前回のあらすじ
パフィストにはめられ、危機に陥る《三輪百合》。
これはいったい……?
やられた。
そう思った時にはすでに手遅れだった。
いや、もっと前、《生体感知》を使用した視界が薄い生命反応で靄のように阻害され始めたころにはもう手遅れだったのだろう。
邪魔にしかならない《生体感知》を切った今も、すでに森には濃い靄のようなものが漂い、穏やかなだけの森から姿を変え始めている。
まずいな。
というのは、私の完全記憶でも、常に動き続ける靄の中で正確に景色を記憶するのは困難だということだ。視界を妨げられていては、こんな能力はさして役に立たない。
《生体感知》で木々の形を捉えて地形を推し量ろうにも、この靄自体が生命反応を発しているせいでどうあがいても視界が遮られてしまう。
私はこの能力に関して説明したことはないから、副次効果というか、たまたま私に不利な状況に持ち込まれてしまったのだろうが、まったく、高幸運値もこういう時は役に立たないな。
私は《四式防毒面》という、毒ガスや瘴気などの環境効果を無効化するガスマスクのようなアイテムを念のために装備することにした。見た目が露骨に怪しくなるが、生体反応のある靄なんて怪し過ぎて対策しないと不安で仕方がない。
さらに《隠蓑》を使用して姿を隠し、私はまず真っ先にパフィストの姿を探した。
リリオは大抵の事では死なない生命力があるし、毒や麻痺にも耐性があるから、少しの間は大丈夫だ。トルンペートは少し不安だが、彼女は賢い。自分である程度は対処できるだろう。
問題は、今回の件を仕込んだであろうパフィストの身柄だ。
何が目的かはわからないけど、ろくでもないことに違いない。
視界は遮られてしまったけれど、幸いこの体は他の感覚にも優れている。
気配を辿ればすぐにやつの所在など、
「簡単に見つけられるとか、考えてません?」
背後からの声に、ぎくりと身体が硬直する。
反射的に体を見下ろすが、《隠蓑》は確かに働いている。パーティとしては認識していない奴に、私の姿が見えるわけがない。
「本当に姿が見えなくなるんですね。驚きだ。でも、あなたが気配で周囲を探れるように、僕ができないとどうして思ったんです」
まずい、と思う間もなく、するりと絡みついた腕が私の首筋を圧迫する。
「見えなくったってわかるものですよ。風の動き、気配の在り方、『ない』という存在感。元々の能力の高さを過信して、人を甘く見過ぎましたね」
振り払おうと暴れるが、巧みな体さばきで全ていなされる。
いくら力強さは鍛えていないとはいえ、レベル九十九のプレイヤーの腕力を平然と抑え込むその技量には舌を巻く。しかも見えていないにもかかわらずだ。
「何か、顔につけていますね。これで防いでいるのか。ガルディストから妙な魔道具を持っているとは聞いていましたけど、おかげでこちらも対策できましたよっと」
《四式防毒面》をむしり取られ、湿った外気が直接肺に入り込む。奇妙な冷たさに、ぞわりと背筋が震える。
ただの空気ではない。あの奇妙な靄が、鼻を、口を通して私の中に入り込んでくる。
「安心してください。死にはしませんよ。多分ですけど」
ぎりぎりと締め上げられ、血管が圧迫され、意識が遠のいていく。
苦しくなり、あえいだ瞬間に腕を離され、思わず胸いっぱいに息を吸い込み、そしてそれが致命打だった。
瞼の裏の闇が七色に染まり、私の意識はぐるりと暗転した。
目が覚めた時、すでにパフィストの姿はなかった。
慌てて立ち上がると、ぐらりと視界が揺れる。気持ちが悪い。吐き気がする。
まるでひどく酔った時のように、頭の中が揺れに揺れて落ち着かない。
周囲を見回してみれば、相変わらず靄が立ち込め、視界を遮る。
痛む頭を押さえて気配を探ってみるが、パフィストの気配だけでなく、リリオとトルンペートの気配もない。ここにはもういないのか、それとも気配を隠しているのか。
そもそも気配って何だと苛立ちとともに毒づくが、そのようにしか形容の出来ないものだから私には他に説明のしようがない。
奪われた《四式防毒面》を探すが、見当たらない。さすがに回収されたか。
もともと《暗殺者》系統は毒への耐性が高いが、それでも常にこの靄にさらされていて大丈夫かどうかは自信が持てない。
いや、すでに大丈夫じゃないのか。
わからない。
この頭痛は締め上げられたせいか、それともこの靄のせいか。
わからない。
わからない。
わからない。
「くそ……リリオを……探さないと……」
そうだ。
探さなければならない。
探さなければならない、けど。
「どう、やって……」
森の中で一人取り残されて、私は途方に暮れる外になかった。
用語解説
・《四式防毒面》
ゲームアイテム。ガスマスクのような外見をした装備。
これを装備すると、そのエリアに侵入すると影響を受ける毒ガス、睡眠ガス、笑気ガス、瘴気といった環境効果を無効化できる。装備枠を一つ使ってしまうが、環境効果を無効化できるスキルは少なく、これらの環境効果のあるエリアは難易度が高い。
『この防毒面は開発までに多くの犠牲者を出した。もう少し早く鼠での実験に思い至ればよかったんだがなあ』
前回のあらすじ
甘く見ていたパフィストに完全に無力化され、一人取り残されたウルウ。
いったいこの森は何なのか。
パフィストさんに連れられてやってきた《迷わずの森》は、暖かく日の差す穏やかな森でした。
柔らかく花々は咲き誇り、楽しげに鳥たちが歌い、爽やかに風が通り抜け、或いは楽園というものはこういうものなのかと思わせる具合でした。
問題はみんなとはぐれて絶賛私一人でそんな森の中を彷徨っているという現状ですけれど。
「うーん。困りました。迷わずじゃないんですかここ。迷いまくってるんですけれど」
何しろどちらから来たかさえ分かりませんから、どちらに進んだものかもわかりません。
取り敢えずどこかに進めばどこかには辿り着くだろうという思いで歩き続けていますけれど、今のところどこにも辿り着いていないので、どこにもむかえないままです。
森を歩くのは慣れていますしさほど苦でもないのですけれど、はぐれてしまったというのが困ります。
パフィストさんがいれば道案内してもらえたでしょうし、トルンペートがいれば何かアドバイスをくれたに違いありませんでしたし、ウルウがいればきっと心の支えになったことでしょう。
しかし現状、私の傍には誰一人としていないまま、独り言を言ったり鼻歌を歌いながら歩くばかりでちょっと気が滅入ります。
何が怖いって一人で森を突破してしまうのが怖いですよね。
熟練冒険屋のパフィストさんも、昔から私を探し慣れているトルンペートも、なんだかんだ私を見つけてくれるウルウも、放っておいても私のことを見つけてくれそうな気はしますけれど、逆に私は他の誰であっても見つける自信がありません。そういうの得意じゃないんですよね。
最悪、道々の木々を根こそぎ切り倒しながら進んでいけば自然破壊に気付いてみんなが駆けつけてくれるかもしれないということに気付きましたけれど、さすがの私もいきなりそんな破壊活動にいそしんだりはしません。いよいよというときの手段として取っておきましょう。
獣避けも兼ねて鼻歌を歌いながら進んでいくと、不意に白い影が私の行く先にまろび出ました。
「……うさぎさん?」
それは確かに白い兎でした。少なくともそのように見えました。
ふわふわと柔らかそうな毛に、丸っこい体つき。ひょろりと長いお耳。まず兎とみて間違いないでしょう。
愛らしい姿に私は思わず頬がほころぶのを感じました。
そう言えばそろそろ小腹も空いてきました。
丸っこい姿に私は思わず頬がほころぶのを感じました。
愛でてよし。食べてよし。兎というものは素晴らしい生き物です。
取り敢えず愛でてから食べようと私が兎に近寄ると、兎はその分ぴょんこぴょんこと跳ねては遠ざかってしまいます。
むむ、と私が立ち止まると、兎も立ち止まって私を見上げます。
ぴゅーぴゅーと下手な口笛など吹いてよそ見をしてから、おもむろにとびかかってみても、兎は平気でぴょいんと跳ねて避けてしまいます。
「………おちょくってます?」
もちろん言葉が通じるわけもなく、兎は口元をもぐもぐさせながら見上げてくるばかりです。しかしなんだかその平然とした態度が私を小ばかにしているようにも思えて、ちょっとムッとします。
こうなれば私も負けていられません。
私は追いかけ、兎は逃げ出し、森の中の追いかけっこが始まりました。
私は何しろ体力には自信がありますし、どれだけ走り回っても疲れたりしないという自負があります。それに足だって私の方が長いですし、何より兎と違ってこちらは知恵ある人族なのです。
すぐにも捕まえて見せましょう。
そう思っていたころが私にもありました。
しかし実際のところはどうだったかというと、ぴょんぴょんと足元を跳ねまわる兎に私の手はかすりもせず、捕まえようと前かがみになっては足元を潜り抜けられ、あえなく転倒。
木々の間をすり抜けていく兎に対して、私はあちこち体をぶつけてすぐにすり傷だらけになってしまいました。
考えてみれば私、まともに狩りに成功した試しがありませんでした。
巣穴を狙って兎百舌を捕まえたり、罠を張って鼠鴨を捕まえたりはできましたけれど、野生動物を追いかけて捕まえたこと、ありません。
こっちに向かってくる害獣なんかは倒せばそれで済みますけど、こちらから逃げていく相手を捕まえるのはこれほど難しいことなのですね。
精々玻璃蜆を捕まえるのが私の限度だったようなのです。
「むーがー!」
しかしここで諦めるなど辺境武人の恥です。いえ、辺境でなくても多分これ恥ですけど。兎におちょくられる冒険屋って。
ともあれ、ここでなんとしても捕まえて汚名を返上したいところです。
私は何しろ不器用ですから、こうなれば根競べです。兎相手に根競べというのも情けない話ですけれど、私の取り柄と言えば疲れ知らずの体力くらいのものです。兎の体はあんなに小さいことですし、体力勝負で負けるということはまずないでしょう。
私は当初の仲間と合流するという目的もすっかり忘れて、そうして兎との追いかけっこに没頭していくのでした。
そう、何もかも忘れて。
忘れてしまって。
用語解説
・辺境武人
勇者とも。辺境では勇気あるものが尊ばれ、力あるものが正しい。
前回のあらすじ
一体リリオはどこにいるというのか。
前後の脈絡がぶった切られた森の中を彷徨うのだった。
寒い。
とにかく寒かった。
ふらつく頭を押さえて、リリオとウルウの姿を探して森の中を歩き始めてしばらく、あたしは早くも遭難し始めていた。
慣れない森だからどうとか、そういうことじゃない。
三等とはいえ辺境の武装女中がその程度のことで迷ったりは許されないわ。
でもほんと、そういうことじゃないの。
雪。
雪が、降ってきたのよ。
なんだか肌寒いなと思っていたら、気づけば雪がちらつき始め、そんな馬鹿なと思っているうちにやがては吹雪きはじめ、いまや視界は真っ白に凍り付き、木々の陰で休むことさえ困難な始末だ。
秋だからキノコ狩りに行こうってことじゃなかったの?
これじゃあまるで冬よ。それも、北部の優しい冬じゃない。辺境の人を殺すためにあるような冬よ。
おかしい。
何がって、何もかもがおかしい。
パフィストの奴は何て言ってたっけ。
ここは迷わずの森、どんな阿呆でも迷わず逃げる森、だっけ?
こんな出鱈目な森なら、確かにどんな阿呆だって逃げることでしょうよ。
辺境の鋭い冬に、北部の連中が立ち向かえるとは思えないし。
いくらあたしが武装女中で、もしもの時のために備えを欠かしていないとはいえ、さすがに秋の内から冬の装備を《自在蔵》にしまい込んでおく、なんてことはしていない。
備えは大事だ。でも無駄に備えておくことはまるで意味がない。いや、今回は備えておけば意味があったんでしょうけど、誰がキノコ狩りの最中に吹雪に襲われるなんて思うのよ。
ああ、もう、くそっ。
とにかく、こうなっちゃったらうろつきまわっても仕方がない。
体力を消耗する一方だ。
どこか、雪風の来ないところで休まないと。
と言ってもそんなところ、見渡す限りありはしない。
ないならどうするか。
「はー……まさか北部で雪洞作る羽目になるなんて」
《自在蔵》から、用足し用の穴を掘ったり、敵の頭をかち割ったりするために、冒険屋ならみんな一本は持っている円匙《ショベリロ》を取り出して、雪を集めて積み上げ始める。
もっとしっかり固まった雪だと、切り出して煉瓦のようにできるけど、いくら瞬く間に積もったドカ雪とはいえ、これは柔らかい雪だ。ぎゅうぎゅうと押し固めてやらなければ使い物にならない。
私は無心に雪を積んでは押し固めて小山を作り、横穴を掘って内部を掘り広げた。息が詰まらないように天井に空気穴をあけ、足元の雪をなるべく地表が出るまで掘って、毛布を敷く。布や着替えを壁紙のように壁に貼りあてていく。さあ、これで寒気も少しはましになるはずだ。
即席とはいえ、一人でやったにしては立派な出来の雪洞じゃあなあかろうかとは思う。
しかし雪洞を作って満足しているわけにもいかない。
確かに雪洞の中は外より断然温かいが、それは比べてみればの話だ。
運動して汗をかいた体は、冷たい外気にどんどん熱を奪われてしまう。
あたしは《自在蔵》の中身をあさってとにかく着込めるものはすべて着込んで、簡易の竈を作って火を起こした。
雪洞は雪でできているが、少しの焚火じゃ溶け落ちたりはしない。一晩くらいは平気で持つ。
辺境では冬の野宿と言えばもっぱら雪洞だった。ひと冬の間、誰かが作ってそのまま残していった雪洞を借りることもあったし、自分たちの作った雪洞も同じように誰かに使われることはよくあることだった。
もっとも、こんなに急な季節の変化に見舞われるなんてのは、さすがの辺境でもありはしなかった。厳しい冬に慣れた辺境だからこそ、しっかりとした準備をしてから挑むものだった。何しろ、準備をしても、それでもなお冬に負ける人々が多いくらいなのだ。
荷物をあさって小鍋を火にかけて雪を溶かし、暖かいものをこさえることにした。
身体の内から温めてやらなければいけないし、精のつくものを食べて元気を出さなけりゃいけない。
こういう危機の時にケチってはいけないと、あたしはとっておきの出汁節を取り出して、短刀で削って鍋に放り込み、ひと煮立ちさせる。そうするだけでたちまちふわっと力強い香りが立ち上る。
なんでもうすーくうすく、鉋で削るようにしてやるのがいいらしいけど、あたしは少し厚めに削ってやって、煮込むようにしてやる方が好きだ。
これは実はリリオにもまだ食べさせたことのないものだったりする。
なにしろなんかこう、お肉を茹でたり脂を取り除いたり干したりカビをはやしたり、あたしにはよくわかんないんだけどとにかく面倒なことをたくさんして、からっからに乾いた木の棒みたいに乾燥させるっていう手の込んだものだ。
それも上等な鹿雉の腿肉の、傷のないところを選んで何か月もかけて作った特級の鹿節だ。
かなりお高かったけれど、前に試してみた時も驚くほど手早く、そして澄んだ旨味が煮出せる上に、からっからに乾いているから随分日持ちして旅にも向く。
もう少しあたし一人で楽しんで、もとい調理法を試してからお披露目する予定なのだ。
さて、素晴らしい出汁が出たら、道中採ってきたきのこと、砕いた堅麺麭、それに干し肉を放り込む。後は塩を少しに、これもとっておきの猪醤をちょろっと。出汁がいいから、余計なものを入れなくってもそれだけでいい。
ウルウなんかは堅麺麭粥を食べる度になんとも言えない顔をして、米の粥が食べたいって言うんだけど、でも米は北部にはあんまり出回らないし、それにそもそもあんまり美味しいとも思えない。
いつも死んだ目をしてるウルウが、米が古いからだとか炊き方がどうのとか珍しく熱弁をふるっていたので、ちょっと気になってはいるんだけど、何分、西の料理には詳しくない。
リリオも美味しいのなら食べてみたいらしいから、そのうちメザーガの伝手でいい米が手に入らないものかと思ってるんだけど、なんて考えているうちにいい具合に仕上がったので、鍋を火からおろして、なべ底を雪にあてて少し冷まし、抱え込むようにしてふうふうと鍋から直接すくう。
すこし行儀が悪いが、熱は少しでも無駄にしたくない。
はふはふとアツアツの堅麺麭粥を食べ終え、まだぬくい小鍋を抱えたまま、あたしはさてどうしたものかと、竈の火を眺めた。
腹も満ちてあったかくて、こうなると寝たくなるのが人間というものだけど、雪の中で寝るのは少々危険だ。
火も焚いているし、もこもこに着太りしているし、雪洞ってのは一晩休むくらいは大丈夫なように備えができてようやく雪洞と呼んでいいのだ。
それでもあたしは、一人きりで寝る気にはなれなかった。
人間は眠っている時ほど体が冷える。体が冷え切れば血が凍え、血が凍えちゃうと臓腑が固まり、そうしてやがて死に至る。
それで、死ぬとどうなるかって言うのは、あたしは知らない。
冥府の神のもとで安らかな眠りに就くとかなんとか神官は言うけれど、それが本当かどうか試した奴はそうそういない。
でも、死ぬ手前ってのはよく知っている。
余所者のあたしが辺境で育って、暗殺者だったあたしがリリオの世話役になるってのは、それはもう簡単な事じゃなかった。
鍛錬で死にかけ、しごきで死にかけ、冬の寒さに死にかけ、魔獣たちと戦って死にかけ、リリオにじゃれつかれて死にかけ、とにかくあたしは死の寸前まであまりにお手軽に追い込まれた。
死ぬってのは、とても寒いんだ。
放っておかれたらそのまま本当に死んじゃう。誰かが熱を分けてやらなけりゃ、人は簡単に死んじゃう。
あたしはその都度誰かが熱を分けてくれたから、今もこうして生きている。
でもいつもいつでも都合よく熱を分けてくれる誰かがいるわけじゃないし、いつもいつまでも甘やかして熱を分けてくれる日々が続くわけじゃない。
いつか見捨てられたら、あたしは分けてもらえる熱もなく、今度こそ本当におっ死ぬ。
そうだ。
死ぬってのは、とてもとても寒いんだ。
見捨てられたら、見限られたら、あたしは寒い寒い冬の中に一人置き去りにされて、きっと凍えて死んじゃうんだ。
だからあたしは、一人じゃ目を閉じられない。
雪の壁一枚隔てた先でごうごうと笑う吹雪が恐ろしい。
ひとりぼっちが、こわいんだ。
用語解説
・雪洞
いわゆるかまくら。イヌイットのイグルーのようなものから、雪を積み上げて掘るかまくらのようなものまで。辺境では冬場によくつくられる。
・円匙
いわゆるシャベル、スコップの類。日本ではシャベルとスコップの違いは土地によって違うが、円匙は大型のものも小型のものも含んだ総称。
塹壕で一番人を殺した武器でもあるとかなんとか。
・出汁節
鰹節など、硬い棒状に加工された、出汁をとるための食品の総称。
西部発祥の食品。
・鹿節
もともと魚類を加工して作られていた出汁節を、鹿肉を加工して作ったもの。ここでは特に鹿雉のもの。
時間もかかり数も出回らないため高級ではあるが、日持ちするし嵩張らないし手軽だし人も殴り殺せるしで冒険屋の間でひそかにはやり始めている。
・猪醤
肉醤の一種で、ここでは角猪を用いた調味料。
肉、肝臓、心臓をすりおろしたものを塩漬けにして、発酵・熟成をさせたもの。酵素によってたんぱく質がアミノ酸に分解され、力強い旨味を醸し出す。
前回のあらすじ
あまりにも唐突に吹雪の森に迷い込んだトルンペート。
作者は疲れているのだろうか。
森は驚くほど平穏だった。
靄は相変わらず濃く、先は見通せず、後ろも見通せず、右も左もわからなきゃ、時折上下の区別もつきがたい。
まっすぐ歩いているつもりでも、木々に邪魔され足場に狂い、いまやどこをどう歩いているかなんてとっくの昔に分からなくなっていた。
歩いてきた歩数と角度のいちいちを覚えている私にとってみれば、それをさかのぼれば元の道に戻れるという理屈はある。あるけれど、今日ばかりは確信が持てなかった。何しろこんな靄の中で、自分の記憶力を試したことはない。
変りばえのしない景色。
変りばえのしない歩み。
こうも変わりばえがないと、不安以上に頭がしびれてくるような退屈さえあった。
もうどれだけ歩いたことか、それさえも判然としないけれど、いまだにパフィストの姿は見つからず、リリオとトルンペートの気配も見当たらない。
何度か私らしくもなく大きく声を張って二人を呼んでみたが、帰ってくるのはむなしいやまびこめいた残響ばかりだ。
私が大声を出すなんてかなりレアなイベントだというのに、全く。
ひたすらに単調な景色と単調な歩みは、どんどんと思考を鈍麻させ、半分眠っているような心地で、何度か足を止めて本当に眠りこけそうになるほどだった。
そんな場合ではないとその都度頬を張って歩き続けたけれど、正直なところこうして歩き続けている行為にそれほど意味があるのか、実際疑問だ。
もしかしたら自分は二人からひたすらに離れる方向へと、森の奥へ奥へと一人歩き続けているのではないか。そんな不安がないではなかった。パフィストにはめられて同じところをぐるぐると回っているだけなのではないか。そんな迷いがないではなかった。
しかし靄の中をぼんやりとする頭で歩いていると、不安も迷いもどんどん靄の中に零れていって、ただひたすらに眠い、退屈だという実際的な思考ばかりが巡るようだった。
こうしてひたすらに歩いているというのは、意味もなく地面を掘り返しては、また埋め戻すという拷問だか懲罰のようだなと感じられた。ドストエフスキーだったか。もっとも私はロシア文学があまり肌に合わず、この懲罰が示唆された本も読んだことはない。
私にとり、映画『惑星ソラリス』を半分眠りかけながら見て以来、ロシア関係の創作物はある種の拷問のようなイメージを伴って忌避してきているのだ。例外はフィギュアスケートくらいだが、それ自体もさほど興味はない。思えば『ソラリス』もこの靄のごとく理解不能な退屈に満ちていたように思う。
もちろんこれは私の勝手な、それもたった一つの創作物の影響によるイメージに過ぎないのだが、あえてそれを乗り越えて『地下室の手記』に手を出すほどの意欲は終電と仲の良い人間には存在しないし、あまつさえ『苦痛を愛せよ』などとどうして言えようか。
しかしそれにしても私はなぜ『ソラリス』を途中で切り上げなかったのだろうか。冒頭ですでに眠気が走るような映画を私が愛していたようには思えないが、いや、そもそも観劇趣味も映画趣味もあまつさえSF趣味もなかった私がどうして、この『芸術作品』に三時間近くを捧げようと思ったのだったか。
疑問に思うまでもなく、私の脳は紐づけられた記憶を、思い出という地層の中からすぐさま掘り当てていた。
あれは私が中学校に上がったばかりの春のことだった。
いくらか小賢しい知性を獲得していたように思われる私は、なにということはない有り触れた日曜日に、珍しく父に誘われて、時折異音のする古いビデオ・デッキに、パッケージも日焼けした古びたレンタルのビデオ・テープを差し込んだのだった。
そんなものを体感したことはないとはいえ、人生において貴重とされる短い青春のおよそ三時間近くを拘束するこの映画に感じたのはひたすらに退屈と無理解であり、小賢しい中学生にとってはいささか難解にすぎる代物だった。正直なところこの年になって思い返してみてもいまいち感性にピンとこない。
父も私の退屈を察してはくれたようで、途中何度も観るのを止めても良いと言ってはくれたが、子供じみた意地と、そして父がこの映画から何を汲み取らんとしているのかを理解したいというささやかな願望から結局夢現に三時間近くを費やし、そして収穫はゼロだった。むしろNullだった。
きっかり秤で量ったような、実際計量器とタイマーを駆使した、私でさえ毎回ほとんど同じ味がすると太鼓判を押せる紅茶を淹れながら、父はこのように説明してくれた。
「原作家と監督が喧嘩別れしたと聞きまして、どれくらい内容に差異があるのか確認してみようと思いまして」
原作を読んでいなかった私は素直にどうだったのか尋ねた。今後も原作を読む気はないし、ネタバレを気にする道理もなかった。
父は分度器で測ったように正確な角度で小首を傾げ、それからこう言った。
「有意な差異は見受けられませんでした」
と。
父は私以上に不器用で、私以上に人間が苦手で、私以上に社会に馴染めない人だった。
私は人間が嫌いだが、父は人間が理解できなかった。
私は人を愛することが苦手だったが、父は人を愛するようにはできていなかった。
そのような機能をどこか破損して生まれてきたように思えた。
父がどれくらい不器用かと言えば、男手一人で育て上げてくれた私という存在がこんなろくでなしになり果ててしまったということがこれ以上ない証明だとは思うけれど、しかし反面教師としてよい教材になってくれたのは確かだ。
例えば、あれは私が小学校三年生の頃だ。
小学生とはいえ何しろ完全記憶能力者の上に小賢しいガキだった私は、あれやこれやと興味を持っては、父にあれはなにこれはなに、あれはどうしてこれはどうしてと質問攻めにしていたように思う。
そういった質問攻めに対しても、父は不器用だった。
「おとうさん、どうしてそらはあおいの?」
「光には波長の違いというものがありましてね」
「おとうさん、こどもはどうやってできるの?」
「人間を含む哺乳類は基本的に」
「おとうさん、どうしてうちにはおかあさんがいないの」
「閠さんを出産した後、体力が回復せず衰弱死してしまいました」
子供に対してレイリー散乱やら交尾行動を図説付きで説明するのはともかく、「お母さんはお前を生んだから死んだんだよ」みたいな説明をする親がどこにいるというのか。
しかもフォローも最悪だった。
「おかあさんは、わたしのせいでしんじゃったの?」
「出産を選んだのは暦さんですし、危険だとわかっていて止めなかったのは僕ですから、みんなのせいですね」
というかフォローになってない。
言い方を選べ。
しかも真顔。
思えば、というか強いて思い返そうとしなくても、父が表情を変える所を私はろくに見たことがなかった。表情筋が死滅しているんではないかというくらい無表情だった。
閠さんの情操教育に悪いかもしれませんので、とよりにもよって本人の前で説明しながら、当人曰く笑顔の練習とやらをしたときがその数少ない表情を変えた光景であったが、直後に私が泣き出したので結局有耶無耶になってしまった。
いや、悪いとは思うがあれは泣く。
不気味の谷現象というか、頭部を寄生獣に取って代わられた人がテレビ映像を参考に笑顔作ってるみたいというか、感情の伴わない完璧な笑顔というものに、子供心にひたすらに不気味な矛盾を感じたのだろう。
お陰様で私は周囲の人間の表情と感情の食い違いというものに早期の内から気付いてしまう羽目になり、大人を信用できない全く嫌なガキに育ったと思う。かといって子供が信用できるかと言えば、自分の感情さえろくすっぽ制御できない子供のほうが余程信用できないのは確かだったが。あいつら秒単位で態度変えるからな。
いやまったく、私の人生は不信と疑心とに彩られているような気さえする。
思い出を掘り起こしていけば、その記念すべき最初の一度は、それはすなわち私の記憶が始まるころだった。
つまり、私が生まれ、母が死んだ、その時のことだった。
用語解説
・父
閠の父親の事。
妛原 軅飛。享年五十二歳。
・母
閠の母親の事。
妛原 暦。旧姓悪澤。享年二十九歳。
前回のあらすじ
閠もまたひとり、奇妙な森の中を彷徨っていた。
そして変わりばえしない景色の中、徐々に記憶の地層を掘り進んでいくのだった。
白兎を追いかけて走るうちに、私はどうやらどんどん森の深みへと踏み込んでしまったようでした。
木々は辺境のものによく似た針葉樹林が増え始め、聞こえる鳥の声に馴染み深い故郷のものが混じり始め、気づけばそこは懐かしき我が庭、家の裏の森とよく似た光景となっていました。
北部にもこのような森があるのかとなんだか懐かしさに浸りながら、それでも手足は容赦なく兎を追いかけているのですが、一向に追いつきません。
もうほとんど全力疾走と言っていいほどに走っているというのに、勢いを増せば増すほど、兎もまた足を速めて駆け抜けていくように感じられます。
いくらなんでもこの兎はおかしいのではないでしょうか。
鈍い鈍いと言われる私でもさすがにそう感じ始めてきました。
この程度であれば私はいくら走っても疲れたりはしません。
しかし、いつまでたっても全然距離の縮まらないことに、また森の景色のどこまでも続くことに、体よりも先に心の方が参ってきました。
しまいにはもう、頭で考えて走るというより、目の前に兎がいるから反射で体が動いているというような、そんな始末でした。
もう諦めてしまおうか、そう足を緩めようとする度に、兎はちらりとこちらを振り向いて、小馬鹿にするようにくるりと回って踊ります。
それでまたむっとして我武者羅に追いかけるのですが、それが何度も続くと、体はともかく心がへとへとになってきます。
これで森の景色がもっとはっきりと変わってくれるのならいいのですが、じれったくなる程、あたりの光景は変わらないままです。
いつの間にか変わっているのに、それがいつなのか気付けない。
ふと顔を向けると確かに変わっているのに、意識がそれるともうただの緑色にしか見えない。
兎は相変わらず私の前を走り、私は相変わらず全力で走り続け、景色はまるで変わりばえもせず、これではまるでその場にとどまるために走り続けているようではないですか!
しかしそのような不満と祈りが通じたのでしょうか、やがて森は劇的に姿を変え始めました。
木々はまばらになり始め、足元は踏み固められたように固くなり、透明な日差しが木漏れ日となって降り注ぎ、肌寒い秋の空気に豆茶のかぐわしい香りが……豆茶?
私は思わず立ち止まって、周囲をぐるりと見まわしました。
気づけばあれだけうっそうと茂っていた森は、よく人の通いなれたように踏み固められた林に取って代わられ、木々とキノコと落ち葉の匂いに満ちていた空気は、豆茶の香りを漂わせ始めています。
これは。
これでは、まるで。
兎はちらりと振り向いて、林の向こうへと誘います。
私はなんだか恐ろしいような、或いは期待するような、そんな不思議なドキドキを感じながら、ゆっくりと林の奥へと足を向けていました。
ここは、この林は、辺境の、くにの、実家の裏手の森によく似ていました。
肌寒い秋の空気も、きらきらと目に眩しい木漏れ日も、そして辺境では手に入りづらい、しかし私にとっては馴染み深い豆茶の香りも、全てがすべて、何もかもが何もかも、私の懐かしさという懐かしさをみんな引き出してくるようでした。
辺境は一年の半分は雪に覆われ、残りの半分も、雪解けの短い春と、涼しい夏、それにわずかな秋の間だけ、人々はほっと一息つけるのでした。
南部からやってきた母にとっては、夏ですら辺境は寒いのねと言うくらいに、この土地は人が生きるのにはつらい場所でした。
そんな母にとって、暖かな南部を思わせる故郷の味が、かぐわしい豆茶でした。
よく晴れた天気の良い午後、母はよく裏手の林に席を設けて、豆茶を淹れては私を膝の上で抱きしめて、故郷の話や、英雄譚、また冒険屋たちのお話を聞かせてくれたものでした。
幼い私にとって、豆茶というものは、なんだか悪夢のように黒くて、地獄のように熱くて、泥沼のように濁って、毒のように苦いものでしかありませんでした。たっぷりの砂糖と乳を入れて、それでようやく飲めるような代物でした。
でも、それでも、そのかぐわしい香りは、その香りだけは、幼心にも心地よいものと感じられました。
だってその香りは、豆茶の香りは、母の香りだったのですから。
兎を追って林を抜けると、不意に日の光が差し込んで、私は目を細めました。
いえ、あるいはその光景に眩しさのようなものを感じ、身構えてしまったのかもしれません。
「あら、リリオ」
その声は。
「寒いでしょう、こっちへいらっしゃいな」
その姿は。
「一緒に豆茶、飲みましょう?」
その笑顔は。
「甘いお菓子も持ってきたの」
もこもこと分厚く着ぶくれて、それでもなお寒そうに豆茶茶碗を両手で抱いて、穏やかに笑う姿がそこにはありました。
象牙のように艶やかな白い髪。柔らかな褐色の肌。零れるような翡翠の瞳。
それは確かに。
「……母様」
それは確かに母の姿でした。
十年近く前に亡くなった、母の姿でした。
用語解説
・母様
リリオが幼い頃に亡くなったという母親なのだろうか。
この森は、奇妙だ。
前回のあらすじ
森の中、亡くなったはずの母親と遭遇するリリオ。
いよいよもってこの森はまともではない。
暖かい。
ここは、暖かい。
雪洞の中で、あたしは眠気と戦う。
焚火の火は暖かく、お腹はすっかり満たされて、そして、そして。
「大丈夫ですか、トルンペート」
そして、ここにはリリオがいる。
あたしと同じようにもこもこに着ぶくれたリリオが、あたしの隣で身を寄せ合って、体温を共有している。
「大丈夫よ」
「眠いでしょう? 私が火の番をしますから、眠ってしまってもいいんですよ」
「大丈夫よ」
本当は今すぐにでも、鉛のように重くなった瞼を閉じて、何もかも放り出してぐっすりと眠ってしまいたい。柔らかなぬくもりに包まれて、考えることさえ放棄して、ひと時の安らぎに身を任せたい。
でも駄目。
駄目なのよ。
私は眠っちゃいけない。
「いいんですよ、トルンペート。もう大丈夫です」
リリオの声が優しく響く。
ああ、なんて頼もしく育ってくれたんだろう。
ずっとあたしがお姉ちゃんをやっていたのに、リリオはいつの間にかこんなに大きくなった。
背は低いままだけど。
でも駄目だ。
駄目なんだって。
私は眠るわけにはいかない。
「外は寒い寒い吹雪です。いまはゆっくり休みましょう」
瞼が落ちそうになる。
意識が落ちそうになる。
夢の中へ落ちそうになる。
ぱちりぱちりと暖炉の薪が爆ぜる音がする。
石壁に囲まれて吹雪の音は遠く遠く、並ぶ壁掛け絨毯に織られた綴織りの英雄たちが力強くあたしたちを見下ろしている。
漂う甘酸っぱい香りは、リリオが暖炉の火で焼いている林檎の匂いだろうか。
あたしの肩を抱いたリリオの指先が、とんとんと心地よい調子で叩く。
すぐそばのリリオの鼻先で、優しい旋律が口遊まれる。
それは、ああ、子守歌だ。
懐かしい、子守歌だ。
リリオの母親がリリオに教え、リリオがあたしに伝え、そしてまたあたしがリリオに歌ってあげた子守歌が、こうした今あたしのもとに返ってきている。
「いいんですよ、トルンペート。眠ってしまっていいんです。ここでは誰もあなたを独りにしない」
暖かな暖炉の傍。
ぎぃきいと揺れる安楽椅子に腰を落ち着けた御屋形様。
暖炉に放った林檎の焼き加減を眺めるティグロ様。
リリオが拾って結局御屋形様が面倒を見ることになったプラテーノが、暖炉の傍のぬくもった床にうずくまって離れようとしない。
そして、そしてあたしはもこもこに着ぶくれて、リリオの大きな腕に抱かれて、あたしは、あたしは。
あたし、は、
「――――ッガァッ!!」
あたしは、眠っちゃいけない。
腕に突き刺した短刀の痛みが、鉛のような眠気を押しのけて、あたしを覚醒させる。
まだだ、まだ足りない。
リリオの体を押しのけて、あたしは幼かったころのあたしの体を突き刺す。
これは、こんなのはあたしの体じゃあない。
今のあたしはリリオよりちょっとばかし大きくて、胸の大きさは変わらないかもしれないけど、でも背伸びすりゃあいつのつむじを眺められるようになって、そうだ、そうだ、こんな暖炉のあったかい部屋なんてなかった。御屋形様は仕事で忙しくていつも疲れていたし、ティグロ様はひとところに落ち着かなかった。
リリオだってそうだ。あの子がこんなにおとなしいわけがない。
あたしの体をバラバラにしながら、あの子は吹雪の丘で遊ぶような子だった。
びりびりと夢を引き裂いて、あたしはあたしの体を取り戻す。
ちょっとばかりリリオを見下ろせて、相変わらず胸はぺたんこで、それでも、それでも、あの頃よりずっと強くなったあたし自身を。
「トルンペート、無理しなくていいんですよ」
リリオの声があたしの棘を柔らかく溶かす。
「トルンペート、君はよくやってくれている」
御屋形様の声があたしの短刀を鈍らにする。
「トルンペート、いもうとのことを頼んだよ」
ティグロ様の声があたしの瞼を重たくする。
暖かな暖炉の火が、暖かな皆の声が、あたしのおそれや不安をとろかしていく。
それはとてもとても心地よくて、それはとてもとても優しくて、そして、
「ふ、ざける、な……ッ!」
そして、これ以上なく腹が立つ。
あたしは短刀を振り上げて、眠りかけた心臓に振り下ろす。
冷たい短刀が、とろけた心臓をきりりと冷やして凍らせる。
そうだ、あたしの心臓はトロトロ弱火でくすぶったりしない。
氷のように冷たくて、そうして、雪崩のように激しいものだ。
そうだ!
突き刺した傷口からあふれるのは、あたしの血、あたしの命、そしてあたしの怒りだ。
人形のように育てられ、女中として鍛え直され、それでもなおずっと心臓の中にあったのはこの激しさだ。
あたしは弾けるようにできている。あたしは跳ぶようにできている。
あたしの名はトルンペート。鉄砲百合のトルンペート。
「まやかし風情が、あたしの名を呼ぶんじゃあない!!」
用語解説
・プラテーノ
白金を意味する交易共通語。
リリオは幼少のころから様々な生き物を拾っては、最終的に父親が面倒を見る羽目になるということを繰り返している。プラテーノはそのうちの一頭だ。
前回のあらすじ
これはまやかしだと看破したトルンペート。
でもそうとわかってても自分の心臓ぶっ刺すのはどうなの。
私が生まれた日は、雪の降る寒い日だったらしい。
さしもの私も、生まれたての赤ん坊のころからお天気事情を把握していたわけじゃあない。目に映るものはみんな歪んで見えたし、ひたすらに白い病床のシーツの色ばかりが、目に残っている。
生まれたばかりの赤ん坊は、その時から途切れなく始まるビデオテープの録画を開始していたけど、でもその内容を理解して飲み込めるようになったのは、もっとずっと後になってからだった。
その頃の私というものは全く大人げなく情緒もない頭の中身が空っぽの自動機械のような有様だったから、受け取った刺激に対してとれる反応と言えば泣くか笑うか喃語にもならないうめき声を上げるくらいのものだった。
だからその時のことに対する印象というものは、私がある程度ものを考える頭というものを獲得して、思い返すという情緒あふれる行動をするようになり、そして、まあ、思春期の脳で理解して思い出に蓋をした類のものだった。
それはとにかく不快な音だった。後になって何と言っているかというのはわかったけれど、その時の私にとってそれはただただ耳障りで不快な音でしかなかった。
激しく、吐き捨てるような、悪意のこもった声だった。
そしてそれは私に向けられていた。
生まれたばかりの私の生を否定するような声。
その時の私には、それはただただ不快な音としか感じられなかった。耳障りで、不快で、悪意のこもった声。
ただそれでも、言葉の意味が分からなくても、その激しい悪意が自分に向いているということだけはよくよくわかった。
私にとっての人生とは、このようにして始まったのだった。
私が生まれて、母はすぐに亡くなり、天涯孤独だった父は親戚の助けもなく、本当に男手一人で私を育ててくれた。
父は不器用で、人間を理解できない人間失格だったけれど、それでも私は何一つ不自由というものを感じることもなく育てたように思う。少なくとも、事前に情報を集められ、対策が立てられる範囲において、父の養育は一般的な家庭よりも余程スムーズだったように思う。
ただひとつ、私たちの間には愛情がうまく通わなかった事を除けば。
父はいつも他人行儀な敬語で話し、私のことをさん付けで呼んだ。
それは私のことを他人扱いしていたからではなく、他に話し方を知らない不器用さからだった。
誠実な人ではあったと思う。
恐ろしく不器用で、恐ろしく無理解ではあったけれど、私を常に一人の人間として扱い、対等な立場で向き合おうとしてくれていたように思う。
母親がいないということを不思議に思いはしても、寂しさを覚えたことはなかった。
最初からないものを寂しく思うことはない、という以上に、私が日々に程々に充足していたからだった。
父は私に何もかもを与えてくれるほど甘やかしではなかったけれど、合理的な要求に対しては誠実な対応をしてくれる人だった。
私が学校での会話についていけないと漫画雑誌の購入を強請ると、父はどの雑誌かを確認するだけして、すぐに書店で定期購読の契約を結んだ。それも二部。私の分と、父の分と。
会話についていくためだけに少女漫画雑誌に目を通す私と、娘の会話を理解するために少女漫画雑誌を分析する父と、私たちはどちらもあまり真っ当に漫画を楽しんではいなかったかもしれないが、しかしそれが私たち親子の会話の形だった。
私が好奇心に駆られて質問を繰り返すのと同じくらい、父は私に問いかけを投げつけた。
「閠さんは何が好きですか」
「閠さんはこの漫画のどこが好きですか」
「閠さんは学校で困ったことはありませんか」
「閠さんは今週号の『いちご2%』で学校内で不純異性交遊に及ぼうとした男子学生をどう思いますか」
夕食時に交わされる会話は、まるで面接か、ともすれば医師の問診だった。
父は事細かに私を理解しようとしてくれた。欠片ほども理解できないなりに、父は私の情報を蓄積し、分析し、合理的な統計を導き出そうとしていた。私という人間を数字で置き換えて、数式で読み取れるようにとしていた。
父は人を愛することが苦手な人だった。
致命的に人を愛することができない人だった。
愛するということがちっとも理解できない人だった。
私にとって父は私を養育するアンドロイドであり、父にとって私は養育義務のある子供に過ぎなかったと思う。
私は父の期待に応えようとするというよりも、どうすることが父の期待というものに副うことなのか考えながら過ごすことの方が多かった。何しろ父は期待というものをしなかった。
進路について学校で希望調査がなされた時も、私は白紙のプリントを前にまるで何も思いつかなかった。自分が何をしたいのか、何になりたいのか、まるで思いつかなかった。自分が何者かになる光景を想像できなかった。
父に相談してみれば、私たちは親子そろってフリーズするしかなかった。私は何も思いつかなかったし、父にとって他人の進路の希望など数式で答えを出せるものではなかった。
それでも父は誠実だった。
同年代の子供たちが望む職種や、私に適性があると思われる職種をリストアップし、それぞれのメリット・デメリットについてを解説してくれた。それは子供の夢を応援する父の姿ではなかったかもしれないが、道に迷った子供に道の歩き方を教えようとしてくれる背中ではあった。
結局それで私が華々しく夢を抱いて駆け始めたかというとそんなことはなく、私の進路希望は福祉がしっかりとして安定した給料と休暇があり、という要するに公務員になることを目指した進学であった。ブロイラーで出荷される鶏のように、判で捺したような個性のないものだった。
中学、高校、そして大学へと進学し、良い成績をとることはさほど難しいことではなかった。暗記科目において私は他に引けを取るということがなかったし、応用においても人並み外れて劣るということはなかった。
ただ、受験生の誰もが羨むような能力を、私は持て余していた。私はその能力を生かして向上するということがなかった。私にはいまだに、なにになりたいという夢の一つも見つからなかった。
結局向上心というものを見いだせないまま公務員試験に落ちて、勤め人として適当な会社に勤めるようになってからのことは、いままでにも散々ぼやいてきたとおりだ。
会社はブラックもいいところ。体制は旧態依然、錆びついた上に数が足りない歯車で何とか回しているような状態で、そしてそれがその頃の企業の平均値だった。
会社に入って一人暮らしを始めるようになってからも、父の問診は変わらなかった。
月に一度ほど顔を合わせて、食事を共にし、そして父は相変わらずの平坦さで問いかけた。
「変わりはありませんか」
「困ったことはありませんか」
「何か必要なものはありませんか」
私はその都度、特に、何も、大丈夫ですとお決まりの文句を返してきた。
私と父の会話は、台本を読むかのようにテンプレートそのままだった。
結局父は、私が入社してすぐに、癌が発覚してそのまま驚くほどすんなりと亡くなってしまうまで、お決まりの質問を変えなかった。
今日明日が峠ですと言われて、初めて有休をとって見舞いに行った病室で、父は見違えるほどやせ細った体で、しかしやっぱり相変わらずの平坦さで、同じ問いかけをした。
「変わりはありませんか」
「困ったことはありませんか」
「何か必要なものはありませんか」
特に、何も、大丈夫です。
素っ気ない返答に父は不思議と満足げに一つ頷いて、そして、それから、それきりだった。
その晩父は眠るように亡くなった。
渋る上司に忌引きを申請して、父が生前の内からまとめてくれた手引きに従って喪主を務めたが、父は天涯孤独の身で、葬儀に訪れてくれた人の殆どは仕事の関係者ばかりで、私は全く顔も知らないような人ばかりだった。通夜まで付き合ってくれるほど親しい付き合いの人たちは多くなかった。
寂しい人生だった、と思うべきなのだろうか。それとも、無駄のない人生だった、とそう思うべきなのだろうか。
親戚などと名のつくもので通夜に付き合ってくれたのは、母方の祖父母だけだった。
とはいえ、形だけでも故人を偲んでくれたのは祖父だけで、祖母はひたすらに私にすり寄るばかりだった。
軅飛さんがなくなって心細いことだろう、身よりもなしじゃあ不安だろう、これからは私たちが一緒にいてあげる、そんな優しげな言葉に、祖父は険しい顔でもう止めろと諫めたが、祖母は執拗にすり寄ってきた。
一人娘だった私の母の暦がなくなり、祖父母にはもう頼れる先がないのだ。老後の面倒を見てくれる労働力が欲しいのだ。正確に言うと祖父母ではなく、祖母は、だが。
私は祖母に向き直って、それから、あの日の言葉を繰り返した。
「『何が閠だい!』」
「へ、へっ?」
「『こんな子産まなけりゃ、あんたがこんな目に遭うこともなかったじゃないの! この子はあんたの命を吸って生まれたんだ!』」
「な、なにを」
「『何が、何が閠だい! 余りもんの閠だよ! 生まれてくるべきじゃなかった! この子は、生まれてくるべきじゃなかったんだ!』」
私の生を否定する言葉。
それが、祖母が私に投げかけた最初の言葉だということを、私はよくよく覚えていた。
「おまえ、そんなことを言ったのか! 暦に、この子に!」
「ち、ちがう、あたしゃ何にも知らないよ!」
もめ始める祖父母に、私はもう興味を失っていた。
祖母の言葉も間違ってはいないなとただぼんやり思っていた。
私は母の命を吸って生まれてきて、そして誰のためにもならない余り物として、今こうして取り残されているのだった。
用語解説
・いちご2%
少女漫画。合成甘味料と香料でできたような甘ったるい学園生活は、しかし常に二パーセントの本音を秘めている。
前回のあらすじ
沼にはまり込むように痛みを思い出していく閠。
それは閠自身、痛むことを認識できずにいた傷なのかもしれない。
肌寒い秋の森でのお茶会は、それでもどこか暖かなものでした。
熱い豆茶に、甘い焼き菓子、そして何よりも、もこもこに着ぶくれた母の姿。
私たちは向かい合って豆茶をすすり、焼き菓子を頬張り、それから随分たくさんのことを話した気がしました。
例えば母が亡くなった後のこと。
父がどれだけ嘆いたか。兄がどれだけ寂しがったか。私がどれだけ泣き喚いたか。
まあ主に私が泣き喚いて大暴れしたせいで父が嘆き兄は寂しがる暇もなかったそうですけれど、まあそれくらい私は悲しかったのです。
例えば兄が成人し旅に出たこと。
旅の物語を伝え聞いては、母から聞かされた冒険譚を思い出しました。
あのいい加減な兄の事ですから話を盛ったり削ったりは当然のようにしていたのでしょうけれど、それでも華々しい冒険の話が、また地味で苦しい旅の話が、母を亡くして一人で過ごすことの多かった私にとってどれだけ救いとなったことでしょう。
例えばトルンペートを拾ったこと。
妹分ができたと思ったのにあっという間にすくすく育ってお姉さんぶって、実際私も妹のように甘えては迷惑をかけました。
トルンペートが遊んでくれなければ、きっと私は今でも母の死を引きずって、ろくでもない駄目な奴に育っていたことでしょう。
例えば長い冬を何度も超えて、その度に私も強く大きく成長したこと。
キノコ狩りに出かけては毒キノコでお腹を下し、魔獣狩りについていけば魔獣と取っ組み合って怪我をしたり、飛竜狩りを見学に行けばうっかり捕まってあわや空から落とされる羽目に陥ったり、たくさんの危機と経験を乗り越えて、私は小さなリリオの頃とは比べ物にならないくらい大きく育ちました。
そして私も成人し、旅に出て、ウルウと出会い、冒険屋になったこと。
ウルウと出逢ってからの生活は、本当に語っても語っても語りつくせないほどでした。
森の中で亡霊と出会い、亡霊かと思いきやきちんと生きた人であったこと。常識知らずで世間知らずで、潔癖で大金持ちで、恐ろしく強いのにとても弱い人で、笑うととてもかわいいのに滅多に笑ってくれないことだとか、本当にたくさんのことを私は話しました。
母はそのひとつひとつを微笑んで聞いてくれました。
私のまとまりのない、拙い物語りを、ただただ優しく頷きながら聞いてくれました。
「そう、そうなのね」
「リリオは頑張ったわね」
「大変だったわね」
そんな何でもないような相槌が、なんだか胸の深いところまで届いて、強張った古傷を柔らかく癒してくれるようでさえありました。
熱い豆茶。甘い焼き菓子。優しい母様。
どこまでも心地よい空間は、離れがたく、いつまでもいつまでも続けばいいのにと、そう願わずにはいられないほどでした。
「母様」
「なあに、リリオ」
「母様はもうどこにもいきませんか」
「ええ、勿論」
「もうリリオを独りにはしませんか」
「ええ、勿論」
「ずっと私と一緒にいてくれますか」
「ええ、勿論」
私はその言葉に、柔らかく棘を溶かしてくれる言葉に、そっと豆茶を飲み干しました。
目じりに浮かんだ涙を拭い、ゆっくりと立ち上がります。
「ありがとうございました」
「……ずっとここにいていいのよ、リリオ」
「本当の母様だったら、そんなこと言いますか?」
「…………」
そう。
本当の母様はもうどこにもいない。
母様は亡くなった。
あの日、飛竜に食われて亡くなった。
「もう一度母様の姿を見れて、とても嬉しかったです。でも、もう行かなきゃ」
「行かないでもいいのよ。ここでゆっくり休んでいっていいの」
「皆が待ってます」
「ほかのみんなも休んでいるわ。安らぎ、眠り、休んでいっていいの」
「人は、時には休むことも必要かもしれません」
でも。
私は胸を押さえます。
そこに確かにあるはずの古傷が、かすれてしまったように感じるその軽さを、押さえます。
「時には休むことも大事です。癒さなければならない傷もあります」
でも。
「でも、これは私の痛みです。私だけの痛みです。あなたになんか、譲ってはやれない」
母様は死んだ。もういない。
その死は、その痛みは、私の胸に大きな傷を残していった。
でもその痛みは私のものだ。
他の誰でもない私だけのものだ。
その痛みを癒してくれるのは、優しさかもしれない。
でも身勝手な優しさは、ただただうっとうしいだけです。
「私は母の命を失いました。今度はその死さえも奪うというのならば、私はあなたを許しはしない」
しゃん、と剣を引き抜けば、優しい森はたちまち姿を変える。
燃え盛る木々。横殴りの吹雪。血と炎で染まる雪原。
のしかかるような巨大な影。
飛竜の息遣い。
幼い私の悲鳴。
それはあの日の悪夢。
母を失ったあの日の傷痕。
「こんな苦しみを抱えていたっていいことはないわ」
母の似姿が優しくもろ手を広げる。
「さあ、リリオ。あなたの痛みを私にちょうだい?」
「この、痛みは」
湧き上がる恐れを、痛みを、私は飲み下す。
忘れるのではない、消してしまうのでもない、我がものとしてそれは受け入れなければならない。
「この痛みは、他の誰でもない、私の、私だけの痛みだッ!」
振り下ろした一閃が、懐かしき似姿を斬り伏せた。
前回のあらすじ
まやかしの母の姿に心を慰められながら、それでも、その痛みは自分のものだと叫ぶリリオ。
鋭い一閃が、母を斬る。
「まやかし風情が、あたしの名を呼ぶんじゃあない!!」
暖かな暖炉は崩れ去り、いまや火を吐くのはあたしの心臓だ。
激しく苛烈に、肌を焦がす怒りの炎だ。
石壁は崩れ、吹雪が再びあたしを襲う。あたしから何もかもを奪おうと襲い掛かる。
だがそんなものはもう怖くない。
あたしの中の炎が、そんなものは焼き尽くすから。
「いいえトルンペート。無理なんかしなくていいんです」
「そうだトルンペート。お前の帰るべき家はここにある」
「お休みトルンペート。今はただ安らかにお休みなさい」
リリオの、御屋形様の、ティグロ様の、声を、真似するんじゃあない。
みんなはそんなこと言いはしない。
そんなものはまやかしの優しさに過ぎない。
あたしの中の傷を、痛みを、柔らかく溶かして奪い取るやつがいる。
でもそれは、その痛みはあたしのものだ。あたしだけのものだ。
捨てられるかもしれない、見限られるかもしれない、リリオを失ってしまうかもしれない、帰るべき場所を失ってしまうかもしれない、それは確かに例えようのない恐怖だ。
でもそれは、それを恐れるということは、ただあたしに意味もなくつけられた傷痕じゃない。
失うことを恐れるその気持ちは、あたしが受け取ったものがそれだけ大きいということだ。
あたしにはなにもなかった。
あたしにはなんにもなかった。
親もなけりゃ名前もなかった。
意味もなけりゃ意地もなかった。
あたしにあったのは叩きこまれた殺しの技だけ。
あたしにはなにもなかった。
あたしにはなんにもなかった。
殺し屋と言うほど立派なものではなかった。刺客と名乗れるほど鋭くもなかった。
あたしは使い捨ての一石だった。
ただ一つの方法だけを覚えこまされ、その一つを確実に遂行するようにと育てられた、使い捨ての殺人装置だった。
あたしにはなにもなかった。
あたしにはなんにもなかった。
あたしは鉄砲玉だった。
やれ、という炸薬一つで、ぴょんと飛び出て短刀で突き殺す、それがあたしの仕事だった。
あたしにはなにもなかった。
あたしにはなんにもなかった。
それに失敗した後、本当に何にもなくなったあたしを、リリオは拾い上げてくれた。
御屋形様があたしの面倒を見てくれて、女中頭があたしを育て上げてくれた。
なにもなかったあたしに、なんにもなかったあたしに、名前をくれた、生き方をくれた、生きる意味をくれた。
何もなかった空っぽのあたしに、零れ出るほど何もかもを詰め込んでくれた。
あたしは捨てられるのが怖い。
あたしは失うのが怖い。
でもその痛みは、あたしだけのものだ。
みんなが詰め込んでくれた沢山の宝物が、あたしにとってかけがえのないものだから、これ以上ないほど大事なものだから、そう、だからこそ感じる恐れなんだ。
ならばこの恐れだって、この痛みだって、あたしのものだ。あたしだけのものだ。
他の誰にも、渡しはしない。
「お前はあたしの痛みを柔らかく奪う。ああ、きっとそいつは優しいことよ。でもね、お呼びじゃないのよ、このトルンペート様は。あんたみたいなやつはお呼びじゃない。あたしの痛みはあたしのもの。あたしの恐れはあたしだけのもの。お前にやるものなんか、少しだってありはしないわ!」
あたしの心臓からあふれ出す炎が、まやかしの部屋を焼き尽くす。
あたしの振るう銀の短刀が、いつわりの部屋を引き裂いていく。
さあ目を覚ませトルンペート!
焼き尽くす炎に飛び込めば、視界は真っ白に染め上げられて、そして、
「かっ、はっ……!」
呼吸を取り戻す。
がばりと起き上がれば、そこはさっきと変わらない森の中。
そばにはリリオとウルウが仲良く転がっている。
あたしはどこにも行ってなどいなかった。
最初から一歩も進まず、ここで眠りに落ちて夢の中を彷徨っていたんだ。
勢い良く立ち上がろうとすれば、視界がふらつき、込み上げる吐き気にうずくまる。
酷く酒に酔った時のような、理不尽な気持ち悪さだった。
「おや、起きたてで無理はなさらない方がいいですよ」
慇懃無礼な声に顔を上げれば、そこにはのんびりと切り株に腰を下ろしたパフィストの姿があった。
「あんた……いったい、なにを……」
「一つの試験ですよ、これも」
「し、けん……?」
パフィストの奴は至極どうでもよさそうにあたしたちを見下ろして、薄く笑った。
「この《迷わずの森》は甘き声という夢魔の住処なんですよ。キノコの仲間らしいんですけどね、この魔獣の胞子を吸うと、人は優しい夢の中で柔らかく溶かされます。人は苦痛からは逃げようとするものですけれど、柔らかい慰めからはなかなか抜け出せないもので、そうこうするうちにすっかり心を溶かされて廃人になり、そのまま苗床になるという始末です」
成程。先程まで見ていた夢はその甘き声とやらの仕業らしい。
あたしはこうして抜け出せたけど、二人はまだ夢の中だ。早く起こさなければと手を伸ばすけれど、パフィストに止められる。
「おっと、無理に起こすのはやめた方がいいですよ。いまお二人は心の柔らかい部分を啄まれているところです。無理矢理起こすと、深い傷が残りますよ」
「この……そもそもあんたのせいでしょうが……っ!」
「それが何か?」
「なっ……!」
「言ったでしょう、試験ですよ、試験。冒険屋としてやっていくなら、これくらいのことでつまづいたんじゃあやっていけない」
そう、かもしれない。
そうかもしれないけど。
「あんたのやり口は、好きにはなれないわね」
「悲しいですねえ」
頭のふらつきは落ち着いてきたけれど、体力を使い果たしてしまったかのように、体に力が入らない。
夢の中での消耗は、体にも響くということだろうか。
まるで死んだように静かに寝入る二人の寝顔を、あたしはそっと見守ることしかできなかった。
用語解説
・甘き声
乙種魔獣。夢魔。キノコの一種で、地中に広く菌床を広げる。子実体は普通のキノコと変わりない地味なものだが、周囲の水分に混ぜ込んで靄のようにして胞子を放ち、吸い込んだものを深い眠りに落とす。
夢の中で甘き声はその者の抱える心の傷を掘り出し、その痛みを吸い取って心を癒す。
程々であれば治療にもなるが、人はやがて苦痛から解放されることで心をぐずぐずに溶かされ、最終的には廃人となり、その肉体は苗床となる。