ。虫取りなんて子供らしくていいなあ、私は一度たりともしたことないし虫なんか触りたくないけど、と微笑ましく見守っていたのだが、にこにこ笑顔で少女が袋を覗き込むと、なにやらかちゃかちゃと硬質な音がする。蝶々だよね。それ蝶々だよね本当に。不気味に思ってのぞき込むと、きらきらと美しい色取り取りのシジミがいた。
何を言っているかわからないと思うけれど私もわからない。
なんだこれと思っていると、そのうちの一つが隙をついて飛び出して、少女が慌てて袋の口を縛った。袋から抜け出したシジミが、薄く綺麗に輝く殻を羽ばたかせて飛んでいく。
航空力学仕事しろ。
おそらく何がしか未知の物理法則かファンタジー原理で飛んでいく飛行シジミを見送り、私は少女の笑みの理由を悟った。子供らしい昆虫採集の笑顔じゃない。いいおかずが手に入ったわっていう笑顔だ、これ。
その後も少女は順調に食欲を満たすために行動していた。突然木のうろに手を突っ込んで小動物を引きずり出して首の骨を圧し折り始めた時は悲鳴が出るかと思った。まあ随分お喋りしてないからとっさに声も出ないけどね。
獲物も豊富でご機嫌な少女は、やはり一時間歩いて十分休んでのペースを守って歩き続け、程よく開けた場所を野営地に選んだ。野営準備の光景も二度目となると慣れたけれど、どうしても慣れないこともあった。
少女がおもむろにシャベルで地面に穴を掘り始めるのを見て、私はそそくさと背を向けて、少しの散歩に出た。昨日は何の穴だろうとしばらく観察して大変申し訳ないことをしてしまった。だってまさかトイレ用の穴だとは思わないじゃないか。でもまあ、そりゃそうだよね。生きてれば食べるし、食べれば出すものだ。健康です。私の方はこの世界に来てからこっち、全然そういう欲求がなかったのですっかり忘れていた。猪鍋をちょっと食べたからそのうち出るかもしれないけど、果たして体内が人間と同じかどうかは私にもわからない。
少女は鍋に例の飛行シジミを放り込んで火にかけた。ああ、やっぱり食べるんだと思っていると、中からかんかん音がする。逃げ出そうとしてるんだろうなあ、あれ。酔っ払いエビみたいだ。
その間に少女は道中捕まえた小動物をさばき始めた。えぐいなとは思うけれど、血抜きのために首を裂いた時も見て少し慣れたし、怖いもの見たさもあって眺めていると、解体以前にカルチャーショックがあった。
兎っぽいと思っていたのだけれと、これ、鳥だ。
兎と鳥を足して割ったような感じ。四つ足の鳥というか。羽毛がかなりふわふわの体毛になっているらしくて、少女がぶちぶち引き抜いていく羽は綿みたいでかなり柔らかそうだ。足先なんかは完全に鳥で、前足などは風切羽の名残のような羽が伸びている。
羽をすっかり毟ってさばく段階に入ると、なんとなく鶏っぽくも感じる。
手慣れた様子で解体して、皮目を火であぶっているのは、羽の根っこの部分を焼いているのかな。
鍋から音がしなくなって、少女が蓋を開けると、ふわっと懐かしい香りがした。お吸い物の香りだ。何年も飲んでない。
今日は味噌は使わずあっさり塩味にするようで、ビスケットのようなものも砕いて入れたりはせず、たまにスープに浸して柔らかくして食べていた。こっそりお相伴にあずかろうかなとも思ったけれど、ジビエだけあってやっぱり歯応えがありそうにぎゅむぎゅむ噛み締めているし、食べ盛り育ち盛りの子供から頑張って獲った食べ物をかすめ取るのも申し訳なく感じて遠慮しておいた。昨日はあんまり美味しそうに食べるからついつい手を出してしまったけれど、別にお腹が空くわけでもないし、幸せそうに食べている姿を見ていると、まあいいかなという気分にもなる。
半分ほど平らげると、ちょっと物足りないという顔をしながら、昨日と同じように鍋を保温し始めるので、私はふと思いついて腰のポーチを探ってみた。
暇な時間に少し調べてみてわかったのだけれど、このポーチ、ゲーム時代でいうインベントリになっているようなのだった。アイテムボックスとか言ったりもする、要するに取得したアイテムが保管される場所だ。小さな見た目だけれど、手を入れると中にどんなアイテムが入っているのかが思い浮かぶ。
私のプレイしていた《エンズビル・オンライン》ではアイテムに重量が設定されていた。キャラクターの力強さや、装備に付与されている軽量化効果などから計算される所持重量限界があって、低レベルの内は装備も含めてどんなアイテムを持っていくかかなり厳選を迫られる。
私の場合、力強さは全然育てていないけれど、それでも最大レベルだけあってかなり豊富なアイテムを所持している。
私が取り出したのはその中の回復アイテムである《濃縮林檎》というものだ。普通の《林檎》は低レベルの内からも手に入る手軽な回復アイテムだけれど、《濃縮林檎》は高レベル帯の植物系モンスターからしか手に入らない、《HP》と《SP》を大きく回復させてくれるアイテムだ。加工すれば《濃縮林檎ジュース》という重量が軽くて回復量も高いアイテムにできるけれど、面倒だったのでそのまま持っていたのだ。
私はそれをそっと竈の傍に転がしておいた。ポーションなんかでも回復はするだろうけれど、突然薬瓶なんか転がってても怪しいし、第一お腹が満たされないだろう。その点果物なら森の中に落ちていてもおかしくはないし、食べれば満足もするだろう。
……私のアイテムをこの世界の人間が摂取した際にどんな効果が出るのかという人体実験も兼ねている、というのは包み隠さず言っておこう。私はなにも善意だけの人間ではないのだ。
少女は《濃縮林檎》の存在に気づくと、あたりを見回して不思議そうに首を傾げた。まあ、確かにちょっと怪しかろう。近くにそれらしい実が生っている木はないからね。私だってそれくらいわかる。でも短い付き合いながらこの娘のことは少しわかった。
少女はやはり、気にしながらも《濃縮林檎》を手に取り、半分くらい警戒心を置き去りにして、わずかの葛藤を済ませるやじゃくじゃくと美味しそうに食べ始めた。旅の中では甘いものはあまり手に入らないだろうし、ただの《林檎》よりも栄養価が高そうな《濃縮林檎》はさぞかし美味しかろう。
瞬く間に平らげ、種を押し頂くようにしてしまいこみ、ついには神にまで祈り始める姿に笑い死にするかと思ったが、幸いこの程度では私の《HP》は減りもしなかった。
少女がぐっすりと眠りに落ちると、私はこの退屈な夜長をどう過ごすか思索にふけった。どうしてこんなことになったのかとか、この体は何なのかとか、この世界は何なのかとか、多分考えなければならないことはたくさんあるのだけれど、でもそれらは考えても意味のないことでもある。答えは私の中にはない。だから目先ことを考えた方が建設的だ。
私は焚火に薪をくべ、少女の頬をつつき、あたりをうろつきまわり、ポーチの中身を改め、《技能》の扱いがどう変わっているのかを確かめ、一人時間を潰した。
少女が苦労して仕掛けた罠は、器用に餌だけ抜き取られてあまりにも哀れだったので、そこら辺をうろついていたカモノハシみたいな小動物を捕獲して罠にかかったように見せかけておいた。
ついでに暇だから観察してみたけれど、カモノハシとしては嘴が短い。尾は長く、足はちょろちょろ動き回りやすそうな小さなものだ。前の世界ではペットなんて飼ったことがなかったし、動物に触れる機会などなくてちょっとおっかなびっくりだったのだけれど、この体は私の思うとおりに動いてくれて、うっかり握りつぶすということもなく繊細に捕まえられたのに驚いた。
頭で気持ち悪い触りたくないと思いながらも、手の方では機械的に仕事をこなしてくれるのだ。しばらく弄っているうちに慣れてきたし、存外私も図太い方なのだろうか。そういえばレクサプロ飲んでないけどどうということもない。まだ薬の効果が残っているというよりは、この体は脳の構造も強くなっているのかもしれなかった。
やはり全く眠気が来ないまま朝が来たけれど、朝日が出てきても少女に起きる気配がない。
甘やかしたせいだろうかと思って揺さぶってやるとさすがに目を覚まし、寝坊したことに気づいたらしく大慌てで片づけを始めた。どれだけ急いでいても朝ご飯を幸せそうに食べるので、多分この娘と私の脳器質には相容れない違いが存在している気がする。
罠に仕掛けておいたカモノハシもどきには喜んでもらえたようでよかったけれど、やっぱりその場でしめて血抜きするので笑顔が怖い。いや、この世界の常識的には普通の反応なんだろうけど。
《濃縮林檎》の回復効果があったのだろう、少女の足取りは非常に軽かった。ステータスが見えないので《HP》が回復したのか、回復したとして、ゲーム時代のように《HP》最大量までしか回復しないのか、そのあたりのことはよくわからない。しかしこの元気な足取りが少女の本来の身体能力なのだとすれば、めげる様子はなかったもののやはり一人旅は疲れがたまるようだ。冒険者は大変だね。
元気が出たおかげか非常にご機嫌で進んでいく少女の後を私もついていく。余裕があるからか、少女は道々食材になりそうなものを積極的に採取しているようだった。私は樹上をするする移動していく山猫みたいな生き物や、遠くから聞こえてくる鳥か何かの鳴き声、そういったものに目を取られていたので詳しくは見ていないけれど、地面からタケノコみたいな白アスパラみたいなものを掘り出したり、茂みに顔を突っ込んで木苺を摘んだりとやりたい放題やっているみたいだった。
元気があるのはいいことだけれど、はしゃぎすぎて疲れても私は知らない。
小川に差し掛かったところで、少女は機嫌がよさそうに鼻歌を歌いながら休憩を始めた。例のやたらと大容量の謎水筒に水を汲み、山菜のようなものを摘み、のんきに顔など洗っている。
私は私で川辺の木に止まっている巨大な蝉に目を奪われていた。実に綺麗なエメラルド色の羽をしていて、チーチーツーツーと先程から聞こえていた鳥の鳴き声のような声で歌っている。蝉の鳴き声と言えばうるさいとばかり感じていたけれど、せせらぎとこの巨大蝉の歌声の取り合わせはなんだかとても涼しげで心地よい。
そろそろ出発する頃合かなと振り向くと、少女が警戒したような顔つきでじっとこちらを見ている。いつの間にか《隠蓑》が解けていただろうかと慌てて確認するけれど、相変わらず体は半透明のままで、解除された様子はない。
なんだろうと思ってあたりを見てみると、どうも私の体を透かして向こう側に、一頭の獣がいることに気づいた。
角もあるし鹿っぽいのだけれど、口元には嘴があるし、足元も蹄はあるけれど鱗のある足で、今までにも見た四つ足の鳥の類らしい。非常に立派な体躯で、毛並みというか羽並みというか、鮮やかな色合いで美しい。
ぼんやり見ていると、少女に気づいたらしい鹿鳥が、鋭く鳴いて威嚇し始めた。前足に生えた風切羽の名残のような飾り羽を体に打ち付け、角を向けてしきりに鳴いている。縄張り意識の強い獣のようだ。
少女は、熊に遭った時の対処法のような感じで、目を背けないままゆっくりと後ずさって、十分に距離を取ってからその場を逃げ出した。私もそのあとについていく。ファンタジー世界の戦闘が見られるかもと思ったのだけれど、まあ十三、四の小柄な子供に鹿と戦えっていうのはちょっと厳しいだろう。
少女はすぐに気を取り直したのか、のんびりとあちらこちらを眺めながら、元の調子で歩き始めたようだった。私も旅の連れが気落ちしたり警戒し通しでは落ち着かない。少し安堵して観察を続けるのだった。
用語解説
・《濃縮林檎》
《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。高レベル帯の植物系Mobからドロップする。
《HP》を最大値の三割ほど回復させる。加工することで重量値が低く、五割回復の効果を持つ《濃縮林檎ジュース》が作成できる。
『年経た木々はついに歩き出す。獣達にとって遅すぎるその一歩は、気の長い古木達にとってはせっかち物の勇み足。豊かな実りは腰を据えなければ生み出せない。その前に根から腐り落ちなければの話だが。』
前回のあらすじ
ファンタジー世界の森を歩き、ファンタジー世界の生き物に驚き、それを喜んで食べる少女にまた驚き、順調に異世界観光を続ける閠。
少女の後を付け回し少女に餌付けするという事案を重ねながら、閠はどこへ進むのか。
もしかしたら気付かれているのかもしれない。
その思いが強くなったのは、少女が野営の準備を始める頃だった。その間のんきに後をつけてのんきにファンタジー世界を満喫していたのだから私も大概鈍いというか図太いというか。
いつもの通りに少女が荷物を下ろし、おもむろに穴を掘りだしたので散歩にでも出ようかと思ったら、少女の方が何やら気づいたように振り向くので、つられて私も振り向いたけれど、特に何もない。何だろうと思って少女の方を見やると、なにやらしばらく悶絶していたかと思うと、猛然と穴を掘りだした。訳が分からない。
少女の排泄する姿を眺めて興奮するような趣味はないのでそそくさと散歩に出たのだけれど、うごうごとうごめくアケビのような果物が生っているのを観察している時にふと気づいたのである。もしかして、あれは見られていることに気づいて悶絶していたのではなかろうかと。
確認するために戻ろうかとも思ったけれど、タイミングよく、或いは悪くスーパーおしょんしょんタイムに鉢合わせてはまずいし、もしこれがスーパーおしょんしょんタイムだけではなく、インペリアルビッグベンタイムだった場合には互いの精神的ダメージが計り知れないものになりかねないので、般若心経を心の中で唱えながら、ぱくりぱくりと開いたり閉じたりするアケビもどきを無心に眺めて時間をつぶし、十分に間を開けたと確信を持ってから更に五分ほど待って野営地に戻った。
幸い今日も健康に手早く済んだらしく、澄ました顔でカモノハシもどきをさばいている。穴を掘っていた場所はかなり丁寧に埋め立てられていたけれど、それいつもはゴミ捨て場にもしてたよね。いま埋めていいの。
かなり怪しく思いながら観察してみたけれど、少女の方はもう気持ちを切り替えたらしく、熱心に調理にいそしんでいてこちらに気をかける様子もない。
今日は鍋にお湯を沸かして、白アスパラみたいのと野草をさっと茹でて、カモノハシもどきは炙り焼きにして食べるようだ。カモノハシもどきの脂がぽたぽたと火に落ちると何とも言えず香ばしい香りが漂って、お腹は空かないまでも口の中に涎が出てくるのを感じる。
美味しそうだなんて思うのは何年ぶりだろう。食欲というものがここしばらくはすっかり脳神経から欠損していた。お腹は減るから補給はした。筋肉が疲れるからたんぱく質を摂ろうと思ってプロテインは飲んだ。足りない栄養素を思ってサプリメントを飲んだ。でも、思えば、食事というものをしてこなかったかもしれない。何かを食べたいとは、思わなかったかもしれない。
少女はすっかりカモノハシもどきを焼き上げてしまうと、まな板代わりで皿代わりの革袋の上に山菜と一緒に並べて、例の味噌みたいなものを取り出した。
また、何かの缶を大事そうに取り出して、乾いた葉のようなものを鍋の湯に落とした。
少しすると葉が広がり、お湯が茶色に近い濃い赤色に染まる。それを金属のコップに注いで、ふうふうと冷ましながら飲んでいる。ふわりと漂う香りは爽やかで何かのハーブティーのようなものなのかもしれない。
味噌みたいなものは、山菜につけて食べるために用意したらしい。
白アスパラみたいのの先にちょっとつけて、はむりと食べては頬を綻ばせ、野草にぺたりとつけて頬張ってはむふむふと笑っている。
お待ちかね、と言わんばかりの笑顔でカモノハシもどきの腿肉を取ってかぶりつき、その溢れる肉汁に指先を濡らしながら、実に幸せそうに食べる。脂でてかてかと光る唇がまた子供っぽくておかしい。兎鳥より身が少ないけれど、ジューシーそうでずっと美味しそうだ。
そんな幸せそうな姿を見ていると、なんだかくらくらしてきた。血糖値が下がった感じだ。燃料切れを感じる。なんでだろう。いままでお腹なんて減らなかったのに。空腹という当たり前の生理現象は、しかし私にとっては体調不良と同義だ。エネルギー補給がうまくいっていない。でもこの体にそんな機能があったのならば、もっと早くこうなっているはずなのに。
私は少し考えて、もしかしてと思いついた。
美味しそうだと思ったから、だろうか。
思えば、最初に《隠身》が発動した時も、休もうと思ったときだった。いつもゲームで休憩して《HP》と《SP》を回復させるために使っていた《技能》だから、休もうという私の意志に反応して発動したのではないだろうか。《隠蓑》に関しては、私が使おうとそう意識したから、使えるようになったのではないだろうか。
身体能力もそうだ。無意識に使っていた時より、ゲームのキャラクターの体だと意識してからの方が、よりそれらしく振舞うようになった。
だとすれば、私が人の食事する様を見て、食べるということを思い出してしまったから、意識してしまったから、私の体はまっとうな人間のようにお腹が空いてものを食べたいと訴え始めたのではないだろうか。これは面倒な事だった。無補給でいられるならその方が便利だった。一度意識してしまえば、忘れることは難しい。
頭がくらくらして、湯気を上げるお肉から目を離せずにいると、少女はいつものように半分程食べて、それから少し考えて、革袋で軽く包んで、ほんの少し私の方に押し遣って、黙って毛布にくるまって向こうを向いてしまった。
これは、気づいているのだろうか。私の存在に気づいているのだろうか。わからない。怖い。私が見えているのだろうか。それで私の反応をうかがっているのだろうか。いやだ。怖い。わからない。
しかし混乱と不安は、直近の生理的欲求にだんだんと押し負けていった。
私は息を殺して近寄り、革袋を開いてまだ暖かいカモノハシもどきの腿肉を手に取った。
恐る恐る匂いをかぎ、その香ばしい香りにまたくらりときて、私は小さく齧ってみた。すると、少し硬い感触とともにじわりとたっぷりの脂がこぼれてきて、私は慌ててこぼさないように手皿を作って、大きく齧りついた。
その瞬間の感動と言ったら、まるで爆発だった。
舌先から喉の奥まで、じゅわっとあふれ出た肉汁と脂が通り過ぎるだけで、私のさび付いた神経回路に許容限界以上の電気信号が津波のように駆け抜けていった。
堪え切れずもう一口、また一口と重ねる度に、舌が、顎が、噛み締める歯さえも、言語に変換できない無数の信号を生み出しては流し込んできた。
気づけば私はちゅうちゅうと残った骨をしゃぶって貪欲に味を求めていた。そんなみっともない様に気づいて慌てて骨を吐き出し、どうしようかと迷って、少女が重ねた骨にそっと重ねておいた。
もうこうなると我慢はできそうになかった。白アスパラガスみたいなものにそっと味噌のようなものをつけて口にしてみると、しゃきくりゅと不思議な触感とともに甘みが口の中に広がった。味噌のように見えたものは、想像よりもずっと甘さの強いものだった。でもくどい甘さではない。ピーナッツバターのようでもある。
野草も食べてみた。こちらは辛味が強いもののようだ。少しの苦味と、すっと広がる辛味、それに味噌みたいなもののコクと甘味が合わさって、口の中で鮮烈な香りとともに広がる。
あまりの信号量の多さに、脳がピリピリするような心地さえ覚える。
長らく使っていなかった部分が活発に活動して、熱さえ持っているような気がする。気づけば私はほろほろと涙をこぼしながら、少女の残した夕餉をあらかた食べつくしてしまった。過失というには、骨にこびりついた肉片まで丁寧にしゃぶりつくしてしまって言い訳のしようもない状態である。
もうこうなれば毒を食らわば皿までの精神というか、居直り強盗のような心地でコップを拝借してお茶もいただいた。甘みの強いもので、軽い渋みが食後の口を程よく洗い流してくれる。
ゆっくりとお茶を頂いて心を落ち着ける間に涙も止まり、暴走していた食欲も収まったので、はい、反省会である。
やっちまったのは仕方ないけれどどうしたものだろうか。少女の朝ご飯になる予定の食事を平らげてしまった。こちらに気づいて寄越してくれたのだというのは私の勝手な希望的観測であって、寝ている時に蹴飛ばさないようによけただけかもしれないのだ。
私は少し悩んで、ポーチから昨日の《濃縮林檎》を一つ、《SP》回復アイテムである《凝縮葡萄》を一房、それから最大《HP》量を少しだけ増やしてくれる効果のある《コウジュベリー》を一房、代わりに置いておいた。
焚火を挟んで向かい側に移動して腰を下ろすと、一応はやるだけやったという安堵感と、空腹が満たされた満足感と、そして焚火の暖かさにだろうか、今まで感じなかった眠気が瞼にのしかかり、気づけば私はかくりと視界が落ちたのを最後に、深い眠りに落ちていったのだった。
眩しさにはっと目が覚めた時の私の慌てようがわかるだろうか。
目が覚めた時には朝日が差し込んでおり、すでに少女は目を覚ましているようだった。私の置いておいた果物を、朝ご飯として実に幸せそうに食べている。
うまく回らない寝起きの頭でしばらく観察していて思ったのだけれど、もしかしたらこの娘はそれなりに良いところの子供なのかもしれない。装備を新調してもらえているし、それに食事の仕方が汚くない。
食べ方が綺麗だというのは、これは完全に教養だ。表情豊かに食べる様はお高く留まったところがまるでないのだけれど、食べ方自体は実に行儀が良い。
早く多くの人間がいて、文化程度がわかる町などに出られるといいのだけれど。
少女の食べっぷりを見て胃袋が文句を言い始めたので、私もポーチから《濃縮林檎》を取り出して食べることにした。
しゃくりとした心地よい歯応えに、口当たりの良い甘酸っぱさ。成程これは少女が夢中になるわけだ。私は手早く食べ終えて、それから残った芯をどうしようかと迷って、結局少女のまとめたゴミに紛れさせた。どうせ埋めてしまえばわかるまい。
ポーチの中のアイテム残数を思って、私はため息を吐いた。まだまだ余裕はあるとはいえ、この後の生活を思えば、現地での採取を考えなければ。
前途は多難で、幸先は不安で、しかし。
「おいひぃ……!」
何にも考えていなさそうな、幸せそうに《濃縮林檎》をかじる少女の姿に、私は深く考えるのを止めた。
なんとかなるさ。
なんとかなるさ、だ。
用語解説
・少女の排泄する姿を眺めて興奮するような趣味
現代社会ではあまり一般的ではないが一定の層が存在するらしい人間の業の深さを思わせる性癖。
まだ軽い方らしい。
・スーパーおしょんしょんタイム
腎臓において血液から老廃物や有害な代謝産物を濾過してつくられた尿は、腎盂から尿管の蠕動によって膀胱へ送られる。膀胱内に尿が充満すると尿意を生じ、尿は尿道を経て体外に排出される。これを排尿という。この排尿を直接的でなくかつ誰にでもわかるようにした表現。
・インペリアルビッグベンタイム
消化し吸収した食物の残りを肛門より体外に排泄することを排便という。この排便を婉曲的にした表現。消化し吸収した食物の残りを大便と呼ぶが、この大便の大を英訳しビッグ、便をそのまま発音しベン、繋げてビッグベンとし、イギリスはロンドンに実在するウェストミンスター宮殿に付属する時計台の大時鐘の愛称ビッグ・ベンとかけ、大英帝国をイメージさせるインペリアルを冠している。グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国を不当に貶める意図は全くない。
・般若心経
正式には般若波羅蜜多心経。
大乗仏教における空性、般若思想に関して記述された経典。
複数の宗派で広く用いられ、現代日本でも耳にしたことがある者が多いと思われる。
素数と並んで雑念を払う目的で唱えられることが多いが、本来の用途ではない。
・《凝縮葡萄》
《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。高レベル帯の植物系Mobからドロップする。
《SP》を最大値の三割ほど回復させる。加工することで重量値が低く、五割回復の効果を持つ《凝縮葡萄ジュース》が作成できる。
『一房の葡萄。一粒の果実。これは私の血である。これは私の肉である。味わいたければもぎ取ればいい。できるものなら』
・《コウジュベリー》
《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。森林など一部地域で特定の木々などを調べると確率でドロップする。《HP》の最大値を25ポイント増やす効果がある。低レベルの内は恩恵が大きいが、高レベルになるとあまり意味がない上、効果に回数制限がある。
『深き森の民が皆おどろくほど長生きなのは、この不思議な果実を常食しているからだという。この森で長生きすることが果たして幸せかどうかは私の知るところではないのだが』
・ハクナ・マタタ
スワヒリ語でどうにかなる、くよくよするなの意。
前回のあらすじ
少女の寝顔をおかずに少女の朝ご飯を食べつくし涙する閠。
この地に警察などいない。
亡霊と歩く森はなんだか不思議な感じでした。
連れと言えば連れなのですけれど、亡霊はある程度の距離を取って付いてくるだけで、私が何かしている時はのぞき込んできたりしますけれど、それ以外は話しかけてくるわけでもありません。
私の方も亡霊に話しかけることはありませんでしたし、見つめることもせず、時々気づかれないように様子を窺うだけでした。
というのも、亡霊は私が気付いていることに気付いていないようで、だからこそ安心してついてきているという風情だったので、何しろそろそろ寂しさが募ってきた私としては、迂闊なことをしてこの奇妙な連れを逃がしたくなかったのでした。
なんとなく距離感に慣れてきたような、まだ掴みかねているような、そのような具合のまま、私は今日の野営地を決めました。
野営地を決めるときのコツは、火をおこしやすいように開けていること、危険な獣や植物の気配がないこと、またここのように旅人の通る道であれば、野営地として何度も使われているうちにそのあとが残りますから、それを目安にすると楽です。
ゴミ捨て場兼用足しの穴を掘りながら、ふと私は気づきました。亡霊は、その、するのでしょうか。つまり、人間生きていれば食べるわけで、食べればその、出すわけで、だから私もこうしてその出したもののために穴を掘っているわけで、でも命がない、体もない亡霊はどうなのでしょう。出ないのでしょうか。
間抜けな好奇心からちらと様子を窺おうとして、そして私は全く突然にそのことに思い至って、思わず勢いよく亡霊を振り向いてしまいました。
亡霊はきょろきょろとあたりを眺めているようですけれど、しかし、いつもは私のあとをつけてきて、まるで観察でもしているようにじっと見つめてくるのです。そう、観察、観察されているのです、私は。それが生者を羨むが故の行動なのかどうかは定かではありませんけれど、問題はこのまま観察されたら、私は見られてしまうのです。その、なんです。この穴の正しい使い方をご披露しなければならないわけです。
いくら相手が亡霊であるとはいえ、さすがに用足しをまじまじと観察されて何とも思わないほど私も図太いわけではありません。しかし亡霊の見えない位置に移動しようとしたところでついてきてしまうでしょう。できるだけ隠そうとしたらのぞき込まれるかもしれません。さすがにのぞき込まれた状態で用を足せる神経はしていません。まだ現状のこの距離の方がましというものです。
こうなれば覚悟を決める外ないと、決死の覚悟で穴を掘ったにもかかわらず、ちらっと様子を窺った時にはふらっとどこかへ姿を消していました。
助かりました。助かりましたけど、何とも納得がいきません。見られたいわけではありませんけれど、なんだかこう、空回った感じがすごくします。
なんだか気が抜けてしまった私は手早く用を済ませて、それからそそくさと穴を埋めました。いつもはゴミ捨て用の穴としても使っていますけれど、さすがにその、ブツを見られたくなかったので。
無性に疲れたような気持ちを引きずりながらも、せっかくいろいろ手に入ったのでご飯の支度を進めました。
鴨鼠の羽をむしり、頭を落として腹を裂き、内臓を取り出して水で洗い、軽く塩と香草を摺りこんで、皮がきちんと張るように木の枝を刺して竈の火であぶります。
時期を見計らって沸かした鍋で松葉独活と葶藶をさっと湯がき、折角なので残った湯でとっておきの甘茶を煮出します。あの不思議な果実ほど甘いものではありませんけれど、暖炉の傍で温かな甘茶を飲むのはとても心地よい時間でした。
ふわっと立ち上る爽やかな果実のような香りを楽しみ、私は久しぶりの甘茶に口をつけます。舌に広がる甘味と、そしてわずかな渋み。この渋みが子供の頃は少し苦手でしたけれど、しかし渋みがあるからこそ甘味が引き立ち、そしてまた味を平たんではなく立体的にしてくれるのです。
私はまず松葉独活に胡桃味噌をつけてぱくりと穂先をかじりました。しゃき、くりゅ、と硬いような、柔らかいような、不思議な歯ごたえです。すっかり地上に出てきたものは緑色に染まってもう少し歯応えがはっきりしていて食い出もあるのですけれど、白い松葉独活ははなんといっても、貴婦人の指先などというあだ名がつくほどのしっとりとした柔らかさとふわりとした甘み、それにわずかな苦みが何とも言えずたまりません。
葶藶は辛味の強い山菜です。苦みもあってまさしく山菜といった風情で、肉のおともには何とも心強いさっぱりとした後味の葉物です。これをさっと茹でて、茹ですぎないというのが肝心です。生でも食べられるくらいアクのない山菜なのですけれど、しかしさっと茹でてやることで少し甘味が出て、それに歯応えがずっと良くなるのです。
さて、いよいよ本命です。
鴨鼠は成獣でもそれほど大きくならない小動物で、身もそれほどたくさんはついていないのですけれど、何といってもたっぷり蓄えられた脂がおいしいのです。あぶっている時からすでに、ぽたぽたと火に落ちては香ばしい香りを上げて私の胃袋をいじめてきました。これはもう待てません。
私は大きく口を開いて齧り付き、この罪深ささえ感じるほどのうまみに頬を綻ばせました。肉を噛み締めるとまず香ばしく焼き上げた分厚い脂がかりっ、ぎゅっと歯を受け止め、じゅわっとたっぷりの脂を吐き出してくるのです。それに気をよくしてさらに歯を突き立てると、今度はむしろさっくりとした歯応えの肉が受け止めてくれます。脂だけでは少しくどいし、肉だけでは物足りない。鴨鼠はその二つが神の御業としか思えない釣り合いで同居しているのでした。
森の恵みは数あれど、森で取れる肉で最もおいしいのは、まず鴨の類といっていいでしょう。
私は半身を丸々平らげて、いつものように残りを朝ごはんにしようと考え、そして待てよと思いました。
ちらとわずかに視線を向けると、そこにはこちらをただ黙って観察している亡霊の姿がありました。
亡霊もご飯を食べるのでしょうか。生きていないのに、体がないのに、ものを食べるのでしょうか。
少しの間考えて、私は残り物を革袋で軽く包み、そしてほんの少し亡霊の方に押し遣って、毛布にくるまってしまいました。
亡霊がものを食べるかどうかはわかりません。でも仮にも旅の連れですし、食べられるなら一緒に食べた方がいいに決まっています。気になるようでずっと見つめていますし、折角なので食べてほしくもあります。朝ご飯がなくなるのは困りますけれど、まあまだ木苺はありますし、明日はこれで済ませてしまいましょう。
なんだか気になって寝付けないまま、そっと目を開けてみると、亡霊が思いのほか近くにまで接近していて驚きましたが、なんとか息を殺して見守ります。
亡霊は恐る恐るといったように鴨鼠の肉を手に取り、頭巾に隠れてよく見えませんけれど、口元にもっていきました。どうやら亡霊もものを食べるようです。
亡霊は一口食べるや驚いたように身を振るわせ、ものすごい勢いでもくもくと食べ続けました。しかし、がっつくような勢いではありましたけれど、不思議と下品な所がなく、もしかすると生前は良家の方だったのかもしれません。ちゅうちゅうと骨をしゃぶる様子はなんだか色っぽくさえあり、また残った骨をどうしようと困ったように視線を迷わせ、私の残した骨にそっと重ねる様子はかわいらしくもありました。
続けて松葉独活と葶藶を私の真似をするように食べ、また残った鴨鼠も丁寧に平らげ、ようやく人心地付いたように、亡霊は鍋の甘茶を湯飲みに移して、ふうふうと冷ましながら口にしました。
そこで私はようやく、亡霊の横顔が、竈の火に照らされて見えるようになりました。
それは初めて見るような異国の雰囲気を持った顔立ちでした。
ほっそりとした顔は紙のように白く、小ぶりな鼻はどこか知的で、薄い唇は甘茶に暖められて赤く色づいていました。わずかに伏せられた目元はどこか寂しげで、泣き黒子が不思議に蠱惑的でした。そのような顔立ち以上に私を困惑させたのは、その頬を伝ってほろほろと流れ落ちる涙でした。
なんだか隠されていた秘密を暴いてしまったような、見てはいけないものを見てしまったような、罪悪感と不思議な高揚に私は動揺し、毛布の中できつく目を閉じて夢の中に逃げ込むほかにありませんでした。
いつの間にか眠りに落ちていた私は、朝起きていくつかの不思議なものを見つけました。
昨夜食べてしまった鴨鼠のお返しとでもいうのでしょうか。見たことのない美しい果物がそこには並べられていたのでした。この前の果実と同じ赤いものもありましたから、あれもどうやら亡霊がくれたもののようでした。
私がこの素敵な贈り物の贈り主を探して頭を巡らせたところで、もうひとつの不思議なものを見つけたのでした。
すっかり火の絶えてしまった焚火を挟んで向かい側に、黒いものがうずくまっていたのです。
息を殺して近づいてみると、それは確かに亡霊でした。それも、すやすやと穏やかな寝息を立てて眠っていたのです。起こしてしまうかもしれないと思いながらも、私は彼女の頬にそっと指を伸ばしていました。
氷のように冷たいかもしれない。もしかしたら触ることさえできないかもしれない。そんな不安と裏腹に、私の指先はほのかに温かな柔らかい感触に、確かに触れることができたのでした。
私は不思議な感動とともにそうしてしばらくの間彼女の頬の暖かさを指先で味わっていました。
彼女は亡霊かもしれないし、そうではないのかもしれない。
でも確かにここにいて、霧や霞のように消えてしまうことなどないのだ。
そのことがなんだか言いようのない安心感を私に与えてくれました。
涙の後の残る頬をもう一度だけ撫でて、私は今日という一日をまた新たに始めるのでした。
用語解説
・甘茶(ドルチャテオ)
甘みの強い植物性の花草茶。
前回のあらすじ
指先にふれる柔らかな頬。泣きはらした目元。怯える子供のように丸くなって眠る姿。
リリオは考える。森を出た、その先のことを。
そういえば手は洗っていたのだろうか。
ふと思ったのはそんなことだった。
つまり、その、なんだ。リトル・ジョンかビッグ・ベンかはわからないが、少女は昨日用を足してから調理に入ったわけだけれど、手は洗ったのだろうか。というか用足しした後どうしたのだろう。紙とかないだろう、絶対。拭いたのか。拭いていないのか。それが問題だ。
深く考えると昨日のご飯が途端に妙な属性を付与されかねないので、私は考えるのを止めた。
まあ、そもそもそんなことを考えてしまったのは、あれほどの醜態をさらしてしかもすっかり眠りこけてしまった大失態を犯しつつも、何とか気を取り直して平然を装い少女の後をつけている時だった。
いつものように一時間歩いて十分休憩を繰り返しているうちに、ふと、その、催してしまったからだ。なにをって、つまり、あれだよ。人間は食べたら出るようにできてるんだよ。人間は食べてから排出するまで十二時間から二十四時間くらいときいたことがある。以前の体はやや便秘気味だったけれど、この体が驚くほど健康なのは実感済みだ。
幸い隠れられるような茂みはいくらでもあるし、少女と十分に距離を取ってから茂みでいたした。着た覚えもない服をどうすればよいのかという問題は、ベルトを外して下ろせば済むパンツスタイルで何とかなった。下着はドロワーズとかズロースとか呼ばれるようなもののようで、真ん中がボタンで留められているだけだったので、すっかり脱いでしまわなくてもこれを開いて用を足すことができた。さあ用を済ませてすっきりして、そこで問題は冒頭に戻る。
どうしよう。
用を足したままの姿勢で私は悩んだ。
手を洗う件については、もったいないがアイテムに液体系があるし、どうとでもなる。素材用の蒸留水とかあったはずだ。問題はもっと先に、何で拭けばいいのかということだった。さすがに気軽に使える懐紙のようなものはアイテムにはなかった。
魔法職でなくても魔法が使える《巻物》は紙と言えばまあ、羊皮紙だし紙の一種だけれど、このようなことで使うにはあまりにももったいなさすぎる。第一うっかり拭いている時に発動してしまって大事な部分がバーニングしてしまったらどうすればいいのだ。ムダ毛処理とかそういうレベルではないぞ。
もちろん拭かないなどという選択肢はない。いくら何でも不衛生すぎるし、気持ちが悪い。どうしたらいいのだろう。
今まで読んできた異世界ものやファンタジーものを思い浮かべてみたけれど、私の読んできたものの中には中世風ファンタジーのトイレ事情について事細かに記してくれていたものはなかった。大体ファンタジーとか謳いながら魔法とか便利技術とか妙に発達して現代人でもそんなに不満を覚えないレベルで快適なんだよ結構な比率で。
読んでる側もそんなフラストレーション溜まるようなもの読みたくないかもしれないけれど、こちとら貴重な《巻物》で一か八か拭いてみて大炎上(物理)するかどうかの瀬戸際なのだ。ただし魔法は尻から出るとかそういうレベルではない。
くそっ、なんて時代だ。
私の読書スタイルに問題があるわけではないはずだ。だってどこの誰がトイレ事情に詳しいかどうかを判断条件に加えるというのだ。私にそういう趣味はない。
せめてゲーム内通貨が紙幣だったらもう使うあてもないし腐るほど持っているのだけれど、残念ながら金貨だ。本当に金かどうかは知らないけれど、見た目上金貨っぽく見えるコインだ。これで拭くのは無理がある。
となれば、と凝視したのが茂みの葉っぱである。
大きめの葉っぱもあるし、代用できなくはないのではないか、と思う。というかまあ、貴重で危険な《巻物》を使うべきかとか考える前に、まあ、思いついてはいた。いたのだけれど、さすがに勇気がいる。だってこれ栽培物でもない野生の葉っぱだ。雑菌だらけなのは間違いないし、そもそも何かしらの毒性を持っていてもおかしくはない。昨日は夢中で鳥みたいな鼠みたいなのを食べてしまったけれど、あれだって私の体には有毒だった可能性もあったのだ。幸いお腹は壊さなかったけれど、あれは一応現地人も食べていたし、そこまで不安はなかった。
だがこの雑菌まみれの正体不明の葉っぱで脆弱な粘膜部分を拭くというのは恐ろしいものがあった。《巻物》で拭いて股間がうっかりエクスプロージョンというのも恐ろしいが、粘膜部分が未知の微生物に侵されて腫れ上がるのはもっと生々しい洒落にならない恐怖がある。この世界で病気になってしまった時に私に治す術があるのかというとちょっと自信がないのだ。私の持ち合わせている抗体など何の役にも立たないだろうし、白血球がタイマン挑んで勝てるかどうかもわからないのだ。いくらゲームキャラクターの体っぽい超人ボディになっているとしても、二十六歳事務職の不健康な生活で錆びついたリンパ腺をそこまで信頼して酷使したくない。
しかし拭かないという選択肢はもっとない。
誰が何と言おうとそこは譲れないポイントだ。
泥水をすすって生き延びたとしても、股は拭く。尻も拭く。両方やらなきゃいけないのがつらいところだ。
私はできるだけ綺麗そうで大ぶりな葉っぱを選んで一枚とり、虫などがついていないことを確認した後、ポーチから素材用の蒸留水の瓶を取り出して軽く洗い、覚悟を決めて一思いに拭いた。この悲壮な覚悟がわかるだろうか。会社のトイレの安物のトイレットペーパーがいかに素晴らしいものだったか思い知らされた私の気持ちがわかるだろうか。ざりざりして固い葉っぱで大事なプレイスを己が手で蹂躙せざるを得ないこの悲しみがわかるだろうか。
わかってたまるか。こんな馬鹿馬鹿しい悲しみを背負う人間は一人でも少ない方がいい。
私は事を済ませて手を洗い、服を整え、なんだかとてつもない疲労感を背負ったまま少女の背中を追った。
幸い、さほど時間はかけていなかったのですぐに追いつくことはできた。もしこの体でなければ、気配を追いかけることも、森の不安定な道を歩き抜くこともできなかっただろう。そのあたりは身一つで放り出される典型的な転移者よりよほどましか。
しかし、その私のように特殊な体でもないのに、少女の足取りは軽快だ。これが現地人が皆健脚なのか、それともこの少女がことさらに頑丈な鍛えられた人種なのか、そこらへんはわからないが、まあ観察対象が元気なのはいいことだ。なにしろ時折こちらを振り向いて距離を測る余裕さえある。本人はそれとなくしているつもりなのだろうけれど、疑いを持って見ればすぐにわかる程度だ。
まあ、間違いなくこちらのことが見えている、と思っていいだろう。
最初の内は見えなかったようだから、勘が鋭いとか何かしらのスキルを使ったという訳ではなさそうだ。だから多分、原因は私の方にある。
空腹や眠気などが、私が強く意識するまで訪れなかったように、どうやらこの体は私の意識無意識に左右される不安定な存在だといっていい。というよりは、まだ確定しきっていないというべきか。一度覚えてしまった空腹感や眠気は消えないし、すでにこの体になってしまっているせいか、もとの脆弱な事務職の不健康な体をイメージしても元には戻らない。
では私が何をイメージした結果、少女から認識されるようになったかと言えば、多分私が彼女を旅の連れとして認識してしまったせいだと思う。
餌付けし、距離を縮め、私は近づきすぎた。
画面の向こうの存在ではない、実体を持つ生き物に、私は意識を気持ちを傾け過ぎた。それがおそらく、ゲーム機能におけるパーティシステムを発動させてしまったのだと思う。
ゲーム時代、プレイヤーは大抵役割の違う他の《職業》のキャラクターと組んで行動した。前衛と後衛、武器攻撃職と魔法職というように。
これらの面々がより効率的に団体行動できるシステムがパーティだ。同じパーティに所属するメンバーは獲得できる経験値が共有され、パーティ専用のチャットなどが使用できた。このパーティメンバーには、私の使う《隠蓑》などの隠れるスキルが無効化され、半透明のオブジェクトとして見えるようになっていた。恐らく今、少女はそのような状態なのだ。
ゲームの頃であればパーティ画面を開いてパーティを解除すればそれですんだけれど、いまはそれがない。私の認識次第のようだ。だから私が彼女を旅の連れではないと認識すれば私の姿は見えなくなるのだろうけれど、いまさらそんな風に気持ちを持っていくのは難しい。
森を抜け次第別れて、もっと別の、感情移入しないような相手を見つけた方がいいかもしれない。
楽しげに歩く背中を追いかけて、私は重たいため息を吐く。
……重たい?
何を気重く感じる必要があるというのだろうか。確かに新たな観察対象を見つけるのは面倒かもしれないけれど、人間とかかわることになるかもしれないのはもっと面倒だ。私はあくまでも傍観者でいたいのだ。舞台の傍の席は選ぶかもしれないけれど、舞台に上がって役者に声をかけようとは思わない。画面に向かってブラーヴォと拍手をしても、その向こうの相手と肩を組んで笑いあいたいとは思わない。私が直接かかわってしまったら、それは途端に現実を伴ったナマモノになる。悍ましい何かになり果てる。喜劇も悲劇も、人の美しさも醜さも、清らかさも汚らしさも、全も悪も白も黒も、全ては傍から見ているくらいでちょうどいい。
当事者になるなんてのは、はなはだごめんだ。
誰にともなくそんな言い訳をして、私は意識をちらせるように森の中の景色に視線を泳がせた。
もとより森の中に踏み入ったことなどない都会育ちのもやしっ子だけれど、それでもこの森は、元の世界の森に比べて命に満ちているように思われた。見たこともないような不可思議な生き物がうろつきまわり、自力で動き回る奇妙な植物がうごめいていることだけではない。目には見えない何かの活力のようなもので満たされているような気がした。私のような奇天烈な存在を許容する世界なのだ。実際に何かの力が働いていてもおかしくはない。
この少女にはそういう才能はなさそうに見えるけれど、魔法使いといった存在もいるのかもしれない。火をつけるときに使っていた道具や、容量の多い謎の革袋などの不思議製品もあるし、かなり身近な現象としてそのような物理法則ではない法則がはびこっているのかもしれない。
そういった品々や人々を観察することができればきっと面白いだろう。街に出たら、誰か特定の人間につくのは止めて、しばらくそういった道具や街並みを観察することにしてもいい。
ゲーム時代の頃も、私はそういった小道具や背景などを調べては、ひっそりと隠された設定やフレーバーを楽しんでいたものだ。私の持ち歩いている道具の中には、フレーバーテキストが気に入って手放せないものもあるし、今までに入手したアイテムはすべて読み込んで楽しませてもらった。
例えば、回復アイテムである《濃縮林檎》にはこんなフレーバーテキストがついていた。
――年経た木々はついに歩き出す。獣達にとって遅すぎるその一歩は、気の長い古木達にとってはせっかち物の勇み足。豊かな実りは腰を据えなければ生み出せない。その前に根から腐り落ちなければの話だが。
ゲーム内の効果やドロップモンスターの攻略などには何らかかわりないが、しかし数多くのアイテムにいちいちこういった文章が飾られていて、それを読み込むだけで私は物語の世界に深く没頭できたものだ。
中にはイベントに深くかかわるものもあったし、複数のテキストを読み比べて初めて見えてくる設定やつながりもあった。時に矛盾するテキストや、互いに互いを真と主張するテキストもあり、それ故にこそ、人々が好き勝手に語る、古き時代のおとぎ話を思わせた。
そうだ。本当は私はゲーム自体よりフレーバーテキストの方が好きだった。
ゲームをプレイするよりフレーバーテキストを集める方が好きで、ゲームをプレイする人々を眺めるより、その人々の紡ぎ出す物語を読み解くのが好きだった。盃に注がれた余りにも濃い一献を飲み干すより、そこから漂う香りづけをそっと楽しむくらいが性に合った。この世界でもそうしよう。そのようにしよう。この世界の品々や人々に、丁寧なテキストはついていないことだろう。誰もこの世界をつまびらかにはしてくれないだろう。けれど、それ以上に確かな実存を持って、私に物語を与えてくれることだろう。
やはり、この少女とは早めに別れた方がいい。
生き物の紡ぐ物語はあまりに速くて、難解で、面倒だ。
埃をかぶり錆びつきかけた、神さびた物語を捲るくらいが、私には具合がいい。
一人で、静かに、穏やかに生きていきたい。
そんな。
そんなことを、ぼんやりと考えていただろうか。
「――危ない!」
叫びとともに私を突き飛ばした小さな体が血飛沫とともに転げるまで、私は当たり前の悪意が当たり前に牙を剥いたことに、まるで気づきもしなかったのだった。
知っていたはずだった。わかっていたはずだった。
世界は悪意に満ちていて、身を縮めて生きなければ、たちまちのうちに頭からヴァリヴァリ食べられてしまうのだと。
用語解説
・《巻物》
消費することで一回だけ、または設定された数だけ登録された魔法を使用できるアイテム。魔法職でなくても魔法が使えるが、使い捨ての割に貴重で高価。
・パーティ
特にゲームなどで、チームを組んで行動する一行。《エンズビル・オンライン》ではパーティを組むと経験値を分配したり専用のチャットが使用できたりの恩恵がある。
・悪意
妛原閠にとって、世界は悪意に満ちていた。
前回のあらすじ
世界は悪意に満ちている。
そのことを忘れていた閠をあざ笑うように、森の悪意は少女リリオを襲うのだった。
亡霊はあの夜のことを、またすっかり寝入ってしまったことを恥じているのでしょうか。
私が不思議な果実を朝食にと食べている間、うずくまったまましばらく身もだえして、それからなんだか諦めたようにどこからか取り出した果実をしゃくしゃくと齧り始めました。
昨夜は鴨鼠の肉に泣くほど感動していたのですし、こんなにおいしい果実を食べているのならもっと美味しそうにしてもいいと思うのですけれど、亡霊は手早く食べてしまいました。両手で果実を持ってしゃくしゃくと食べる姿は鸚哥栗鼠みたいでちょっとかわいかったですけれど。
心なしちょっと距離が遠ざかった気はしますけれど、亡霊はちゃんと私の後をついてきてくれました。最初はなんだか不気味で、不思議で、落ち着かなかったものですけれど、今はついてきてくれないと逆に落ち着きません。
あれです。野良犬が微妙に懐いてきた時の感じと一緒です。餌は食べてくれるのですけれど、手からは受け取ってくれませんし、ある程度の距離にも寄ってくれないのです。それがだんだんと距離を近づけていってくれた時は本当に胸の奥から愛らしさが込み上げてきたものです。まあ私の胸は薄いので奥まですぐそこなんですけれど。
一度ふらっと姿を消しましたけれど、またすぐに戻ってきたので、ほっとしました。ちゃんと追いついてこれたことに、おりこうさんですねー、と思わず完全に犬相手の対応をしそうになって堪えた私の自制心を褒めてもらいたいです。
何しろ私は犬が大好きなのです。
犬と言っても街でお金持ちが買っているような愛玩犬ではなくて、牧場で羊たちを守っている牧羊犬のことです。
私の実家の近くに牧場があって、よく遊びに行ってはそこの牧羊犬に構ってもらったものです。
いまはさすがに体が大きくなって無理ですけれど、小さなころはよくそのふかふかの背中に乗せてもらって、羊たちが草を食みに上っていく急斜面の山肌をかけてもらったり、お勉強をさぼって抜け出したことに気付いた女中が探しに来た時には足を借りて逃げ回らせてもらいました。
犬というものは全く賢く心優しい生き物で、牧畜の神ファウノが人々の為に生み出して遣わしたのではないかと言うほどで、ともすればお嬢より頭がいいんでねえかと女中に真顔で言われたくらいでした。頷けなくもありません。
亡霊は気難しそうですしまだあまり懐いてはくれていないですけれど、賢そうですし、綺麗ですし、大柄な所や黒いところもあの牧羊犬とよく似ていました。まだ家から出てそんなに経っていませんけれど、なんだか無性に懐かしくなってきました。
足速丸と名付けられたあの牧羊犬は、私の知る牧羊犬の中でも一等足が速く、二本の足でも時々絡ませて転んでいた幼い私を背負って、八本の足を実に滑らかに動かしてすいすいと険しい山肌を駆けてくれたものです。
また子供ができた時には、飼い主以外には警戒して見せてくれない卵から生まれたばかりの赤ちゃんを見せてくれ、抱かせてくれもしました。そのことを自慢したら、出来の悪ぃ仔犬と思われてんだべさ、と冷たい目で見られてしまいました。可能性は大です。
亡霊も気を許したら抱きしめさせてくれないでしょうか。さすがにあのもふもふの毛並みは味わえないかもしれませんが、寂しがり屋の私としてはそろそろ他人の温もりが恋しくなってきました。
まあでも、もうすぐ森を出てしまいますし、それまでにそのくらいに距離を縮めるのは難しいでしょう。亡霊がどういうつもりで私の後をついてきているのかはわかりませんけれど、森の外まで一緒に来てくれる保証はありません。旅の道は出会いの道。そしてまた別れの道でもあります。旅をしていく以上、必ず誰かと出会い、そして別れていかなければなりません。寂しさもまた旅の土産と兄は言っていました。だから、仕方がないといえば仕方がないのです。
それでも、私はなんだか、放っておけないなあ、とそう思うのでした。
傷ついて、お腹を空かせて、それでも精一杯に自分を大きく見せながら、雨の中じっと黙って佇んでいる一頭の仔犬のように見えて仕方がないのでした。きっとそれは私の勝手な想像でしかなくて、亡霊は迷惑に思うかもしれません。
けれど。
それでも。
だけれども。
もしも勝手が許されるなら、私はそんな彼女にそっと傘を差してあげたい。暖かな布で包んで、柔らかい食べ物を与え、傷が癒えるまで隣にいてあげたい。
昔から私はそうでした。命に責任を持てないのならば手を出してはならないと昔から言われ続けて、それでも堪え切れず野良犬や野良猫に手を指し伸ばし、何度も引っかかれたり噛みつかれたり、時には力及ばず死なせてしまったりしながら、それでもまだ諦め切れずに同じことを続けている、どうしようもないポンコツなのです。
だから、きっと、なんとしても、なんて。
そんなことを考えていたからでしょう。
私は私なりの警戒や慎重さというものさえ、道に置き忘れてきてしまったようでした。
木々の幹に刻まれた縄張りを示す爪痕にも気付かず、私は不用心にその領域に立ち入ってしまったのでした。
最初に気づいたのは、何もないことでした。
あまりの静けさに、私ははっとして足を止めました。獣の身じろぎ、鳥の鳴き声、虫のざわめき、木々の葉擦れ、そういった音がいつの間にか、恐ろしいほどの静けさの中に消えていたのでした。森の豊かな魔力さえも今は凪いだように静かで、自分の心臓の音さえはっきりと聞こえるほどの静寂が、私がすでにそれの爪の届く距離にいることを確信させました。
木々の隙間を足音もさせずにのっそりと現れたのは、一頭の巨大な魔獣でした。
四つ足の今でさえ私を見下ろす巨体なのです。立ち上がれば大の大人よりもはるかに巨大なのでしょう。しかしその大きさと裏腹に、この魔獣は全く足音をさせず、ぞっとするほど気配が希薄でした。濃密な魔力があたりの大気に干渉して、音を殺しているのです。
艶のない暗色の羽毛とその下の分厚い筋肉は生半な矢を通さず、長い前脚に備わった太い爪はそこらの木など容易く圧し折れるほどと聞きます。見開かれたような丸い目はどんなに深い夜の闇も見通し、音を殺して獲物に近づき、逃げる間も与えずに食い殺す森の捕食者。
熊木菟。
出遭ったなら必ず逃げろ、その時お前がまだ死んでいなければ。森のことを教えてくれた猟師は私にそう言いました。熊木菟とはそういう、素人が戦うなんてことを考えてはいけない類の生き物なのです。
幸い、かなり距離がありますし、出会い頭でまだ向こうもこちらを窺っている段階です。初夏ともなれば雪解けの春先と違って飢えに困っているということもないはずです。私は目を合わせたまま、敵意がないことを示すようにゆっくりと後ずさり始めました。
鹿雉のときはこれでなんとかなりましたけれど……駄目みたいです。
熊木菟はゆっくりと立ち上がり、おもむろに前足を振り上げて、大きく後ろに振りかぶりました。ただの獣であれば威嚇と思うかもしれません。しかし相手は魔獣なのです。それは私を獲物と見定めた、必殺の攻撃の動作でした。
避けなければならない。どんな攻撃を仕掛けてくるかわからない以上、全力で避けなければならない。
なんてことはまるで考えていませんでした。
私はその時、とっさに思ったのでした。
「――危ない!」と。
私の背後には、木々を見上げて興味深そうに眺めている亡霊の姿がありました。まだ熊木菟にまるで気づいていない、彼女の横顔が。
私の体はもうとにかく勝手に動いて、その体を力いっぱいに突き飛ばしていました。
呆気にとられたような彼女の顔によかったと安堵した瞬間、私の体は横合いから見えない何かに殴りつけられたように激しい衝撃に襲われ、めきべきぶちゅんと内側から致命的な音をいくつも響かせて、そして地面に叩きつけられたのでした。
痛い、というよりももはや熱いと言った方がいいくらいでした。衝撃のあまり息が詰まり、身動き一つとれず、目の奥がちかちかと瞬きました。指先がすうっと冷たくなって、ぴりぴりとしびれて、それから飽和していた痛みがようやく感じられる程度までに落ち着いてきて、全身から悲鳴が上がりました。
何とか顔を上げると、そこには尻もちをついたまま私を見下ろす亡霊の姿がありました。少し、私の血で汚してしまったようですけれど、彼女には怪我はないようです。
よかった。
私はほっとして一つ微笑んで、それから逃げるように伝えようとしたのですけれど、声を上げようとすれば体の内側で折れた骨がどこかに引っかかったのか、猛烈な苦しさとともに血を吐き出すことしかできませんでした。
困ったな。せっかく助けられたのに。逃げて。あなただけでも。
咳き込む私を見下ろしながら亡霊はゆっくり立ち上がり、それからゆっくりと熊木菟に顔を向けたのでした。
そっちじゃない、駄目、そう言いたいのに、私の体は動いてくれません。
亡霊は軽く小首を傾げて、それから外套を軽く払って、乱暴なしぐさで頭をかきました。
そして私は、初めて彼女の声を聞いたのでした。
それは思っていたよりも少し低くて、思っていたよりも余程不機嫌そうで、そして思っていた通り、とてもきれいな声でした。
「本当に、どこの世界も、どいつもこいつも、どうしてこう――」
久しぶりに感情が乱立して整理するのも大変だが、まあ大別して怒りと苛立ちと不満と、まあそこらへんだと思う。
前の世界もこうだった。有象無象有形無形の悪意に満ちていた。
呪いに満ち、痛みに満ち、満ち満ちていた。満ち溢れていた。
溢れ出た悪意で、呪いで、痛みで、取り巻く全てまで汚染されていた。
その悪意の中で生きていくことを当然のように要求された。
あまりにもありふれた悪意こそが私にとっての世界だった。
どいつもこいつも私の道を塞いで邪魔して汚して遮って、安穏の地は四畳半にも満たない画面の中だけだった。
私はそれを受け入れてやった。生まれた時から満ち溢れていた悪意の海で、 悪意を吸い、悪意を吐き、悪意を食み、悪意を吐き、悪意を見て、悪意を吐き、悪意を聞き、悪意を吐き、悪意に触れ、悪意を吐き、悪意の反吐に浸されて生きてきた。
抗っても仕方がなかった。そうある世界で、そうでない生き方を探すなんて浪漫を求めるには、私はいささか小賢し過ぎて、どうしようもなく臆病だった。
だから嬉しかった。そんな世界とおさらばできて本当に幸せだと思った。本当に本当に幸せだと思った。けれど、どうやら人間が行ける所は、人間が生ける所は、或いは命のある限り、どこもかしこもどいつもこいつも悪意というものに侵されているらしい。
ならまた諦めるのかと言えば、そう簡単にいくほど私は諦めがよろしくないらしかった。最初から無いものを嘆くことはできない。けれど、与えられたと思ったものを、目の前で奪われたのなら、それは堪えようのない苦痛だった。
私にとってこの世界は希望だった。この世界は夢だった。この世界は浪漫だった。すべてがうまくいくなんて思ってはいなかったけれど、それでも、きっと素晴らしいものが待っているのだとそう信じたかった。それが、それがこんなことになるというのならば、私は断固としてそれに抗わなければならなかった。
それは怒りで、それは苛立ちで、それは不満で、それは悲しみで、それは驚きで、それは愛しみで、それは心配で、それは悔しみで、それは憎しみで、それは、それは、そう。
――ふざけるな、という叫びだった。
「ふざけるなよ熊もどき。トチ狂った顔しやがって、肥え太った程度で猛禽類が人間様に牙むいてるんじゃないぞ牙もない癖に」
かつて私は悪意に抗う術を持ち合わせていなかった。身をかがめて透明な嵐が通り過ぎるのを怯えて待たなければならなかった。透明な幽霊になって隠れ潜まなければならなかった。
でも今は違う。誰が与えてくれたか知らないけれど、今の私には規格外の体と、馴染みに馴染んだゲームの仕組みが備わっている。
私は《隠蓑》を解除してフクロウ面の熊の前に姿を現し、挑発するように拳を振り上げてヘイトを集める。
熊もどきは私に気づき、早速攻撃を開始する。大きく腕を振り上げてこちらに振るうと、私の体は勝手に反応して回避動作を取っている。ゲーム時代も回避判定は自動だった。範囲攻撃でもなければ私の体はいくらでも回避してくれるだろう。どうやら風の刃か何かを飛ばしているらしい攻撃を私の体はするするとよけながら接近していく。
自慢でも何でもないどころか全くの自虐だが、私は運動神経が全くないので、自動で動いてくれるのはありがたい。
「全く。全くくそったれめ。私は戦闘なんて苦手なんだ」
そして鈍いのは運動神経だけでなく、ゲーム内での戦闘も得意ではなかった。というか余り興味がなかったから戦闘技術を高める必要がなかった。ごり押しでやっているだけでも経験値は入るし、時間さえかければレベルは上がる。金さえかければ装備も手に入る。
さて、私の《職業》、《暗殺者》系統の最上位職である《死神》は、極めて強力な能力を持っていたけれど、極めて強力過ぎる故にか、かなりの制限を受けた状態で実装された。初めの内は謳い文句に惹かれるものも多かったが、実体が知れていくうちに誰も選ばなくなった。はっきり言えば、《死神》は産廃職だった。
基本的に即死耐性を持ち合わせているボスキャラクター相手にも通用する《貫通即死》という特性を持った専用武器が《死神》には用意されていた。これを使用すれば、場合によってはソロであっても強大なボスを瞬殺できる。その強力さ故、入手する難易度も最高クラスと言ってよく、そこまではまあ十分理解できる範囲だった。廃人レベルのプレイヤーにとってその程度の難易度はいつものことだ。
問題はその武器を入手できたとして、肝心のその武器自体にかけられた制限だった。
いま私がこの手に握っている――というよりは、そっと摘まんでいる一本の細い針こそが、《死神》専用武器である《死出の一針》だ。その特殊効果は、例え即死耐性を持つボスキャラクターであろうと問答無用で即死させる《貫通即死》。
ただしその効果は、『低確率で発生する会心の一撃が決まった際に低確率で発生する』というものだった。低確率×低確率。およそ発生を期待できない超低確率である。
フレーバーテキストにはこうある。
――何者であれ死神の持つ一針を恐れぬ者はなかった。髪の毛の先程の、ほんの小さな一点を刺されれば、ただそれだけで偉大な王も道端の乞食も、分け隔てなくその命を散じるのだった。
もとより素早さと器用さを伸ばして、高速の連撃と会心の一撃の連打で敵を削るのが《暗殺者》系統だ。通常戦闘を挑んで、運が良ければ《貫通即死》が発動して時間を短縮できる、という程度に考えられればまだよかった。最上位職だけあって素の能力も高いのだ。
だがここでさらに要らぬ制限がついていた。
武器にはそれぞれ武器攻撃力が設定されている。高レベル上位職専用の武器ともなればレア度もさることながら強力な特性や高い攻撃力は当然のものだ。
しかし、《死出の一針》はそうではなかった。
見た目通りのただの針でしかないこの武器に設定された武器攻撃力は、僅かに〇・一。森で拾える最弱の武器《木の枝》の武器攻撃力三という記録を大幅に更新する最弱っぷりだった。
これではいくら素早さに任せて連撃しようと、器用さにまかせて会心の一撃《クリティカルヒット》を繰り返そうと、お話にならない。
専用武器の特殊性を除けば、いくらかスキルが魅力的なものもあるものの、総合的には微妙な上位互換でしかない《死神》は瞬く間に廃れた。もともと隠れ潜むスキルが豊富なこともあって、同じ《死神》の私でさえ、サーバー内で三人くらいしか知らない。
では私はこの凶暴な熊もどきに抗う術がないのか、というと実はそうではない。長々と語ったのは、私がそんな運営のくそったれな制限という悪意に負けずに打ち勝った、数少ない武勇譚のためだ。
私は《死神》の持つ隠れ潜む《技能》がどうしても欲しかった。私の人様のプレイを眺めて悦に浸るという悪趣味なプレイスタイルを確立するためにはどうしても欲しかった。だから、戦える術を探した。
その結果が、この体だ。
私は軽々と熊もどきの攻撃をかわして、針の届く距離までを一息に詰める。たとえこの熊もどきの爪がどれだけ鋭かろうがどれだけ力強かろうが、そんなものは当たらなければ意味がない。そして蓋然性が介入する限り、私に攻撃が当たることはない。
まともに戦闘をしようと思えば伸ばさざるを得ない力強さを完全に捨てて、私のステータスは素早さと器用さを重点的に、そして本来補正的なものである幸運値を最大限まで極振りしている。装備も攻撃力など全く考えずに、全て幸運値が最大限伸びるように組み合わせてある。
攻撃力がまるで上がらない中、アイテムと回避率だけを頼りにごり押しで敵を倒して経験値と素材をかき集めて、途方もない時間と不毛なほどの労力をかけて、そしてようやくできたのがこの選りすぐりの浪漫狂が一柱。
結果として、私の素の回避率は驚異の一八二パーセント。
回避しようのない範囲攻撃や、拘束された状態や大多数から囲まれて逃げ場のない状態でもなければ、サイコロを十度振ろうが私には指先さえも届きはしない。奇跡を何度か重ねてようやく届くレベルだ。それでもPvPで何度か死んだ経験はあるが……。
さて、そんな幸運値極振りの私が運頼りの《死出の一針》を扱った場合どうなるか。
答えは決まり切っている。
「だから、戦闘は苦手なんだ」
熊もどきの胸元、かすかに光る一点に、私の摘まんだ針がそっと差し込まれる。空気にでも差し込んだようなあまりにも軽い手ごたえとともに、しかしあまりにも致命的な何かを貫いた感触が、私の手元に残った。
その全身に満ちていた活力が瞬く間に抜け落ち、熊もどきの体がずるずると地に沈む。
血も流さず、声も上げず、苦しむ間もなく、ただただ、殺す。
戦闘でも何でもない、一方的な死亡宣告。それこそが、極まった廃《死神》の至る所だ。
すでに何もできないむくろに興味はない。
私は足早に少女のもとに駆け戻り、ポーチから回復薬を取り出す。ゲームではHPがわずかに一しかなくても回復したのだ。死んでさえいなければまだ間に合うはずだ。
私は回復薬の瓶を少女の口に当てがったが、意識が朦朧としているのか、それだけの力がないのか、飲んでくれない。回復薬はフレーバーテキストによれば飲み薬であって、振りかけることではあまり効果が期待できそうにない。
頭を掻きまわし、そして仕方がないと肚を括った。
「動けないのが悪いんだ。あとで恨むなよ」
私は瓶の中身をあおり、少女の頤を持ち上げる。
生憎と、他に方法は知らなかった。
用語解説
・鸚哥栗鼠
小型の羽獣。素早く動き回り、主に樹上で生活する。木の実や種子などを好んで食べ、虫なども食べる。
・牧羊犬
牧場などで羊を誘導したり、外敵から守ったりするために飼われている。主に八足で、卵生。
・熊木菟
羽獣の魔獣。風の魔力に高い親和性を持つ。大気に干渉して周囲の音を殺し、巨体に見合わぬ静けさで行動する森の殺し屋。風の刃を飛ばす遠距離攻撃の他、大気の鎧をまとうなど非常に強力。肉は特殊な処理をしなければ、不味い。
・《死神》
産廃職。特殊なスキルや《貫通即死》の専用装備以外は《暗殺者》系統の微妙な上位互換で、肝心な専用装備も普通に使おうと思うとまるで意味がない。尖り過ぎたステータスのものでもなければ使えないうえに、その尖り過ぎたステータスだと即死無効の無生物に対抗できない。
『アジャラカモクレン、キュウライス、テケレッツのパーっ!』
・《死出の一針》
クリティカルヒット時に低確率で発動という超低確率でしか発動しないけれど、即死耐性持ちでも問答無用で殺す《貫通即死》という特性を付与された武器。しかしあまりにも武器攻撃力が低く、その取得難易度もあって産廃でしかない。
『何者であれ死神の持つ一針を恐れぬ者はなかった。髪の毛の先程の、ほんの小さな一点を刺されれば、ただそれだけで偉大な王も道端の乞食も、分け隔てなくその命を散じるのだった』
・極振り
ステータスを一つ、または少数のみ極端に伸ばすことを言う。
・《選りすぐりの浪漫狂》
《エンズビル・オンライン》において、極振りをはじめとした尖り過ぎた性能を鍛え上げた廃人諸君を畏敬と畏怖とドン引きを持って呼び習わすあだ名。またその面子の所属するギルド。キャラも狂っているしプレイヤーも狂っているともっぱらの噂。酔狂で大規模PvPに参戦した際に敵味方問わず盛大な犠牲者を出しているはた迷惑な面子。
前回のあらすじ
中二病を盛大にまき散らして大人げなく一方的な殺戮を終えた閠。
どう考えても他に幾らでも方法があったよねという突込みは受け付けていない。
目が覚めて、最初に思ったのはお腹が空いたなということでした。
横たわったままぼんやりとしていると、木漏れ日がちかちかと目に入って、わずかに残っていた夢の残滓を少しずつ流し去っていきました。
どうして寝ているのだろうと回らない頭で考えて、今朝食べた不思議な果実のこと、亡霊のこと、森の景色などが順繰りに思い出されて行って、そして熊木菟のことを思い出した途端、私はがばりと起き上がりました。
そうでした。私は確か、熊木菟の攻撃を受けたはずでした。
見えない大槌、また或いは棘付きの鉄球、そしてまた或いは巨人の鉤爪で殴り抜かれたような衝撃が全身を襲い、体の中から致命的な音が聞こえたはずでした。しかし見下ろす体はいたって健康で、ぺたぺた触ってみても痛みを感じないどころか、骨が折れた様子もありません。飛龍革の鎧には私が吐き出したのであろう血がこびりついていましたけれど、私自身の肌には裂けたところの一つも見当たりません。
口の中の血の味や、鎧に残る血の跡が、あれは夢などではなかったと確かに言っているにもかかわらず、私自身はまるで何事もなかったかのようにけろりとしているのですから、私が考えることを放棄してのそのそ起き上がったのは仕方のない話だと思います。もとより私はあまり頭の回転がよろしい方ではないのです。
込み上げてくるものがあって、けほけほげほげほげーおえっほと咳き込むと、どろりとした赤黒い血の塊がびちゃりと落ちましたけれど、それは今しがた出血したというよりも、体の中にたまっていたものが吐き出されたという具合でした。
また鼻がかさかさするので手鼻を切ると、乾燥して乾いた鼻血が飛び出ていきました。なんというか現実感に乏しいのでいまいち実感がわかないのですけれど、これってかなり大怪我してたのではないでしょうか、やっぱり。
寝起きで普段以上に回らない頭を巡らせてみると、少し離れた木立に熊木菟の姿が見えて思わず身構えましたけれど、糸の切れた操り人形のように転がる巨体からは生命の気配がまるで感じられず、冷静になって周囲を窺えば、濃密な魔力によって殺されていた音は元に戻り、森のざわめきが聞こえていました。
いったい何があったというのでしょうか。
見上げてみれば、森の木々が深いためはっきりとはわかりませんが、お日様の位置からしてもそれほど時間がたったようには思えません。それこそ、つい転寝をしてしまってはっと目が覚めたら何もかも終わってしまっていたような、そんな具合でした。
夢。
そういえば夢の中で、亡霊の姿を見たような気がしました。
私ははっとして、慌ててあたりを見回しました。私は彼女を突き飛ばして助けようとしたのですけれど、あの後どうなったのでしょうか。
幸い彼女の姿はすぐに見つかりました。
少し離れた木陰に腰を下ろして、皮張りの本のようなものに目を落としていました。
頭巾を下ろして長く豊かな黒髪を肩口に流し、時折顔にかかる髪を煩わしげにかきあげる姿は、ちらちらと光を落とす木漏れ日もあって、一幅の絵画か何かのように静かな調和を持っていました。
その静かな調和に突進を仕掛けたところ、全力で回避されて木肌に顔面からご挨拶と相成りました。
「なんで避けるんですか!?」
「そりゃ避けるよ」
頭突きで盛大に砕け散った木肌を頭を振るって払っていると、意外にも返事が返ってきました。
見上げれば、呆れたように本を閉じ、外套の下にしまう亡霊の姿が確かにありました。確かにそこに佇んでいました。
なんだかそのことがしみじみと胸の中に染み入ってきて、木に体を預けるようにずるずると脱力し、気づけばほろほろと涙がこぼれては止まらなくなっていました。
「……悪かったよ」
「ち、違うんです」
「何が」
「よ、よか、よかったなあって」
「はあ?」
「あ、安心したら、気が、抜けちゃって」
もしも気を失った後、亡霊も熊木菟にやられてしまっていたら、たとえ今元気でも、きっとすごく後悔したことでしょう。彼女がこうして元気でいることに、たまらなくほっとしたのです。そういうことをつっかえつっかえ涙交じりに鼻水交じりに説明したところ、彼女は呆れたように困ったように顔をしかめて、それから手巾を寄越してくれました。
私は流れる涙を拭って目元を抑え、涙が収まってきたのでちーんと鼻をかみ、ようやく落ち着いてきました。手巾を返そうとするととても嫌そうな顔で「いらない。あげる」と言われてしまいました。肌触りもいいしとても良い品のようですけれど、いいのでしょうか。断固として固辞されたので仕方なく下服の隠しに押し込みます。
さて。
落ち着いたので再度腰のあたりを狙って組み付こうとしたのですけれど、やはりひらりとかわされました。
「なんで避けるんですか!?」
「今しがた自然破壊した威力でタックルなんぞされてたまるか」
「納得の理由!」
うっかり実家のノリでじゃれついてしまいましたけれど、考えてみれば私は力に関しては結構恩恵が強いようなので、手加減なしに体当たりしては危なかったかもしれません。
仕方がないので抱き着くのは諦めるとして、距離を取られた分ゆっくりと歩み寄って見上げてみます。亡霊も危険がなければそのくらいは許してくれるようで、じっと見降ろしてきます。
「あの、助けて、貰ったんですよね。良くは覚えていないんですけれど」
「…………まあ、そうなるかな」
何故だか目をそらされながらそんな風に言われました。
どうやったのかはわかりませんけれど、熊木菟を倒したのも彼女でしょうし、致命傷を負っていた私をきれいさっぱり治してくれたのも、きっと彼女なのでしょう。
私はどうしてなのかと尋ねました。
「どうしてって?」
「あなたにとって私は、森の中でたまたま出会った見ず知らずの旅人です。それなのに、どうして熊木菟のような危険な魔獣に立ち向かったり、きっと貴重な霊薬などで癒してくれたのですか?」
亡霊は困ったようにしばらく考えて、それから答える代わりに、私に問いかけました。
「じゃあ君は、どうして私を助けてくれたの?」
「え?」
「危ない、って。君は私を押しのけて助けてくれた。そうしなければ、避けれたんじゃないの」
それは、そうでした。私一人なら、熊木菟の初撃は避けられたことでしょう。その後の立ち回り次第ですけれど、逃げ切ることも、できなくはなかったとは思います。
でもあの時は咄嗟のことですし、結局、私が何もしなくても、きっと亡霊は平気だったことでしょう。さっきの調子で熊木菟の攻撃なんてひょいひょいとかわしてしまったことでしょう。
そのように言うと、彼女は静かに首を振りました。
「私にとっては確かに大した相手じゃなかった。でも君にとってはそうじゃあなかった。君こそ、見ず知らずの私の為に、それもずっと後を付け回す怪しい相手の為に、命を懸けた。しようとしたことは同じかもしれないけど、かけた労力は段違いだ」
どうして、と静かに見下ろす亡霊に、私は少し考えました。考えましたけれど、うまく言葉にまとまりませんでした。本当にあの時は、体が勝手に動いたとしか言えないのです。
咄嗟。そう、本当に咄嗟のことでした。私がもう少し弁がたつのでしたらきっとうまく説明できたのでしょうけれど、しかし私にはつっかえつっかえ拙い言葉を編む他ありませんでした。
「ええと、なんていうか、嫌だったんです」
「嫌?」
「あなたがあんなに身軽だとは知らなかったですし、それに、知っていたとしても、きっと同じことをしたと思います。あなたはどう思っていたかわかりませんけれど、私は、あなたのこと、少しの間だけですけれど、旅の仲間だと思っていました」
「旅の、仲間? 私が? 君の?」
「ええ、ええ、そうです。最初は妙な影がずっとついてくるものですから、なんだか不気味だなあ、不思議なあって思ってました。でも、私も寂しかったですし、一緒にいてくれるんだって思ったら、少し心強くなって、亡霊でもいいから、このまま一緒に来てくれないかなって、そう思い始めてて」
それで、それで、と追い付かない言葉を手元でぐしゃぐしゃまとめて、私は何とか続けていきます。
「それで、嫌だったんです。熊木菟が腕を振りかぶって、何か来るなってわかりました。それで、もし亡霊が怪我したら嫌だなって、そう思ったら、体が勝手に動いてたんです。理由なんかわからないですけど、でも、とにかく嫌だったんです。だから」
だからです、と理由も根拠もなく言い切れば、亡霊は少しの間顔をしかめて、それからゆっくりとため息を吐きました。
「君が馬鹿なのはわかった」
「ひどい!?」
「私が君を助けたのは、庇われておきながら何も返さないのでは筋が通らないから。君がこのまま死んでしまっては森を出る道がわからないから。君がいると食べられるものがわかるから。勝手がわからない状態で水先案内人がいるのは助かるから」
私と違って、亡霊は淡々と端的に理由を指折り数えて、それから極めて不本意そうにため息を吐いて、頭巾を被り直しました。
「それからふざけるなって思ったからさ」
「え?」
「嫌だっていうのに理由なんかいらないんだろう?」
最後にそのように付け足して、亡霊は頭巾の下に顔を隠してしまいました。私は彼女のことをまだ全然知らないままでしたけれど、それでもこの瞬間、わかることがありました。それは彼女が存外に含羞の人で、自分の発言にはにかんでいるということでした。
このわかりにくい仕草になんとも言えない愛らしさを感じていると、亡霊は私を追い立てるようにして言いました。
「ほら、早く進め。森を出る前に日が暮れてしまう」
そうでした。私は慌てて荷物をしっかり背負い直して歩き始めましたけれど、しかし、足取りはどうにも重いものです。
疲れは不思議とありません。痛みも全くありません。けれど、そうだ、もう森を出てしまうのかと思うと、進むのが途端に億劫になってくるのでした。それというのも、亡霊が森を出ることを目的としていることがわかったからでした。わかってしまったからでした。
いままでも漠然と森を出るまでの付き合いだとは思っていました。しかしそれが確定してしまうと、私ははっきり決まってしまったお別れの時が無性に嫌になったのでした。もとより情に厚いことを長所でも短所でもあるとして言われてきた私です。その悪いところがはっきりと出てきて、ぐずぐずと足をとどめるのです。
亡霊は何とも思わないのでしょうか。
そりゃあまあ、旅の連れなんて私の方で勝手に思っていることです。でも一緒に旅をして、一緒のご飯を食べて、私は気を失っていたとはいえ一緒の危険を潜り抜けたのです。もう少し何か思うところはないのでしょうか。
そのような気持ちですねたように振り向くと、亡霊はがりがりと乱雑に頭をかいて、それから私に合わせるように少し身をかがめて、言いました。
「私はね。人間が嫌いなんだ」
お前が嫌いだと言われたような気持ちで、私は胸が痛むのを感じました。
「人間が嫌いで、人間と話すのも嫌いで、人間と関わるのが嫌いで、嫌いで、大嫌いで、大大嫌いで、大大大嫌いだ」
さくりさくりと、言葉の刃が私の胸をうがちます。
「だから、私は自分自身も嫌いだ。嫌いで嫌いでたまらない。自分が人間であることを思い出させるからなおさら人間が嫌いでたまらない」
俯きそうになる私の頭に、でも、とその声は不思議と柔らかく降ってきました。
「人間が紡ぐ物語が、時にひどく美しいことも知っている。悍ましいばかりの悲劇の中に、それでもなお輝くものがあることを、残念なことに私は知ってしまっている」
酷く不本意そうにため息を吐いて、それから彼女の手がそっと私の頭に載せられました。
「君がそうであるならば、君がそうであるうちは、君の寂しさを埋めてやるのも、やぶさかではない」
不意打ち、でした。
きっと彼女にそんなつもりなどなかったのでしょう。
けれど。
それでも。
だけれども。
呆れたように困ったように、諭すように宥めるように、そっと柔らかく降ってきたその微笑みは、私の胸を確かに射貫いたのでした。
「きっと! きっとそうします! そうなります!」
現金な反応ではありましたけれど、しかし確かに私はやる気を取り戻し、そしてじゃあさっさと進めと蹴り飛ばされたのでした。
このようにして、亡霊と白百合の旅は確かにここに始まったのでした。
用語解説
・恩恵
生き物が自然に持ち合わせる魔力によって身体能力などに補正がかかること。達人と呼ばれる者たちはこの補正が極めて大きく、見た目通りとは言えない能力を持つことが少なくない。
・霊薬
癒しの魔法を込めた薬品や、特殊な素材・製法で精錬された回復薬の類の総称。高価。
前回のあらすじ
ついにストーカー加害者とストーカー被害者が出会ってしまった。
一人旅で心細いストーカー被害者の心の弱みに付け込み趣味のストーキングを正当化する閠。
異世界の闇は、深い。
リリオと名乗った少女との旅路は、多くの会話に彩られた。
と言うとなんだか詩的で素敵かもしれないけれど、実際のところはひたすらに喋り捲るお喋りな小娘に適当な相槌を打ちながら、その時々で疑問に思ったことやこの世界の知識などをぽつりぽつりと質問し、それに対してまた驚くほど能弁にまくしたてられるというほぼほぼ一方的なコミュニケーションだった。
もとより会話というものが苦手な私としては、不愛想で気の利いた返事もできないようなのを相手に楽しげにお喋りを続けられる人間というものがちょっと想像の外の存在だった。
いまの会社に入社した時も、気さくそうな先輩にあれやこれやと話しかけてもらった挙句にそのすべてをはいかいいえかテンプレートで返し続けて、積み重ねてきた自信やら何やらをまとめて圧し折ってお帰り頂いたほどだ。
もちろんその後職場の空気は悪化したし私の扱いも悪化したがそれがどうした。やろうと思えば笑顔で小粋な会話くらいできないではないが、エネルギーを消費しすぎるので常用すると死ぬ。私が。
コミュ障というのは何も話しかけられるとあ、え、その、とか口ごもる連中のことだけを言うのではない。コミュニケーションそのものにエネルギーを多量に消費して疲れてしまうタイプも多いのだ。
その点に関してこのリリオという少女はある意味楽だった。
まず声が綺麗なうえ発音が明瞭なので聞いていて楽だし、常に楽しげなのでいちいち相手の機嫌を窺うという労力を考えなくていい。
お喋りは時々要領を得ないこともあるしまるでまとまりがないこともしばしばだが、それもまあ愛嬌の範囲内で収まるし子供というのは得だ。
私が聞き流しているのもわかった上で話しているのもいい。BGMだと思えばなかなか悪くない。私のぶっきらぼうな物言いや、恐らく常識知らずだろう質問にも真面目に返してくれるので助かる。
おまけに私の言葉足らずも的確に拾ってくれる理解力があるのはかなりグッド。
例えば私たちが最初に交わした会話はこれだ。
「これどうするの?」
「解体できれば素材は持っていきたいんですけど、どこが希少な部位なのかよくわからないんですよね」
熊木菟とかいう熊もどきの死体をどうするかと尋ねればこう返ってきた。
「持ってく?」
「うーん。担いでいけないこともないかもしれないですけど、さすがに大きすぎますからねえ。途中で腐りそうですし」
じゃあ全部担いで持っていこうかと聞けばこう返ってきた。
「欲しいの?」
「うーん、まあお金にはなると思いますけど、担いで持ってく労力に見合うかは微妙ですよねえ。お肉は美味しくないらしいのでここで食べてくのもなんですし」
そんな風に一問えば十返ってくるような会話の中で、私はふと気づいて死体をむんずと掴んでみた。
出血や傷口などがあからさまには見えないせいか、角猪の時ほどそこまで汚らわしいとは思わない。さすがに担いで持ち上げるには私のボディではパワーが足りないようだが、引きずるくらいはできそうだ。
羽の名残のような構造が残る前足を引っ張って、おもむろに腰のポーチに引っ張り込んでみる。
ずるん、と爪が入り込むのでそのままずりずりと引きずり込んでみると、見る見るうちにポーチの中に前足が飲み込まれていく。そのまま胴体も引っ張り込んでいくと、どういう作りなのかポーチの入り口がその分広がりながら熊木菟の巨体を引きずりこみ、そして結局丸々飲み込んでしまった。
軽く歩き回ってみるが、特にひどい重たさは感じない。
もともと普段使わないアイテムはほとんど《選りすぐりの浪漫狂》の倉庫番に預けていたので大分インベントリに空きがあったのもあるだろうけれど、或いはこの世界の物品には重量値が設定されていないのかもしれない。つまりゲームシステム的には重量値ゼロ或いはNullのアイテムと認識されるのかもしれない。まあこれだって私の認識一つで変わるかもしれないけれど。
これで気兼ねなく出発できるだろうと振り向けば、何やら愕然とした顔でこちらを見てくる。ガン見してくる。女の子がそんな大口開けて驚くんじゃありません。はしたない。
「も、もしかしてそれ《自在蔵》ですか!?」
「なにそれ」
リリオの説明するところによれば、魔法の道具の一種で、小さい外見で大容量の空間を内包する道具のことらしい。四次元ポケットだね、つまりは。技術的に製造が難しくかなり高価らしく、熊木菟ほどの巨体を丸々飲み込めるような《自在蔵》となると見るのも稀らしい。
「水筒は?」
「え?」
「君の水筒」
「……もしかしてこれですか?」
リリオが取り出した革袋は、何度か川の水を補給しては、どう考えても内容量以上の水を出していた水筒だ。これは《自在蔵》ではないのだろうか。そう指摘すると、少女はおかしそうに笑った。
「これはただの水精晶入りの水筒ですよ」
それは何かと首をかしげると、驚いたように見上げられる。
「何って、水の精霊が宿った結晶ですよ」
さも当然のように言われるが、水の精霊と四次元ポケットとどちらが高度なファンタジーなのか私にはいまいち判別がつきかねた。
リリオが言うには、この水精晶は、呼び水として綺麗な水を注いでやると、それに応えて水を生み出す機能があるらしい。そのほうが余程すごい機能だと思うのだけれど、小さなものなら川辺で拾える程度には有り触れているらしい。
そうなると、着火に使っていた器具も、多分中には火精晶とかそういうのがはいっているのだろう。
精霊入りの結晶とやらが川で拾える程度にはありふれているなら、もしかしたら文明程度はそんなに悲観するほど低くないのかもしれない。楽観視する程期待はできないけど。
ともあれこのようにして、ほぼほぼ比率一対十のコミュニケーションを交えながら我々は森を抜け、久方ぶりに青空と対面して、歓声を上げたのだった。
正確に言うと歓声を上げたのはリリオ一人で、私はやれやれとフードを被り直して日差しを避けたのだけれど。
なにしろ朝日と競うように出社して、一日会社で過ごしたら夜更けに帰宅という、日光とはあまり仲のよろしくない生活をしてきたのだ。直射日光は眩し過ぎる。
それでもまあ、頭上を何かにさえぎられ続けているという森の中の環境は知らず知らずのうちにストレスをため込んでいたらしく、開放感のある景色には何となく息が楽になったような心地はする。
しかし本当に何もないな。森のすぐそばだからまあ民家とかは期待していなかったが、見渡す限り何もない野原だ。かろうじて通行者の存在がうかがえる、獣道といい勝負の踏み固められた細道があるにはあるが、だだっ広い野原を前にしてはあまりにも心細い代物だった。
いまはまだ日が高いからいいけれど、日が暮れたらこんな何もない野原、何も見えないほど真っ暗になるんじゃなかろうか。
月明りや星明りがあるだろうとはいえ、ひたすらどこまでも続いて見える闇また闇というのはぞっとしない話だ。うるさいとしか感じなかったネオンが懐かしくなるとはね。
そんな私のげんなりした胸中など気にした風もなく、リリオは実に元気に歩き出してしまったので、仕方なく私もついていく。
《隠蓑》が光を透過するおかげか余り日差しの暑さを感じないのは助かる話だが……いや待て。目が見えるということは可視光は目で反射しているはずで。そもそも光を全て透過していたらもっと寒いわけで。深く考えるとまた私の認識でこじれたことになりそうなので頭を一つ振って忘れることにする。
そういうものだ、というざっくりとした大雑把な考え方をした方が安全ではあろう。何事もきっちりしていた方が落ち着くは落ち着くけれど、ある程度の遊びというかバッファがあった方が何かあった時に対応する幅が増える。
なんてことをぼんやり考えていると、そう言えば、と先ゆく背中が振り向いた。
「私、リリオ、って言います!」
「ああ、そう」
「ああ、そう……じゃなくって!」
この時初めて自己紹介をしてもらって素直な感想として二語も返したというのに怒られてしまった。なんだというのだ。この世界の常識などまるで知らない私にどんな反応を返せというのだ。その響きが可愛い名前なのか格好いい名前なのかそのあたりのことすらわからないんだが。
などと考えていたら、
「あなたの名前です! いつまでも亡霊じゃ変です!」
名を名乗られたら返すというのは、まあ一般常識と言えば一般常識であったか。別に私は亡霊呼ばわりでも一向に困らないのだけれど。生きているのに亡霊なんて変ですと言われてしまっても困るのだけれど。実際問題生きてても死んでるのと大差ないような生き方してきたわけで、全然変でも間違いでもないんだけれど。
まあそれでも、名乗られたし、尋ねられたし、今後執拗に聞かれても面倒なだけで、名乗るくらいは安いものだ。
はじめ、私はこの体の名前、つまりゲームで使っていたハンドル・ネームで名乗ろうと思った。エイシスというのがそれだった。
心停止の略だ。
生きていても死んでいるのと変わらない、死んだところで生きている時と変わりない、なんにもならないしなににもなれない、フラットラインな私のハンドルネームとして選んだのがそれだった。
しかし。
「閠」
「ウルウ?」
「妛原、閠。閠が名前で、妛原が家名」
ぽろりと名乗ったのは、現実での名前だった。
名乗ることもなく、名乗る必要もなく、書類の片隅に署名するときにしか使われない、誰の意識にも上がらず誰の記憶にも残らない、両親すら亡くなってしまった今は本当の意味で何ともつながらない幽霊の名前。誰にも祝福されることのない名前で、私は名乗っていた。
「ウルウ、ですか。変わった響きです。でもとてもきれいな響き」
それは、何の意味もない名前で、何の価値もない名前で、何の思い出もない名前で、何の執着もない名前で。
「よろしく、ウルウ。これから、幾久しく」
それでも、それは私の名前だった。
用語解説
・《自在蔵》
空間操作魔術による魔術具。外見以上の空間を内部に作り上げ、収容能力を高められた品物。閠の場合は全く別のシステムによるもので、本来の《自在蔵》は単に見た目のサイズが小さいだけで、重いものを入れればその分重くなるし、容量も普通はそこまではない。ネーミングはあの有名な漫画家小雨大豆先生の名作「九十九の満月」に登場する同様の効果を持つアイテム「自在倉」より。
・水精晶
水の精霊が宿った結晶、とされる。見た目は青く透き通った水晶のようなもので、呼び水を与えるとその大きさや品質に従って水を生み出す。川辺など水の精霊が活発な所でよく生成されるが、道具として使用できるサイズ、品質のものはちょっとレア。ものによって生み出す水の味や成分も異なるようで、こだわる人は産地にもこだわるとか。
・エイシス
心停止という医学用語からとった、閠が《エンズビル・オンライン》で使用していたハンドルネーム。《選りすぐりの浪漫狂》の一員として認知されるようになってからは、PVP(プレイヤー対プレイヤーの対人戦)において気づいた時には即死させられているからという畏怖をもって呼ばれていた。なんにせよ中二病である。